隔たりのあるところから始まった、恋にもなっていない 作:木桜 春雨
その日、裕司のスマホに届いた一通のメール。
差出人は愛華も、元妻だ。
添付されていた一枚の写真を見た瞬間、裕司は息を呑んだ。
そこに写っていたのは、美夕だった。
メイクであの傷跡が、まるで存在しなかったかのように消えている。
たった一枚の写真に、妙な引力があった。
だが、次の瞬間、添付ファイルのもう一つに気づいて、胸がざらついた。
撮影場所と、時間。
どういうつもりだ。
部外者の自分に、来いということか。
「行くわけ、ないだろ」
声に出してみたが、響きは虚しかった。
返事を打とうとして、スマホを伏せる。
行かないと打ち込む気力さえ、今はなかった。
そんな自分の様子を、英介が見逃すはずもなかった。
「さっき、俺のところにもメールが来た」
英介は何気ない調子で言った。
「裕司さん、行く?」
「部外者だぞ。俺は」
即答した。
だが、声の奥にわずかな揺らぎがあったのを、裕司自身が感じていた。
英介はテーブルの上で指を軽く叩きながら、
どこか探るような目を向けてきた。
「愛華さんは、そう思ってないみたいだけど」
その言葉に、裕司は口をつぐんだ。
行かないと即答できるはずなのに。
行く理由も、資格もない。
医者としても、男としても、越えてはいけない線がある。
けれど。
あの写真の中で笑う彼女の表情が、
その線を曖昧にしていく。
ほんの一瞬、スマホの画面に視線を戻した。
光の中に立つ彼女の姿。
それは現実よりも遠く、そして近かった。
「撮影場所にはスタッフも大勢いるし、男もいるだろう」
英介は湯呑を回しながら、何気ない調子で言った。
「目をつけられるかもな。デートに誘うとか、連絡先を聞くとか、そういうやつ、絶対一人はいると思う」
その言葉に裕司は、無意識に顔を上げた。
考えもしなかったことだ。
だが、言われてみれば、あり得る話だ。
「そうだな」
短く答えながらも、胸の奥が妙にざわついた。
想像してはいけない光景が、ふと浮かぶ。
撮影現場、照明の下、スタッフたちの視線。
彼女が笑う、その横で誰かが気軽に話しかけている。
「エリックって作家、美夕さんの昔の知り合いなんだよね」
英介が続けた。
「知り合いから聞いたけど、顔もそこそこ、金もある。けど、俺は羨ましいとは思えなかった」
「どうしてだ?」
思わず問い返した声に、自分でも驚いた。
英介は少し笑って、言葉を選ぶようにして言った。
「元は作詞家でさ、気まぐれに書いた小説が賞を取って、それから作家として活動し始めたらしい」
成功者、か。
裕司の胸の中でその言葉が響いた。
金も名声もあり、女にも困らない。
世間が羨む勝ち組の典型だろう。
だが、英介は首を横に振った。
「いや、モテるとは思う。でも俺は、正直、羨ましいとは思えないな」
その言葉には、妙な重さがあった。
「女は集まってくると思うよ、でも有名人だから、近づいてくる、話題になる男と関わりたいっていう。多分、本人は、そういうの分かっていても、黙ってるタイプだと思う」
英介の声には皮肉がなかった。
ただ、事実を見つめるような静かさがあった。
「それに、本も色んなジャンル書いてるけど、恋愛小説はほとんど売れてない」
裕司は眉をひそめた。
「恋愛……?」
「うん。数本は書いてるけど、どうも評判が悪い。経験がないんだろう。想像だけで、誰かを愛することを書こうとすると、薄っぺらくなる」
英介の言葉が、淡々と落ちる。
それが静かに、裕司の胸に沁みていった。
周囲から見れば、エリックのような男は羨ましいに決まっている。
だが、金も女も、愛の証にはならない。
「愛華さんが言ってたんだよ」
英介の声は、いつになく落ち着いていた。
「彼女、裕司さんのことが気になってる。でも、わからないんだって。それがどういう気持ちなのか。」
彼女が誰を指すのか、考えるまでもない。
何も言えないまま、裕司はただ視線を落とした。
英介は、淡々と続けた。
「裕司さんが医者で自分はは患者。それに年上だろ。彼女、真面目だから、そういうこと、すごく気にするタイプなんだと思う」
「そんなことは……」
裕司は言いかけて、そこで止まった。
わかっていると言いたかった。
だが、その言葉を口にすれば、自分が何を否定しようとしているのか、はっきりしてしまう気がした。
英介の言葉は淡々としていた。
「エリックって人が、彼女の素顔を見たら、恋愛感情なんて、ないだろうな」
英介の言葉は淡々としていた。
事実を述べただけのように聞こえた。
裕司は反射的に口を開いた。
「そんなことで――」
だが、その先の言葉が喉で止まった。
そんなことで人の価値が決まるわけがない、言い切る自信がなかった。
現実は、もっと冷たい。
人は見た目で判断する。
好意も、興味も、最初の印象で決まってしまうことを、裕司は痛いほど知っていた。
いや、この歳になったからこそわかるのだ。
英介が、少し声を落として言った。
「でも、裕司さんは、最初から見てる」
その一言が、不意に胸の奥に触れた。
「勝てるよ」
短く、それだけを残して英介は黙った。
何を言うんだ、そう言い返そうとした。
だが、口を開きかけて、言葉が出なかった。
心の奥で何かが、静かに波打っていた。
「知ってるじゃないか彼女のこと、素顔だって」
「何を、馬鹿なことを」
裕司は思わず言い返しかけたが、
その言葉の先が喉で止まった。
自分でも、なぜ止めたのかわからない。
勝てる、そんな馬鹿な。
だが、彼女の傷を初めて見たときのことを思い出す。
そのとき、英介のスマホが震えた。
「えっ、誰だろ」
画面を覗き込んだ英介の表情が、一瞬で変わった。
ニヤリと、あからさまに人の悪い笑みを浮かべる。
「ああ、美夕さん」
「……なっ」
声に出すこともできず、ただ英介を見つめる。
「美夕さん。実は今ね、裕司さん、風呂、入ったところなんだよ」
「はっ?」
英介は余裕の表情で会話を続ける。
「そうそう、一時間ぐらいは出てこないと思う。湯船で寝るタイプだから」
「おい! 勝手なことを……っ!」
声にならない声が喉で暴れる。
出ようか? いや今出たら、本当に風呂上がりだと思われる、いや、何より、そばにいたのがバレる。
別にやましいことはない。
だが、いや、ある気がしてきた!
「もし大事な話だったら……あ、うん。俺が伝えておくよ? うん、任せて」
裕司は額を押さえた。
何故、こんなに動揺してるのか、自分でも分からない。
いや、分かっている。
彼女が、自分に連絡をくれた、それだけだ、なのに。
くだらない理由で連絡してきたんじゃない。
きっと、何か話したかったのだ。
(……俺は、彼女の何なんだ)
医者で、年上で、患者とは一線を引かねばならない立場。
勝てるよ、英介の言葉が、また胸に落ちる。
ふざけたように聞こえたその言葉が、今は、どこか救いのようにさえ感じる。
スマホを切った英介は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。
やがて、深く息をついて、小さく唸った。
「前向きだなあ、彼女」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ自然にこぼれたようだった。
けれど、裕司の耳にははっきりと届いた。
「なんて言ってた?」
英介は顔を上げ、ゆっくりと答えた。
「自分のこと、美夜って呼んでほしいって」
「美夜?」
その名を口にした瞬間、裕司の胸がわずかに震えた。
英介は頷き、続けた。
「美夕って名前を変えようと思ったけど、やめたって言ってたよ」
裕司は言葉を失った。
頭の奥、病室での友人との会話を思い出した。。
『名前、変えようかな。違う自分になって新しく』
だが今、彼女は自分でその言葉を否定した。
変えようと思ったけど、やめた。
過去の自分を受け入れようとする決意の言葉だ。
裕司は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、言葉にならないものが広がっていく。
過去の傷に縛られてはいない。
逃げるのではなく、向き合おうとしているのだ、彼女は。
彼女がスタジオに入ってきた瞬間、空気がわずかに揺れた。
それは誰もが一瞬、息を呑むような沈黙だった。
エリックはその場にいた全員の視線が彼女に集まるのを感じた。
彼女は目を引く存在だった。
理由は美しさだけではない。
顔に残る大きな傷痕のせいだ。
エリックは驚いた。
まさか、こんな形で再会するとは思っていなかった。
彼女は自分に気づいたはずだ。
スタジオに入ってすぐ、ほんの一瞬だけ視線が交差した。
彼女は無言だ。
スタッフたちのヒソヒソとした囁く声が、エリックの耳に届いた。
スタジオの中は、照明の熱と人のざわめきが混じり合い、独特の緊張感を帯びていた。
スタッフたちのヒソヒソ声が、空気を裂くように耳に届く。
「綺麗になるんだな……」
「メイクであんなに変わるんだ」
「それでも、よく出てこれるよな」
悪意はない、だが、それが一番刺さる。
だが、美夜は表情ひとつ変えない。
スタッフの指示に頷き、まっすぐ立ち、ライトの下に進み出る。
彼女を見つめながら、エリックは思い出した。
正しいことを言う人、彼女は自分のことをそう呼んでいた。
あの頃は、それを褒め言葉だと思っていた。
冷静で、論理的で、感情に流されない。
そういう自分でいることが、正しいと信じていた。
今、その言葉の響きを思い返すと、胸の奥が静かに痛んだ。
そこにあったのは距離だったのかもしれない。
正しいことしか言えない男。
あの頃の自分は、彼女の沈黙を都合よく勘違いしていた。
エリックは目の前の彼女を見た。
(声をかけたら?)
もし今、「久しぶり」と言ったら――
彼女はどんな顔をするだろう。
懐かしそうに笑ってくれるのか。
それとも、冷静な眼差しで“知らない人”を見るように自分を見返すのか。
そのどちらも、怖かった。
彼女の人生の中に、自分はまだ存在しているのか。
それとも、もう完全に過去の登場人物として整理されてしまったのか。
「美夜」
彼女が立ち止まった。
振り返るかもしれない。
気づかないふりをして、そのまま歩き去るかもしれない。
エリックの胸に、不安が波打つ。
声をかけるべきじゃなかったか。
過去だ、彼女が望まないのなら、それ以上踏み込むべきじゃない。
「元気だったか」
自分でも驚くほど自然に出た。
懐かしくて、どこか哀しい響きをまとっていた。
言葉を投げかけた瞬間、彼の中で何かが軋んだ。
もしも、彼女が他人のような目でこちらを見るなら。
忘れてしまったふりをするなら。
だが、彼女は、ゆっくりと振り返った。
ふと目が合った。
彼女は、笑っていた。
柔らかく、穏やかで、どこか芯のある微笑み。
あの頃、彼が見たことのない笑顔だった。
あの頃よりも、ずっと大人びて見える。
エリックは、目の前の彼女に戸惑いすら覚えた。
この笑顔を、いつかの自分は引き出せただろうか。
それとも、この微笑みは、もう自分には届かない場所のものなのか。
「はい」
短く、だが確かに、美夜は頷いた。
声は、かすかに震えていたようにも思えた。
それは懐かしさでも後悔でもない。
再会がもたらした、再び物語が動き出す予感だった。