※この作品はR-18です。

隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない   作:木桜 春雨

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2 医師の家庭事情 離婚して息子と二人暮らし

 人生には転機というものがある、そして突然に訪れたりするのだ。

 妻の愛華から別れたいと離婚を切り出されたとき、裕司は静かに息をついた。

 驚きよりも、どこかで覚悟していた感情のほうが勝った。

 「ごめんなさい、年下で、どうしても放っておけないの」

 その告白に、嫉妬より先に思ったのは、

 彼女はずっとこういう女だったなという諦めにも似た理解だった。

自由奔放で、美人で、

 束縛を嫌う。

 そんな愛華が、自分のような“仕事に沈むタイプ”の男を

 長く好きでいられるわけがないことくらい、

 裕司自身が一番理解していた。

 だから怒らなかった。

 自分への失望の方が、よっぽど正直だったからだ。

 自分のような男結婚したこと自体が奇跡みたいなものだと、

 周囲ではなく、自分自身が一番そう思っていた。

 「騙されてるんじゃないか」

 そんな言葉は喉まで出かけたが、結局飲み込んだ。

 彼女は人を見る目だけは妙に鋭い。

「若い男に夢中か、君らしいらしいよ」

 そう思えてしまう自分が、情けなくもあり、大人だった。

 彼女を責めても意味はない。

 戻ってこいと叫ぶほど執着もない。

 むしろ、愛華が自分に嘘をつかずに生きられるなら、

 それはそれでいい、とさえ思えた。

 息子の英介をどうすると聞くと置いていってもいいとう割れたときは笑ってしまった。

 「英介くんはどうする。成人してるが」

 「フリーのカメラマンだし貧乏だから」

 あまりにあっさりした言い方に、一瞬だけ目を細め、

 次の瞬間、裕司は小さく笑った。

 「構わないよ。あいつはあいつで、俺のところの方が気楽だろ」

 憎しみも、恨み言もない。

 愛華を責めても仕方がないことも理解している。

 他人の心は縛れない、ましてや、愛華のように真っ直ぐ感情で生きる女などなおさら。

 「ありがとう。正直、あなたならそう言ってくれると思っていた」

 そう言った愛華の顔に、どこかほっとした色が浮かんだ。

 裕司はその表情すら受け止めて、静かに頷いた。

 妻を憎むことはしない。

 裏切られたと騒ぎ立てるほど若くもないし、

 自分にとって大事なのは、傷ついた自尊心より、これからどう生きるかだった。

 その静けさこそ、年上の男の強さだった。

 構わないよと言った時の笑みは、

 強がりでも皮肉でもない。

 腹の底で傷んでいるのを分かったうえで、

 それでも相手を恨まないという、

 年齢を重ねた男の腹の決まりだった。

 自分が愛され続ける自信も、

 誰かを縛れる力も持っていない。

 ただ、別れても憎まないという選択だけはできる。

 それが裕司という男の、静かで大きな寛容さだった。

 怒りはなかった。

 ただ、少しだけ胸の奥がひりつく。

 でも、それすらも静かに受け止められるほどに、年齢を重ねていた。

 

 「愛華さん、マジで離婚すんの?」

 「うん、好きな人ができたの」

  息子の英介はコーヒーを吹きかけた。

  朝のキッチンに漂う、ありえないほど平和な離婚宣言。

 「いや、もうちょっと、何か、よあっても良くない?」

 「前置きしても結果は同じでしょ?」

 「まあ、そうですけども!」

 英介は額を押さえた。

 ずっとそんな気はしてた。

 最近の愛華さん、スマホ見る時間がやたら長い。

 隠しごとなんてできるタイプじゃないのも知ってる。

 「で、裕司さんは? 怒らなかったの?」

 「全然。『その方が英介くんも気楽だろう』って言ってくれたのよ」

 「え、マジで? 仏? もう悟ってるレベルだろ」

 「あの人は大人だから」

 にっこりと笑う愛華の顔に英介は無言になった。

 離婚話なのに修羅場も涙もない。

 むしろ空気が爽やかで腹が立つ。

 愛華は紅茶を啜る。

 その無神経さが、もう清々しいレベルだ。

 血が繋がっていなくて良かった、と英介は思った。

 もし本当の親子だったら、胃がもたない。

 「……まあでも、修羅場にならなくてよかったわ」

 「おい、それ本人の口から言うな」

 心の中では、正直ほっとしていた。

 裕司はいつだって落ち着いていて、英介にも分け隔てなく接してくれた。

 「何か、困ったことがあったら言いなさい」

 結婚当初から、そう言ってくれていた。

 実の父親でもないのに。

 だから、怒らなかったと聞いても不思議ではない。

 むしろ裕司らしい。

 怒るより理解してしまうタイプだと思った。

 

 その夜、英介は裕司に頭を下げた。

 「すみません。住まわせてもらって。ありがとうございます」

 「構わないよ。ゴミ出し当番だけは守ってくれ」

 「急に現実だ、でも、わかりました!」

 裕司は相変わらず穏やかだった。

 怒りなんてひとかけらもない。

 ただそこに“生活”がある感じがした。

 「本当に怒ってないんですか」

 「怒ると疲れるだけだからね。あと、皺が増える」

 「医者だな」

 二人で笑った。

 離婚したって、家族じゃなくなったって、なんとなく落ち着く空気は残る。

 不思議だけど、悪くない。

 むしろこういう形も、アリかもしれないと英介は思った。

 

診察室のドアが静かに開いた。

 白い床に長い影を作った。

 「失礼します」

 小さな声だった。

 退院して三ヶ月、外の空気にようやく慣れ始めた頃だ。

 裕司はカルテを閉じ、顔を上げた。

 穏やかに微笑むその表情は、医師としての距離を保ちながらも、どこか柔らかい。

 「こんにちは。……お変わりありませんか?」

 「傷のほうも、だいぶ落ち着きました」

 彼女はマスクの下で微かに笑った。

 髪は前より少し短くなっている。

 顔の傷跡は化粧で、それでも残っている。

 だが、その表情は以前よりずっと穏やかだった。

 

 裕司は一瞬、あの談話室で聞いた声を思い出す。

 違う名前で、生きていく。

 彼女の声が耳に残っていた。

 「体調は問題ないですか。睡眠は取れています?」

 「はい」

 その一言に裕司は頷いた、単調な会話。

 沈黙が一瞬流れる。

 彼女が視線を落としながら、小さく言った。

「先生、お願いがあるんです」

 裕司が顔を上げる。

 「なんでしょう」

 少し間を置いて、彼女は静かに言う。

「“美夜”って名前、呼ばれるたびに過去の私が思い出されるんです。

 でも……新しい名前を名乗る勇気も、まだなくて。

 だから……先生だけは、“みゆ”って呼んでくれませんか」

 裕司は言葉を失ったが、頷いた。

 「わかりました」

 彼女は微かに笑う。

 それは初めて見る笑顔だった。

 

 

 その日、美夕は本屋にいた。

 新刊コーナーの平台をゆっくりと巡りながら、表紙に目を走らせていく。

 話題の小説、エッセイ、どれも鮮やかで、どこか遠い。

 何冊か手に取っては、ページをぱらぱらとめくってみる。

 今の自分は書いていない。

 リハビリの合間に、ノートに向かったこともある。

 だが、言葉が出てこない。

 ふと目に止まった一冊、厚みのあるハードカバー。

 重厚な装丁、背表紙にある名前。

 「エリック」。

 呼吸が、一瞬止まった。

 指先がかすかに震える。

 何も考えずに本を手に取っていた。

 だが、ページを開こうとしたところで、手が止まる。

 見てもいい。

 読んでもいい。

 そう思うのに、心が追いつかない。

 ほんの数秒の沈黙。

 そのあと、そっと本を元の棚に戻した。

 まだ終わってないんだな、と美夕は思った。

 あの頃に戻りたいわけでもない。

 ただ、完全に切り離せるほど、強くもなれていない。

 そう思う自分が情けなくて、少し安心でもあった。

 

その日、エリックは新刊の棚を確認しに立ち寄った。

 無機質な照明の下、平積みにされた自分の本が整然と並んでいる。

 ふと、視線の先に女性がいた。

 その棚の前で立ち止まり、彼の本を手に取っている。

 帽子を深くかぶり、長い髪が頬を隠している。

 マスクに覆われた顔は、ほとんど見えなかった。

 ページをめくることもなく、数秒の沈黙。

 何事もなかったように本を棚に戻す。

 それだけの動作だった。

 なのに、目を離せなかった。

 彼女が背を向けて歩き出そうとしたときだ。

 

 「美夕さん」

 男の声が、書棚の向こうから静かに響いた。

 「先生」

 返ってきたのは、かすれるような柔らかい声。

 振り返り、声のした方向を探す。

 棚の隙間から見えるのは、帽子の影に隠れた横顔と、落ち着いた雰囲気の男の輪郭。

 顔は見えない。

 表情も、年齢も、わからない。

 だが、声だけは。

 耳の奥で名前が、記憶の底に沈めたはずの誰かの声と重なって、境界が揺らぐ。

 似ている、まさか。

 名前の聞こえ方を必死で思い返す。

 響きが近い。

 一文字違えば、美夜。

 その名は、喉の奥で音にもならずに消えた。

 考えたくない。

 でも、考えずにはいられない。

 棚越しに男が話しかけている、女が頷く。

 何故か、目が離せない。

 何故なのか、自分でも理由がわからなかった。

 

 

「仕事はどうだ」

 唐突な一言に、英介は思わず顔を上げた。

 湯飲みを持つ手が止まる。 

「え、ああ、まあまあ、ですかね」

 なんだ、この会話。

 父親みたいな質問してくるなよ。

 いや、一応、父親か。正確には元義父だが。

 裕司は相変わらず、新聞の文字を静かに追っている。

 問いかけたくせに、リアクションが薄い。

「まあまあか、便利な言葉だな」

「社会人は使ってる」

 軽く返すと、裕司の口元がかすかに緩んだ。

 それだけで、なぜか英介の胸の奥がモゾモゾする。

 あの人、そんな表情するタイプじゃなかったのに。

 思い返してみれば、ここ数週間、裕司の雰囲気がやたら柔らかい。

 以前は落ち着いてる”っていうより冷めてる感じだった。

 まるで、感情に蓋してるような。

 それが今ではどうだ。

 朝のコーヒーに砂糖を入れてた。

 ニュース見ながら苦笑いしてた。

 俺の仕事まで気にしてくる。

 まさか病院で何かあったんじゃ、いや、まさか。

 「女?」

 思わず口に出して、英介は自分で吹いた。

 「ねぇよな、そんな漫画みたいな話」

 けど、脳裏に浮かぶ。

 真面目で、優しくて、でもどこか不器用な医者が、病院で誰かに心を動かされた、なんて展開。

 あるかもしれない。

 いや、ないだろ。

 いや、あったら面白いけど。

 英介はコーヒーをすすりながら、テーブル越しの裕司をちらりと見た。

 あるわけないと思った。

 そんなドラマチックなこと、この家にあるわけない。

 




2話目UPです。
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