※この作品はR-18です。

隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない   作:木桜 春雨

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7 男たち、否定できない心 エリック、裕司

 「会うな、彼女が今の自分を見られたらショックだと思うぞ」

 友人に言われてエリックは、すぐには返事ができなかった。

 「おまえ、彼女から避けられていたんじゃないか」

 「何を、そんなことは」

 だが、ないとは言い切れなかった。

 「丁寧な、年上の相手に対する言葉使い、距離があると思わなかったか、お前は怒るかもしれないが、彼女と一緒にいるところを見ても俺は楽しそうとか思わなかったぞ」

 エリックは言葉を飲み込んだ。

 「彼女がお前に対して遠慮している失礼にならないようにしていると思った。」

 友人の声は淡々としているのに、その内容だけが鋭く刺さってくる。

 「遠慮、してた?」

 自分でも聞こえるほど声がかすれていた。

 否定したいのに、頭のどこかが友人の言葉を「そうかもしれない」と勝手に拾い上げてしまう。

 思い返すたび、胸の奥がじわりと冷えていく。

 彼女の丁寧すぎる言葉遣い。

 見ないふりをしていたのかもしれない。

 友人は続けるでもなく、ただ静かにエリックの反応を待っていた。

 その沈黙が余計に、逃げ場を塞ぐ。

 「……そんなはず、ない……」

 言葉に力が入らない。

 自分の声が、自分のものじゃないみたいに感じられた。

 胸が軋む。

 知らなくてよかったことを、無理やりこじ開けられたような痛みだった。

 「今の顔、彼女はお前に見られたくないと思っていたら、残酷だぞ」

 その一言が重くのしかかってきた。

 

 日が経つにつれ、その言葉は妙にリアルな輪郭を帯びてエリックの胸の奥に居座った。

 会わないほうがいいのか。

 そう自問した直後、胸の内側で何かがざわつく。

 「距離を置くべきだ」という理屈は理解できる。

 彼女に負担をかけたくない、迷惑をかけたくない。

 わかっている、わかっているのに。

 数日たっても、答えは一つもまとまらないままだった。

 忘れたほうがいい、と考えるほど、逆に思考が彼女に引き寄せられる。

 本当にそう思ってるのか?

 最後くらい確かめたいんじゃないか?

 そんな声が自分の中から勝手に湧き上がってきて、振り払えない。

 会わないほうが彼女のためだ、と頭は言う。

 けれど、会って顔を見たい、あの目の意味をもう一度

 執着じゃないか、自分でそう思った瞬間、胸が少しひやりとした。

 気づきたくなかった側面に触れてしまったような、居心地の悪さ。

 けれど同時に、その執着すら、今の自分を動かすわずかな熱でもあった。

 矛盾が絡みつき、エリックは自分の中でどこにも足場を見つけられずにいた。

 

「裕司さん、今、いいかな」

 晩御飯の後、英介が珍しく真面目な表情で立っていた 裕司は嫌な予感を覚えながら顔を上げた。

 「この間、美夕さんに会ったんだ、で、ちょっと立ち話をしたんだよ」

 「それがどうした。珈琲、飲むか」

 落ち着け、と心の中で呟きながらカップを置く。

 英介は手を伸ばしかけたが、そのまま止まった。

 表情は沈んでいる。

 「その時に、愛華さんが」

 裕司は反射的にカップを握りしめ、動きを失った。

 軽い目眩すら感じた。

 よりによって愛華。

 しかも、その時にという言い方が嫌な予感しかしない。

 英介は追い込まれるように言葉を続けた。

 

 「裕司の元妻ですって名乗ってで、『せっかくだし三人でお茶でもしよっか』って」

 「なんでそうなるんだ」

 声が低く落ちる。

 状況が理解できないとか、そういう次元じゃない。

 美夕がどう対応したのか想像するだけで胃が痛くなる。

 愛華の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの、明るさでごり押しするタイプ。

 悪気がないから止まらない。

 英介がさらに言った。

 愛華さん、美術館に行ったことを知っていたよ。

 その言葉に裕司は驚いた。

 見られてたのか?

 いや、しっかり観察されていた可能性まである。

 英介は続ける。

 「裕司さんは女性に遠慮するタイプだから。あなたからぐいぐい行かないとダメって」

 「……なんでそうなる」

 裕司は本気で頭を抱えた。

 もはや愛華の中では二人は交際中の設定が固まっているらしい。

 英介は、さらに爆弾を落とす。

 「美夕さんに連絡とってるの?って聞いて、いきなりスマホ貸してって、取り上げて」

 嫌な予感しかしない。

 しかし英介は容赦なく続ける。

 「愛華さん、美夕さんのスマホに裕司さんの連絡先を入れた」

 英介の言葉に、裕司は思わず頭を押さえた。

 「止めなかったのか」

 無理だよと英介は笑った。

 自分のスマホのアドレスなんて、十年以上変えた覚えがない。

 つまり、今、彼女のスマホには自分の名前が、堂々と入っている。

 頭が痛いと思った。

「でも、それだけじゃないんだよ」

 裕司の眉がピクリと動く。

 嫌な予感しかしない。

 地獄の始まりそうな予感がした。

「これ、見てくれる?」

 そう言って英介はスマホをスッと差し出した。

 英介に差し出されたスマホ。

 画面に映る笑っている女性――最初、裕司は本気で分からなかった。

 可愛いとか綺麗とか、そういう言葉ではない。

 ラインが整っていて、光を受けて柔らかく見える。

 アイドルか?女優か?

 そう思いながら、じっと見つめた。

 「あっっ……」

 分かった、美夕だと思った。

 だが、見慣れた彼女の顔ではなかった。

 そこには、傷がなかった、跡形もなく。

 一瞬、加工かと疑ったほどだ。

 「メイク、か?」

 ぽつりと漏れた声に、英介が静かにうなずいた。

 「愛華さん、化粧やメイク、めちゃくちゃ詳しいみたいでさ」

 裕司の心臓がひゅっと掴まれたように縮む。

 「美夕さん、驚いてたよ。あんなに綺麗に隠れると思ってなかったみたいで」

 空気が重く沈んだ。

 

 「俺のほうがどきどきしたよ」

 英介が軽く笑いながらそう言った瞬間、

 何故、お前がと突っ込みが喉まで来たのに、言葉はそこで止まった。

 英介はそのまま勢いで続けた。

 「それで、モデルしない?って言われてたよ」

 「今、なんて言った?」

 裕司の声は、無意識に低く鋭くなっていた。

 しかし英介は、状況の重さなんて気づいていない顔で軽く言う。

 「愛華さん、色々やってるみたいでさ。モデル探してたらしいんだ」

 その言葉に、裕司の心臓が一拍遅れて脈を打った。

 返事ができない。

 口を開けても声が出なかった。

 モデル、そんな言葉、軽く口にしていいはずがない。 そう思ったが、言葉が出ない。  

「彼女は断らなかったのか、モデルを」

 裕司の問いに、英介はすぐに首を振った。

 「あの状況では無理だよ。断りづらいって」

 英介は続けた。

 「帰り道、ありがとうって言われたんだ。愛華さんのこと、いい人だって」

 いい人だって、それは、美夕がそう思おうとして言った言葉かもしれない。

 だが、本当に短い時間だけ救われた気がしたのかもしれない。

 英介は言う。

 「笑ってたよ、嬉しかったと思う」

 裕司は、何も言えなかった。

 メイクで傷を隠すなんて、その場しのぎだ。

 現実が変わったわけじゃない。

 明日には元に戻る。

 英介が、ふと真面目な顔で言った。

 「裕司さん、海外のモデルだって、メイクで傷を隠して、それでもモデルを続けたいって人、いるだろ。そういう人たちも、自分の人生として選んでる。その気持ち、尊重してあげたら?」

 裕司は英介を見た。

 否定したい気持ちはあった。

 彼女に無理をさせたくない。

 傷を忘れさせるような残酷な光を浴びせるのは、愛華のやり方が雑すぎる。

 嬉しかったのなら。

 その瞬間だけでも、救われたのなら。

 奪うことなんて、できるはずがなかった。

 裕司は、ゆっくり息を吸った。

 

 「電話、かけてくるんじゃない、彼女」

 英介の突然の一言に、裕司は目を瞬かせた。

 驚いたというより、現実に一気に引き戻された。

 電話、彼女が、自分のスマホに。

 そんなこと、あるのか?

 裕司は反射的に時計を見る。

 夜の10時。

 「この時間は、さすがにないだろ」

 言いながら、自分でも妙に声が硬くなっているのが分かった。

 だが英介は全く気にせず、続ける。

 「愛華さん、週末にかけなさいって言ってたよ」

 「余計なことを」

 呆れはあった。

 週末に、電話?。

 その単語が、胸のどこかをざわつかせる。

 あり得ない。

 英介は、にやっと悪戯っぽく笑った。

 「で、お礼言われたらどうするの?愛華さんのこと。

 メイクしてくれてありがとうって言われたら?」 

 裕司は一瞬で黙り込んだ。

 

 電話なんて、かかってくるわけがない。

 そう思っていた。

 そう思うべきだった。

 だが、それから数日、裕司はまるで胸の奥に小さな石を入れられたような、落ち着かない気持ちを抱え続けた。

 仕事をしていても、ふとした瞬間にスマホへ視線が向く。

 通知が鳴るたびに、わずかに心臓が跳ねる。

 もしかしたらという可能性が、思った以上に重く心にのしかかってくる。

 もし、電話が来たら――

 何を話せばいい?

 愛華のことを謝るべきか。

 彼女が傷に触れるような真似をしたことに、代わりにお詫びを言うべきなのか。

 それとも、嫌ならモデルの件は自分が断る。

 そう言えばいいのか。

 だが、それを英介に相談したところ――

 やめたほうがいいと即答された。

 真面目だろ?

 逆に余計気使うんじゃないかと言われた。

 裕司は何も言えなかった。

 

「裕司さん、風呂に入るの?」

 「ああ、どうした」

 「スマホ持って入ったほうがいいんじゃない、土曜日だし」

 

 英介の言葉に、裕司は即答した。

 「いや、かかってくるはずない」

 言い切ったものの、その声には自信がなかった。

 あれから数日、連絡はない。

 ありえないと思いたい気持ちと、どこかでまだ信じている自分が、胸の奥でせめぎ合っていた。

 湯に浸かっても、心は静まらなかった。

 頭の中に、何度も同じ名前が浮かんでは沈む。

 

  風呂から出てリビングに戻ると、英介がテーブルの上を見た。

 「裕司さん、スマホ、画面が光った気がした」

 思わず息をのむ。テーブルの上――そこに、置きっぱなしのスマホがあった。

 裕司は慌てて手に取り、画面を確かめる。

 「美夕」

 「愛華さんが登録したの、水曜日だったかな。週末まで待ってたんだ」

 英介が、少し驚いたように言った。

 「真面目なんだ、彼女は」

 

 愛華が「週末に電話しろ」と言った。

 普通なら、そんな約束は冗談半分で終わる。

 けれど、彼女は違った。

 自分が“医者”であることを、愛華は知っている。

 だから、週末なら時間があると思ったのだろう。

返信しようと指を動かしかけた、そのとき。

 「裕司さん」

 英介の声が飛んできた。

 「流石に駄目だって、時計、見てみなよ」

 言われて、裕司はゆっくりと壁に目を向けた。

 十一時を指している。

 風呂に入ったのは、確か十時前だったはず。

 「美夕さんが週末まで待って電話かけてきたのに、裕司さんは――」

 英介は呆れ顔で裕司を見た。 

 「がっかりしてるかも 風呂で何してたのさ」

 「考えごとだよ」

 裕司はタオルで髪を拭きながらぼそりと答える。

 「電話、来ないかって」

 

 「う、うるさい!」

 「図星なんだ」

英介の言葉に裕司は返事ができなかった。

 

 週明け。

 診療室のドアが静かに開いた瞬間、裕司の胸が小さく跳ねた。

 数日ぶりに見る彼女の姿。

 目が合うことはなかった。

 彼女も、どこかぎこちない。

 診察のあいだ、言葉は少なかった。

 いつもより短い会話、いつもより長い沈黙。

 それが、かえって息苦しいほどだった。

 「ありがとうございました」

 頭を下げ、ドアへ向かう。

 そのとき、彼女が振り返ることなく、そっとカードを差し出した。

 指先が一瞬ふれた気がして、裕司の心臓が跳ねた。

 ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。

 彼女の姿が消えても、手の中のカードが熱い。

 〔電話して、すみませんでした。〕

 白い紙に並んだ小さな文字。

 謝られることじゃないと思った。

 裕司は立ち上がっていた。

 「すまん、トイレだ」

 看護師の視線を避けるように、診察室を出る。

 廊下を抜けると、受付の向こうに待合室が見えた。

 支払いの順番を待つ彼女の姿があった。

 

 「美夕さん、次回の診察だが――」

 自分でもわざとらしいと思った。

 彼女がゆっくりと顔を上げる。

 裕司は傍まで行き、少し身を屈め、声を落とす。

 「今夜、電話する。十時までに、それ以上遅くなったら」

 彼女が、驚いたようにこちらを見ているのがわかった。

 「ま……待ちます」

 細い声だ、けれど、それだけで裕司はほっとした。

 「じゃあ、お大事に」

 何故か、彼女の顔を見ることはできなかった。




やっと続編UPです
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