隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
その日、英介は病院へ向かった。
珍しく裕司を昼に誘ってみようと思ったのだ。
昼食に誰かと出かけるなんて、聞いたことがない。
だから、少しでも気分転換になればと思ったのだ。
ロビーを抜ける途中で足が自然と中庭へ向かう。
予感は当たった、裕司の姿があった。
だが、一人ではない、彼の隣には女性が座っていた。
私服姿、入院患者ではない。
穏やかに言葉を交わしているように見えた。
見えて、英介の口元に思わず笑みが浮かぶ。
——ああ、そういうことか。
最近、変わったなと思っていた、理由は、これか。
にやけそうになる頬を押さえながら、英介は歩み寄った。
声をかけようとして、息を吸い込む。
だが、声は続かなかった、女性がこちらを見たからだ。
その瞬間、息が詰まる、左の頬に、陽の光を受けて浮かび上がる傷跡。
隠せないほど深いものだ、英介は反射的に目を逸らした。
軽口も冗談も出てこない。
女性が、わずかに視線を落とした。
その様子に気付いたののか、裕司がゆっくりと顔を上げる。
気まずさを感じて、英介は、その場を逃げるように去った。
「ごめん、その……」
リビングの灯りの下、英介が少し躊躇いながら声をかけた。
テーブルの上には開いたままの医学書とコーヒー。
裕司は視線を上げ、メガネを外す。
「謝るようなことしたか?」
「いや、昼間の態度が悪かったかなって」
英介は頭を掻いた。
自分でもよくわからないが、妙に胸の中に引っかかっていた。
裕司は短く息をついた。
「別に気にしていないよ。彼女も」
英介は曖昧に笑ったが、その顔にはどこか後悔の色がある。
中庭で見た彼女の表情が、ふと脳裏に浮かぶ。
あれは、驚きではないと思った。
「患者さん、なんだろ」
「ああ。退院したけど、まだ通院してる」
裕司はコーヒーを口に運び、淡々と答える。
言葉を探すように、英介は視線を落とした。
彼女の顔を思い出す。
ほんの一瞬だったのに、印象が強く残っていた。
「きれいな人だったんだろうな」
無意識に漏らした言葉だった。
裕司は、少しだけ目を細めた。
「悪気はなかったんだろう?」
「そうだけど」
言葉がうまく出てこない。
裕司は、ふっと笑った。
それは苦笑にも、優しさにも見える。
「見ることが悪いわけじゃない。ただ、見る側が何を感じるか、だな」
英介はその言葉を受け止めながら、視線をテーブルに落とした。
重くもなく、説教でもない。
ただ、静かに胸に残る言葉だった。
裕司は軽く笑う、その笑みには、怒りも優越もない。
静かな空気の中で、英介は思った。
この人は父親じゃない、大人の男なんだと思った。
「……手術は、するんだろ?」
英介の声は、何気ない調子だった。
裕司は、わずかに視線を落とす。
言葉を飲み込み、数秒の沈黙のあとでようやく口を開いた。
「もしかして、美容整形と勘違いしていないか」
英介は、はっとした。
「いや、そんなつもりじゃ……」
だが、自分でも言い訳じみた声だとわかっていた。
頭のどこかで、手術すれば元に戻ると思っていた。
裕司は静かに息を吐いた。
「一度で元通りになるとは限らない。皮膚を移植することもあるし、痛みや腫れも残る。何度も繰り返すことになる場合もある」
淡々とした声に、英介は息を呑む。
「入院とかも?」
「そうなることもある、私は専門ではない。詳しくは形成の医師が判断する」
裕司の表情は変わらない。
医師としての説明の体裁を保ちながら、どこか感情の揺らぎを隠している。
「費用も時間もかかる。腕のいい医者でも、完全に元の顔に戻すのは難しいだろう」
英介の胸が少し痛んだ。
頭の中で、過去に見た記事の見出しが浮かぶ。
美容整形失敗、元通りにならない、やり直せない顔。
ネットや雑誌の記事を思い出した。
気軽に読んで笑っていた文字列が、今はまるで刃のように思えた。
「難しいんだな」
裕司は短くうなずいた。
そして、少し遠い声で言った。
「彼女は、それを理解してる」
沈黙が落ちた。
英介は思った、元に戻すというのは、顔のことだけじゃないのかもしれないと。
「あのままってことか」
英介の問いに、裕司は小さく息をついた。
目線はテーブルの上のカップに落ちたまま、声だけが穏やかに落ちる。
「多分な」
その答えに、英介は言葉を失う。
英介は話題を変えようかと思いながらも、何かが気になって口を開いた。
「気にならないのか、女性だろ」
裕司は一瞬だけ目を上げた。
「お前は、そうは思えないか、カメラマンだからか」
英介は慌てて首を振る。
裕司は軽く笑った。
静かで、どこか申し訳なさそうな笑みだった。
「悪かった。嫌味のつもりじゃない」
その一言が、空気を柔らかくする。
英介は言葉を返せなかった。
裕司のその穏やかな笑いには、不思議な説得力があった。
「サイン会か……」
書店の壁に貼られたポスターを見つめながら、美夕は小さく呟いた。
エリックの写真。見慣れたはずの笑顔。
けれど、今の自分には遠い世界の人のように思えた。
この顔なら、誰も私だとは気づかない。
帽子を被ってマスク、眼鏡をかければ大丈夫。
そう自分に言い聞かせた。
だが、受付であっけなく断られた。
「申し訳ありません、すでに整理券の配布は終了しております」
その言葉に、胸の奥がすっと冷たくなる。
同時に、どこかで安堵している自分がいた。
やっぱり、怖かったのかもしれない。
それでも、当日。
彼女は書店に足を運んだ。
遠くから見るだけのつもりで。
人の列。サイン会の会場。
思った以上に混み合っている。
帰ろうかと思ったそのとき、背後から声をかけられた。
「あなた、サインもらいたかったんじゃない?」
振り返ると、年配の女性が一枚の整理券を差し出していた。
「予定が入っちゃってね、行けなくなったの。よかったら使って」
「えっ……でも」
「せっかくだもの。若い方に譲るほうが気持ちいいわ」
美夕は戸惑いながらも、頭を下げた。
「ありがとうございます」
その瞬間、胸の奥で何かが動いた。
まるで、もう一度進めと言われたように。
サイン会場に着くまで緊張していた。
順番が来た、列の先でスタッフが本を受け取り、テーブルの上に滑らせた。
美夕は深呼吸をひとつ。
震える手で本を差し出す。
帽子のつばを下げ、マスクの中で息を詰めたまま、かすれた声を絞り出した。
「……お願いします」
声が自分のものではないように感じた。
張りつめた空気の中、紙の上をペンが走る音だけがやけに鮮明だった。
「ありがとう」
その一言に、心臓が跳ねた。
変わってない、声も口調も、あの頃のまま。
丁寧にサインを入れた彼が、本を返してくれる。
「……ありがとうございました」
あえて、声を抑えた。
声で気づかれるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
だが、次の瞬間、心の奥で別の声が囁いた。
もう一年以上たっている、気づくはずがないと。
列を離れようとしたときだった。
エリックがペンを止めた。
けれど、その胸の奥には、説明のつかない違和感が残った。
ペンを置いた指先が、わずかに震えた。
インクの光が、照明の下でかすかに滲む。
今の声。
耳の奥に残る微かな響きが、記憶の底を叩いた。
思い出せない。
けれど、胸の奥にざらりとした感覚が残る。
(まさか……いや、そんなはずはない)
理性が即座に否定する。
ほんの一瞬、会場の喧騒が遠のいた気がした。
サインを求めて並ぶ人々の列が、霞のように揺れる。
時間が止まったような感覚の中で、エリックは無意識に顔を上げた。
胸の奥にざわめきが残る。
その正体を確かめようとするように、彼はペンを持ち直した。
映画なんて、いつ以来だったろう。
暗い館内、スクリーンの光が観客の顔を淡く照らす。
エリックは隣の女性に小さく笑いかけた。
「まさか、あんたと映画に行く日が来るなんてね」
彼女は留学時代の友人だった。
仕事で海外から一時帰国し、再会したその勢いで誘われた。
作家になったと話したときの彼女の驚きようが、いまでも少し可笑しい。
「そういえば、彼女も書いてたじゃない?」
その一言に、エリックは一瞬まばたきをした。
彼女、それが誰を指しているのか、すぐには理解できなかった。
ああ、美夜のことだと思った。
言葉が喉に引っかかった。
亡くなったのは一年以上前、彼女は知らなくて当然だ。
だが、今ここで口にする気にはなれなかった。
スクリーンには恋愛映画のエンドロール。
編集者から“次は恋愛小説を”と提案され、仕方なく観に来た。
題材のため、そんな理屈で足を運んだのに、
最後まで物語は心に入ってこなかった。
照明が戻り、観客たちが立ち上がる。
友人が「ちょっとトイレ」と言って席を立つ。
エリックはロビーへ出て、外のガラス越しに人の波を眺めていた。
数分後、外に出た友人が入口の前で立ち止まっていた。
その表情に違和感を覚え、声をかけた。
「どうした?」
彼女は目を見開いたまま、息をのんでいた。
「美夜がいたのよ」
エリックの足が止まった。
「人違いだろう」
声が、思っていたよりも乾いていた。
「だって、立ち止まって」
エリックは無言になった。
女性は自分に言い聞かせるように呟いた。
「人違いかもしれない。後ろ姿、似てたの」
エリックは何も言わなかった。
理性では否定していた。
美夜はもう、この世にいない。
一年以上も前に。
それでも、心の奥で何かがざわついていた。
映画のチケットなんて、もう何年も行ったことがない。
裕司は、机の引き出しに封筒を戻す手を止めた。
数日前、ある患者の家族が「いつもお世話になってるから」と言って置いていったものだった。
封筒の中には、恋愛映画のペアチケット。
だが、それを手にしたところで、自分が映画館に足を運ぶ姿はどうにも想像できない。
使わないなら誰かに、そう思って、向かいの席に座っていた英介に声をかけた。
「映画、行くか?」
「は?」
新聞の折り目を整えていた英介が顔を上げる。裕司は封筒を軽く振った。
「患者の家族にもらったんだ。恋人でも誘って行けよ」
「……恋人ね」
英介は鼻で笑ったような声を漏らす。
「金のないフリーカメラマンと付き合う女なんて、いないよ」
裕司は少しだけ苦笑した。
軽口かと思ったが、本人はどこか本気だった。
「じゃあ、美夕さんを誘ってくれないか」
英介は椅子ごと少しのけぞった。
「映画、嫌いじゃないみたいだったし」
裕司はコーヒーカップを手に取りながら、事もなげに言った。
「でもさ、俺ら初対面みたいなもんだよ? 二言三言くらいしか話したことないし」
「俺みたいな年上の男と行っても退屈だろう。若いやつと行くほうが、気が楽だ」
「まあ、そうかもな」
言ってしまってから、英介はしまったと思った。
だが裕司はただ笑った。
その笑いには、自嘲でも照れでもなく、どこか他人事のような静けさがあった。
裕司はカップを置くと、もう用は済んだとばかりに視線を外した。