隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
英介と美夕が映画に行った。
裕司は診察を終えたあと、窓の外に目をやった。
今頃は、楽しんでいるだろうか。
彼女が少しでも笑ってくれたなら、それでいい。
そう思えるほどには、裕司の感情はまだ穏やかだった。
しばらくして帰宅すると、英介がコーヒーを飲んでいた。
「映画、どうだった?」
「楽しかったと思う」
答え方が妙だった。
声のトーンがどこか引っかかる。
「……思う?」
英介はマグを回しながら言った。
「映画館出るとき、彼女、誰かに声かけられたんだ。女だったけど、知り合いかなと思ったんだ」
裕司は手を止めた。
「それで?」
「その人さ……“美夜”って呼んだんだ。聞き違いかなって思ったけど」
静まり返った部屋に、時計の音だけが響く。
裕司の喉が乾く。
心の奥が、冷たい水に沈んだような感覚。
彼女がその名を口にすることを避けているのを知っていた。
どうして、今さら、その名で。
「そうか」
平静を装って言った声が、思いのほかかすれていた。
英介が怪訝そうに彼を見た。
裕司は首を横に振った。
「いや、なんでもない」
それだけで会話を切った。
過去が彼女を追いかけてきたのか。
詮索すべきじゃないと告げる。
けれど、心のどこかで何かが起きた。
そんな確信が、じわりと形を持ちはじめていた。
数日後、エリックは再び友人に会った。
確かめたいと思ったからだ。
この間のことだと切り出した。
「映画館で声をかけたと言ってただろう」
女は一瞬、視線を泳がせ、それから軽く笑った。
「勘違いだったみたい。似てただけ」
その言い方が、あまりにあっさりしていた。
明るく、乾いた声。
「あの後、由真に聞いたんだ。美夜は亡くなったって」
「でも、君は」
エリックの言葉に女性は笑った。
「そりゃ、思い込みってやつよ」
そこまで言って、エリックは言葉を切った。
彼女の目が一瞬、鋭くなったからだ。
しばらく沈黙が落ちた。
その後、ふっと、彼女が呟いた。
「あんたってさ、昔からそう」
「何が?」
「正論で人を追い詰める。悪気がないのは分かってる」
エリックは言葉を失った。
「勘違いだったのね」
その一言が、心の奥で何度も反響していた。
空気の振動のように微かで、それでいて、確かに残る重さ。
恋人ではなかった。
彼女はいつも、丁寧な距離を保っていた。
礼儀と節度。年上への敬意。
曖昧な親しさはあっても、越えてはいけない線があった。
彼女が引いたのか、自分が引かせたのか。
わからない。
恋ではない、そんな言葉では説明できない。
安っぽい言葉で片づけたくなかった。
彼女と自分の間にあったものは、そんな単純なものではないと思いたかった。
執着でも、罪悪感でもない。
ただ、彼女の存在が、自分の中からどうしても消えなかった。
時間が経つほどに、むしろ輪郭が濃くなる。
忘れようとすればするほど、記憶が鮮やかになっていく。
生きているかもしれない。
その可能性が、理屈よりも先に心を動かした。
根拠のない焦燥が胸に広がる。
理由もわからず、体のどこかが熱を帯びているようだった。
言葉にできない空虚と衝動が、胸の内で押し合いをしている。
彼女が本当に死んだのか、知りたい、確かめたい。
自分の知らない場所で、ただ静かに生きているのか。
それだけのはずなのに、心は落ち着かない。
自分は、何かしてしまったのか。
その可能性が、ふと頭をかすめた瞬間、冷たいものが背中を這い上がった。
彼女の中に自分が残した“何か”があったのかもしれない。
その“何か”が、彼女を遠ざけたのかもしれない。
だからこそ、知りたい。
彼女がなぜ、すべてを断ち切って消えたのか。
理由があるのなら、知りたかった。
たとえ、それが自分のせいだったとしても。
夜が深まる。
静まり返った部屋の中で、時計の針の音だけが響いていた。
時間が過ぎていくのに、心だけが取り残されているようだった。
翌日、診療の予定、だが、彼女は現れなかった。
受付から休養があって来れなくなったという。
「用があったなら仕方がない」
そう思った。
だが、本当にと思ってしまう。
「裕司さん、何かあった?」
夕食後、湯気の立つ味噌汁を口に運びかけた手が止まる。
英介の問いに、裕司は一瞬、何を問われているのか分からずに目を細めた。
「変だよ。なんだか、ムスッとしてさ」
茶化すような口ぶりだったが、言葉の裏にある微かな気遣いは感じ取れた。
「別に。何でもない」
素っ気なく返しながら、心のどこかがざわついた。
そうか、自分はそんなふうに見えていたのか。
「そういえば、彼女に会ったよ」
その言葉に、反射的に箸を置いた。
「彼女?」
言ってから気づいた。
「美夕さん。駅前の商業ビルで偶然」
裕司の胸の奥に、見えない何かがひやりと滑り込む。
「最近、病院でもインフルが流行ってるだろ? だから通院、控えてるって言ってた。病院、怖いし、大きいからって」
インフル、その言葉が、喉の奥にざらりと引っかかった。
確かに、流行はしている。
だが、彼女はそんな理由で黙って通院を止めるような人間だっただろうか。
「そうか」
声は、自分でも驚くほど掠れていた。
英介の言葉を聞いても、裕司の胸のどこかに、澱のような違和感が残っていた。
病院での彼女は、いつも冷静だった。
感染症に過敏になるような性格じゃない。
週末、晴れた午後。
久しぶりに日を浴びて、気分を変えようと、街の空気に身を任せた。
目的もなく歩き、ふと足が止まったのは、市立図書館の前だった。
気まぐれのように中へ入る。
並んだ本の背表紙の隙間から、射し込む光がまぶしくて、自然と目を細めた。
そのときだった。
背筋が凍るような既視感。
窓際の席。
頬に光を受けて本を開いていたのは、見間違えるはずのない、彼女だった。
声をかけるべきか、一瞬、迷った。
だが、次の瞬間、彼女がふと顔を上げた。
そして、彼の存在に気づいた。
目が合った。
その瞬間、彼女の瞳に走った動揺。
ほんの一瞬だけ硬直し、次には、静かに視線を逸らした。
気づかなかったことにしてやり過ごそうとするように。
裕司は声をかけることができず、静かに立ち去った。
看護師の「次の方どうぞ」という声に促され、ドアが静かに開いた。
視線を向けた瞬間、裕司は思わず息を詰めた。
数週間、いや、一ヶ月だ。
随分と長い時間が過ぎたように感じた。
光の中に立つ彼女の姿が、妙に遠く見える。
どこか疲れたような顔、頬の線が少し細くなっている。
その変化に気づいてしまった自分に驚いた。
「インフルや感染症が流行っているので、患者さんも多いと思って、来るのを控えていたんです」
声は小さく、申し訳なさを帯びていた。
何気ない会話のはずなのに、その遠慮がちさが妙に胸に引っかかった。
「引っ越しを考えていたんです」
その一言に、裕司の呼吸が止まった。
言葉がすぐには出てこない。
彼女の顔を見てはいけないと思いながらも、目が離せなかった。
「そうなったら、転院しなければならないと思って」
淡々とした口調、何かを言わなければと思いながらも、言葉は出なかった。
そんな沈黙の中で、彼女が小さく続けた。
「でも、手続きとか大変そうで」
わずかに笑みを浮かべながら、視線を落とした。
「それに――先生に診てもらいたいと思ったので」
やめましたと、最後の言葉はほとんど呟くようだった。
裕司は、ふっと息を吐いた。
それが安堵のため息だと気づいて、少しだけ自分に驚いた。
「先生、すみません」
突然、彼女が小さく頭を下げた。
意味がわからず、裕司はペンを止めて彼女を見た。
その表情は真剣で、どこか怯えるような影があった。
「図書館で……」
短く言っただけで、言葉は続かなかった。
その瞬間、裕司は理解した。
あのとき、彼女は気づいていたのだ。
知らないふりをしたことを、今、謝っている。
真面目なんだと思った。
他人を傷つけないようにしている。
自分を削って生きているのかもしれない。
彼女の声は、穏やかだった。
感情を波立たせることなく、事実だけを口にする。
けれどその穏やかさが、時に痛ましく思えることがある。
顔の傷、普通の女性なら、きっと執着する。
鏡を見るたび、心が削られるだろう。
その傷がある限り、日常は以前と同じではない。
それでも隠そうとしない。
化粧で覆い隠すことも、髪を垂らして見えないようにすることもなく。
けれど、その強さの裏に、犠牲になっているものがあるのではないか。
そう考えてしまった自分がいた。
彼女の顔を、今は見られなかった。
表情に出してしまいそうだった。
これは、医者としての関心だ。
そう、自分に言い聞かせた。
患者の精神状態を把握するのは当然のこと。
医師としての職務の一部でしかない。
だが、胸の奥で、小さな声が囁いた。
本当に、それだけか?
彼女の言葉が、顔が、仕草が。
一つ一つ、胸のどこかを撫でていくように残っている。
それに名前をつけてしまえば、
後戻りできない気がした。
「美夜が、生きているかもしれない」
エリックの声は低く、掠れていた。
テーブルの上で指が落ち着きなく動く。
一人では答えが出せないと彼は友人に相談することにした。
「美夜、ああ、あの子か?」
向かいの男が思い出すように言った。
「真面目な子だったよな。俺みたいな年上の相手にも礼儀を崩さなかった」
エリックは頷いた。
男は眉を寄せ、少し息を吐いた。
「やめたほうがいいと思う」
その言葉に、エリックの手が止まった。
「君も。俺が彼女を傷つけたんじゃないかって」
「はっ、なんだ、それ」
男は驚いたようだ。
「言われたんだ、正論で相手を追い詰める」
エリックの口調は静かだった、だが、どこかに苦い響きが混じる。
男は少し考えてから言った。
「それを言ったのは、優子か? 確か海外から帰ってきたって聞いた」
エリックは小さく頷いた。
男はコーヒーをひと口飲み、ゆっくり言葉を選んだ。
「彼女みたいな性格だと、お前のそばにいるのは苦しかったのかもしれないな」
「苦しい……?」
エリックはその言葉を反芻した。
意味が掴めず、胸の奥がざらつく。
「お前は悪気なく正しいことを言う。だが、正しさがすべてじゃないよ」
その言葉に、エリックの眉がわずかに動いた。
「彼女を追い詰めたって言うのか?」
友人は静かに首を振る。
「そうは言ってない。ただ、彼女自身がそう思って、自分から姿を消した可能性もあるだろ」
沈黙が落ちた。
遠くでグラスの触れ合う音が響く。
それがやけに現実的で、かえって胸の奥が冷えた。
エリックは言葉を失い、視線を落とした。
(……そうか。そういうことなのか?)
美夜が自分の意思で、静かに消えた。
そう考えれば、たしかに筋は通る。
胸の奥に、わずかな安堵が広がった。
彼女は生きていて、自分から遠ざかっただけ。
そう思えば、救いにも似た感情があった。
だが、同時に何かが引っかかった。
納得できない。
(彼女が、あの美夜が、何も言わずに去るなんて……)
あの真面目で、礼儀正しく、いつも他人に気を遣う彼女が、ただ「逃げた」だけだと?
それが本当に彼女の選んだことなのか?
理屈は合っている。
けれど、理屈で片づけてしまうには、あの沈黙があまりにも重すぎた。
エリックは小さく息を吐き、苦笑に似た表情を浮かべた。
「救われた気もするよ。けど」
「無理か」
友人が眉をひそめた。
「納得できないって顔だな」
「あっ、ああ、その……」
エリックは言葉を探したが、うまく出てこなかった。
「恋愛感情とかは、なかったんだろ?」
「当たり前だ」
即座に否定した。否定できるはずだった。
友人は、ふっと笑った。
「今頃、恋人でもできて、どこかで楽しく過ごしてるかもしれないぜ」
エリックは、思わず顔を上げた。
冗談半分のようなその口調が、妙に現実味を帯びて胸に刺さった。
「彼女みたいなタイプはさ、うんと年の離れた落ち着いた男が似合っているんじゃないか」
何気ない言葉だった。
だが、その瞬間、エリックの心臓がわずかに跳ねた。
まるで、自分がその“落ち着いた男”ではないと突きつけられたようで。
苦いものが喉の奥に残った。
「……そう、かもな」
かろうじてそう返したが、声はかすれていた。
彼女が誰かと笑っている姿を思い浮かべようとした。
だが、できなかった。