呪術高専東京校。静かな医務室には、特有の消毒液の匂いが満ちていた。家入硝子は、普段の無気力な表情のまま、山積みの報告書を捌いていたが、その手がふと止まる。
彼女の机の上には、一通の「特級相当呪術師・五条悟の長期不在及び、教え子・ユキ(呪術高専2年)の治療のための隔離報告書」が置かれていた。
「長期不在……ね」
硝子は報告書をパラパラとめくり、記載された『治療期間:未定』という項目に目を留めた。五条悟が理由もなく長期で姿を消すことは珍しくない。しかし、教え子を伴い、上層部の探知を一切許さない「秘密施設」に閉じこもるというのは、極めて異例だ。
「あの五条が、律儀に『治療』なんて名目で何週間も閉じこもるか?」
硝子の直感は、鋭かった。彼女は最強の同級生の全てを知っているわけではないが、彼の底知れない傲慢さと、時に教師としての常軌を逸した行動原理は理解していた。
報告書は、五条からの呪力通信で簡潔に送られてきたものだ。「外部からの干渉は治療効果を損なう」という理由で、場所も詳細も一切明かされていない。
硝子は、煙草に火を点け、窓の外の空を見上げた。普段ならば五条が張った完璧な「帳」の存在など感知できるはずもない。だが、彼の呪力の癖を知り尽くした硝子の感覚は、微かな『違和感』を捉えていた。
「呪力探知を遮断する帳は、彼の得意技だ。だが、あれほど大規模な結界を長期にわたって維持すれば、周囲の気の流れに必ず歪みが出る」
彼女は自らの反転術式を微量ながら術式に込め、半径数キロメートルの「気の流れ」を感知してみた。場所を特定することはできない。だが、高専から離れた西側の山間部に、空気の流れが不自然に澱み、呪力の波動が断ち切られた『空白地帯』があることを、かろうえず察知した。
「本当に『治療』だけなら、こんなに厳重な隔離は必要ない。…何か、よほど上層部に知られてはまずいことをしているな」
硝子は眉をひそめた。ユキという生徒が、極度の精神的脆さを抱えていることは知っていた。だが、五条がその「脆さ」を利用して、何か常軌を逸した実験的な行為に及んでいる可能性を、彼女は最も危惧した。
一方、地下室。五条は、新たな指導の準備を整えていた。
「今日の訓練は『背徳の共同作業』だ、ユキ」
彼は、壁際に設置した簡素な通信機を指差した。この通信機は、高専側の術師が緊急時に五条に連絡を取るための、唯一の通路だ。
「外側が、君の不在を気にし始めたみたいでね。まあ、あいつら(上層部)じゃない。僕の同期だ」
五条は、ユキの顎を軽く持ち上げ、真実を見抜く六眼で覗き込んだ。
「彼女は勘が鋭い。僕がこの密室で、君を『教師の理性』ではなく『本能』で支配していることに、気づくかもしれない」
ユキの身体に、再び恐怖と興奮が走った。恐怖は外界の存在、興奮は「秘密」を共有する優越感からくるものだ。
「逃げられるんじゃないか、なんて考えなくていい。君の安定は、もう僕の呪力に依存している。僕から離れれば、君の呪力はたちまち暴走する」
彼は、通信機をユキの耳元に寄せた。
「今、彼女から、この『隔離施設』について探りを入れる通信が入ったら、どう答えるべきか、君はもう分かっているはずだ」
五条の言葉は、命令というよりも、二人の『背徳的な愛の秘密』を守るための誓約のように響いた。ユキは、五条の瞳を見つめ返した。その瞳の奥には、もはや教師の影はなく、自分と同じ『破滅への渇望』が渦巻いていることを知った。
「…分かっています、センセイ」
ユキの声は、もう弱々しい懇願ではなかった。それは、自らの意志で罪を受け入れ、「共犯者」となることを選んだ、静かな決意の声だった。