隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
迷いながらも、エリックは友人に頼むことにした。
探偵でもない素人、時間がかかる、そう思っていた。
ところが、一週間も経たないうちにスマホが鳴った。
画面に映る名前を見た瞬間、胸の鼓動が早まる。
「……見つけた」
電話口から聞こえた声は、思いのほか低かった。
「外じゃないほうがいい。俺の家でもお前の家でも、どこでもいい。」
「わかった。うちに来てくれ」
短い沈黙。
そのあとで、友人の声が少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ今日の夕方に行く」
通話が切れる。
「早かったな。もっと時間がかかると思ってた」
友人は家に来ると黙って頷き、コンビニの袋を開けるとおにぎりの包みを破り、無言のまま口に運ぶ。
しばらくして、ペットボトルの緑茶を一気に飲み干すと、深く息をついた。
「結論から言うぞ」
短く言って、友人はエリックを見た。
「会わないほうがいい」
その口調にためらいはなかった。
「顔の怪我がひどかった。無理もない」
友人の言葉にエリックは驚いた。
「メイクで隠すってレベルじゃない。近づけばすぐわかる。手術しても時間がかかるってな」
想像していたよりも、ずっと重い話だった。
だが同時に、胸の奥で小さな違和感が芽生えた。
時間がかかる?
彼は医者でも、医療に詳しい人間でもない。
それなのに、まるで事情を知っているような口ぶりだった。
エリックは黙ったまま友人を見た。
問いただすべきか迷ったが、言葉が喉の奥で止まった。
その違和感は、ほんの一瞬のものだった。
だが、心のどこかに、確かにひっかかった。
「時間がかかるって、おまえは医療のことに詳しいみたいな言い方だな」
エリックが問い返すと、友人は一瞬、言葉を失ったように黙り込んだ。
その沈黙が妙に重く、空気を鈍く濁らせる。
やがて、友人は視線をそらしたまま言った。
「傷が、ひどいってことだ。多分、本人も手術なんて考えてないと思う。なんか吹っ切れた感じだった」
「吹っ切れた?」
「笑ってたんだ」
エリックの胸の奥がわずかに鳴った。
「どういうことだ、それは」
「男と一緒に歩いてた」
友人の言葉を、理解するまで数秒かかった。
「男と?」
ようやく出た言葉は、自分でも驚くほどかすれていた。
胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
ただ、得体の知れない衝撃が、静かに広がっていった。
笑っていたのか。
「顔にひどい怪我をしている……だが、吹っ切れたように笑っていた」
友人の言葉がまだ耳の奥で響いていた。
しかも、男と一緒だった。
「何か隠してないか?」
エリックが低く問いかける。
友人の表情が一瞬、固まる。
目の奥に、わずかな逡巡。
「隠してなんかない。」
「どうして吹っ切れたなんて言葉が出る。直接、話したわけじゃないんだろ?」
空気が重く沈んだ。
エリックの視線が友人を射抜く。
沈黙が続いた数秒ののち、友人は苦笑いのように息を吐いた。
「おまえ、相変わらず勘が鋭いな」
「一緒にいた男、知ってる奴だった」
友人の言葉に、エリックの眉がわずかに動いた。
「それで、当たり障りなく聞いたんだ」
「英介という。まあ、後輩だと思ってくれ。それで、少し話をしてみたんだ」
まるで事実だけを整理して報告するかのように。
「今も通院は続けているらしい。手術はしないそうだ」
顔の怪我を治さないのかとエリックは不思議に思った。
「理由は詳しくは聞けなかった。専門じゃないから分からないと言っていた。プライベートなことだしな」
言葉の端に、探りを入れても得られなかった無力感が滲んでいた。
しかし、余計な感情は交えない。伝えるべきことだけを伝えるように、一定の距離を保っていた。
エリックが静かに尋ねる。
「後輩という男は医者なのか」
友人はすぐに首を横に振った。
「いや、後輩はフリーのカメラマンだ。医者は父親のほうだ」
短い言葉、だが、その中にすべてが詰まっている。
実の親子ではないのに一緒に暮らしているという話を聞いて驚いた。
理解しようとしても、どこか釈然としない。
三十を過ぎた男が、義理の父親と同居している、それだけでも、どこか歪な印象が残る。
もちろん、事情はいろいろある。
世間的には良好な関係と見られるだろう。
だが、そう簡単に割り切れるものではない。
人の心は、血よりも複雑だ。
「寛大な男だな」
そう口では言ったものの、エリックの胸の内では別の感情が動いていた。
寛大というより、何かしら理由があってのことではないか。
「義理の父親と母親、円満に別れたそうだ」
その言葉にエリックは軽く息を詰めた。
円満、そう口にすれば聞こえはいい。だが、誰かが傷つかずに終わる別れなど存在しない。
言葉の裏に、処理しきれない感情が必ず残る。
さらに、「英介は母親とも血が繋がっていない」と聞いた瞬間、
エリックの中で何かが小さく軋んだ。
家族と呼ぶには不自然な距離。
だが、他人と呼ぶには近すぎる関係。
そういう曖昧な関係の中で育った人間が、他人にどんな信頼を寄せるのか。
「英介は大人だって言ってた。結婚したときから、自分のことも気遣ってくれて、困ったことがあったら言いなさいと言われたらしい」
淡々と語る友人の声を聞きながら、エリックの思考は別の方向へ流れていた。
気遣い、優しさ、穏やかさ。
どれもが、人を安心させる要素のはずだ。
だが、同時に人の心を、簡単に……。
彼の脳裏に、医者の像が浮かぶ。
白衣の男、冷静で、声を荒げることもない。
どんな相手にも丁寧に接し、説得よりも“納得”を与えるタイプ。
表向きは完璧な人格者。だが、だからこそ見えにくい。
そんな男のもとで、美夕は治療を受けているのか”
その考えが胸の奥に落ちた瞬間、言いようのない不快が込み上げた。
「彼女も喜んでいるみたいだと英介は言ってた」
喜んでいる?
エリックは、思わず口の中でその言葉を繰り返した。
安心できる相手、だが、それは本当に安心なのか?
信頼なのか、それとも別の感情なのか。
「英介に先生に診てもらうと安心できるって言ったらしい」
その一言が引っかかった。
安心。
エリックは深く息を吐いた。
頭では冷静を装っていても、胸の奥で何かがざわめいていた。
彼女を包み込む優しさが、本当に彼女を救っているのか。
それとも、ゆっくりと彼女を閉じ込めているのか。
答えの出ない不安だけが、静かに心の底に沈んでいった。
その医者は、人と争うのが苦手というより、単純に嫌うタイプなのだろう。
エリックはそう思った。
衝突を避け、穏やかさで人を包み込むような人間。
だが、それは誠実さではなく、無関心に近いようにも感じられた。
そんな男のもとで、彼女は今も通院している。
言葉にできない不快が、ゆっくりと広がっていく。
「いい医者だと思う」
友人の言葉が、静けさを破った。
「なんだ、それは」
思わず語気が強くなる。
「英介が彼女のことを聞いたら、笑うようになったって、どんな話をしたとか、診療室での会話を父親が話すみたいだ。プライベートなこと以外はって意味だがな」
エリックは、言葉を飲み込んだ。
彼女が心を開いているのか、それともただ依存しているのか。
その境界がわからない。
「医者なら、患者に寄り添うのが当たり前じゃないのか」
気づけば声が鋭くなっていた。
まるで自分でも感情を持て余しているようだった。
理屈では納得しているはずなのに。
友人は、しばらく黙ってから小さく笑った。
「おまえ、気になるのか」
その一言に、エリックは言葉を失った。
否定しようとしたが、声が出ない。
図星を刺されたように、胸の奥がざわりと波立った。
「関わらないほうがいいと、俺は思う」
友人の声音は冷静だった。
まるで忠告というより、結論のように。
エリックは、黙って目を伏せた。
何をどう言っても、このざらついた感情は消えない。
理屈で割り切ることも、簡単にはできなかった。
「お前のことだ、彼女は医者に依存しているとか考えているんじゃないか」
その言葉に、エリックは反射的に顔を上げた。
図星を突かれたような感覚。
否定したいのに、すぐには言葉が出なかった。
「病人、怪我人が医者の言葉で救われるなら、安心できるなら、それでいいじゃないか」
友人の声は静かで、冷静だった。
まるで当たり前のことを言っているように。
難しく考えすぎだ。
そう言われた瞬間、エリックは何も返せなかった。
頭では理解している。
だが胸の奥では、納得できない何かがざらついていた。
安心できるという言葉が、どうしても引っかかる。
その安心が彼女自身の力で得たものならいい。
けれど、もし他人に依存して得たものなら。
彼女が立ち直ったように見えるのは、ただ誰かの庇護の中にいるからではないのか。
「彼女にとって医者は必要だが、お前はそうじゃないというだけのことだ」
友人の言葉は冷たくもなく、淡々としていた。
だが、突き放されたような痛みを感じた。
エリックは黙り込んだ。
言葉を探しても、何も出てこない。
自分でも理由は分からない。
ただ、彼女が安心できる相手が他の男であるという事実が、どうしようもなく心に刺さって離れなかった。
それが嫉妬なのか、疑念なのか、あるいは別の何かなのか。
エリック自身にも、もう判別がつかなかった。
夕飯の後、食器を片づけているときだった。
英介が珍しく真面目な顔で声をかけてきた。
「裕司さん、ちょっといいですか」
「どうした、一体」
英介は少し言いづらそうに口を開いた。
「いや、美夕さんのことを聞かれたんだ、先輩から」
裕司は思わず手を止めた。
「聞かれた? 何を」
「最初は、俺と一緒にいるところを見かけたって。仲が良さそうだとか、付き合ってるのかって……そんな感じで」
「それで?」
自分の声がわずかに低くなっているのを、裕司は自覚した。
「なんか、探ってるような聞き方で顔の傷のこととか、治療してるのかって」
裕司は一瞬、胸がざわついた。
その言葉が、妙に引っかかる。
「答えたのか?」
少し間を置いて問うと、英介はすぐに首を横に振った。
「病院に通ってるってことだけです。父親が担当してるって。でも、個人的なことは何も」
裕司は小さく息をついた。
「そうか……それならいい」
口ではそう言ったものの、心の中のざわめきは消えなかった。
「先輩の口調が気になって、俺、聞いたんです。ズバリ」
英介の言葉に、裕司は思わず目を見開いた。
「おいおい、お前、そんなストレートに」
英介は苦笑いしながらも、どこか誇らしげに続けた。
「そしたら、彼女の知り合いが死んだと思ってたらしいんです。それが最近になって生きていたって分かって、先輩が代わりに探してたらしいんですよ」
裕司は一瞬、言葉を失った。
探っていた理由が、悪意ではなかったということか。
英介が「先輩、納得してくれました」と言ったとき、裕司は首をかしげた。
「納得?」
「はい。顔の傷……きっと、知ってる人には見られたくないんだろうって」
その言葉を聞いた瞬間、裕司の肩から力が抜けた。
胸の奥に重く沈んでいた不安が、少しずつ溶けていくようだった。
英介は言葉を続けた。
「先輩の友人は頭がいい。正しいことを口にするタイプらしいです。正論で人を追い詰めるって」
その言葉を聞いた瞬間、裕司は言葉を失った。
すぐに返事が出てこない。
頭がいい、正しいことを言う。
それだけ聞けば、世間では立派な人間のように映る。
だが、正しいという言葉ほど、人を追い詰めるものはない。
裕司はゆっくりと視線を落とした。
頭の中に穏やかな笑顔が浮かぶ。
その笑顔が、急に痛々しく思えた。
正論で人を追い詰める、英介は軽く言ったが、その言葉の裏にある重さを、裕司は感じ取っていた。
相手のためを思った正しさが、どれほど人を傷つけるかを知っているからだ。
「そうか」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
正しい人間に囲まれて生きることほど、息苦しいことはない。
そして、そんな男の近くにいた彼女の気持ちをを思うと、裕司はどうしようもなく、やるせない気持ちになった。