隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
「裕司さん、最近、病院、忙しい?」
夜遅く、靴を脱ぎながら投げられた英介の声に、裕司は一瞬だけ動きを止め、それから力の抜けた頷きを返した。
「ああ、若手がインフルでな。穴埋めしてる」
「え、患者じゃなくて? 医者が?そうかあっ」
英介はスマホを見下ろしたまま、小さく呟いた。
「実はさ、美夜さんからメールが来たんだよ」
裕司の肩が、わずかに跳ねた。
「病院の前、通ったらしくて。中を覗いたら、待合室ぎっしりで、びっくりしたって」
「そうか」
「しかも入口に消毒必須・マスク着用”の貼り紙が何枚も、貼ってあって」
英介はそこで一度、首を傾げた。
裕司は黙ったまま、次の言葉を待つ。
「先生は大丈夫ですかって聞いてきた」
靴を揃える手が、微妙に遅れた。
英介は頷きながら、楽しそうに笑う。
「直接は聞けないんだろうね。忙しそうだし、変に邪魔したくないし」
そう言いながら、英介は裕司の顔をじっと見る。
「で、代わりに僕に聞くけど、会う約束なんて、してないよね」
「してない」
言い切った直後、自分でも分かるほど間が悪い。
「まさか、してる?」
「本を買ったら、マックで会おう、連絡は、俺からするって」
途端に、英介の表情が止まった。
「してるよ、裕司さん」
「そうか」
裕司は低く呟いた。
英介はスマホをくるりと回しながら、軽い調子で続ける。
「でもさ、病院の前通って、中まで確認してる時点で、忙しいのは分かってると思うよ」
笑いながら言うが、視線は真っ直ぐだった。
「裕司さんが今、余裕ないって」
裕司は小さく息を吐いた。
英介はぽん、と軽く手を打つ。
「返信しとくよ」
「今バタバタしてますけど、心配ありがとうございますって、それだけでも安心するよ」
明るい声のまま、続ける。
「裕司先生から電話とか来たら、逆に気を使わせたって思いそうでしょ、彼女」
裕司は答えなかった。
「恋愛小説を書いてみませんか」
編集者の一言が、エリックの頭の中で繰り返されていた。
一度、言われたのだ、だが、あれは読み切りのつもりで書いたものだからと曖昧に言葉を濁していた。
少し前、女性モデルを使い、本の表紙を整えた。
売れるかどうかなど、本当にどうでもよかった。
スマホの着信音が、静かな部屋に不釣り合いに響いた。
画面を見て、エリックは一瞬だけ眉を寄せる。
最近、知り合った女優だった。
「先生、よかったら食事でも」
声は明るく、ためらいがない。
続けて、少し間を置いて、いつもの言葉が来る。
「それと、よかったら、あたしを主人公に書いてください」
この手の誘いは、これが初めてではなかった。
あの一冊が売れた、と知られてから、彼女は何度か同じことを口にしている。
だが、エリックにはどうしても実感が伴わなかった。
成功作、と呼ばれるほどのものを書いた覚えがない。
評価された理由も、いまだに掴めていない。
彼女は美しい。
整った顔立ち、均整の取れた体。
一緒にいれば、人の視線を集める。
だが、それだけだ。
彼女がどんな恋をしてきたのか。
何に傷つき、何を諦め、どんな曖昧さを抱えたまま生きてきたのか。
自分をモデルに、と言われても書けるのは外側だけだ。
見た目が良く、華やかな女。
それなら、いくらでも書ける。
だが、それは彼が書きたいものではない。
恋愛小説とは、名前をつけられない感情の揺れや、
本人すら説明できない迷いを言葉にしていく作業だ。
ただ美しいだけの人物に、その重さは背負えない。
エリックは、着信を切らずに画面を見つめ続けた。
誘いを受ければ、楽だ。
分かりやすい題材と関係、編集者も喜ぶだろう。
だが、指は動かない。
自分が書いた一冊は欲望に正直な物語ではなかった。
曖昧で不器用で踏み出せない感情をそのまま置いた話だ。
それを計算された魅力で塗り替える気にはなれなかった。
スマホの画面が暗くなる。
エリックは静かに息を吐く。
書けない理由は簡単に書けてしまいそうだからだ。
珈琲でも飲もうと思って、エリックは外に出た。
静かな喫茶店を思い浮かべていたはずだった。
それなのに、気づけば足はマックへ向かっていた。
ドアを押し、店内に入る、瞬間、視線が不意に止まった。
美夜、窓際の席に、彼女はいた。
メイクはしていない、隠そうとする素振りもなく、素顔のまま座っている。
顔の傷を隠すこともなく。
エリックは、思わず息を詰めた。
若い女性なら、美醜に過敏でいるものだと思っていた。
欠けた部分を隠し、整った姿を守ろうとするものだと。
だが、彼女は違う、気にしていないのか。
そう思いかけて、すぐに否定する、受け入れているのだ。
あの医者のせいか、思わずそう考えてしまう。
「座ってもいいか」
そう言いながら、エリックは返事を待たずに、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
美夜は目を見開いたまま、言葉を失う。
無理もない、逃げ道を塞ぐような距離だった。
しばらく、沈黙が流れた。
紙コップの擦れる音や、注文を呼ぶ声が、やけに遠く感じられる。
エリックは、低い声で口を開いた。
「勘違いしているんじゃないか。あの医者の態度に」
美夜の表情が、はっきりと強張った。
「どういう意味ですか」
「医者なら、患者に優しく接するのは当たり前だろう。気遣いも、心配も、すべて仕事の範疇だ」
言葉は淡々としているが、エリックは視線を逸らさず、続ける。
「顔の傷を、治さないままでいるのは」
エリックは言葉を置くようにして、そこで一度、間を取った。
美夜の反応を待つだけではない、自分の気持ちを落ち着けるためだったのかもしれない。
「あの医者に会えなくなるのが、嫌だからか」
返事はない、視線は落ち、言葉を探しているのがはっきり分かる。
「優しい言葉をかけられて、君は勘違いしている」
美夜の肩が、かすかに揺れた。
反論は出てこない、否定も、肯定も、できない。
「勘違いしているのは、あんただよ。エリック先生」
突然、割り込むように響いた声に、美夜は顔を上げた。
「英介さん」
英介は二人のそばに立ち、視線をエリックに向けたまま動かない。
いつもの軽さはない。
「裕司さんは真面目なんだ。踏み込めないだけで、自分の気持ちはちゃんと自覚してる」
「自覚、だと?」
エリックの声が、わずかに低くなる。
英介は一拍置き、淡々と続けた。
「あんたの方がよっぽど分かりやすい」
そして、逃げ場を与えない一言を放つ。
「嫉妬、丸出しだよ」
その瞬間、エリックの表情が変わった。
「美夜さん、行こう」
英介はそう言って、美夜に視線を向けた。
エリックとこれ以上言葉を交わす価値はない。
その判断が、はっきりと態度に表れていた。
「待て」
エリックが低く声を出す、だが、英介は振り返らない。
「自分は正しいことを言ってるつもりなんだろ」
英介は静かに続ける。
「恋愛に正しいとか、勘違いとか、関係あるのか」
エリックは口を開きかけた、反論はいくつも浮かぶ。
それが通用しないと思った。
「美夜さん、自宅まで送る。着替えとか必要なもの持ってきて、今夜は、俺の家に泊まろう。裕司さんと会おう」
あまりにも迷いのない言い方に、美夜は目を見開いた。
「でも、突然、お邪魔して」
英介は即座に遮る。
考える余地を与えない声だった。
「俺が説明する。エリックさん、自分は正しいこと言ってるつもりなんだろうけどさ」
一拍置いて、静かに続ける。
「恋愛って、そういうもんじゃない」
今夜も遅くなりそうだと裕司は思った。その時今保の着信が英介からだ。
〈友達を泊めてもいい?〉
意外ではあったが、深く考えはしなかった。
男友達だろう。そう判断して、短く返信する。
それで終わりだと思っていた。
一時間ほど経った頃、再びスマホが震える。
〈晩ご飯、煮込み蕎麦でいいよね〉
裕司は思わず画面を見直した、英介が料理をする姿など、思い浮かばない。
「蕎麦?」
半ば独り言のように呟いた、その直後だった。
〈おにぎりもある、美夜さんが作ってる〉
名前だけが、頭の中に鮮明に浮かぶ。
〈どういうことだ〉
家に、美夜がいる、しかも、料理をしている。
現実味がない、だが、否定できない。
驚きと混乱の奥で、静かに、しかし確かに、胸がざわめいていた。
「お帰りなさい、裕司先生」
玄関でそう声をかけられた瞬間、裕司は現実感を失った。
本当に彼女がいた、テーブルには蕎麦とおにぎり。
湯気が立ち上っているのに、どこか夢の中の光景のようだった。
「おかわり、ありますから」
「あ、ありがとう」
返事は、我ながらぎこちない。
声が少し、上ずっている。
その様子を見て、英介が肩をすくめた。
「美夜さん、風呂、入る?」
美夜は慌てて首を振る。
英介は軽く笑った。
「今夜はもう遅いし、寝た方がいいよ」
そして、何気ない調子で続ける。
「裕司さんの部屋さ、ちょっと埃っぽいから」
裕司が反射的に口を開くより早く、
「それは今度来たときの“お楽しみ”に取っておいた方がいいよ」
とどめの一言を、さらりと落とした。
台所に二人きりになると、裕司は英介を見た。
「どういうことだ」
問いは短かったが、声は固い。
「説明するよ」
英介はそう言い、表情を改めた。
さっきまでの軽さは消え、真剣そのものだった。
「マックでさ。美夜さん、エリックに会った」
その名前が出た瞬間、裕司の胸がざわつく。
「裕司さんが優しいのは、医者として仕事をしているだけ。それを彼女が勘違いしてるだけだって」
勘違い、その言葉が、強く耳に残った。
裕司の脳裏に浮かんだのは理屈で相手を追い詰める冷静な男の顔だ。
「正論で追い詰めるのは違うだろ」
英介は、間を置かずに続ける。
「顔の傷を治さないことも、持ち出してきた」
「どういう意味だ?」
裕司の声が、思わず強く、感情が滲んでいた。
「裕司さんの診療を受けられるから、わざと治療しないんじゃないかって」
英介は呆れた顔だ。
「普通は、言わないだろう、そんなこと、でもはっきり言ったんだよ」
裕司は想像した、マックの店内で向かい合って座る二人の様子を。
理屈と正論が先に立ち、逃げ場のない言葉を浴びせられる彼女の姿を。
返す言葉など、あるはずがない。
否定すれば感情を否定され、肯定すれば自分を貶める。
「整形や手術、費用だけの話じゃないだろ。裕司さん」
英介の言葉に裕司の表情が硬くなった。
「ニュースじゃ、顔の傷がきれいになったとか、整形が成功したとか、成功例話ばっかり目にするけど」
「失敗だってある」
裕司は、ゆっくりと頷いた、迷いのない声だ。
「傷が塞がれば、元通りの顔になる、簡単な手術なんてない」
“治せばいい”
“手術すれば元に戻る”
その言葉が、どれほど多くの人を追い詰めてきたか。
現実は、もっと不確かで、もっと厳しい。
突然のスマホの着信、愛華は画面を見て驚いた。
この時間に、裕司から、一瞬、指が止まる。
ただ事ではないという直感だった。
「どうしたの?」
返ってきた声は、低く、硬い。
「エリックの連絡先を教えろ」
その一言で、愛華の表情が変わった。
「医者として言いたいことがある」
裕司が怒っていると分かった。
エリックは、自室の暗がりで背を椅子に預けたまま、マックでのやり取りを何度も反芻していた。
勘違いしてるんじゃないか、自分の言葉が彼女をどう傷つけたかと認識しきれていないまま。
不意にスマホが鳴った。
こんな時間に? 間違い電話か、いたずらか。
通話ボタンを押すと、すぐに低い声が響いた。
「愛華の元夫だ」
予想もしていなかった名前に、反射的に背筋が伸びる。
「英介から聞いた。マックでの会話だ」
エリックは言葉を選ばず返した。
「彼女は感情を取り違えているだけだ、勘違いだよ」
その瞬間、電話の向こうで言葉が途切れる。
「正論で反論できないところまで追い詰めて、顔の傷にまで踏み込むのか」
裕司の声は低く、静かだった。
「手術すれば元通りになるなんて、本気で思っているのか。費用だけの問題じゃない」
叱責でも怒声でもない、事実を淡々と並べただけだ。
だが、エリックには鋭く刺さった。
「手術して包帯を巻いて終わり、じゃない。通院、管理、感染症のリスク、場合によっては再手術が必要になる」
甘い想像を、ひとつ残らず砕くような言葉だった。
エリックは黙り込む。
裕司の声は、抑えられたトーンのままだ。
感情的ではない、だが逃げ場がなかった。
顔、最も繊細で最も生活に影響し、他者の視線”に晒される場所。
理屈でしか見ていなかったと、今、突きつけられている。
「手や足の外傷と、顔を同じように考えていないか」
治せると思い込んでいた。
世間に溢れる成功例だけを、無意識に掴んでいた。
だからこそ、彼女に投げつけた言葉がどれほど残酷だったか、ようやく理解し始めていた。
裕司の声だけが冷静に響いた。
「傷つけたという自覚さえないんだろうな」
エリックは答えられなかった。
自分はあの時、正しいと思っていた。
だからこそ言えたのだ。
しかし、彼女は返す言葉を失った。
正論のつもり、相手の為だと思い込んでいた。
だが、あれは、ただの暴力だったのだ。
その事実が、重く、静かに、エリックの胸に沈んでいった。
昨日UPできなかったので、やっと正月に書き上げた。