※この作品はR-18です。

隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない   作:木桜 春雨

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5 エリックが知った真実

  別れ際の会釈もそこそこに、エリックは人の途切れた通りを歩いていた。

 夕暮れは早く、街はもう薄闇に沈みかけているというのに、胸の内は騒がしくて仕方がなかった。

 彼女みたいなタイプは、うんと歳の離れた落ち着いた男のほうが、たぶんうまくいくよ。

 思い返しても、あの一言が胸の奥に刺さったままだった。

 友人は、何気なく言っただけだ。

 軽口の一つ。真意なんてないのかもしれない。

 けれど、エリックには笑い飛ばすことができなかった。

 思い返していた。

 彼女の声。言葉の端々どこか遠慮がちな調子。

 彼女は、自分のことをどう見ていたのだろう。

 年上の作家として、少し距離のある相談相手。

 それとも、ただの通りすがりの人間。

 最初から、そういう線を引かれていたのかもしれない。

 越えてはいけない境界。

 彼女は、それを知っていた。

 そして自分も、気づかないふりをしていた。

 ふと、頭の中に映像が浮かんだ。

 別の年上の男の隣に立つ彼女。

 穏やかに笑っている。

 だが、その隣にいるのは、自分ではない。

 その瞬間、胸の奥で軋むような音がした。

 冷たい痛みが、静かに広がっていく。

 馬鹿げている。

 恋愛感情なんて、あるはずがない。

 彼女に特別な想いを抱いていたわけじゃない。

 ただ、気にかけていただけだ。

 そう言い聞かせるたび、胸の奥がざらつく。

 自分でも、その言葉がうまく飲み込めない。

 理屈では否定できても、感情は納得しようとしない。

 何がそんなに引っかかるのか。

 何を失ったわけでもないのに、どうしてこんなに静かに痛むのか。

 理由がわからないことが、かえって苦しかった。

 言葉にできないまま、彼はただ、息を吐いた。

 部屋の静けさが、やけに重くのしかかっていた。

 

その日、美夕は通院の帰りに足を止めた。

 小さな美術館の前。

 入り口のガラス越しに見えたポスターには、淡い色彩の風景画が並んでいた。

 特に目的があったわけではない。

 ただ、少しだけ心を落ち着かせたかった。

 

 突然、背後から声がした。

 振り向いた瞬間、心臓が跳ねた。

 裕司がいた。休日らしいラフな服装。

 白衣の威圧感も、診察室の緊張もなく、穏やかな表情をしていた。

 それでも、落ち着いた声と眼差しは、いつもの彼だった。

 「先生」

 思わず口をついて出た呼び名に、美夕自身が少し戸惑った。

 裕司は軽く肩をすくめた。

 「たまの休日だからね。家にいても落ち着かなくて」

 彼女が何か言おうとしたとき、裕司は視線を少し逸らし、館内の方を見た。

 「一人ですか?」

 自分でも驚くほど素直に、そんな言葉が出たことに裕司は驚いていた。

 美夕が小さく頷いた。

 自分でも驚くほど、自然に出た。

 だが次の瞬間、心の奥がざわつく。

 何を聞いているんだ、そんなこと。

 理性が制止を試みたが、声はもう出ていた。

 

 わずかに迷いながらも、言葉を紡いだ。

 「……もしよかったら、一緒に見ませんか」

 その声は、驚くほど静かだった。

 けれど、確かに勇気があった。

 彼女が顔を上げたとき、裕司は視線を逸らさなかった。

 短い沈黙のあと、美夕がかすかに微笑んだ。

 「……はい」

 その一言に、胸の奥で張りつめていたものが、ふっと緩む。

 裕司は歩き出した、ゆっくりと。

 並んで歩く。

 距離は、まだ近すぎない。

 

 美術館の中は、深い静けさに包まれていた。

 人の気配はまばらで、館内に響くのは絨毯を踏む足音と、展示を見つめる視線の気配だけ。

 絵の前で立ち止まるたびに、裕司は自然と振り返った。

 何か話したほうがいいのだろうか。

 そう思って、口を開きかけては閉じる。

 もともと、誰かと並んで歩くことに慣れていない。

 気まずさを埋めようと無理に話題を探すのも、性に合わなかった。

 僅かに歩調を緩めて振り返る。

 少し後ろを歩いていた彼女が微笑んだ。

 声は出さず、ただ表情だけで気にしないでと言っているようだ、そんな錯覚を覚えた。

言葉がなくても構わない。

 その沈黙さえ、どこか落ち着く。

自分よりも、ずっと若い。

 けれど、彼女の静かな佇まいは、同年代の女性たちとどこか違っていた。

 この距離は、なんだろう。

 遠いようで近いと思った。

 だが、それが嫌ではなかった。

 むしろ、心地よいとさえ思ってしまう自分がいた。

 

 

 美術館を出る。

 静かな時間が続いていた。

 このまま別れるのは惜しい――。

 裕司は一瞬、口を開きかけた。

 「お茶でもどうですか」そう言えばいい。

 だが、ためらいが勝った。

 そのときだった。

 

 「おーい!」

 明るく通る女性の声が、背後から響いた。

 

  美夕が振り向いた瞬間、ぱっと表情が変わった。

  驚きと喜びが入り混じったような声で、彼女はその名を呼んだ。

 「由真? 本当に?」

 「そう! 今朝、日本に帰ってきたの!」

 大きなトートバッグを抱えた女性が、軽やかに駆け寄ってきた。 

 息を弾ませながら、由真は袋の中から湯気の立つ肉まんを取り出した。

 「向こうだと一個1000円するのよ! 日本なら200円でチャーシューマンが買えるの!」

 目を輝かせて言うその調子に、裕司は完全に飲み込まれた。

 由真がちらりと裕司を見て、にっこり笑う。

 「そちらの方もどうですか? アツアツですよ!」

 いきなり差し出された肉まんに、裕司は思わず目を瞬かせた。

 突然で、どう返していいかわからない。

 彼女の勢いに圧倒され、ただ手を振るようにして断るのがやっとだった。

 「私、夕方には香港。飲茶で水餃子 で、朝にはアメリカに戻る!」

 息も継がずに話すその口調に、裕司は呆然とした。

 医師という職業柄、さまざまなタイプの人間を見てきたつもりだった。

 だが、この突風のような明るさには、言葉も出ない。

 「実はね、エリックに、ばれた。あんたのこと」

 由真の言葉に、ほんの一瞬、美夕の表情が固まる。

 「多分、あたしに会いに来ると思うよ。問い詰めるんだよ、きっと。なんで嘘をついたのかって。容赦なく理詰めで、理路整然と」

 由真は苦笑交じりに肩をすくめる。

 その口調には、エリックのやり方をわかっているがゆえの、ため息が滲んでいた。

 だが、美夕は笑った。

 「いいよ、話して」 

 由真が目を見開いた。

 「あたしのこと、話してもいいよ」

 その声は、どこか吹っ切れたように聞こえた。

 驚いた由真が、まじまじと彼女の顔を見つめる。

 「事故に遭って、怪我をしたから。知ってる人には会いたくなかった。そう言っておいて」

 美夕は静かに、しかしはっきりと頷いた。

 「もういいかなって思ったの。隠れてるの、疲れた」

 由真は、少しだけ黙って見つめたあと、ふっと笑った。

 その笑みは、どこか安心したような――どこか、少し寂しさも含んでいるようなものだった。

 「なんか、吹っ切れた?」

 美夕は小さく頷いた。

 そして、空を見上げるように、ほんのわずかだけ顔を上げた。

 

 由真が去って、再び二人きりになると、美夕はふっと視線を落としながら口を開いた。

 その言葉は、想像していたものとは違っていた。

 「先生、あたし……事故で顔を怪我したとき、ほっとしたんです」

 「自分にふさわしい醜い顔だって思いました。時間がたつと、なんだか、受け入れている自分に気づいたんです」

 声は穏やかだった。

 「でも、さっきの友人はあなただと、後ろ姿だけで」

 「学生の時から仲がよかったから。でも、他の人はわからないと思います」

 美夕はそう言って笑った。

 違うと裕司は思った。

 「他の人は、わからないと思います」

 言葉が耳に残った。

 違う、と裕司は思った。

 変わったのは顔じゃない。

 彼女の心だ、静かに閉じてしまったのだ。

 自ら鍵をかけ、誰にも触れられない場所へ。

 医師として、彼女の体は癒えつつあると判断できる。

 だが、その微笑みの奥で、何かがまだ痛んでいることを、

 裕司は本能で感じ取っていた。

 声をかけたかった。

 「君は何も間違っていない」と。

 だが、それは患者に言う言葉ではない。

 医師としての一線を越える。

 どうしてそんなふうに笑うのか。

 そんな穏やかな声で“醜い”などと言えるのか。

 裕司は拳を握りしめた。

 どんな慰めも、彼女の心には届かないと分かっていた。

 けれど、何もしないことが正しいのかも、もう分からなかった。

 目の前の彼女は笑っている。

 なのに、その笑顔が、なぜこんなにも痛いのか。

 裕司は何も言わなかった。

 

 医師としての正論も、慰めの言葉も。

 この瞬間は無意味だった。

 彼女が語る受け入れるという言葉の重さに、口先だけの言葉では触れてはならないと本能が告げていた。

 

 エリックの胸の奥で、何かがざらりと音を立てた。

 由真が帰国していた、そして、もう香港へ発つ。

 たったそれだけの情報なのに、心が落ち着かない。

 指先が微かに震えているのに気づき、無意識に拳を握りしめた。

 「今どこにいる?」

 声は抑えていたつもりだった。だが、思いのほか鋭く響いた。

 「空港じゃない? 香港で水餃子が食べたいって言ってた」

 電話の向こうで、友人が苦笑まじりに言った。

 「連絡先は?」

 「知らない。急に来て、急にいなくなるやつだからな」

 その言葉に、エリックは短く息を吐いた。

 まるで何かを掴みかけて、指の間から零れ落ちたような感覚だった。

 彼は立ち上がった。

 テーブルの上のコーヒーカップが微かに揺れた。

 空港のロビー。

 煌々と照らされた天井の下、出発ゲートへと急ぐ人々の波の中で、エリックの視線は一人の女性に止まった。

 ハイヒールの音を軽やかに鳴らし、派手なトランクを転がすその後ろ姿は、どこか舞台の上の女優のようだった。

 ——由真。

 

 エリックは言葉もなく、足を速めた。

 その気配に気づいたのか、彼女がふと振り返る。

 目が合った瞬間、由真はまるで待っていたかのように笑った。

 「怒ってるの?」

 鋭い一言に、エリックは一瞬返事ができなかった。

 冷静に話すつもりだった。

 詰め寄るつもりも、感情を爆発させるつもりもなかった。

 だが、喉の奥に詰まったものが、すぐには降りなかった。

 「美夜は、生きているんだろう」

 低く絞り出すように言った。

 「なぜ……嘘をついた」

 由真は肩をすくめ、あっけらかんと笑った。

 「ああ、そのこと」

 まるで明日の天気でも話すかのような調子だった。

 「だって、本人から頼まれたんだもの」

 それはエリックの予想裏切る答えだった。

 「なんだと……?」

 「怪我をしたのよ、かなりひどくてね。誰にも会いたくないって、美夜がそう言ったの」

 まるで秘密を暴露するようなスリルすら楽しんでいるように、由真は唇の端を上げた。

 「ほら、ちゃんとした理由でしょ?」

 どうだと言わんばかりのその目に、エリックは言葉を失った。

 「怪我って、ひどいのか?」

 「深く突っ込まないで」

 由真の口から出た「顔に怪我をした」という言葉が、

 まるで刃のように心の奥を切り裂いた。

 「顔に、怪我?」

 「そう。結構ひどいのよ」

 「手術をしたんだろう」

 声が掠れる、何かにすがるような問いだった。

 由真は小さく鼻で笑った。

 「ひどいって言ったでしょ。骨折もしてたし。あんた、美容整形みたいに考えてる?」

 その言葉に、エリックは言葉を詰まらせた。

 喉の奥まで上がった反論が、そこで引っかかったまま出てこない。

 「無理よ。一度で元通りなんて」

 由真はあっけらかんと続けた。

 「だからやめたみたい、別人だよ。気づかない」

 淡々とした声。まるで天気の話をするような響きだった。

 だが、その笑顔の裏には、何かをあえて伏せているような気配があった。

 「そんなに親しいってわけじゃなかったでしょ?」

 軽く肩をすくめ、笑って見せる。

 「いいんじゃない、それで」

 エリックは何も言えなかった。

 目の前の女性が、冗談のように言葉を投げつけながら、

 ひどく遠くへ行ってしまうように見えた。

 「そろそろ行かなきゃ」

 由真がスーツケースのハンドルを掴み、背を向けた。

 それだけの動作なのに、エリックには心臓を掴まれたような感覚があった。

 彼女の言葉のすべてが、

 “真実”と“拒絶”の両方を孕んでいた。

 美夜が顔に傷を負って。

 そして、それを理由に、世界ごと捨てた。

 その現実が、静かに、確実に、エリックの中へ沈んでいった。

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