隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
マックでの光景が、どうしても頭から離れなかった。
愛華と美夜、そして傍らにいた、見覚えのない年上の男。
それだけのはずなのに、胸の奥にざらついた感情がしつこく残っている。
引っかかっているのは愛華の言葉だ。
「彼女は好意を抱いてるわけじゃない。ただ、自覚がないだけよ」
自覚がないだけという一言が、妙に重かった。
最初は勘違いだと思った。
優しい医者の対応を、恋と誤解しているだけ、そう片づければ話は早い。
だが、愛華は違うと言った。
美夜の性格を知ったうえで、はっきりと断言した。
真面目だから、踏み込めないのよ。
その声が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
そして同時に、エリックは思い出してしまった。
過去の美夜を。
思えば、彼女はいつもそうだった、線を越えない。
距離が近づきすぎる前に、必ず静かに立ち止まる。
礼儀なのか、気遣いなのか、自分でも判断がつかないほど慎重だった。
不用意に誰かの領域に踏み込むことは、決してなかった。
当時は、ただ自分が年上だから遠慮しているのだと解釈していた。
立場が違うからこその距離だと、深く考えなかった。
だが、愛華の言葉を聞いた今、
遠慮も礼儀も、別の意味を持って見えてしまう。
踏み込まないのは、真面目だから。
臆病なのではなく、感情に誠実だから。
だが、その態度は、いま別の男にも向いている。
その可能性だけで、胸の奥が静かにきしんだ。
エリックは、否定できなかった。
彼女は自覚していないだけ、その言葉が、残酷なまでに腑に落ちてしまったからだ。
逃げ道が消えた気がした。
「裕司さん、頼みがあるんだ」
夕食を終え、片付けも終わった静かな時間。
英介が、珍しく真顔だった。
その表情だけで、裕司は胸の奥に小さな緊張を感じた。
「どうした?」
英介は一拍おき、迷いなく言った。
「美夜さんに、俺の写真のモデル、頼んでくれない?」
その言葉が落ちた瞬間、裕司は驚いた、予想もしない言葉だったからだ。
「モデル? 彼女に?」
声がかすかに揺れた。
英介は臆することなく続ける。
「今度、知り合いと一緒にギャラリー借りて展覧会やろうと思ってさ」
展覧会、その単語だけで、裕司の中にまた別の驚きが走った。
「個展、みたいなものか……?」
なんとか返した言葉は、自分でも信じられないほど間の抜けた声だった。
英介は真面目な顔のまま頷く。
「一人だと準備も作品数も限界あるし。それに、モデルを頼むって、思ってるより簡単じゃないんだよ」
裕司は言葉を失った。
「プロのモデルもだけど、今はアマチュア、素人のほうが人気があって大変なんだよ」
英介はふざける気配もなく、まっすぐな声で言った。
裕司は意外さに言葉を失った。
「そうなのか」
自分の知らない世界だった。
写真の仕事といえば雑誌か広告くらいしか思い浮かばない。
モデルと聞けば、プロに依頼するものだと疑いもしなかった。
英介は続けた。
「アイドルとか、コスプレーヤーの撮影会のほうが競争が激しいんだ。プロより集客できる素人もゴロゴロいる。人気が出る子なんて、もう撮影枠争奪戦」
声には冗談の色がない。
「そんなに大変なのか」
裕司はただ驚くしかなかった。
医者という職業の世界とは、まるで別の景色が広がっている。
英介の表情は、少しだけ影を落とす。
「フリーのカメラマンってさ、金もコネもなければ本当に厳しい、プロに頼めばギャラが飛ぶし、素人でも人気がある子なら撮られてあげる側だから、簡単にお願いなんてできない」
淡々とした口調が逆に重い。
「モデルを頼むって簡単じゃない。断られることのほうが多いし、信用も、資金も、自分一人じゃ足りないことのほうが多い」
英介の言葉は、裕司の想像の範疇を大きく超えていた。
「もしかして、プロのモデルに頼んだのか?」
半ば冗談のつもりで投げた問いだった。
しかし英介の表情が、はっと硬くなった。
「いや、俺じゃなくて、友人が頼んだんだ。ちゃんとギャラも出すって言ってた」
裕司の胸に嫌な予感が走る。
「断られたのか」
英介は小さく息を吐いた。
「その子、十代だけど、イベントとかでも活動しててさ。コスプレの撮影会とかでも人気ある有名な子なんだ」
淡々と語っているように見えて、その裏にある現実は重かった。
「ギャラが凄く高い、友人、金額聞いた瞬間に固まって、そのまま速攻で断られたよ」
裕司は言葉が出なかった。
十代の少女、プロではない、けれど、人気があれば撮られる側の価値は跳ね上がる。
その事実を、裕司はこのとき初めて突きつけられた。
写真の世界、フリーの世界。
裕司には想像すらしていなかった現実が、そこにはある。
「プロより高いのか」
「人気があればね。プロとか素人とか、関係ないよ。“その子じゃなきゃ意味がない”って世界なんだ」
英介はそう言って、ほんのわずか悔しそうに笑った。
裕司は静かに呼吸を整えた。
知らなかった、まったく想像できなかった、この世界で英介は、生きている。
そしてその厳しさの中で、英介は美夜をモデルにと、自分に頼んできたのだ。
それは、息子の現実に初めて触れた瞬間でもあった。
「裕司さんの頼みなら断らないと思う。あっ、ギャラも出すからって」
英介がそう付け加えた瞬間、裕司は反射的に
「それは当たり前だ」
言いかけて言葉を飲み込んだ。
美夜の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
「モデルを引き受けてくれるとしてだ。自分はプロじゃないからって、金銭のやり取りは遠慮するかもしれない」
裕司は妙な確信めいたものを感じていた。
彼女なら、そう言うのではないかと思ってしまった。
愛華にモデルを頼んだときとは、まったく事情が違う。
英介もそれを感じているのか、腕を組んで考え込んだ。
「じゃあ、金銭以外のもので支払うっていうのは、どうかな?」
意外に現実的な提案だった。
裕司は思わず視線を落とし、少しだけ考える。
「映画とか、芝居とか、デザートハイキングのチケット。ああいうのって結構、高い値段するから、ちゃんとした“お礼”になるだろ?」
裕司は、そっと息を吸った、確かに金銭ではない。
分かった、頼んでみると裕司は答えた。
その夜、電話の向こうで、美夜は驚いていた。
「モデル、ですか」
その一言に、裕司は改めて自分の依頼の重さを感じた。
「友人たちとギャラリーを借りて展覧会をするらしい。
嫌なら無理にとは言わない、断っても」
「やります」
はっきりとした声に裕司は驚いた、即答するとは思っていなかったからだ。
「本当に、いいのか」
聞かずにはいられなかった。
だが、次の言葉はさらに予想外だった。
「お願いがあるんです」
控えめなのに、はっきりした声。
「何だい?」
「友人が、革細工を作っていて、もし、数点だけでも置かせてもらえないかって、聞いてみたくて」
「美夜さんに頼んだ。モデル引き受けてくれるらしい」
その言葉を聞いて、英介は胸の底から安堵したように息を吐いた。
だが、すぐに裕司は続けた。
「ただ、彼女のほうからもお願いがあった。友人が革細工を作っているらしい。数点でいいから、展示の片隅に置かせてほしいと」
その言葉に、英介は一瞬まばたきを忘れた。
予想外だった。
金銭でも、便宜でもない“技術の作品”を預かってほしいというお願い。
一呼吸おき、英介はポケットからスマホを取り出し、すぐに友人へ連絡を取った。
短いやりとりを交わしたあと、ふと呟く。
「革細工って、どんなもの作ってるんだろう」
裕司は美夜から聞いた内容を思い出しながら答えた。
「ペン、キーホルダー、メガネケース。身の回りの小物だって言ってたな」
英介はその言葉に、わずかに表情を引き締めた。
「……革細工か」
静かに呟き、そのまま視線を落とす。
「大変だろうな。材料も高いし、手間もかかる。こだわったら、本当にキリがない世界だ」
その言い方が、妙に重かった。
ただの、趣味の作品ではない。
時間と技術を費やした作品だということを、英介は知っていた。
裕司はその言葉に驚いた。
英介が、金銭ではない“価値の重さ”を理解していることも、表現を生む苦労や、作り手のプライドを正しく想像していること。
医師としての世界しか知らない裕司には、その感覚が新鮮だった。
英介は続けた。
「お金で払うより、よっぽど覚悟が必要だ。作品を置くってことは」
裕司は黙ってその横顔を見つめた。
「先生、お久しぶりです」
編集部の静かなフロアで突然声をかけられ、エリックは振り向いた。
そこにいたのは愛華。変わらぬ笑み。
だが、その笑みはいつだって何かを知っている者の表情をしている。
「写真って、興味あります?」
唐突な質問に、エリックは眉をひそめた。
「写真?」
愛華は頷き、軽く髪を耳にかけながら話を続けた。
「息子が、友人たちとギャラリーを借りて、写真の展覧会をしているんです」
彼女の息子が写真を撮っていることは知っていた。
「フリーのカメラマンと言ってなかったか。プロだったのか?」
純粋な疑問だった。
しかし愛華は、どこか意図を含んだ口調で問い返す。
「プロとアマの差って、何でしょうね?」
軽く笑いながらも、その目はエリックの心を試すように揺らめいた。
曖昧な問いだった。
だが、続いた言葉はさらに予想外だった。
「でも、写真を“買いたい”っていう方が現れて。本人も驚いたみたいです」
「買いたい?」
思わず口をついて出た。
エリックは、美術の市場や写真の価値基準に明るくない。
それでも、誰かが金を払って“欲しい”と言ったという事実は理解できる。
愛華は微笑みを深めた。
「モデルが良いんですね」
その一言が、静かに落ちた。
エリックは、はっと息を呑んだ。
まさか、愛華の笑みは、まるで彼の心の揺れを見透かしているかのようだった。
その一言で、埃のように沈んでいた嫉妬の感情が
再び静かに息を吹き返した。
言葉にすれば、あまりにも些細だ。
ただの展示、ただのモデル。
しかし、胸の奥に広がった微かなざわつきは
理由が分からないほど確かで、重かった。
エリックは、一拍置いてから口を開いた。
「……そういうことか」
自分でも驚くほど低い声だった。
「裕司さん、聞いてくれる?」
帰宅した英介の表情が、いつもと決定的に違っていた。
浮ついた様子でも落ち込んだ様子でもない。
「どうした」
裕司が声をかけると、英介は深呼吸を一つし、言葉を絞り出すように言った。
「売れたんだ。写真が」
一瞬、意味が掴めなかった。
だが英介本人が驚いている顔をしていることで、その現実がじわりと形を持ち始めた。
「ギャラリーで展示なんて、大学の学祭以来だし、正直、欲しいって言われるなんて思わなかった」
興奮よりも戸惑いの色が強かった。
期待も自信もなく、ただ必死で続けてきた写真が、
突然“価値”として目の前に現れたのだ。
裕司は静かに頷いた。
「風景か? おまえ、色々と撮ってたものな」
自然とそう言葉が出た。
英介は風景が得意だ。
街の光、登校中の学生の背中、川面に揺れる夕日。
そういうものが評価されたのだろうと思った。
「美夜さんの写真」
英介は、はっきりと言った。
その瞬間、裕司の胸が強く、瞬間的に締めつけられた。
「美夜さんの?」
確認するように問い返した声は、自分のものとは思えないほど低かった。
英介は頷きながら、まだ信じられないという顔をしていた。
買ったのは高校生という言葉に裕司は驚いた。
「いきなりさ、本を取り出して、“このモデルの人ですよね?”って言われてさ。びっくりしたよ。エリック先生の本だよ?」
英介の報告はどこか楽しげで、裕司は余計に混乱した。
「彼のファンか?」
英介はすぐに首を振った。
「俺も最初はそう思ったんだよ。本を持ってて、この人ですよね?”って聞いてきたんだから」
「じゃあ違うのか?」
「隣にいた友達がツッコんでた。“お前、小説なんか普段読まないくせに、表紙が気になるって本買って、今度は写真まで買うのか? どうかしてるぞ”ってな」
裕司は思わず吹き出しそうになった。
英介はさらに楽しそうに続ける。
「でもさ、そいつ真顔で言い返してたんだ。“本は読んだら終わるけど、写真は違う。ずっと残るし、何回も見られるだろ”って」
「……」
「そしたら、隣の友達、“お前、乙女チックすぎるだろ”って頭抱えてた。俺、笑いこらえるの大変だったよ」
裕司はようやく息を吐いて、苦笑いを浮かべた。
「最近の高校生って、大人を超えてくるな」
「ほんとにな。写真が残るとか、俺らがその年のとき、そんなセリフ思いついたか?」
「いや、せいぜい“ジャケ買い”で終わりだったな」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
ラストは少し明るめです。