隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
別れ際の会釈もそこそこに、エリックは人の途切れた通りを歩いていた。
夕暮れは早く、街はもう薄闇に沈みかけているというのに、胸の内は騒がしくて仕方がなかった。
彼女みたいなタイプは、うんと歳の離れた落ち着いた男のほうが、たぶんうまくいくよ。
思い返しても、あの一言が胸の奥に刺さったままだった。
友人は、何気なく言っただけだ。
軽口の一つ。真意なんてないのかもしれない。
けれど、エリックには笑い飛ばすことができなかった。
思い返していた。
彼女の声。言葉の端々どこか遠慮がちな調子。
彼女は、自分のことをどう見ていたのだろう。
年上の作家として、少し距離のある相談相手。
それとも、ただの通りすがりの人間。
最初から、そういう線を引かれていたのかもしれない。
越えてはいけない境界。
彼女は、それを知っていた。
そして自分も、気づかないふりをしていた。
ふと、頭の中に映像が浮かんだ。
別の年上の男の隣に立つ彼女。
穏やかに笑っている。
だが、その隣にいるのは、自分ではない。
その瞬間、胸の奥で軋むような音がした。
冷たい痛みが、静かに広がっていく。
馬鹿げている。
恋愛感情なんて、あるはずがない。
彼女に特別な想いを抱いていたわけじゃない。
ただ、気にかけていただけだ。
そう言い聞かせるたび、胸の奥がざらつく。
自分でも、その言葉がうまく飲み込めない。
理屈では否定できても、感情は納得しようとしない。
何がそんなに引っかかるのか。
何を失ったわけでもないのに、どうしてこんなに静かに痛むのか。
理由がわからないことが、かえって苦しかった。
言葉にできないまま、彼はただ、息を吐いた。
部屋の静けさが、やけに重くのしかかっていた。
その日、美夕は通院の帰りに足を止めた。
小さな美術館の前。
入り口のガラス越しに見えたポスターには、淡い色彩の風景画が並んでいた。
特に目的があったわけではない。
ただ、少しだけ心を落ち着かせたかった。
突然、背後から声がした。
振り向いた瞬間、心臓が跳ねた。
裕司がいた。休日らしいラフな服装。
白衣の威圧感も、診察室の緊張もなく、穏やかな表情をしていた。
それでも、落ち着いた声と眼差しは、いつもの彼だった。
「先生」
思わず口をついて出た呼び名に、美夕自身が少し戸惑った。
裕司は軽く肩をすくめた。
「たまの休日だからね。家にいても落ち着かなくて」
彼女が何か言おうとしたとき、裕司は視線を少し逸らし、館内の方を見た。
「一人ですか?」
自分でも驚くほど素直に、そんな言葉が出たことに裕司は驚いていた。
美夕が小さく頷いた。
自分でも驚くほど、自然に出た。
だが次の瞬間、心の奥がざわつく。
何を聞いているんだ、そんなこと。
理性が制止を試みたが、声はもう出ていた。
わずかに迷いながらも、言葉を紡いだ。
「……もしよかったら、一緒に見ませんか」
その声は、驚くほど静かだった。
けれど、確かに勇気があった。
彼女が顔を上げたとき、裕司は視線を逸らさなかった。
短い沈黙のあと、美夕がかすかに微笑んだ。
「……はい」
その一言に、胸の奥で張りつめていたものが、ふっと緩む。
裕司は歩き出した、ゆっくりと。
並んで歩く。
距離は、まだ近すぎない。
美術館の中は、深い静けさに包まれていた。
人の気配はまばらで、館内に響くのは絨毯を踏む足音と、展示を見つめる視線の気配だけ。
絵の前で立ち止まるたびに、裕司は自然と振り返った。
何か話したほうがいいのだろうか。
そう思って、口を開きかけては閉じる。
もともと、誰かと並んで歩くことに慣れていない。
気まずさを埋めようと無理に話題を探すのも、性に合わなかった。
僅かに歩調を緩めて振り返る。
少し後ろを歩いていた彼女が微笑んだ。
声は出さず、ただ表情だけで気にしないでと言っているようだ、そんな錯覚を覚えた。
言葉がなくても構わない。
その沈黙さえ、どこか落ち着く。
自分よりも、ずっと若い。
けれど、彼女の静かな佇まいは、同年代の女性たちとどこか違っていた。
この距離は、なんだろう。
遠いようで近いと思った。
だが、それが嫌ではなかった。
むしろ、心地よいとさえ思ってしまう自分がいた。
美術館を出る。
静かな時間が続いていた。
このまま別れるのは惜しい――。
裕司は一瞬、口を開きかけた。
「お茶でもどうですか」そう言えばいい。
だが、ためらいが勝った。
そのときだった。
「おーい!」
明るく通る女性の声が、背後から響いた。
美夕が振り向いた瞬間、ぱっと表情が変わった。
驚きと喜びが入り混じったような声で、彼女はその名を呼んだ。
「由真? 本当に?」
「そう! 今朝、日本に帰ってきたの!」
大きなトートバッグを抱えた女性が、軽やかに駆け寄ってきた。
息を弾ませながら、由真は袋の中から湯気の立つ肉まんを取り出した。
「向こうだと一個1000円するのよ! 日本なら200円でチャーシューマンが買えるの!」
目を輝かせて言うその調子に、裕司は完全に飲み込まれた。
由真がちらりと裕司を見て、にっこり笑う。
「そちらの方もどうですか? アツアツですよ!」
いきなり差し出された肉まんに、裕司は思わず目を瞬かせた。
突然で、どう返していいかわからない。
彼女の勢いに圧倒され、ただ手を振るようにして断るのがやっとだった。
「私、夕方には香港。飲茶で水餃子 で、朝にはアメリカに戻る!」
息も継がずに話すその口調に、裕司は呆然とした。
医師という職業柄、さまざまなタイプの人間を見てきたつもりだった。
だが、この突風のような明るさには、言葉も出ない。
「実はね、エリックに、ばれた。あんたのこと」
由真の言葉に、ほんの一瞬、美夕の表情が固まる。
「多分、あたしに会いに来ると思うよ。問い詰めるんだよ、きっと。なんで嘘をついたのかって。容赦なく理詰めで、理路整然と」
由真は苦笑交じりに肩をすくめる。
その口調には、エリックのやり方をわかっているがゆえの、ため息が滲んでいた。
だが、美夕は笑った。
「いいよ、話して」
由真が目を見開いた。
「あたしのこと、話してもいいよ」
その声は、どこか吹っ切れたように聞こえた。
驚いた由真が、まじまじと彼女の顔を見つめる。
「事故に遭って、怪我をしたから。知ってる人には会いたくなかった。そう言っておいて」
美夕は静かに、しかしはっきりと頷いた。
「もういいかなって思ったの。隠れてるの、疲れた」
由真は、少しだけ黙って見つめたあと、ふっと笑った。
その笑みは、どこか安心したような――どこか、少し寂しさも含んでいるようなものだった。
「なんか、吹っ切れた?」
美夕は小さく頷いた。
そして、空を見上げるように、ほんのわずかだけ顔を上げた。
由真が去って、再び二人きりになると、美夕はふっと視線を落としながら口を開いた。
その言葉は、想像していたものとは違っていた。
「先生、あたし……事故で顔を怪我したとき、ほっとしたんです」
「自分にふさわしい醜い顔だって思いました。時間がたつと、なんだか、受け入れている自分に気づいたんです」
声は穏やかだった。
「でも、さっきの友人はあなただと、後ろ姿だけで」
「学生の時から仲がよかったから。でも、他の人はわからないと思います」
美夕はそう言って笑った。
違うと裕司は思った。
「他の人は、わからないと思います」
言葉が耳に残った。
違う、と裕司は思った。
変わったのは顔じゃない。
彼女の心だ、静かに閉じてしまったのだ。
自ら鍵をかけ、誰にも触れられない場所へ。
医師として、彼女の体は癒えつつあると判断できる。
だが、その微笑みの奥で、何かがまだ痛んでいることを、
裕司は本能で感じ取っていた。
声をかけたかった。
「君は何も間違っていない」と。
だが、それは患者に言う言葉ではない。
医師としての一線を越える。
どうしてそんなふうに笑うのか。
そんな穏やかな声で“醜い”などと言えるのか。
裕司は拳を握りしめた。
どんな慰めも、彼女の心には届かないと分かっていた。
けれど、何もしないことが正しいのかも、もう分からなかった。
目の前の彼女は笑っている。
なのに、その笑顔が、なぜこんなにも痛いのか。
裕司は何も言わなかった。
医師としての正論も、慰めの言葉も。
この瞬間は無意味だった。
彼女が語る受け入れるという言葉の重さに、口先だけの言葉では触れてはならないと本能が告げていた。
エリックの胸の奥で、何かがざらりと音を立てた。
由真が帰国していた、そして、もう香港へ発つ。
たったそれだけの情報なのに、心が落ち着かない。
指先が微かに震えているのに気づき、無意識に拳を握りしめた。
「今どこにいる?」
声は抑えていたつもりだった。だが、思いのほか鋭く響いた。
「空港じゃない? 香港で水餃子が食べたいって言ってた」
電話の向こうで、友人が苦笑まじりに言った。
「連絡先は?」
「知らない。急に来て、急にいなくなるやつだからな」
その言葉に、エリックは短く息を吐いた。
まるで何かを掴みかけて、指の間から零れ落ちたような感覚だった。
彼は立ち上がった。
テーブルの上のコーヒーカップが微かに揺れた。
空港のロビー。
煌々と照らされた天井の下、出発ゲートへと急ぐ人々の波の中で、エリックの視線は一人の女性に止まった。
ハイヒールの音を軽やかに鳴らし、派手なトランクを転がすその後ろ姿は、どこか舞台の上の女優のようだった。
——由真。
エリックは言葉もなく、足を速めた。
その気配に気づいたのか、彼女がふと振り返る。
目が合った瞬間、由真はまるで待っていたかのように笑った。
「怒ってるの?」
鋭い一言に、エリックは一瞬返事ができなかった。
冷静に話すつもりだった。
詰め寄るつもりも、感情を爆発させるつもりもなかった。
だが、喉の奥に詰まったものが、すぐには降りなかった。
「美夜は、生きているんだろう」
低く絞り出すように言った。
「なぜ……嘘をついた」
由真は肩をすくめ、あっけらかんと笑った。
「ああ、そのこと」
まるで明日の天気でも話すかのような調子だった。
「だって、本人から頼まれたんだもの」
それはエリックの予想裏切る答えだった。
「なんだと……?」
「怪我をしたのよ、かなりひどくてね。誰にも会いたくないって、美夜がそう言ったの」
まるで秘密を暴露するようなスリルすら楽しんでいるように、由真は唇の端を上げた。
「ほら、ちゃんとした理由でしょ?」
どうだと言わんばかりのその目に、エリックは言葉を失った。
「怪我って、ひどいのか?」
「深く突っ込まないで」
由真の口から出た「顔に怪我をした」という言葉が、
まるで刃のように心の奥を切り裂いた。
「顔に、怪我?」
「そう。結構ひどいのよ」
「手術をしたんだろう」
声が掠れる、何かにすがるような問いだった。
由真は小さく鼻で笑った。
「ひどいって言ったでしょ。骨折もしてたし。あんた、美容整形みたいに考えてる?」
その言葉に、エリックは言葉を詰まらせた。
喉の奥まで上がった反論が、そこで引っかかったまま出てこない。
「無理よ。一度で元通りなんて」
由真はあっけらかんと続けた。
「だからやめたみたい、別人だよ。気づかない」
淡々とした声。まるで天気の話をするような響きだった。
だが、その笑顔の裏には、何かをあえて伏せているような気配があった。
「そんなに親しいってわけじゃなかったでしょ?」
軽く肩をすくめ、笑って見せる。
「いいんじゃない、それで」
エリックは何も言えなかった。
目の前の女性が、冗談のように言葉を投げつけながら、
ひどく遠くへ行ってしまうように見えた。
「そろそろ行かなきゃ」
由真がスーツケースのハンドルを掴み、背を向けた。
それだけの動作なのに、エリックには心臓を掴まれたような感覚があった。
彼女の言葉のすべてが、
“真実”と“拒絶”の両方を孕んでいた。
美夜が顔に傷を負って。
そして、それを理由に、世界ごと捨てた。
その現実が、静かに、確実に、エリックの中へ沈んでいった。