母乳搾り屋の日常 作:南尾重国
ピンポーン。
昼の休憩中に、店の裏手からチャイムの音が聞こえる。
腰を上げようとした会計女史に座ったままでいるよう手で合図をして、裏手へと向かう。
この時間の来客、特に裏口からやってくる人物は、うちの店ではおよそ1人しかいない。
「あら店長代理、こんにちは」
扉を開ければそこに立っているのは、肩よりも少し長い髪を頭の上でまとめた、ある飲食店の制服を着た20代前半の女性だ。
薄紅色に塗られた瑞々しい唇でにこやかに笑う彼女は、普段は飲食店のホール担当で、店主、つまりはお爺さんが元気な頃から当店での仕入れ担当も行っている。
さて仕入れ担当であるが、当店で何を扱っているかといえば、当店は母乳搾り屋であり商品は母乳である。
母乳の出ない母親への提供義務はあるが、あまり多くはなく多く見積もっても日2~3リットル程度。1日に50人、1人あたり0.5から1リットル搾乳すると仮定すれば1日あたり30リットル程度の母乳が余ることになる。つまりこの分についての販売は自由であり、それも大事な収入の一部なのだ。
とはいえ、すべての母乳が使用できるわけではない。タバコを吸うお客様や、健康状況の良くないお客様がいれば、その分は販売には適さず破棄する必要があるからだ。
幸い当店のお客様は健康に気を遣っている方が非常に多く、最低でも20リットル多ければそれこそ30リットルの母乳を販売することができている。
もちろんどの程度購入するかは仕入先によるため、母乳の検査結果から個人を特定できる情報を抜き出した資料を渡して、どの程度購入するかを判断してもらう。
「やっぱりあなたのところの母乳は質がいいわね」
タブレットに表示された成分や状態をスクロールしながら、感心したようにつ呟く声。
これはお客様様との信頼関係を構築してきた店主の功績であり、これからも大事にしていかなければならない大切なものだ。それを第三者から認められれば、表には出さないものの、誇らしくある。
こちらを見て微笑む会計女子と目があったため、そんな内心は見透かされているようだが。
「うん、今日の内容ならここからここまで貰える?」
そう言って、母乳の成分表にチェックが入れられる。
最後に送信すれば、その内容は店内の管理PCに送られ、該当する母乳のピッキングリストが印刷された。
「ちょっと待ってて」
ピッキングリストを掴んで、母乳の保管庫へと向かう。
母乳は搾乳単位で冷凍保管されているので、その分容器があり、物理的にも結構な量がある。また品質の劣化を防ぐため、取り出した容器はすぐに保冷箱へと格納しなければならず、持ち運べる量にまとめなければならない。
何回かに分けて取り出していけば、いくつもの保冷箱が部屋に積み重なっていく。
「うん、これで全部かな」
取り出した容器ごとのピッキングを済ませ、数が足りていることを確認し、そのリストをまとめて、会計女史に手渡す。
これを封をしてもらえば、仕入れ先への納品書が完成する。
後はそれを待つ間に保冷箱を運び出すだけだ。
「じゃあ、車の鍵開けてくるね」
仕入担当はそう言いながら、箱を一箱抱えて出て行ったので、それに従って、箱を一つ持って着いていく。外には、大量の母乳を運ぶための軽トラが留まっていて、まずはその荷台に2人分の保冷箱が収納された。
盗難に遭わないよう、誰かがトラックの側で待機する必要があるため、残りの箱の搬送は当店の業務となる。それなりに重い箱をなん度も往復して、トラックに詰め込む。
最後の一箱を運ぶ際に、会計女史から納品書の入った封筒が手渡された。
これを仕入担当に渡せば、今回の母乳販売に伴う作業は一通り終了となる。
「いつもありがとうね」
受け取った封筒を鞄に入れて、それは軽トラの助手席に放り投げられる。運転席についた仕入担当は、窓を開けて感謝の言葉を述べた。
仕事ですから、何て返すのは野暮というものだろう。言葉は飲み込んで、にっこりと笑い返した。
窓が閉じられて、大きな音を立てトラックが去っていく。
(そういえば)
お店に戻りながら、この母乳を使った料理を実は食べたことがない、なんてことを思い出す。
なんかカカオ栽培してるとこの人がチョコを食べたことないみたいな話だよな。そんな詮無いことを考えながら、午後の仕事に備えるのだった。
読んでいただきありがとうございました。
感想評価お気に入りなどいただけると嬉しいです。