隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
裕司さん、最近、長風呂だね」
風呂から上がったところで英介に声をかけられ、裕司は「別に」とだけ返して壁の時計を見た。
「もしかしてさ。加齢臭とか、腹が出てきたとか、体型を気にしてる?」
「はっ、何を言ってる」
反射的に否定してから、裕司は自分の言い切りの弱さに気づいた。
四十を過ぎている。四捨五入すれば五十に届く年齢だ。
腹回りも、昔のようにシャープとは言い難い。
年相応だ、と言おうとして、その言葉が思ったより頼りなく感じられた。
「エリックって作家、まあまあだな」
英介の何気ない一言に、裕司は一瞬、動きを止めた。
今は作家も顔で売れたりする時代だからな、という続きが、なぜか耳に残る。
「見る?」
差し出されたスマートフォンを、裕司は少し迷ってから受け取った。
画面には、四十前後と思しき男の顔が映っている。
整った輪郭に、余裕のある表情。
いかにも、物語の中心に立つ人間だという印象だった。
「……まあまあ、だな」
同じ言葉を返しながら、裕司は無意識に腹に力を入れた。
湯上がりの身体は、思ったより正直だ。
スマートフォンを英介に返し、裕司は小さく息をついた。
比べるつもりはなかった。
けれど、比べてしまった事実だけが、静かに残っていた。
「美夜さんは気にしないんじゃない」
英介が、テレビの感想でも言うみたいな調子でつぶやいた。
その一言で、裕司の頭に美夜の顔が浮かぶ。
メイクで丁寧に隠された頬の傷。エリックの新作の表紙モデル、そう説明したときに見せた、少し照れた笑顔。
愛華からは、撮影スタジオの場所と時間がメッセージで送られてきている。
来られるなら来ればいい、と、あの軽い文面で。
「行くんだろ、撮影」
英介の声が、考えを断ち切った。
「俺は部外者だ」
口にすると、その言葉は想像していた以上に冷たく響いた。
医者としての自分。愛華の元夫としての自分。
どんな顔をして行けばいいのか、自分でも分からない。
自分の居場所があるとは思えなかった。
「愛華さんの元夫だ、堂々と行けばいいんじゃない?」
「おまえ、それは……」
「『患者が心配だから』って言い訳するよりは、まだマシじゃない?」
軽口のはずなのに、妙に芯を食っていた。
美夜を「患者」と呼べば、距離を保てる。そうやって、自分の気持ちから目をそらしてきた。
英介の言葉に、裕司は返事ができなかった。
否定すればするほど、本当の理由があぶり出されてしまいそうで、口を閉じるしかなかった。
「先生、今朝のニュース、見ましたか」
その日の朝、診察が始まる前。カルテの準備をしていた裕司は、看護師に声をかけられて顔を上げた。
彼女の表情は、冗談ではないと告げている。
「どうかした?」
「学級閉鎖です。近所の中学だけじゃなくて、高校も。インフルか、コロナ、もし流行り始めてたら大変ですよね」
モニターの明かりが、急に冷たく感じられた。
今日は平日、学校が止まる規模の感染が出れば、外来は確実に荒れる。
そのうえで、今日は撮影の日でもある。
昨夜、愛華から確認のメールが来ていた。
『明日、〇時からね。来られたら、ふらっと覗きにきてよ〜』
語尾には絵文字がひとつ添えられている。
返信はしていない。それでも、彼女の頭の中ではもう「裕司は来る」と決まっているのだろう。
病院の空気と、スマートフォンの画面越しの軽さが、同じ一日の中に並んでいる。
どちらに顔を向けるべきなのか。
答えは分かっているはずなのに、裕司の胸のあたりは、妙に落ち着かなかった。
診察が始まる前、カルテを手に診療室へ向かおうとしたとき、何気なく振り返った待合室の光景に、裕司は足を止めた。
学生の姿が多い。
制服のままの中学生、高校生が椅子に並んで座り、マスク越しに咳き込んでいる子もいる。
付き添いの親たちの表情には、不安と苛立ちが混じっていた。
受付の看護師が小さく肩をすくめるのが見えた。
完全に、始まっている。
インフルエンザ、コロナか。どちらにしても、一人、一人の診察に時間がかかるだろう。
検査も増える。問診も、説明も。
診察室のドアノブに手をかけ、裕司は短く息を吐いた。
今日は、撮影の日だ。
ポケットの中のスマートフォンには、昨夜の愛華からのメッセージがそのまま残っている。
『来られたら、ふらっと覗きにきてよ〜』
軽い文面が頭に浮かんだが、今目の前にある現実とは、あまりにも温度が違っていた。
行くわけには、いかない。
心の中で、はっきりと言葉にする。
医者である以上、優先すべきことは決まっている。
そう言い聞かせた瞬間、どこかで安堵している自分に気づき、かすかな自己嫌悪が胸をかすめた。
裕司はドアを押し開け、診療室に入った。
待合室のざわめきが、背中に重くのしかかってくるようだった。
その夜、自宅に戻ってからようやくスマホを開くと、愛華からのメッセージが届いていた。
「来なかったのね」
一文だけ、いつもの軽さを装っているようで、わずかに温度を測ってくるような言い方だった。
『集団感染だ。病院近くの中学、高校で学級閉鎖。外来がパンクしてた』
裕司は短く状況だけを返した。
すぐに既読がつき、間髪入れずに返信が飛んでくる。
『それは仕方ないね。お疲れ様』
ひとまず、納得はしてくれたらしい。
続いて、もう一通。
「実は撮影のあと、飲み会の予定だったんだけど、スタッフに風邪ひきがいてね。万が一ってことがあるから、中止になった」
愛華からのメッセージを読み終えて、裕司は小さく息を吐いた。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
じゃあ、長居はしていないのか。
撮影が終われば、それぞれ真っ直ぐ帰ったのだろう。
そう思い込もうとしたところで、画面に新しい通知が重なった。
『ただ、気になること一つ。エリック先生、美夜に声をかけてた!♡♡♡』
文末のハートマークが、これでもかと主張している。
「……何故、そこでハートをつける」
思わず独り言が漏れた。
医者としての冷静さも、年相応の落ち着きも、その二つの記号の前ではほとんど役に立たない。
エリック先生、美夜に声をかけていた。
その文字だけ切り取れば、ただの報告に過ぎない。
けれど、「♡♡♡」がついた瞬間、それは一気に“進行形の何か”に見えてくるから厄介だ。
スマホを持つ指先に、じわりと力がこもる。
落としそうになり、慌てて持ち直す自分が情けないと裕司は思った。
撮影場無事に終わった。
打ち上げは、スタッフの一人が風邪をひいていることと、学校の学級閉鎖のニュースもあって中止になった。
なんとなく、全体の空気も早く解散モードだ。
そんな中で、エリックは愛華の方へ歩いてくる。
「何でしょう、スケジュールの確認ですか?」
愛華は営業スマイルを浮かべた。
仕事の話ならいくらでも聞くという顔で。
エリックは少し言葉を選ぶように視線を落とし、それから真正面から見た。
「あのモデルの連絡先を教えてくれないか」
あえて名前は出さないが、愛華は内心きたと思った。
「彼女、プロのモデルじゃないんです」
愛華は少しだけ言葉をゆっくりにした。
その一拍のあいだに、自分の中で線を引き直す。
(一回きりの約束だったし。ここで個人情報ホイホイ渡したら、人としてアウトでしょう、さすがに)
「私が、たまたま街で見かけて口説いたんです。一回きり、って条件で承知してくれたんですよ」
柔らかい口調で、やんわりと断る。
エリックはしばらく黙った。
スタジオの隅でカメラがケースに収められていく音だけが、カチリ、カチリと響く。
「そうか。一回きり、か」
繰り返す声は淡々としているのに、その奥を探るような響きがあった。
愛華は、軽く肩をすくめてみせる。
「先生のタイプでしたか?でも、ご覧になったでしょう。メイクする前の」
愛華が口にした言葉にエリックの表情が僅かに変わった。 「素顔のことを言っているのか」
エリックは、ゆっくりと言葉を返した。
「先生なら、いくらでも“お付き合いしたがる女性がいますよ。顔だけなら、もっと手間のかからない美人がいるでしょう」
愛華の声は軽い、冗談半分、世間話半分、というふうを装っている。
「彼女はプロでもないし、この仕事も一回きり。ああいう傷があると、色々とあるんですよ」
笑顔のまま、さらりと付け足す。
「ああいう傷」が何を指すのか、あえて言葉にはしない。そのぼかし方が、かえって生々しさを残していた。
「先生の時間、もったいないですよ」
そこだけ、少しだけ柔らかく。
忠告にも、軽い牽制にも取れる絶妙な温度で。
冗談めかした口調の裏で、
(ここで諦めてくれると、平和なんだけど、それじゃあ)
面白くないわよね、と愛華は心の中だけでつぶやいた。
エリックは視線を少し伏せ、口元に指を当てる。短く息を吐いた。
「時間が、もったいないか」
自分に言い聞かせるように繰り返す。
その声には、否定も肯定も混ざっていた。
愛華は、黙って頷くだけにとどめる。
そうですと断言してしまえば、そこで話が終わってしまう気がしたからだ。
一瞬の沈黙のあと、エリックがぽつりと口を開く。
「それでも」
そこで言葉が途切れた。
続きはあるはずなのに、声にならない。
その先を、聞きたいと愛華は思った。
「先生って、めんどくさい方ですね」
からかうようでいて、どこか嬉しそうな響きが混じる。
エリックはわずかに目を細めただけで、反論はしなかった。
めんどうと言われること、自分がそういう人間だということも、とうに承知している顔だった。
後日、エリックからの連絡に愛華は驚いた、
彼女をスカウトした場所を教えてほしい、まさか、本当に直接そこを探しに行くつもりだとは思っていなかった。
「場所ですか?」
確認するように聞き返してから、愛華は軽く笑った。
「駅前のマックですよ。息子とコーヒー飲んでたところを、たまたま見かけて。声をかけたの」
「息子?」
スマホ越しでも、その微妙な間は伝わってくる。
「ええ、三十過ぎのフリーのカメラマンです。彼女もいないんですよね、これがまた」
愛華は、わざとらしくため息をついてみせる。
どうせ顔は見えない。声だけ少しオーバーに演じておく。
「恋人同士かなって、一瞬思ったんですけどね。並んで座ってるの見たとき」
さらっと爆弾を落とすように言う。
それでも、次のエリックの声が、ほんのわずかに固くなったのを愛華は聞き逃さなかった。
「息子さん、か」
確認するような、その低い響き。
「そう、息子です。血はつながってませんけどね」
実の息子じゃないんですよ、と軽く笑い足す。
(そこ、ちょっと引っかかってくれると面白いんだけど)
言葉には出さず、心の中だけで続ける。
「分からないですよ。30すぎの男ですから、知らない人が見たら、カップルかな?って思っても不思議じゃないです」
わざと「カップル」のところだけ、ほんの少しだけ声を弾ませる。
スマホの向こうで、短い沈黙が落ちる。
仕事の電話のはずなのに、どこかで温度がおかしい。
そのずれを、一番楽しんでいるのが自分だということも、愛華は自覚していた。
「そういう相手に見えたのか、君は」
エリックの言葉は淡々としている。
けれど、その奥に混ざった小さな棘みたいなものを、愛華はしっかり拾った。
「どうでしょうね」
あっさりとかわす、一瞬だけ言葉を切り、口元だけで笑う。
「先生から見たら、どう映るかは別ですけどね」
声は柔らかい。
内容は、火種をそっと置いていくようなものだ。
スマホ越しの空気が、すこしだけ重くなる。
その変化を、愛華はどこか楽しむような気持ちで受け止めていた。
「愛華さん……なんだこれ」
ソファに沈み込みながら英介は送られてきたメッセージを読み、思わず固まった。
内容は、まさかのエリックとのやり取りだ。
即座に電話をかけると、ワンコールで愛華が出た。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「どうしたのった! 爆弾落としたって、これ!」
電話口の向こうで、愛華は愉快そうに笑っていた。
「先生、かなり気になってるわね。てっきり、連絡先をあたしに聞きに来ると思ってたのに、場所を聞くなんてさ。あれは予想外だったわ」
「予想外って、そんな楽しそうに言うことじゃないでしょ」
「で、伝えるのは英介、あなたね」
「俺が!? 裕司さんに!?」
素で声が裏返った。
「そう。あたしが言ったら落ち込むかも、ほら繊細だから」
「いや、落ち込むことわかってて言わせるんですか」
「だって、その反応を見るのが、面白いじゃない?」
愛華の笑い声が聞こえる。
英介はスマホを見つめながら、心の底からため息をついた。
(やっぱりこの人、完全に楽しんでる……)
「おい、英介、風呂上がったぞ。入ったらどうだ」
「う、うん」
英介は手元のスマホを見つめたまま微妙に動かない。視線は泳ぎ、心は迷走中。
(言う?言わない?いや、スマホ見せたほうが速いか?)
「実はさっきメールが来て……愛華さんから」
裕司の顔がスッと曇った。
地雷原を踏み抜いたような空気になる。
「読まないと後悔すると思うよ。」
押しつけるようにスマホを渡され、裕司は半ば諦めた顔でソファに腰を下ろす。
画面をスクロールしはじめたが、その表情が、ゆっくりと変化していく。
「何を期待してるんだ、愛華、あの女も、脚本家気取りか」
スマホを持った手がわずかに震えていた。
「風呂、入ってこいよ」
ぼそりと呟く裕司に、英介は同情した。
英介が風呂に入ったのを見届けて、裕司は自分のスマホを手に取った。
文句のひとつでも言わなければ気が済まない。
そういう顔で発信ボタンを押した。
思いがけずの着信だったのか、愛華は電話に出るなり少しだけ声を弾ませた。
「ちょっと、どうしたの? 珍しいじゃない」
「どういうつもりだ。あんなメールを送ってきて」
裕司の声は低く、抑えた怒りがにじむ。
だが愛華は、まったく怯む様子を見せない。
「いやぁ、驚いたのよ。てっきり、あたしに連絡先を聞きに来ると思ってたの。契約書とか、出版社の資料とかでさっさと調べるかと思ったのよ、彼女のこと」
愛華の口調は軽い。
「今どきSNSとかFacebookとかで本名わかるでしょ? そういうの調べるのかなって思っただけ」
その何でもないような言葉に、裕司は思わず言葉を詰まらせた。
なるほど、その手がある、いや、あるにはあるが。
愛華は続ける。
「でも彼女、ブログはやってるのよ、先生がいい人で良かったって書いてあったわよ。あなたのことかな、そうだ、アドレス送ろうか?」
「……いや、いい」
「ふーん」
愛華の含み笑いに裕司は咳払いで誤魔化した。
「患者のプライバシーは、勝手に……」
「はいはい。じゃあ、ほんとに要らないのね?」
断ったのに、胸の奥がやけにざわついた。
「あー、いい湯だった~」
英介が髪をタオルでくしゃくしゃに拭きながらリビングに入ってきた瞬間、裕司はスマホを手にしたまま、妙に硬い姿勢でソファに座っていた。
「裕司さん?顔、こわばってる?なんかあった?」
「別に、ない。何も」
言いながら、スマホの画面をそっと伏せる裕司。その動作が逆に怪しい。
「まさか、愛華さんに文句、言ったとか?」
「あっ、ああ……まぁ、ちょっと」
自分でも驚くほど噛んだ。
どこの動揺する中学生だ。そうツッコミたくなる。
「裕司さん、それ、ちょっとじゃないやつでしょ」
英介がソファにドカッと腰を下ろしながら、ジト目を向ける。
裕司は視線をそらした。
(書いてる……本当に、書いてるのか?俺のことを?)
ブログというたった一言で、ここまで心を掻き乱されるとは思ってなかった。