隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
「ねえ、ここ、入ってみない?」
女はツリーを見上げたまま言った。
オーナメントの間に、リボンで結ばれた小さな袋が揺れている。
「写真の……ギャラリー?」
男は足を止めて、半歩だけ近づいた。
「ほら、これ。取っていいみたい」
女はそう言って、袋を一つ外した。
クッキーの甘い匂いが、冬の空気に混じる。
「勝手に取るやつ?」
「ちゃんと書いてあるよ。一人一つ、好きなのを持って中へってくださいって」
男はツリー脇のメッセージボードを読んで、思わず笑った。
「入場券がクッキーか」
「なんか楽しくない」
女は袋を揺らして言う。
どの味にするか、少しだけ迷っている。
「あなたは?」
ガラス越しに見える室内は、思ったより静かだった。
街の喧騒が、ドアの向こうで切り取られている。
男が言いかけて、言葉を探す。
「クリスマスっぽくないのに、逆に気になるな」
女は一瞬だけギャラリーを見て、微笑んだ。
「おい、英介。また入ってきたぞ」
入口の方を見た友人が、小声で言った。
英介は、ゆっくりと視線を向ける。
「ほんとだ」
カップルが中へ足を踏み入れるのを見て、思わず瞬きをした。
正直、身内、知り合いぐらいしか来ないと思っていた。
「見てもらうだけでも、結構くるな」
友人の言葉に、英介は無言でうなずく。
胸の奥が、少しだけ忙しくなる。
人が入ってくるたびに、奥にいた美夜と友人が目配せをして、ツリーにラッピングした焼き菓子をそっとぶら下げに行く。
一人ひとつ、入場券代わりの、ささやかな仕掛け。
それを思い出して、英介は小さく息を吐いた。
「これさ、男の発想じゃないよな」
「ないな」
顔を見合わせて、苦笑する。
「考えつくのもすごいし、やるって決めるのもすごい」
ギャラリーはまだ静かだ。
でも、人が入るたびに空気が少しずつ変わっていく。
英介は壁に並ぶ写真を見て、肩の力を抜いた。
とりあえず、始まったな、そう思えただけで、今は十分だった。
「すみません」
声をかけられて、英介は少し肩を跳ねさせた。
振り返ると、さっき入ってきた女性が立っている。
「ポストカードみたいなものは、ないんですか?」
一瞬、言葉が出なかった。
隣にいた連れの男性が、少しだけ目を見開く。
女性は肩をすくめて笑った。
「部屋が狭くても飾れるでしょ。一枚だけとか決められないし」
英介は曖昧にうなずきながら、頭の中が静かに忙しくなるのを感じていた。
思いつかなかった、いや、考えもしなかった。
女性の言葉に、英介は一瞬、言葉を失った。
完全に盲点だった。
欲しいと思っても、一人暮らしのアパート、賃貸なら飾る場所は限られている。
壁だって、好き勝手に使えるわけじゃない。
そこまで考えが及んでいなかったことに、気づいてしまった。
写真を並べて、見てもらえたらそれでいい、どこかで、そう思っていた自分がいる。
隣で友人が、ぽつりと呟いた。
「そういえばさ」
少し考えてから、友人が続ける。
「美術館でも売ってるよな。有名な絵画の絵葉書とか、エコバックとか」
英介は気づいた。
有名な画家の絵なんて、気軽に買えない。
でも、絵葉書なら手に取れる、持ち帰るだけじゃない、 自分のものにできるんだ。
よし、今度、もしギャラリーを開くならと英介は思った。
クリスマスなんて、裕司には関係なかった。
寒さが増すと、決まって患者は増える。
風邪、喉の不調、大人だけでなく、小さな子どもも多い。
本当は、自宅で安静にしていれば十分な症状もある。
それでも、苦しそうな顔を前にすれば、診ないという選択はできなかった。
そんな一日を終えて、裕司は帰宅した。
玄関の灯りをつけて、足を止める。
靴が並んでいる、自分のものじゃない。
男物が、複数、男友達か。珍しいな。
そう思った、その直後だった。
「うまい! いやー、最高のクリスマスだ」
「英介、感謝するぞ。お前のおかげだよ」
「ほんとだよ。彼女がいない俺たちが、手作りの料理を食べられるなんてさ」
応接間の方から、賑やかな声が聞こえてくる。
裕司は、その場で一瞬固まった。
ここは、自分の家だ。
だが、いつもの静けさはどこにもない。
裕司は、靴を脱ぎながら小さく息を吐いた。
今日は、帰るタイミングを間違えたかもしれない。
そう思いながらも、
足は自然と応接間の方へ向いていた。
挨拶だけでもしておくか。
そう思って、裕司は応接間へ向かった。
英介と、その友人らしき男が二人。
こちらに気づくなり、そろって顔を上げる。
「裕司さん、おかえり、病院、大変だったでしょ」
「風邪が流行ってる。お前たちも気をつけろよ」
医者としての反射でそう言ってから、
裕司はふとテーブルの上に視線を落とした。
おにぎり、巻きずし、サンドイッチ、手羽先の焼き物、サラダらしきものまである。
「どうしたんだ、これ、買ってきたのか?」
英介が口を開く前に、友人の一人が満面の笑みで言った。
「英介のおかげです!」
「皮製品を置いてくれって頼んだ女友達とですね」
友人は身振り手振りが大きい。
裕司の思考が、一拍止まった、テーブルに並んだ手料理の数々を見て驚いた。
これを女、二人で作ったのか?
サンドイッチに巻きずし、煮物にチキン、彩りよく並んだ前菜まで。
「彼女たちは?」
尋ねると、英介の友人が、手羽先をかじりながら答えた。
「それがです、麻美さんは革のオーダーが入って、制作に戻ったらしくて。美夜さんも手伝いに行ったそうです。料理を持ってきて、パッと帰っちゃったんですよ」
「まるでサンタクロースみたいだな」
裕司は思わずつぶやいた。
テーブルの料理を見渡しながら、これ全部を短時間で仕上げるのは、相当手間がかかったはずだと感じた。
しかも、彼女たちは誰に感謝されたくてやったわけでもない。
お礼だからと作っていった、その心意気に、裕司はじんわりと胸を突かれていた。
そんな中、友人のひとりがチキンの骨を外しながら、ニヤニヤして言った。
「なあ、英介、美夜さんって、お前の彼女か?」
その瞬間、英介の動きが止まった。
チキンが喉に詰まりかけて、英介はむせるように咳き込んだ。
友人の一言に、英介は思わずチキンを握りしめた。
次の瞬間、もっと気になることに。
裕司さんは、ちらりと視線を送る。
おにぎりに手を伸ばしていたが、英介には分かった。
大人の男は表情でバレないようにする術を持っている。
だけど、その分、目に、仕草に無意識に出る。
「裕司さん、ケーキあるから」
英介は小声で言った。
「クリスマスだから、美夜さんが持ってきてくれた」
裕司は返事をしない。
ただ、ほんのわずかに頷いた。
(動揺してるな、完全に)
英介は心の中でふっと笑った。
その日、エリックはギャラリーの前に立っていた。
クリスマス仕様の街並みの中で、そこだけ少し静かな空気をまとっている。
ご一緒にと愛華にと聞かれたが、即答で断った。
彼女がいれば、まともに写真なんて見られない。
(あの人は、火のついてない場所にわざわざマッチを投げ込むタイプだ)
だから今日は一人。
余計なノイズなしで来たかった。
会場の前に置かれたツリーが目に入る。
ラッピングされたクッキーが枝にぶら下がり、横には手書きのメッセージ。
「入場チケットの代わりに一つ取って、入ってください」
エリックは写真の一枚一枚を眺めながら、思ったよりも多彩な展示内容に軽く驚いていた。
風景、動物、人物――撮る者の目線がそれぞれ違っていて、視線の流れが面白い。
ギャラリーを借りて仲間とやっている、という英介の言葉をふと思い出す。
個人でこんな展示を開くのは、想像以上に労力がかかるはずだ。
(こういうの、嫌いじゃない)
そんなことを考えていた時、不意に横から声が飛んできた。
「プレゼントですか? ラッピング、女性向けと男性向けとありますけど、どちらにします?」
視線を向けると、展示会場の隅、飾り棚の横にテーブルが設けられている。
そこにいたのは美夜だ。
「ネット販売と違って……緊張するね」
美夜が小さく息を吐いた。
革細工の並ぶテーブルに視線を落としながら、そっと帽子の位置を直す。
真っ赤なサンタ帽が、黒髪にやけに映えていた。
隣の女性、麻美が、笑いながら肩を軽くたたいた。
「ネットで通知を見るだけの時と違って、実際に手に取ってくれてる人が目の前にいるんだよ? それって、すごいことじゃない?」
美夜はしっかりとうなずいたが、その表情にはまだ少しだけ硬さが残っていた。
「よかったよ。見に来てくれた人もいるし」
麻美が商品を整えながら言う。
「ううん。美夜のお陰だよ。ほんとに」
麻美は真剣に言った。声には迷いがなかった。
「私ひとりだったら、絶対できてない。今日だって、こうやってクリスマスの恰好して座ってるなんて、想像もしてなかったよ」
二人の女声はサンタをイメージしたコスプレをしていた。
赤い帽子、服も、それぞれ微妙に違うデザインで、どちらも手作り感があった。
エリックは写真を見るだけのつもりだった。
ただ展示を見て、雰囲気を味わって、ひっそり帰るつもりだった。
美夜がいるのは予想もしなかった。
(挨拶するだけだ。落ち着け)
ゆっくりテーブルへ近づく。
気配に気づいたのか、美夜が顔を上げる。
そのときだ。
「あらっ、こんなところにサンタさんがいるわ!」
明るい声、振り返らなくてもわかる。
愛華の声だ。
「エリック先生? 写真に興味があったんですか? こんなところで会うなんて、驚きました」
わざとらしすぎるとエリックは思った。
驚いたふりをしているとエリックは思った。
「裕司さん、元夫なんです」
その瞬間、隣の男の表情がわずかに固まった。
「この人、ツリーの前で立ち尽くしてたのよ。入場券のお菓子を取るのが恥ずかしかったのかしら?」
言いながら、満面の笑みで裕司を見やり、そしてすぐさまエリックにもチラリと目配せ。
「まったく、男ってどうしてああいうとこだけ乙女なのかしらね〜」
愛華の笑い声が軽やかに広がる。
男二人は沈黙だ。
裕司は、口角をわずかに引きつらせながら目を伏せた。
この場で反論すれば、彼女のペースに飲まれるだけだとわかっているのだろう。
だが、分かっていても、やはり居心地の悪さは拭えない。
(頼むから、黙っててくれ……)
そんな無言の懇願が目の奥に滲む。
(この男、元妻に振り回されてるんだな)
エリックはわかってしまった。
そして、愛華は一人、にやにやと笑っていた。