隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
診療室に戻ると、看護師の視線がこちらを追った。
「先生、そんなに我慢してたんですか? トイレ」
裕司は思わず笑みを作る。
「あ、ああ、ちょっと水分取りすぎたかな」
平静を装いながらも、胸の内はまだ落ち着かなかった。
あの短い会話で、何かを言い残した気がする。
いや、むしろ――言いすぎたのかもしれない。
椅子に腰を下ろすと、背中に冷たい汗が残っているのを感じた。
どうしてあんなことを、あんな言い方で。
裕司は、受付でのあの瞬間を思い出していた。
「今夜、電話する」
その言葉を口にしたときの自分の声が、耳の奥に蘇る。
あのときは、彼女の顔を見る余裕もなかった。
まるでドラマの台詞だ。
現実の自分がそんな言葉を言うとは。
裕司は静かにため息をついた。
若い頃から、女にモテるタイプではなかった。
明るく押すこともできず、冗談もうまくない。
恋愛の場面で、いつも一歩引いてしまう。
中年を過ぎた今は、なおさらだ。
街では“イケオジ”なんて言葉が飛び交っているが、
自分がその枠に入らないことくらい、分かっている。
鏡を見れば、疲れた目の下に薄い影。
髪には白が混じり、シャツのボタンの間から腹が少し覗く。
診療室では誰もそんなこと気にしない。
けれど、夜の帰り道、ガラスに映る自分の姿を見るたび、少しだけ胸が痛む。
そんな自分が――彼女に、あんな言葉を。
笑えてくるほど場違いだった。
彼女は、どう思っただろう。
裕司は机に肘をつき、手で額を押さえた。
理性は冷めているのに、胸の奥はまだ熱を残していた。
昼休み。
コーヒーを一口飲んで、スマホを手に取る。
頼れる相手は一人しかいなかった。
英介。
血は繋がっていない。
それでも、彼には何でも話せた。
変な気取りもなく、遠慮もいらない。
《今夜、彼女に電話する。気をつけることあるか》
短く打ち込んで送信する。
画面の光がやけに眩しく見えた。
送って数分も経たないうちに、スマホが鳴った。
あまりの早さに、裕司は思わず苦笑する。
《愛華さんのことは聞かないほうがいい》
短い文面だった。
だが、英介の性格を知っている裕司には、それが“本気の忠告”だとすぐに分かった。
「聞かない方がいい、か」
声に出してみても、喉の奥に何かが引っかかる。
思わず返信を打った。
《どういう意味だ、それ》
すぐに既読がつき、また返事が返ってくる。
《愛華さん、色々と彼女に話してるんじゃないかな》
裕司はその文面を見て、わずかに息を止めた。
スマホを置き、指先でこめかみを押さえる。
嫌な想像が浮かび、すぐに振り払おうとする。
愛華は悪い人間じゃない。
正直で思ったことをはっきり言うタイプだ。
裕司は画面を見つめながら、眉をひそめた。
愛華の顔が頭に浮かぶ。
きっと、あの調子で笑いながら言ってるんだ。
「真面目すぎてちょっと不器用なの」――なんて。
「……面白がってるな」
思わず口に出た。
呟いた声が、診療室の静けさにやけに響いた。
スマホが震え、英介からまたメッセージが届く。
《美夕さんに恋愛のアドバイスしてると思う》
英介から届いたメッセージを見た瞬間、裕司の指先が止まった。
胸の奥で、何かが音を立てた気がした。
自分と美夕は、医者と患者、年齢も離れている。
その関係を越えることなど、ありえない。
そう言い聞かせるたびに、言葉の響きが少しずつ軽くなっていく気がした。
歳だって離れている。
彼女にとって自分は、ただの主治医で、人生相談くらいはできる安全な相手にすぎない。
頭では理解しているのに、心が納得しない。
玄関を開けると、英介の声がすぐ飛んできた。
「裕司さん、ご飯、食べたら風呂に入って」
どこか落ち着き払った、いつもの調子だ。
台所のテーブルには、コンビニの袋。
中にはパンやおにぎり、ペットボトルのお茶まで揃っている。
裕司が眉を寄せると、英介は振り向きもせずに言った。
「風呂にも入って、準備してから落ち着いて電話したほうがいい」
意味が分からなかった。
英介はおにぎりのラベルを眺めながら、あくまで淡々としている。
「今、医療関係って人手不足で、ブラック企業並だろ。今日は平日、病院から帰ってきてやっと休める時間なんじゃない? そんなときに電話。彼女、気にするんじゃないか」
裕司は無言になった。
英介は続ける。
「晩御飯食べて、風呂に入ったら、たぶん少し休みたいはずだって、彼女、思ってるんじゃないかな」
その言葉に、裕司の胸の奥が小さくざわめいた。
確かに、あり得ると思った。
英介はお茶をコップに注ぎながら、ふと笑みをこぼす。
「若い十代の女の子なら気にしないと思うけどね。彼女の歳を考えたら、相手の都合とか考えるだろ」
その落ち着いた様子に、裕司は思わず苦笑した。
「英介、そんなに気が回るのに……三十過ぎても恋人がいないのか」
「いやいや、気が回るだけじゃダメなんだよ」
英介は肩をすくめた。
「今の女はシビアだよ。俺はフリーのカメラマン、金がないと見向きもされない」
「なんだ、それ。現実的だな」
「現実しか見えない歳になっちゃってね」
二人のあいだに、ふっと笑いがこぼれた。
「裕司さん、電話するとき、俺、そばにいようか?」
「はあっ? いや……」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「アドバイスだよ。会話、どんなこと話せばいいか困らないようにさ」
英介の言葉に、裕司は口を開きかけた。
大丈夫だ。
そう言おうとした瞬間、英介の表情に気づいた。
「彼女、相談したいことがあって電話をかけたんじゃないかと思うんだよ」
その言葉に、飲みかけのお茶が喉に引っかかった。
咳き込みながら、裕司は英介を見た。
「……どういう意味だ?」
英介は、何気ない風を装って肩をすくめる。
「三人でお茶したって言ったろ? 俺と美夕さんと、愛華さん」
裕司の表情がわずかに強張る。
「そのとき、俺ちょっとトイレに行っててさ。戻ってきたら――愛華さん、ニコニコしてたんだよ」
「……おい」
裕司の眉間に皺が寄る。
嫌な想像がどんどん膨らむ。
「で、美夕さんは?」
「困ったっていうより、戸惑ってた感じ。変なことじゃないと思うよ。ただ、愛華さんの言うことだから」
スマホを握る手が、少し汗ばんでいた。
画面の灯りが指先を照らす。
心臓の鼓動が、静かな部屋の中でやけに大きく響いた。
――呼び出し音。
一回、二回。
「先生、お仕事、ご苦労様です。あの……忙しくないんですか?」
柔らかく、けれど少し緊張を含んだ声。
その響きに、胸の奥がわずかに震えた。
「今日は珍しく、患者の数が少なくてね」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
だが、それは英介の言葉を思い出していたからだ。
気を使わせないようにと。
電話の向こうで、彼女が小さく息を吐いた。
その音が、安堵の気配として伝わってくる。
ホッとしたようなその声が、思った以上に胸に響いた。
「夕食は、すませたんですか?」
少し間を置いて、彼女がそう尋ねた。
気遣いの言葉。
だが、その優しさに、なぜか返事が遅れた。
自分の仕事を気遣う彼女。
愛華の名前、話題は出さない――
そう決めていたのに、その名はあっさりと彼女の口から出てきた。
「先生、英介さんから写真見せてもらいました? メイクであんな傷が隠れるなんて、びっくりしました。愛華さんには感謝してます」
……出た。
裕司は思わず息を止めた。
それから数週間。
午後の編集部。
ガラス越しの光が机の資料を照らし、空気はどこか張りつめていた。
エリックは原稿を閉じ、静かにコーヒーを口にした。
愛華がファイルを抱えて近づく。
「表紙モデル、決まりました」
「早かったな」
エリックは短く言って、顔を上げた。
その視線は鋭いが、どこか疲れている。
「プロのモデルじゃありません。でも、綺麗な子なんです」
愛華は少し誇らしげに言った。
「一般の人を使うのか」
「写真映えがよくて。美夜という若い女性です」
その瞬間、エリックの指が止まった。
カップの縁に触れたまま、動かない。
愛華は気づかず、資料をめくっている。
エリックは小さく息を吸った。
「……美夜、か」
その言葉はほとんど独り言のようだった。
視線が遠くへ滑っていく。
まるで、過去のどこかに置き去りにした名前を呼び戻すように。
愛華が首を傾げる。
「ご存じなんですか?」
「いや……」
エリックは短く答え、目を伏せた。
「よくある名前だ」
そう言いながらも、その声にはわずかな遅れがあった。
愛華は不思議そうに笑ったが、それ以上は追及しなかった。
夜も深まった頃、スマホの着信音が静かな部屋に響いた。
画面に表示された名前を見て、裕司は眉をひそめた。
愛華、元妻の名前に裕司は顔をしかめた。
「無視だ、ムシ」
独り言のように呟きながら、スマホを裏返す。
どうせくだらない話に決まっている。
ろくでもない用件で、気分をかき乱すに違いない。
だが数分後、再び鳴り響く通知音。
今度はアラームのようにしつこい。
半ばあきらめて通話を押した。
「おい、夜中だぞ。普通の人間は寝てる時間だ。わかってるのか?」
「医者のあなたなら、緊急対応、起きてるでしょ」
声のトーンがいつもの調子――明るく、図々しい。
「これは無駄話だ」
「まあまあ、そう言わないで。いいニュースよ」
「用件は」
「彼女がモデル引き受けてくれたの、助かったわ」
電話口の愛華の声は、隠しきれない喜びが滲んでいた。
裕司は思わず額を押さえた。
夜中に浮かれた声を聞かされるのは、正直、疲れる。
「モデルは本の表紙なんだけど、作者の男性、エリックが彼女の昔の知り合いなの」
その一言で、裕司の動きが止まった。
「昔の知り合い?」
思わず声が低くなる。
「恋人とか付き合ってたとかじゃないの。ただ、話を聞いてたら、少し同情した」
愛華の声、同情、その言葉が引っかかった。
「彼女が同じくらいの歳ならね、うまく立ち回れたと思うの。」
年下だから、彼女はいつも敬語で話していた。
それは礼儀であり、必要な距離だったのかもしれない。
けれど、それ以上に、彼女の側にあったのは「遠慮」ではなかったか。
「年の差のある友人、知り合いって、疲れない?」
愛華の声はあくまで軽やかだった。
だが、その響きには、何かを見抜いた者の静かな確信があった。
名前を与えられない関係。
けれど一番曖昧で、一番しんどい場所。
踏み込めば誤解され、引けば後悔する。
裕司は、もし自分が彼女の立場だったらと想像した。
彼女は真面目でしょ、愛華言葉を思い出した。
英介の言葉が、頭の中でゆっくりと繋がっていった。
彼女が自分に電話をかけてきた理由。
最初はただ、何気ない会話のつもりだったのかもしれない、けれど、今になって思えば違うのでは。
――モデルをしてみない?
最初にそう言ったのは愛華だ。
そのときは愛華自身も気づいていなかったのだろう。
本の作者が、美夕の昔の知り合いであることに。
偶然が、妙な形で繋がってしまった。
だが彼女は、一度きりならと決心した。
勇気を出して受けたのだ。
そして――後から、少しずつ明らかになっていく事実。
有名な作家、本の表紙、昔の知り合い。
頭のいい男、正論を口にし、常に正しいことしか言わない年上の男。
彼女がそんな相手と向き合うことを選んだ理由。
前に進む為だと理解している。
けれど、迷いもある。
愛華が「助かったわー」と明るく笑っていたのは、本心だろう。
企画も動き出して、喜ぶのは当然だが、もう一つの意味があった。
笑いながら、いつも通りに軽く言っておいて、
最後に必ず心に刺さるような一言を残す。
裕司は低く呟いた。
ようやく、ひとつの答えに辿り着いた気がした。