隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
愛華はテーブルに並んだ革製品をひと通り眺め、途端に目を輝かせた。
「バッグとかない? シンプルで、A4の書類が入る大きめのやつ。できれば軽いやつ」
いきなりの注文に、麻美が目を丸くした。
「えっ、A4……? あ、サイトのほうならいくつか鞄も販売してます。よかったら覗いてみてください」
そう言って名刺を差し出そうとした瞬間――
美夜が先にカードを差し出した。
「こちらにQRコードがあります。あと……愛華さん、これ。頼まれてたものです」
白い紙袋が手渡される。
愛華は“あっ!”と声を上げて喜んだ。
「そうそう! ありがとう、前にくれた差し入れ、ほんっとうに美味しかったのよ。あれ作るの大変じゃなかった?」
その言葉を聞いて、裕司の表情がぴくりと動いた。
表情には出さない、だが、内心では静かに警報が鳴っていた。
(愛華、君は何を頼んだ?差し入れ、無茶振りしてないだろうな)
愛華は満面の笑みだが、美夜は自然に笑っている。
それが逆に裕司の胸をざわつかせた。
エリックの脳裏に「撮影」という言葉が引っかかった瞬間、時が少し止まったような感覚に陥った。
それは、想像もしていなかった情報だった。
撮影の差し入れ。皆が気に入っていた。
それが「彼女」の手によるものだと、今になって知った。
(もしかして、表紙の撮影のとき……)
愛華がこちらの表情に気づいたように、軽く言った。
「先生は手作りのお菓子や差し入れは受け取らないって聞いたんです、だから声をかけなかったんです」
エリックは、微かに息を呑んだが、それを隠すように静かに「そうか」とだけ返した。
ギャラリーを出た愛華は、立ち止まり、短く息を吐いた。
それは気を抜いたため息というより、考えを切り替えるための区切りのようだった。
「裕司さん。彼女に、英介のことを少し手伝ってほしいって、頼めない?」
裕司は即座に反応できなかった。
愛華はエリックに向き直る。
「エリック先生、ギャラリーで何か気づいたこと、ありませんでした?」
不意に問われ、エリックは一瞬言葉を探す。
展示、来場者、頭の中で順にたどる。
「入口にツリーがありましたよね。それと、ボードも」
愛華の言葉に告知か?と裕司が低く問い返す。
その瞬間、愛華はわずかに目を見開いた。
「え、見ていなかったんですか」
驚きは素直だった。
「彼女に頼まれていたんです。ランチやお茶ができる店を、いくつか紹介してほしいって」
その言葉で、場の空気が変わった。
エリックは口を閉ざし、裕司も表情を曇らせる。
愛華は構わず、淡々と続ける。
「その店に行って。自分たちのサイトで告知していいか、名刺を店の一角に置かせてもらえないか、頼んだのよ」
説明は簡潔だったが、内容は重かった。
二人は何も言わず、ただ互いに視線を交わした。
ギャラリーの中で進んでいた出来事が、今になって輪郭を持ち始める。
愛華はそれ以上、何も付け加えなかった。
沈黙が、事実の重さを代弁していた。
「麻美っていう女の子、サイトも作って、自分の作品をちゃんと見せてるの」
愛華は名刺を一枚取り出し、二人の前に差し出した。
そこにはアドレスだけでなく、黒く整ったQRコードが印刷されている。
「ツリーの横に置いてあったボード、覚えてる?」
愛華は続けた。
「飲食店の紹介が並んでた。入場代わりのクッキーを見せたら、珈琲か紅茶を一杯サービスって」
そこで、愛華はほんの少しだけ笑った。
その笑みは、楽しげというより、計算が済んだあとの表情だった。
「ギャラリーを見たあと、紹介されてた店に寄る。ドリンク一杯、余裕があれば食事も、そういう流れ、自然だと思わない?」
裕司もエリックも、すぐには答えられなかった。
「飲み物だけなら、店側のコストも大きくないしね」
淡々としたその一言が、決定打だった。
これは思いつきではない。善意でも、偶然でもない。
仕組まれていた——その事実だけが、静かに場に残った。
二人は言葉を失い、愛華の顔を見る。
愛華はもう笑っていなかった。
「たいしたものだな」
感心したように、エリックが小さく息を吐いて言った。
愛華は肩をすくめ、いつもの調子に戻る。
「あたしが、店に頼んだのもあると思うの、常連の、よく顔を出す客が一緒に行ってお願いする。店だって、ちょっと断りづらいでしょ」
言いながら、どこか悪戯が成功した子どものように笑う。
「それに、悪い話じゃないと思うのよ。店には人が来るし、展示を見た人は一息つける」
裕司はその説明を聞いて、ゆっくりと頷いた。
「信用、か」
短い一言だったが、納得した声音だった。
愛華はその様子を見て、満足そうに口角を上げる。
空気はまだ張っているが、さっきほど重くはない。
「ちゃんと、筋は通ってるの」
そう言って、愛華は軽く名刺を振った。
「それで俺を、ギャラリーにしつこく誘ったのか」
裕司の声は低かった。責める調子ではない。だが、確認するような響きがあった。
愛華はそれを受けて、いつもの笑みを浮かべる。
「可愛いサンタさん、見られて嬉しかったでしょ?」
冗談めいた一言だったが、裕司は答えなかった。
代わりに、ふと、彼女が愛華に渡した紙袋の感触を思い出す。
愛華は、その沈黙を待っていたかのように続けた。
「店を紹介してくれたお礼よ。撮影のときに差し入れしてくれたお菓子、女の子たちが気に入っちゃってね。また食べたいって言うから、お願いしたの」
一拍置いて、現実的な話を重ねる。
「今は卵もバターも安くない。材料費だって、ばかにならないでしょ」
笑みは消えていた。
「現金でのお礼じゃないけど、同じくらいの価値は、あると思うのよ」
その言葉に、裕司は息を詰めた、エリックもまた、目を伏せる。
好意でも、善意でもある、だが同時に、対価だ。
手渡された袋の中を覗き込んだ愛華が、ふいに声を漏らした。
短い、しかし妙に弾んだ声だった。
「『裕司先生へ』って書いてある」
袋の中から、丁寧にラッピングされた小箱を取り出す。
「え、これ、マカロン、手作り?凄いっっ」
箱を開けた瞬間、愛華の目がわずかに見開く。
「裕司君、これ、食べたい。欲しい。くれるでしょ」
疑問ではなかった。完全に断定だった。
裕司は思わず、ため息に近い息を吐く。
「いや、それは」
自分に向けて贈られたものだと言いかけて、言葉を飲み込む、裕司は愛華の手元のマカロンをちらっと見て、眉をひそめた。
「クッキーじゃないのか?小さくて丸いやつだろ?」
「違う、全然違うのよ!」
愛華は目を見開いて、即座に否定した。
「買えば良いだろう」
ぼそっと返した裕司に、愛華はまるで子どもを叱る先生のような顔で首を振る。
「欲しいなあ」
愛華はマカロンの袋を名残惜しそうに見つめながら、ちらっと裕司を横目でうかがった。
駄目だと裕司は即答した、愛華は肩を落とし、しゅんとした表情をつくる。
だが、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「あ、そうだ!」
何かひらめいた子どもみたいに、目が輝いた。
「裕司くんがマカロンを凄く気に入って、また食べたいって言ってたって伝えたら、作ってくれるわよ!」
それを聞いた瞬間、裕司の顔色が一気に変わった。
心の声は完全に聞こえた気がする。
(絶対やめろ)
そして隣のエリックまで、同じように眉をひそめる。
エリックは、ふと視線を横に流した。
裕司の横顔が本気で、彼女のことを、美夜のことを気にしているのかと思ってしまった。
自分より年上、並べば親子と間違われても不思議はない。
なのに、美夜の話になると、空気がどこか変わるのを、エリックは気づいた。
その時、愛華がちらりとエリックを見て、にやりと微笑んだ。
「先生、気になりますか?うちの元夫のこと」
軽い調子だったが、その目は、鋭かった。
「見た目はもてそうにないけど、職業柄、安心感はあるんですよ。穏やかで、誠実で、時々妙に不器用でね」
愛華の言葉に裕司が眉をひそめる。
「なんの話だ」
「だって、彼女。案外、そういう“落ち着いた人”に騙されるタイプかもしれませんよ?」
「おい、何を言ってる」
裕司が低い声で返す。
だが、エリックも黙ってはいられなかった。
「騙されるって、どういう意味ですか」
冷静に聞こえるよう努めたが、声の奥には小さな棘があった。
愛華は両手を広げて、肩をすくめる。
「女って、安心できる人には心を開いちゃうんですよ。それが好意か、信頼か、自分でもわからないまま、気づいたら離れられなくなってる。そういうの、ありません?」
その言葉に、二人とも言葉を失った。
裕司は――否定しなかった。
エリックは――否定できなかった。
しばしの沈黙のあと、愛華はふっと微笑んだ。
自宅に戻った裕司は、玄関の扉を閉めると同時に、深く息を吐いた。
上着を脱ぎかけたところで声がかかった。
「裕司さん、ちょっといい?」
廊下の奥から現れた英介が、少し興奮したような面持ちで立っていた。
「どうした?」
「いや、俺のメールに“写真を見たいって連絡が来たんだよ」
そう言う英介の声には、わずかな緊張が混じっていた。
「麻美って子、いたでしょ? ギャラリーで革細工を出してた。あの子の知り合いらしいんだけど、地元の雑誌、フリーペーパーを作ってるって。ギャラリーにも来てたらしい」
裕司は驚いて目を見開いた。
「その人が、一度会ってみたいって。その時に風景とか景色の写真を見せてほしいって言ってきたんだ」
英介は言葉を急がず、丁寧に伝えようとしていた。
だが、その声の奥に、戸惑いと期待が入り混じっているのは明らかだった。
裕司は一瞬黙り込んだ。
そして、ふと何かを思い出したように言った。
「美夜さんと一緒に行ったらどうだ」
裕司の一言に、英介は思わず目を丸くした。
「麻美って子の知り合いなら、美夜さんのことも知っているかもしれないだろう」
裕司は英介の表情をちらりと見て、少しだけ言葉を足した。
「麻美って子の知り合いってことは、お前を信頼できる人間だと思ったから連絡してきたんだろう。そうじゃなきゃ写真を見せてほしいなんて言わない」
シンプルな論理だった。
けれど、それがまっすぐ響いた。
英介は思わず息を呑んだ。
「そうだろう」
裕司はそれ以上言わなかったが、その声音は落ち着いていて、妙に説得力があった。
「裕司さん、よかったら美夜さんに連絡してくれない?」
英介の唐突な一言に、裕司は思わず顔をしかめた。
「おい、それはお前の仕事だろう」
いつも通りの冷静な返しだったが、英介はにやりと笑って、すぐに続けた。
「勿論、連絡するって。でもさ、裕司さんからも声かけたら、彼女、喜ぶと思ってさ」
その一言に、裕司の心臓が不意に跳ねた。
何でもないふうを装ったが、内心ではどきりとしていた。
裕司からの電話を受けた美夜は、最初こそ驚いた声を漏らしたが、すぐに落ち着いた。
「三十過ぎの息子のことを若い君に頼みごとをするようで情けないが、英介も後で連絡を入れると思う」
そう告げる裕司の声には、どこか遠慮の色があった。
年齢差を気にしているのが、ほんのわずかだが分かる。
「そんなことないです」
美夜は即座に否定した。
その穏やかな言葉に、裕司は胸の奥がほっと緩むのを感じた。
過保護な親のように見られていない、ただ、それだけで救われた。
しばらくして、美夜のほうから言いづらそうに話が続いた。
「実は私の友人から連絡があったんです。ギャラリーに来てたみたいで」
電話越しの美夜の声は、いつもより少しだけ硬かった。
裕司は眉をひそめる。
裕司は驚いた。
電話越しの美夜の説明を聞きながら、胸の奥でゆっくりと何かが動くのを感じた。
息子、英介の写真を見て興味を持った。
だが、自分たちは素人で、写真の扱い方も相場もわからない。
だから、美夜を通じて相談したいという友人の気持ちは、考えてみればまったく自然な流れだ。
美夜が関わっているなら、相手も安心できる。
そう判断するのは当然だろう。
裕司は短く息をつき、静かに答えた。
「わかった。英介に聞いてみるよ」
「英介、ちょっといいか」
リビングに顔を出した裕司の声に、ソファでくつろいでいた英介が顔を上げた。
「美夜さんに言ってくれた?」
「ああ、後でお前もちゃんと連絡を入れておけよ」
裕司は、少し声のトーンを落とした。
「実は彼女の友人、アート作品を作ってるらしい。ギャラリーにも来ていたそうだ」
英介は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに真剣な顔つきになった。
「サイトに作品を載せてるらしいが、写真は自分たちのスマホで撮ったものばかりでな。素人だから、写真のことも、相場のこともよくわからない。」
英介の目が少しずつ変わっていく。
最初の驚きから、次第に理解と興味へと。
「美夜さんの知り合いなら、相談しやすいと思ったんだろうな」
裕司の声は静かだったが、その言葉の一つ一つがしっかりと英介の胸に届いた。
「風景以外にも、置物や小物でもいい。何か参考になるようなものがあれば、持っていって見せてみたらどうだ?」
英介は言葉を返せなかった。
けれど、その顔にははっきりとした色が浮かんでいた。
「裕司さん、聞きたいんだけど」
突然呼び止められ、裕司は書類を置いて振り向いた。
「なんだ」
「裕司さん、甘いもの食べるよね。マカロン、好きなの?」
――マカロン。
その単語が耳に届いた瞬間、裕司の胸が、微かに跳ねた。
目の前の息子に悟られまいと、表情筋が固まるのが自分でわかった。
「さっき愛華さんからメールが来てさ。“裕司さんはマカロンが好きらしいから”って」
その説明を聞いた瞬間、裕司の思考は一度完全に止まった。
愛華、また、余計なことを。
「クリスマスとかイベントのとき、有名菓子店やパティシェが作るマカロンってさ、予約の時点で完売なんだよ」
「そんなに人気あるのか」
裕司は純粋に驚いた声を出してしまう。
だが思い直して続けた。
「だが、手作りとか、自宅でも作れるんだろ?」
英介は即座に笑った。
「あれは難しいんだよ。オーブンの温度がね、膨らまないし、ひび割れたり、色が変になったり」
裕司はそこで眉を上げた。
「そんなに繊細なのか。あんな小さい菓子が?」
「しかも2〜3個入りの箱でけっこうする。クッキーとかケーキより高いよ。高級ラインだと一個300〜500円なんて普通」
「……は?」
裕司の口から完全に素の声が漏れた。
あの小さな円盤が、ケーキより高い?
わずか数口で消えるあれが?
英介はそんな裕司の変化などまったく気づかず、軽く笑って肩をすくめた。
「まあ、だからこそ贈り物にする人が多いんだよ。価値あるし、気持ちも伝わりやすいし」
その一言が、裕司の胸の奥に深く刺さった。
クリスマスは終わったけど。
後日談にするつもりでした。