褐色の残り香 作:自棄ノ原
原作5巻まで読了後推奨
結局、帰りの車両に乗るまでにできた猶予は十分ほどしかなかった。
ディネルースが夜叉の形相で身繕いを急ぐ間、国王は床に伏せ、扉の前のあたりに雑巾をかけていた。その辺りについてディネルースが「何とかしておいてくれ!」と言ったからである。
拭き掃除に勤しみつつ、ちらと女の方に目をやる。
褐色の肢体は忙しく動き、あられもない格好で全身を拭っていたかと思うと、凄まじい勢いで服をまとっていく。
瞬く間に凛々しい女将軍ができあがった。彼の前に直立する。
「大丈夫か? どこか異常はないか?」と尋ねるのは、当然、自分の格好のことだ。
「ない……と思う」
本当か? と言いたげな視線を向けてくる。あまり信頼されていないのかもしれない。グスタフは、はたと思い出して立ち上がった。
「そうだ、君にお土産がある」
「有難いが、そんな時間はない! 火酒は後で送ってくれ」
「すぐだ。今こそ必要だと思う」
そう言うと、寝室の戸棚から陶器の小瓶を取り出した。
彼が昔から愛用し、ディネルースにも紹介して、今ではふたりして使っている不思議な水(アクア・ミラビリス)の香油である。
「そろそろ無くなってきたかと思って、取り寄せたんだ。よかったら……」
「有難い!」
ディネルースは彼の手から小瓶を強奪すると、褐色の手に数滴ほど取った。
さっとうなじに塗りつけると、直ちに彼に抱きついてくる。
固く抱き返すと、柑橘系の香油が闇エルフの自然の体香と入り混じり、たちまち馥郁として彼の鼻腔を満たした。
女は彼を抱きしめたまま背伸びしオークの耳元に口を寄せた。
「ツィーテン閣下のことだ」
「…………」
「戦陣に倒れ、本懐であられたと思う」
それが、訪ねてきた女の本題だと分かった。
「ただ、直接にご報告できなかったのが残念だ。オルクセン騎兵がエルフィンド騎兵を倒したと」
「……ディネルース、君は、ツィーテンの奴とは?」
「お会いしたのは、ほんの何回かだ。貴方には比べるべくもない。それでも」
女はやや身体を離し、牡の瞳をまっすぐに見た。
「私には分かる。私も貴方の将軍で、騎兵として、あの方の遺風を継ぐ者だ。閣下は喜んでくださっている」
アウグスト・ツィーテンは、実子を得ることがなかった。
しかし、それでも数多くの娘と息子がいる。その娘のひとりは、微笑とともに彼に言った。
「きっと見守ってくれている。我らが、この戦争に勝利する日を楽しみに」
ディネルースは彼の頬に口づけし、もう一度だけ強く抱きしめ、さっと身を翻した。
「じゃあ、行ってくる!」
その凛々しい姿に、彼は心からの感謝とともに告げた。
「ああ、いってらっしゃい。ありがとう、ディネルース」
取り返しのつかないものがある。
どうにもならない悔恨がある。
彼が生きる第二の生涯は、そればかりだったといっていい。
それでも生きている。そして生きている限り、生者は否応なしに、死者の薫陶を引き継いでいくのだ。
――そうだろう、ツィーテン。
勝利の暁に、首都に帰還したら、彼はツィーテン夫人を訪ねるつもりである。全ての戦没者遺族を見舞うことはできないから、微行になる。
その時は、ディネルース・アンダリエルにも声をかけようと、グスタフ・ファルケンハインは思った。
その数日後。
敵軍の狙いがオルクセン軍の兵站拠点、そして国王の座すネヴラス市だということが明白になった。
総軍参謀たちは万が一のことを考え、国王を後方のファルマリア港に退避させるべきと判断。ゼーベック総軍総参謀長とグレーベン作戦部長が退避案を王に提案した。
流動的な全般状況を勘案して――とされた退避案の説明を受けると、グスタフは言下に問い返した。
「それは、戦術上において真に必要な判断からのものか?」
極めて珍しいことに、臣下を前にして不快感をあらわにしている。
「単に私の身を案じてということなら、きっぱりと拒否させてもらう」
執務室内の雰囲気はぴりりと緊張したが、王はすぐに表情を緩め、部下たちに諄々と意図を説いた。
決戦を前に、士気の維持と民心の慰撫のため、王の存在をもっと利用しろ、と。
そして、エルフィンドが休戦や講和を狙うなら、やはり国王殺害を直接に狙う可能性は万に一つしかない、と。
「――そして、その万に一つの時のため、彼女らがいてくれるのではないか。私は彼女らを完全に信頼している」
グレーベンは王の語尾に食いつくように反論する。グレーベンとて、グスタフ王には信服し切っている。それでも遠慮なしに言い返せるのが、この牡の長所でもあり、また短所でもあった。
「お言葉ですが、エルフ族は肌の色に関わらず、奇襲の得手だということをお忘れなく――」
ゼーベックの白髪眉がピクリと動いた。グレーベンの言い様は、いつぞやの将軍会議の場で、彼がディネルースにやり込められた内容、そのままであったから。
老参謀長が己の評価を少しばかり上げたとは知りもせず、グレーベンは続ける。王に唾がかかるかと思うような勢いである。
「――まして生還を考えぬ死兵を送られれば、どうなるか! 必ず安全だとは、とても申せません!」
グスタフは、ふっと息を吐き、作戦部長を――というより、若い牡を嗜めるように言った。
「間違えるな、グレーベン。私は、彼女らがいれば全く安全だなど思ってはいない。ただ、完全に信頼している。そう言ったのだ」
「それは同じことでは」
「まるで違う。彼女らが守ってくれても殺されるなら、仕方ないと思っているのだ。それが信頼だ」
「……その時は、我が国は戦争に負けます。負けたことになります。いや、王国そのものがどうなるか」
「その時は後に残る国民と、豊穣の大地に委ねよう」
「陛下、それほどまでに……」
「彼女らも万能ではない。死を決した暗殺者が相手では、傷つくことも、敗れることもあるかもしれない。
しかし、信じている。私が敵に殺されるとすれば、彼女ら二十六名のうち最後の一名が倒れた、その後のことになるだろう」
グレーベンは胴震いをおこすほどの衝撃を受けた。この知恵者にして何を言っていか分からず、ただ特別警護班員に目をやった。
漆黒の騎兵制服に身を包んだ闇エルフは、会話する彼らに背を向け、絶えず周囲に目を配っている。その瞳は赤眼鏡に隠されて、何を思っているかは全く伺えない。
――しかし、もしも俺が警護班なら。そしてこの陛下から、そこまで信じて頂けたなら……。
王を守るために己の命を投げ出して、一片の悔いもないどころか、無上の喜びを感じるだろう。たとえ王の盾になって撃たれても、まだ身体に命が留まっている僅かな間に、必ずや暗殺者を倒してから果てようとするに違いない。銃弾が切れれば山刀で、それも失えば歯で敵手の首を食い破ってでも、命果てるまで戦って王を守る。
そのような警護兵が二十六名もいる。いったい、どんな敵が、その壁の全てを破れるというのか。
グレーベンは今すぐ王に平伏したい気持ちになった。そればかりか、特別警護班員の一名一名に頭を下げて周りたいくらいだ――と、この傲慢な牡が心の底から思った。
そして、赤眼鏡のせいで面立ちが判然としない褐色の警護兵に、ディネルース・アンダリエルの面影を感じた。王と、あの少将の間にある絆の頸さを思った。
「陛下、小官が間違っておりました。礼を失する諫言、どうか、お許しください」
「なに、失礼なことなどない。よく言ってくれた。これからも、よろしく頼む」
ゼーベックとグレーベンは、間も無く退出した。老参謀長は内に抑えつつ、若き作戦部長はみるからに、彼らの王への忠誠をさらに深めた様子だった。
扉が閉まり、室内はグスタフと警護班員とふたりきりになった。グスタフは部屋の中空に目をやり、心中で彼の闇エルフに語りかけた。
――私にできるのは、これくらいか。ディネルース。
敢えて危険を引き受けたが、これは必要なことのはずだ。
彼が不退転の決意を固め、ネヴラスに留まり、傲慢にみえるほどの態度で戦況を睥睨してこそ、オルクセンの優位は固まるというものだ。
彼個人が具体的に何かをするわけではない。王国と軍の象徴として、ただ座し、山のように動かずにいる。それだけで千斤の重みとなって将兵の士気は安定し、民心は定まり、諸外国は敬意を新たにする。王とはそのようなものだ。
――私は、前王のような軍事の天才じゃない。だから、みんなに頼ることができる。信じて任せることができる。
支えてくれる者たちがいる。逃れ得ない王の孤独すら、肌身でもって癒してくれる者がいる。
その温度。その思いが彼の奥底に息づいて、勇気の炎を燃え立たせた。
――だから、必ず勝てる……勝つ。ここが私の決戦場だ。勝つまでは、決して、ここを動かんぞ。
このしばらく後に彼が示し、ネニング平原会戦におけるオルクセン軍の勝因の一つとして後世に語られる「グスタフの不退転」の決意は、この時、既に固まっていた。
迫り来る決戦を前に、今のグスタフの心には平安があった。
頭脳には無数の懸念や課題が山をなしていても、牡の心胆は苔むす巨岩のように落ち着いて、少しも揺るぎはしない。
そればかりか、平素のような余裕さえ生まれている。
警備の闇エルフ兵は「戸外にて警備にあたります。御用があればお呼びください」と言い、一礼して去ろうとした。
後ろでまとめた栗色の髪が揺れ、おくれ毛が褐色の首筋にかかっている。その背中の線に目線を這わせる。
漆黒の騎兵服装が描く曲線に、先ごろに彼の目前で幾度も震えた褐色の背を思い出す。その下の丸みを彼が思い出したところで――警備班員は足を止め、はらりと振り向いた。
「……何か? 我が王」
王は、さも難しい思案中だ、という顔で横を向いている。咄嗟に顔を逸らしたことを、拳銃の名手が気づかなかったはずがない。
「……な、何でもない」
「左様でございますか」
心中は一瞬にして嵐のようである。落ち着いてなどいられない。
(う、浮気か!? 今のは浮気に入るのか!? 考えていたのはディネルースのことだ。いや、しかし……)
脳裡にディネルースの声がこだまする。
<他の女を見るなとは言わんが、女を見る目つきでは見るな>
<……切り落とすぞ>
一大決戦にも揺るがない王の肝が、ぞくりと冷えた。
「今のは、報告対象に入る……のか?」
「……仰っておられる意味が、小官には分かりかねます」
彼が全幅の信頼をおく警備班員の瞳は、赤眼鏡の奥に隠されている。
大丈夫だと信じたいが、全く安心はできないのであった。
「待たせたな。では行こう」
ディネルースがそう告げた相手は、旅団作戦参謀のラエルノア・ケレブレン大尉だ。
平時のディネルースがよく伴うのは腹心のイアヴァスリルだが、いまは参謀長として、不在の旅団長の代理を務めさせている。
「参りましょう。旅団長、車内でご報告の時間を頂けますか?」
ディネルースは「もちろんだ」と答えた。
彼女が将軍レベルで話し合ったり、昼食を共にしている間、ラエルノアも総軍司令部と参謀レベルで会議をもち、認識を擦り合わせていたのだ。
機を見るに敏なラエルノアであれば、同じく諸将に随行してきた各部隊の参謀を誰彼と捕まえて、情報を収集してきたに違いない。
「あの、できれば、何かつまみながらでもいいですか?」と、遠慮なく聞いてくるのが、その証拠であった。
ディネルースは当然、予期している。
「土産に包んで貰ったヴルストがあるぞ」
「やったぁ!」
参謀というより妹のひとりの顔になって、ラエルノアは軽く飛び跳ねた。そのようにしていると、いつまでも氏族の小娘のようである。
しかし、その実、彼女は極めて優秀な戦術家だ。頭脳が明晰なだけでなく、秀才参謀にはない嗅覚をもっている。オーク達なら「戦の匂いを嗅げる」と表現するだろう、野生的な直観だ。ラエルノアのそれは、ディネルースすら上回る狩人の腕と経験に由来する。
きゃいきゃいとはしゃぎだしたラエルノアは、ふと静止し、鼻を鳴らした。目つきが鋭くなる。
「どうかしたか?」
「はっ……いえ」
妹か、参謀か、その中間あたりの表情で、ラエルノアは言った。
「旅団長の香油、素敵ですね」
うっ、とディネルースは言葉につまりかけた。気取られぬようにと、すぐ口を開く。
「いつものを使い切りそうだったからな。我が王が下さったんだ」
半分は本当である。彼女は出征前から、グスタフに貰った香油を愛用していた。戦陣では当然、不衛生になりがちだから、この遠征にも持参している。
それが枯渇しそうなら、この機会にグスタフに甘えて、同じものを分けて貰うのは自然なことだろう。
不審な点はない。ただの惚気話。そのはずである。
「そうでしたか」
ラエルノアは首肯した。
「確かに、今朝方と同じ香りですね」
「……ああ」
なぜ昼の間に香油を足したのか、察していないわけがない。朝方との微妙な香りの違いまで嗅ぎ分けているかもしれない。狩人の嗅覚を甘くみた、ディネルースの迂闊だった。
ラエルノアは知らぬ顔で言った。
「乗りましょうか」
「……そうしよう」
車内に落ち着くと、ディネルースは早速鞄を開け、ヴルストの包みを取り出した。他にもあれこれと出す。
「ヴルストを。パンもある」
「ありがとうございます」
「食後にチョコもどうだ」
「ありがとうございます」
「……そうそう、私の水筒に火酒が入っている」
「旅団長」
「……はい」
「お心遣い、全部、喜んで頂きますね。火酒はご報告の後に」
「……お前が好きなだけ、どうぞ」
食べ物をあるだけ差し出して、口封じが成功したものかどうか。
参謀としては完全に信頼しているが、いかにも旨そうにヴルストを頬張る娘の笑顔には、今ひとつ安心できないのであった。
(おわり)