死んで天国に来た男が、そこで出会った喋る生首の少女「ユリ」の体を探しながら、天国の何たるかを知る話。

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天国とは、眺める「他人の地獄」である。

 ドアノブで開く普通の扉の先にあった物は、大きなスクランブル交差点と乱立するビル。それからハチ公のかわりであるかのように台座に置かれた、喋る生首だった。

 生首は美人の女で、耳障りでない程度にアニメ声だった。

「ようこそ天国へ」

「……いや、ちょっと待ってくれ」

「何か?」

「いや……」

 天国。

 ここは天国。

 カラオケルームのような扉一枚を抜けた先にあったこの世界は、俺の天国である。確かにそう聞いている。受付にいた天使から聞いたことは大まかに二つだけだ。一つ、扉の先が俺の天国であること。二つ、俺が死者であること。

 ……それは良いが、しかし、生首はどちらかといえば地獄にある物ではないか? 正直、台座の上にそれを見つけた時はそこそこびびったくらいだ。

 幸いなのは、その首はどうやら生きている反面、断面から血を垂れ流してはいないこと。俺は血が苦手だから、その点はよかった。

「もしかして自己紹介として、生首が喋る理由の説明が必要?」

「まぁ、できれば」

「必須ではないんだ」

「……今のところはそうかなって」

 理由が分からなければ生首がこれから死ぬとか、俺の喉元に噛み付いてくるとか、そういうわけでなければ。

 スクランブル交差点の信号は青になり、行き交う車と交代する形で、老若男女の歩行者たちが流れる砂のようにアスファルトの上を行く。……誰も、喋る生首には注目しない。

 もしかして俺にしか見えていないのか? そう思った矢先、指先で首元を斬るジェスチャーをしてケラケラ笑っている女子高生二人組が視界に入った。「誰も注目しない」というのは俺の見当違いだったのかもしれない。

「じゃあその説明はあとでいいや。他に話さなきゃいけないこといっぱいあるし」

「はぁ」

「まずは自己紹介。私の名前はユークリッド・ジキル。由来はゆっくり実況。ユリって呼んで」

「…………」

「私はこの天国の案内人としてここにいる。生首なのは、その方が面白いから」

「……なるほど」

 どこまで真面目に聞けばいいのだろう?

 ユリ(そう呼べと今言われた)の首は、顎のすぐ下あたりでスパッと途切れている。人体の構造として、声帯は首のどのあたりにある物なのか。俺はそれを知らないけれど、仮にそれが途切れているよりも下の部分にある物なのだとしても、そもそも生首が生きている時点で、声を出せることに疑問を感じても仕方がない。

 つまり何にせよ彼女の存在は、この天国とやらの在り方の方向性を早くも如実に示している。要はここではなんでもありだということだ。

 そうなると、実は空を見上げれば空中にも車が走っていたりするのではないかと思い、実際に見上げる。するとそこには都会の狭い空と、ビルに埋め込まれた巨大な液晶モニターが見えただけだった。考えてみればそれはそうだ、本当に空中に車が走っているなら、影で分かるはずだから。

「おーい、聞いてる?」

「え? はい。ユリさんは案内人なんですよね」

「おお、そうだ。ということで、今後しばらくは私のことを持ち運んでほしい」

「……っていうと、え、物理的に?」

「そう、スイカを抱える感じで」

「あ〜。メロンみたいな感じの方がよくないですか?」

「え? あぁ、ハハ。じゃあその感じで」

 愛想笑いをされてしまった。赤くない果実の方がグロテスクから遠ざかれる気がしてジョークで言ったのだけど、まだ冗談を言い合うような仲ではないことを忘れていた。

 台座の上の生首に手を伸ばしかけて、ふと思う。

「……どう持つのが正しいんでしょう?」

「え、だからメロンみたいに」

「でもメロンには、目とかないですし」

「そうだけど。あったらまずい?」

「何かと触られたくない場所があったりするのかなって」

「あぁ〜。そういうことね」

 ユリの目がぱちくり動く。

「普通に抱える感じが嬉しいかな。首の断面は触って大丈夫だから」

「あ、そうなんですね」

「あとはほっぺがぷにぷにで、暇な時に触るのにおすすめ」

「なるほど」

 どこまで真面目に聞けばいいのだろう?

 ともかく、今度こそその生首を持ち上げてみる。人間の頭部はボーリング球並に重いという話を昔漫画で見たけれど、ユリの場合はそれよりは少し軽い気がした。女性だからかもしれない。ボーリング球自体に何年も触れていないから分からないけど。

 断面の感触は、普通に肌だった。もっと血肉のニチャニチャした感触や骨の固い感触があることを覚悟して触れたのだけど、実際は見えない皮膚(それもそこそこ厚い)にコーティングされているかのように感じられた。そしてそれによって感じ方の優先順位が入れ替わり、本人お墨付きの頬の柔らかさや命ある者の熱、サラサラの髪や呼吸のペースの方が目立って伝わってくる。

 ユリの髪は女性にしては短い部類に入る。台座に置きやすいように……かどうかは分からない。

「どう? 初めて生首を持った感想は」

 抱えられて、俺の腹筋あたりの位置から街を見渡すユリが言う。

「意外となんか、人体って感じです」

「興奮する?」

「なんで……?」

「美少女の首だから」

「できれば首以外もあれば……」

「お、いいこと言うね!」

 まるでこだわりのファッションを褒められたかのように、ユリの声が嬉々として跳ねる。声の良さとノリの良さが相まって、なんだろう……すごく異性を感じる。

 正直、抱えているだけで結構なセクハラをしている気分がするけれど、それを口にすること自体がセクハラなので黙っておいた。

「じゃあその体を探しに行こう」

 決定事項のように、ユリが言う。

 なんとなく、そういう話術に逆らうことに俺は慣れていた。こういう断りづらい雰囲気を作る人っているんだよなぁと、不登校時代を思い出す。

 俺は知っている。その手の強引さは決して邪悪から出る物ではない。ただ、俺がそれを個人的に嫌っているというだけで。

 しかし何にせよそれを嫌っているからには、「は?」のニュアンスで言う。

「え?」

「私の体、どこに行ったのかは分からないけど、たぶんどこかにはあるんだよね。案内ついでにそれを探そう」

「案内ついでに……?」

「あんまり乗り気じゃない?」

「……まぁ今のところは」

 交差点の歩行者用信号は少し前に一斉に赤くなって、車の往来が再開している。俺は天国に来てからずっと、この駅前みたいな場所で突っ立って、生首と話している。自分はいったい何をしているのだろう……と虚無の心が沸いてくる。

「なんでよー。体を見つけて、首をくっつけて、完全体の美少女を作ろうよ」

「くっつくんですか」

「くっつくよ。自分の体ならね」

「……ちなみに体が見つからないとどうなるんですか?」

「どうって?」

「消滅しちゃうとか」

「あ、ないない。首だけの生活が物理的に不便なだけ」

「……動けないとか?」

「そりゃそうでしょ」

 そりゃそうなんだ。知らねぇよ。だって生首は普通喋らないから。

 ともかく、なんとなく話は見えてきた。つまり俺は今、障害者を助けるか見捨てるかの選択を迫られているらしい。なぜか天国に来てまでそんな窮屈なことをやらされている……そう理解すると、自分のこともユリのことも哀れに思えてくる。 

 通行人たちが生首に我関せずな態度をとっている理由がそれで分かった。誰も面倒事には巻き込まれたくないのだ。特に、すでに誰かが対応している段階では。

「……ここって天国なんですよね?」

「そうだよ。君専用の天国」

「それでユリさんは案内人」

「そう」

「で、俺がユリさんの頭を抱えて、体探しを?」

「楽しいよきっと」

「……いろいろおかしいなぁ」

「ハハ。まぁ、それはそうだよ。君の天国だから」

「はぁ」

「おかしな人の天国は、おかしくなるよ」

 あっけらかんと、悪意の欠片も感じさせずに。ユリはそうサラリと言ってのけた。

「……え、ディスられたな」

「そうでもないよ。まともってつまらないし」

「……あー」

 喋る生首が言うと説得力がある。たしかに、ユリの存在はまともではなく、また面白い寄りだとは思う。

 信号の色がまた変わって青になる。すると視界の中にうっすらと……しかし存在感をもって、浮かぶ矢印が見え始めた。その矢印は見えない糸に吊り下げられているかのように、三次元的に正面を指している。

「とりあえず、歩きながら話そう。行き先は分かるでしょ?」

「なんか矢印なら見えます」

「それに従っていけば、この天国のことが大体分かるよ」

「へぇ」

「ついでに、私の体も見つかるかもしれない」

「なるほど」

 このまま突っ立っていても仕方がないし、受付であまり詳しく質問しなかったから、天国での暮らし方は現状、右も左も分からない。体探しとやらにそこまでモチベは湧かないけれど、とりあえず今は従っておくのが吉な気がした。……強引さに流されるようで癪ではあるけど、矢印の存在がゲームっぽくて血が騒いだのかもしれない。

 その矢印の赴くまま、交差点を渡ってビル街を進んでいく。途中で大通りから逸れて、様々な店舗のゴチャついた裏手の方を行く。目につく景色に具体的な見覚えはないけれど、雰囲気は現世の都会と丸っきり同じだった。すれ違う通行人たちの様子も何ら普通と変わらなくて、ユリの首を持っていないと、自分が死んだことすら忘れそうになる。

 道中、ユリはよく喋った。

「君さ、受付であんまりちゃんと話聞かなかったでしょ。天国の」

「え? あぁ、まぁ。なんか俺にとって理想の世界になってるって話は聞きました」

「そう。ついでにここでの君はほぼ全能で、願えば大抵のことは叶えられる」

「おお、マジか。すごい」

「試しに何かやってみる?」

「……おお」

 飴を舐めたい。そう願うと、口の中に飴玉が現れた。具体的な内容までは想定していなかったけど、現れたそれはザラザラの砂糖が付いたソーダ味。好物だった。この調子でなんでも出せるなら、どうやらとりあえず食うには困らないらしい。

 会話を続けるには口内の飴が邪魔で、消えろと願えば、それは消えた。

「この力で贅沢三昧をするのが、天国ってことですか」

「それもあり。でも、もっとすごいこともある」

「へぇ」

「天国で見る大抵の女性はね、みんなサキュバスなんだよ」

「……さきゅばす?」

「性欲を魔力に変換して生きてる、エロ女魔族って感じの生き物。見た目は人間だけど、バカみたいに強くて不死身で、何より性に奔放。……エロ女だらけの世界は、男の夢でしょ?」

「ど、どうですかね……」

 大人として言葉を濁してみるけれど、俺は正直なるほどなぁと納得してしまった。これは回転寿司のシステムだ……と、自分でも驚くほど瞬時に理解できたから。

 願えば大抵のことが叶う力。そんな物があれば、美女を侍らせることもセックスし放題生活を実現することも、当然願うだけで可能になるはず。ではなぜわざわざそのサキュバスとやらが、「この世界の大抵の女性」として今も道のそこかしこを歩いているのか。……答えは、その方が楽しいからだ。回転寿司と同じで。

 全能の力は注文タブレットと無限の資金。通行人は寿司の流れるレーン。なるほど受付でちゃんと話を聞いていなかったせいで、自分がそんな下世話な世界を歩いているとは今の今まで知らなかった。

「へい、そこのベレー帽の彼女」

 俺が汚い感心に浸っている隙に、抱えていた生首が勝手に通行人を呼び止める。人が良いのか、素直に立ち止まってしまったその相手は、女子大生っぽい見た目だった。

「はい?」

「彼、まだこの世界に慣れてないんだ。お試しってことで、フェラでもしてあげてくれないかな」

「あ、そうなんですね! もちろん私でよければ」

「……は?」

 スピード感が凄すぎてついていけない。

 ベレー帽の彼女は、生首を抱えた怪しい男の目を躊躇いなく直視した。それは何の覚悟も伴わない、ただただ素朴に一点の曇りもない眼差しだった。

「ここでしますか? それとも、どこか隅の方に行きます?」

「いや、え、あの。……え、ごめんなさい分かんないです」

「人気のないところで頼むよ」

 ユリがかわりに答えた。そして俺はベレー帽のサキュバスから手を引かれるがままに、室外機が並んでジメジメした日陰の、古そうな建物と建物の隙間にやって来てしまった。建物の片方はラーメン店のようで、換気口から無駄にいいにおいがする。

 砂埃と湿気に覆われた汚い地面に何の躊躇いもなく膝をついて、サキュバスはズボンのベルトに手を伸ばす。

 ……サキュバス? いや、サキュバスなんだよな? 見た目はどこからどう見ても人間だけど。

「失礼します」

 形式的な言葉と共に、背徳感を伴う外気の冷たさが下半身を撫でた。

 本当に嫌なら突き飛ばせたはず。……レイプされた女性にそんなことを言えば非難轟々だろうに、そして実際そんな指摘は的外れもいいところだろうに。それがどうして、こういう状況の男には、正論として突き刺さってしまうのだろう。

 俺は彼女を拒否できなかった。けれど誓って、べつにこんなことで、天国最高!と思ったわけではなかったのだ。……なぜならそう思ってはいけない気がしたから。

 俺はサキュバスに奉仕されている間もずっと、ユリを抱えたままでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしたの。賢者タイム?」

 ユリは自力では俺を見上げることすら出来ない。けれどなんとなくの雰囲気で、こちらの表情程度は察することが出来るらしい。

 ベレー帽のサキュバスは去った。こちらの両手がユリの首で塞がっている分、ベルトを締め直すところまで全て彼女がやってくれた。

「……いや、どんな気持ちなのかなって」

「サキュバス的には普通だと思うよ」

「いや、じゃなくて。離席するに離席できない人の気持ちって……」

「……あぁ、私?」

 心底意外そうな声だった。

「私もサキュバスだから、気持ちって言われてもな。普通だよ」

「えっ。あ、そうなんですね」

 じゃあいいか……と思っていいのかどうかも俺には分からない。

 視界には矢印が復活していて、そういえば行為の最中はそれが消えていたなと今になって気づく。なぜだろう、因果関係はよく分からないけど、道行く女性から性奉仕を受けた途端に、その矢印が不穏な物に思えたきた。

 俺は今どこへ向かっているのだろうか……。

「人間とサキュバスの見分け方はね」

 カップルらしき男女とすれ違う。ベレー帽のサキュバスにだって、今この場にいなかっただけで恋人がいる可能性はあるんだよな……と思考がよぎる。

「聞いてる?」

「え? あぁ、見分け方?」

「おお、そう。人間とサキュバスの見分け方はね、へその下の淫紋を見れば一発だよ。あとは、物理的に人間にはできないことをしてるとか」

「え、じゃあ事前に見分ける方法ってないんですか」

「うーん。まぁ見分けるも何も、この世界で見る女性の99%はサキュバスなんだけど」

「……へその下が物理的に見れない人もいますもんね」

「ハハハ、それな」

 こちらから振っておいてなんだけど、笑い事なのか分からない。

 ユリがサキュバスである確証は闇の中。それとも喋る生首は「人間には物理的に不可能」に該当するのだろうか。それはサキュバスにすら無理だったりはしないのか? ……まぁどちらでもいいか。彼女がイカれた人間でも平均的なサキュバスでも、こちらからすれば大差はないわけだから。

 それにさっきのサキュバスだって、ナンパして秒で咥えてくれたからサキュバスだろうと思っているだけで、淫紋とやらを見たわけではない。イカれた人間の可能性もある。しかしだからこそ、だったらなんだという話なのだ。大路を走らば即ち……というやつだから。

「あぁそれとね」

 ユリが続ける。ガタイが良く、ゴツゴツした金属のネックレスをかけた男が、道の反対側を通って行った。

「この世界のものが君に危害を加えることは絶対にないから、ナンパする時は安心していいよ」

「え? ……あぁ、はい」

 ユリはさっき、女性の99%はサキュバスだと言った。ということは1%は違う……人間も混じっていると考えるのが自然だろう。

 サキュバスが圧倒的多数派であるがゆえに、見ず知らずの女性に突然フェラチオを要求しても犯罪扱いされない世界で、人間女性はどんな気持ちで、どのように暮らしているのか。……まぁ催涙スプレーなりスタンガンなりは持ち歩くんじゃないかと思う。しかしユリが言うには、それらが俺に牙を剥くことはないらしい。あるいは後から厳つい彼氏が現れて揉め事に……ということも起こらないらしい。単に機嫌の悪いサキュバスにキレられるということもないはずだ。

 なんとも都合のいいことだけど、しかし妙に露悪的な天国だなぁと思う。……そしてそれを思った時、ふと大きな疑問がよぎった。

 ……あれ、じゃあそれって、人間女性からすれば、この世界は地獄なんじゃないか? 地獄に地獄絵図が広がるなら分かるけど、地獄絵図が広がる天国だなんて、何かおかしくないか?

「おっ」

 考え事をしていると、視界に浮かぶ矢印が突然急激にターンした。方位磁針に磁石を近づけた時のように、それはいきなり俺の真横を指す。

 矢印の指す先……立ち止まった地点の左手には、縦長の本屋が建っていた。都会の土地に恐縮するかのように細まったその建物の中身は、しかしどうやら充実しているようで、店先には各フロアごとの商品ジャンルが記されている。一階が新書の小説と雑誌類、二階が文庫本、三階と四階が漫画、五階が参考書やビジネス書。

「……え、ここですか?」

「そう」

「……ユリさんの体の在処を示した宝の地図が売ってるとか?」

「そうかも」

「な、なるほど」

 とりあえず宝の地図は無いらしいことが、雑すぎる返事から察せた。

 店内に入ると、矢印が店の奥の方を指す。素直にそれに従って進むと、やがて本棚の森の最奥にエレベーターを発見した。矢印はそこに乗れと言っている。

「ちょっとすいません」

 エレベーターのボタンを押すために、ユリの首を小脇に抱える形になる。

 ボタンを押すとすぐに扉が開いた。中に客はいない。明確な目的も分からず乗る身として、なんとなくそのことに安心する。

 エレベーターに乗り込むと、矢印はまた急激に角度を変えて、足元を示した。

「ん……?」

 まさかここがゴール地点? だとすれば意味が分からないが……。と思った矢先、斜め上方に各フロアの内容を記したパネルが設けられていることに気づく。

 そこに記されている内容には、店先のそれと違い一つ追加されている物があった。

 一階が新書と雑誌、二階が文庫本、三階と四階が漫画で、五階が参考書とビジネス書。……そして地下一階に、倉庫(従業員以外立ち入り禁止)。

 矢印が示す「足元」とは、ではおそらく地下のことだろう。……しかしなぜ本屋の倉庫が目的地に?

 エレベーターの扉は、待ちくたびれたかのように自動的に閉まった。

「……倉庫って書いてますけど。下の階」

「そう。備品が置いてあるの」

「備品……」

 本屋の備品ってなんだろう。在庫ではなく備品なのか……?

 違和感を持ったところで、嫌な予感がよぎる。

「え、あの、もしかして。その備品が体ってことがあります?」

「さぁどうかな。実は私も見当つかないんだ」

「えぇ……」

 生首は喋っているけれど、体が動くとは限らない。動かない首無しの体を「備品」と呼ぶのは、見方によっては正しいのかもしれない。……けれどそれにしたって、いくらなんでも、それなら舞台が本屋ってことはないだろう。

 地下一階に向かうべく操作盤のボタンを押す。部外者の立場で立ち入り禁止の場所に向かうのは忍びないけれど、合点がいくところもある。なるほどユリが「この世界は君に危害を加えない」という話をしたのは、ここに至る伏線だったのかと。俺がこっぴどく叱られたり、警察沙汰になったりすることはきっとない。その前提があってこそ前へ……もとい下へ進み出せる。

「…………」

 ……地下一階はやけに遠いらしく、長い沈黙が降りる。体感としてはもう地下五階くらいを通り過ぎたイメージで、嫌な予感が毎秒ごとに増していく。

 今向かっている場所が本当に「本屋の倉庫」なら、行き来するたびにこんなに時間を取られる不便な地下奥深くにわざわざそれを設けるとは思えない。俺は、ほんの少し前に脳裏をよぎった不穏さを再び思い出す。「俺は今どこへ向かっているのだろうか……。」

 チーン、という音と共に。エレベーターは突然あっさりと停止した。扉も開く。

 開いた先に見えた物は、短い廊下と突き当たりの扉だった。廊下の床には高そうなカーペットがみっちりと敷かれていて、奥の扉は高級感のある黒色かつ両開きになっている。

 その扉の前に、ゴリラみたいな体格をしたスキンヘッドの男がスーツを着て立っている。明らかにお互いの存在を認識しているはずだけど、その男はピクリとも反応を見せなかった。

「…………」

 あ、来ちゃダメなところだ。直感的にそう思った。

 しかし矢印は真っ直ぐ正面を指している。

「なに突っ立ってるの。行こうよ」

「え、えぇ……」

「大丈夫、ただの裏社会だよ」

「大丈夫じゃなさすぎる」

 天国のすべてが俺にとっては無害……その意味合いが、たとえば飛び交う銃弾が全てギリギリで当たらないだとか、そういうことでは困るのだ。こちらの心臓はセミの絶叫によって寿命を僅かばかり取りこぼすような小心者仕様なのだから。

 しかし残念ながら俺の半径30cm以内には、心臓はともかく、脳みそや舌がもう一人分ある。

「すいませーん!」

 ユリがゴリラ男に向かって呼びかけた。

 エレベーターの扉は、なぜか今度は一向に勝手には閉まる気配がない。ゴリラ男がこちらに向かって歩いてくる。……退路無し。

「何か?」

 その男は俺を見下ろす形で、似合わない笑顔を顔に貼りつけて、低い声に似合わない愛想をその一言に宿していた。

 パニクる俺のかわりにユリが答える。

「彼、ここに来るの今日が初めてで。あの扉の先に入ってみても?」

「えぇ、もちろん。いつでも歓迎しております」

 簡潔に答えた男が、ニコリ……と改めて微笑む。ユリに対してではなく、明らかに俺の目を見て。

 俺は苦笑いで返すしかなかった。そして交通整理よろしく手のひらで勧められるまま、沈み込むようなカーペットを一歩一歩踏みしめて重々しい扉の前まで行く。

 両手が塞がっている分、ゴリラ男がついてきて扉を開けてくれた。押戸だったから、一応自力で入れないこともなくはなさそうだったけど、それより何より背後に立たれるとそれはそれで威圧感がすごい。

 びびりながら扉の先へ行く。そこは広めの部屋になっていた。大体学校の教室一つ分くらいの広さに感じる。隅に小さな扉が設けられていること以外には小道具の類はほとんど置かれていない。……ただ一つ、壁際の中心にドンと置かれた巨大なベッド一つを除いては。

 そのベッドの上を見て絶句した俺の背後で扉は閉じられた。重く、部屋の内から見れば引戸であるそれは、俺ではないもう一人の脱出をゆるやかに……しかし圧をもって拒絶しているように感じる。

 ベッドの上には裸の女が横たわっていた。その女は目隠しのアイマスクと口枷のギャグボールを付けられて、ベッドの枠組みに手錠で両手を繋ぎ止められていた。……下腹部には、何か紋様のような物が浮かんでいる。あれがサキュバス特有の淫紋というやつか?

 そう呆気にとられている間に、入室者の存在を察知したその女がくぐもった声で叫んだ。

「んぅ! んぅーんぅ!!」

「…………」

「……あれ、もしかしてさっき一発抜いたの失敗だった?」

「そういう問題じゃない」

 が、なんとなく状況が分かった。

 要するにここは、いわゆる違法風俗だということか。あるいは単に監禁部屋か。

 本屋の地下にある理由は、「そんな場所にはなさそうだから」だろうか? やけに地下深くに作ったのは、目の前の女が万が一逃げ出そうとした時に捕らえる時間的猶予を確保しやすいからとか、あるいは招かれざる客をシャットアウトする猶予を確保するためだろうか。

 よく見ると、部屋の角上方には監視カメラが隠れる気もなく設置されていた。本屋の店先にだって、エレベーターにだって、意識していなかっただけであったのかもしれない。本来なら俺のような一般人は立ち入れなかったのだろうけど、ここが俺の天国だからという理由だけで、こんなところまでうっかり辿り着いてしまった。

 ベッドの上の女はなぜ手錠で繋がれているのだろう。ここの客層がそういう物を好むのだろうか。あるいは、そうしておかなければ逃げ出してしまうほどに、彼女は同意なくこの場に監禁されているのか……。

「あ、ちなみにその子、会話できるよ」

「え?」

 なんだそのゲームみたいなアドバイス……と思いかけて、確かに違和感に気がつく。

 口枷の向こうで「助けて!」とか「来ないで!」と叫んでいるなら、何かもっとこう、手錠をガチャガチャ鳴らしながら暴れ回ったりしていそうなものだけれど。よく見るとその点、目の前の彼女はおとなしい。その上彼女は、最初に一言二言叫んだきりスンと静かになってしまった。性奴隷扱いで監禁されているにしては諦めが良すぎないか。

 実は全然思っている状況とは違うんじゃないか? そう思えてきて、試しに靴を脱ぎのしのしとベッドの上にあがって、彼女の口枷を解いてみた。

 ギャグボールに触れたのはそれが初めてだったけれど、手先の作業に自信がなくてもすぐに外れた。その間相手の方は身じろぎ一つしなかった。

 口が自由になると、塗ったリップクリームを満遍なく広げる時のようにもごもごと口元を動かした彼女は、すぐに再び大きく口を開いた。

 ……その口内を眺めるだけの時間が、十数秒ほど続く。

「……ちんぽ突っ込まれるのを待ってるんじゃない?」

「あっ、そういうこと!?」

 ベッドの上に置いたユリ(生首)からのツッコミがなければ、あと三十秒くらいは謎の間が続いていたかもしれない。ついていけない、この下世話な世界のスピードに。

 ともかく、ここはマイクテストじみた咳払いを一つ。

「あの、すみません。よければ少し話したいんですけど」

「あえ? あ、はい! よろこんで!」

 居酒屋かな? ……思わずそうツッコみたくなる程度には、その声には怯えや憔悴の類が乗っていなかった。ただバカみたいに元気な声だった。

 よく考えたら、会話といっても何を話せばいいのだろう? 少し迷ってから、単刀直入に聞く。

「あの、すみません、実は……。なんていうか、まず今、生きた生首と行動を共にしてまして」

「……なまくび?」

「そうです。喋るんです」

「ユリって呼んでね」

「わ、えっ、今の生首さんですか?」

「あ、目隠しも外しますね。生首見ても怖くないですか?」

「大丈夫です!」

 口枷に続いて目隠しも解く。

 監禁被害者とは思えないほどキラキラした目が、もう一つの声がする方にバッと振り向いた。頭一つ分の距離をおいてユリと彼女の視線が交差する。

「おぉー……」

 まじまじとユリを見つめるその視線に、俺はなんだか安心する。喋る生首を珍しいと思う人がこの世界にもいたんだ、俺だけじゃなかったんだと。

 見つめ合う二人の美少女。片方は生首、もう片方には手錠あり衣服なし。その二人のことを服を着たままベッドの上でぼんやり眺める、裏社会には明らかに場違いの男。……シュールな光景を監視カメラが記録し続ける。

 十分にユリのことを観察し終えたらしい彼女が、勢いよくこちらを振り返った。

「それで、なんでしたっけ?」

「あ、はい。えっと、これはダメ元で聞くんですけど、そこの彼女……ユリさんの体がどこにあるのか、知ってたりしませんか?」

「あ、一ミリも知らないですっ。ごめんなさいっ」

「あ、いやいや、ですよねぇ」

 何やってるんだろう俺……と虚無の心がよぎる。

 天国に来て、ユリの体を探そうという話になり、矢印が視界に現れ、それに従ってここへ来たわりに、手がかりは一瞬で途切れてしまった。残ったのは、間抜けな質問をした男の姿とそれを取り巻く気まずさだけ。

「あなた名前は?」

 ユリが尋ねる。しまった、それを最初に聞くのが礼儀だった……と俺は内心で恥じる。

「小夏(こなつ)です! 小さいにサマーで小夏です。源氏名ですけど」

「本名は?」

「言うなって言われてるので言えません、ごめんなさいっ」

「そっか。ところで、さっき私たちが部屋に入ってきた時なにか叫んでたけど、あれはなんて言ってたの?」

「あ、特に何も! 目隠ししてジッとしてると起きてるのか寝てるのか分からないので、起きてますよアピールです!」

「へぇー。だってさ」

「えっ」

 変なところで話を振られた。

 淫紋の存在からして、小夏は確実にサキュバスだ。サキュバスであれば、違法風俗に囚われてもわりと元気に生きていけるものなのかもしれない。やたら元気な受け答えから、どうやらそうであるらしいことが確認できてひとまずは良かった。そう胸をなでおろしながら聞く。

「あー。小夏さんは、なんでここに居るんですか?」

「あ、借金です。返すまで外に出られないんです」

「え」

「不眠不休で毎日働いてるので、よかったらお兄さんも常連さんになってくれると嬉しいです!」

「……あ、あぁ、うん」

 不眠不休? と一瞬引っかかるけど、それをすぐに別の思考が押し流していく。

 どうしよう……と、これまで怒涛の勢いのままに忘れていた一つの事実を俺は思い出したのだ。つまりそれは、自分がここに立ち入るためにまだ一円の金も支払っていないのだということを。

 いや、帰り際に払うタイプかな? 願えば叶う力で札束を用意して、それをあのゴリラ男に渡して、小夏の借金が減って、人間的にはともかくサキュバス的にはハッピーエンドって感じになるのかな? ……嫌な予感はしつつも、ユリを抱き寄せながら小声で聞いてみる。

「ちなみにここの支払いっていくら……?」

「君はタダに決まってるでしょ。ここは君の天国なんだから」

「いや、天国なら札束だって出せるんじゃ……」

「そうだけど」

 ユリの目尻が、口角が。付き合いの長い相棒がお決まりのジョークを口にする時みたいに、イタズラに笑みを浮かべる。

「それでもタダなのが、君の天国だよ」

「えぇ……?」

「小夏ちゃんさぁ!」

 小声で話せる距離に寄せていたユリが、それをお構いなしに叫ぶ。俺は思わず彼女の首を押しのけるように耳元から離し、用があるらしい小夏の方にその目線が向くように配慮した。

 それがまるで、続く言葉の片棒を担いだかのようになった。

「彼は、この部屋にタダで入れるんだよね。だから彼がいくら来ても小夏ちゃんの借金は一円も減らないけど、彼の機嫌を損ねると悪いことが起きるんだよ」

「なっ」

 人として、いよいよ反射的に、ユリの正気を疑う。

 元々不思議そうな顔をしてコソコソ話を見守っていた小夏が、ことさらキョトンとした顔をする。俺にはそれが、時が凍りついた瞬間のように感じられた。

 口枷を外して、目隠しを外して、小夏の表情はずいぶん見やすくなったように思う。……彼女の苦痛に歪む顔を見るために同じことをする男が、この部屋にはよく来るのかもしれない。ふとそんなことを思う。

 だけど今、目の前で起こった彼女の表情の変化は、悲痛さとは程遠かった。

「あれ? そうなんですねっ。でも、常連さんになってもらえるように、あたしちゃんと頑張りますよ!」

 ガシャンと、手錠の鎖がベッドの枠組みに擦れて鳴る。小夏の両手はガッツポーズのように力強く決意をあらわにしていた。瞳には仕事へのやりがいのような物が宿って見える。

 ……何かおかしいんじゃないか? 俺はようやく違和感を持った。彼女が同意の上で前向きな気持ちで働いているなら、なぜ手錠をかける、監視カメラを付ける。なぜこんな地下に押し込める。借金返済のために体を売る女性なら、こう言ってはなんだけれど世の中に何人もいるはず。しかしその人たちの大半は、小夏のような扱いを受けてはいないだろう。

 躁うつ病……その一言が脳裏をよぎる。小夏の明るさが一時的に現れる虚像なら、全てに説明がつく気がした。

「で、どうする?」

 ユリが俺に問いかける。呆然とした俺に抱えられて、目線は小夏の方を向いたまま。それでも声音一つで、今誰に話しかけているのかが分かる。

「せっかく来たし、小夏ちゃんのこと犯して帰る?」

「……そうしないと何かまずいことが?」

「いやべつに。良くも悪くもここは、NG無しだから。ね?」

「はいっ」

 小夏が元気よく答える。……いや、元気よくというか、話の向かう先がなんであろうとそれを感知していないかのように、彼女の受け答えの雰囲気は一貫して変わらない。

 ユリの体の手がかりはここにはなかった。小夏にこれ以上のちょっかいをかける理由もない。なら俺は、さっさとこんな場所からはお暇するべきなのだろう。この世の闇の一端を見ておいて、それを見て見ぬフリするように立ち去るのはいささか心が痛むけれど、しかし俺には何をどうすることも……。

「……ん?」

 気づく。自分の思考が、実態にそぐわず一般人然としすぎていたことに。

 一般人である自分に裏社会の闇を祓うことなど出来るはずがない。無意識にそう考えていたけれど、それは違う。ここは俺の天国で、俺には特別な力がある。小夏を救うことくらい造作もないことなのではないか?

 しかしそれに気づいた瞬間に、連鎖的に様々な疑問が頭をよぎる。「小夏を救う」とは具体的になんだ? 彼女の借金を俺が返済すればそれで彼女は救われるのだろうか。彼女はすでに精神病を患っているかもしれなくて、外の世界に頼る当てがあるのかも分からない。ただこの部屋から連れ出してそれでハッピーエンド……となるかどうかは分からないんじゃないか。

 全能の力は、願わなければ発動しない。漠然と救いたいと思うだけでは叶わないかもしれない。いやしかし、飴が勝手にソーダ味になったように、細かいところは自動で解決されるのかもしれない。とはいえその実験をいきなり小夏でやろうというのは人道的なことではないだろうし……。

「どうかしましたか?」

「え?」

 尋ねてきたのは小夏だった。手錠をかけられたまま、散歩中に舞う綿毛を目で追う時のように気が抜けた顔をしている。ここに来る客からきっと今まで相当ひどいことをされてきただろうに、サキュバスなら……あるいは病であれば、そういう顔もできる物なのだろうか。

 俺は思わず、その疑問を口にしていた。

「小夏さんは、結構ひどいことされますか」

「え?」

「ここに来る客から、普段。NG無しだと」

「……あ〜」

 彼女は初めて物思いに耽るような表情を見せた。そしてすぐに答える。

「ひどいことって、どんな感じのことが当てはまるんでしょう……?」

「……血が出るとか?」

 適当に答える。

 正直、もうそのやり取りに意味はなかった。小夏の聞き方は明らかに、相当なことを経験している人の物だったから。

「血は、よくありますね」

「ここから出たいって思ったことは?」

「ありません」

「……あー」

 即答ながら、そこにはさっきまでの元気がこもっていなかった。それで俺は、監視カメラの存在を思い出す。……あのカメラ、音声は記録できないのだろうか? できるのだとすれば、ここでのやり取りに意味などそもそも生まれようがない。

 それでも、ダメ元で聞いてみる。

「もし出れたとしたら、やりたいことは?」

「出たくないです」

「どうして?」

「借金が……」

「それを完済できたとしたら!」

「したくないです」

「なっ……。……いや、そうか」

 そう言うしかないのか……。小夏に血を流させる相手は、客ばかりとは限らないから。

 俺がこの世界で持っている力を使えば、ひとまず彼女を地上に連れ出すことは可能だろう。彼女に安全でまともな生活を提供することだって出来るはず。しかしそれをしたとしても、その後彼女はずっと「連れ戻される恐怖」に苛まれながら生きていくことになるのだろうか。それでは救われない。俺はどうすれば彼女を救ったことになる……?

 どこかに向かえば、その答えが見つかるならいいのに。そう思っても、視界に再び矢印が現れることはなかった。

 そのかわり、

「どうしてそんなにまどろっこしいことをするかな」

 焦れたかのように、ユリが口を開いた。

「ここは君の天国なんだよ? なんでも思い通りになるのに」

「なんでも……? ……あぁそうか」

 監視カメラなんて俺の力で止めてしまえばいいんだ。そう閃いた矢先に、さらなる発想が連鎖する。

 願えばなんでも叶うなら、人の本心を知ることだって出来るはずだ。

「小夏さん、正直に答えてください」

「はい」

「どうして外に出たくないんですか?」

「ここの居心地がいいからです」

「……え?」

 あれ?

 正直に答えてくれと願えば、その通りになるのではないのか?

 天国で使える力が聞いていた通りの万能さではないとなると、途端に天国のすべてに対する信用が揺らぐ。危害を加えるものはないという話も実は不完全で、自分は今、背水の状態にあるのではないか……と背中を嫌な汗がつたう。

 しかし、そこへ小夏が淡々と続ける。

「お兄さんは勘違いしてます。あたしのことを可哀想な監禁被害者だと思ってるんでしょう? でもあたし、本当は借金が全然減ってないことを知ってます。ここに来るお客さんたちが、あたしのことをオモチャとしか思ってないことも知ってます。でもそれでいいと思ってるんです。なぜだと思います?」

「な、なぜ……?」

「その方が、みんなが助かるからです」

 小夏の目にはもう、初めに見た時のような輝きはなかった。かといってその目は絶望に沈んでいるわけでもない。暗い光に射抜かれたようなその目は、思想の強いテロリストあたりもきっと同じ目をしているのだろうと想像させる代物だった。

「ヤクザの人は儲かって嬉しい。お客さんたちは遊べて楽しい。どこかの女の子は、あたしの代わりにならずに済んで安心。あたし一人がここにいるだけで、何人もの人が助かるんですよ」

「だっ……、でもそれは、小夏さんが」

「あたしはいいんです。オモチャ扱いも嫌いじゃないですし。みんなを困らせてまで外に出てやりたいことって、別にないので」

「いや、ないって、そんなのは……」

 そんなの、外に出てもいないのに分からないじゃないか。あんたは地上に何があるのか、自分が何を求めているのか、本当にちゃんと知っているのか……?

 思わずそう言いたくなったところを、反射じみた理性が妨げる。仮に地上に小夏の気を引く物があったとして、それに触れた彼女はどうなる? それまで持っていた思想犯じみた自己犠牲思考を、バカな考えだったとすんなり捨てられる物だろうか。……俺が彼女に葛藤だけを与えてしまう可能性はどれくらいある?

 豹変ぶりを見ても明らかに、小夏には俺の力がしっかり効いている。彼女は「正直に答えて」いる。その思想は正真正銘の本心だ。そんな彼女を、無理やり地上に連れ出してどうなるというのだろう。……こんな場所に押し込められて、本心からその思想を持てる人物は、すでにイカれているというのに。

「……ユリさん」

「なに?」

「小夏さんの精神が、自分自身すら騙している可能性はないんですか」

「どうかな、私も分からない。でももし彼女がそこまで壊れてると思うなら、君の力で治してあげるのも手だよ。……ただ注意した方がいいのは、それと洗脳は紙一重だってこと」

「……でしょうね」

 目の前で勝手な話が繰り広げられていても、小夏は何のコメントもしない。表情も変えない。まるでそれは、自分の意思はもう伝えたのだから、あとはそちらの問題だとでもいう風に投げやりで、連れ出すのでも洗脳でも、オモチャである自分は甘んじて受け入れるとでもいう風に極まっている。

 ……そういえば俺には、元から何が正義かなど分かっていなかったのだ。今、それを思い出した。

 この世界にだってきっと、何かしらの救いを求めている人が大勢いるはず。俺に与えられた力は理論上その人たちを救い得る。けれど今の今まで、そんなことは考えてもいなかった。ただ今思いつきで、偶然知り合った相手だけを恣意的に助けて、悦に浸りたいと思っただけ。……それすら満足に実現できないのだから、力だけあったところで俺は偽善にも辿り着けない。

 人には向き不向きがある。きっと小夏にはこの場所が本当に向いていて、俺には救世主の役が向いていないのだろう。もはやそう思うしかない。いや、そう思いたかった。

 俺は、小夏を助けることに意義を見出せなくなってしまった。信じる正義もなく一人相撲をしている気持ちになる。

「……帰りましょう」

「いいの? 小夏ちゃんとエッチしなくて」

「……俺、人前でそういうことするの嫌なんですよ」

 ここへ来る道中でしっかり射精しておいて欠片の説得力もない発言だったけれど、本心だった。

 ユリを抱えて靴を履く。両手が塞がった状態での引戸は、よく考えれば俺なら念じるだけで開けるものだった。

「お兄さん」

 背中に声がかかる。引き止めるつもりなどないことがその声音だけで分かる。

「ここの監視カメラの記録、お兄さんなら持って帰れると思うから、よかったら見てみてください。気に入る物が映ってるかも」

「……分かりました」

 普通ならSOSのサインか何かかと思うところだけど。小夏の場合は、本当に善意だけでそれを言っているのだろう。彼女は俺が「助かる」ことを望んでいるのだ。

 扉を抜けて廊下に戻ると、有無を言わせずにユリの方がそれを口にした。

「あ、すいません。小夏ちゃんの監視カメラの記録を持ち帰りたいんですけど。適当なのでいいんで」

「かしこまりました」

 ゴリラ男が、脇にあった事務室か何かの扉に引っ込んでいった。そんなところに扉があったことに今初めて気がついた。相変わらず諸々から威圧感は感じるものの、来た時ほどの気の動転は自分の中からすっかり失われている。

 数分ほどで男が戻ってくる。差し伸べられたUSBメモリを、ユリを脇に抱えながら受け取りポケットに入れる。生首の扱いにもだんだん慣れてきた。

「それじゃあ」

 俺のかわりにユリが別れの挨拶をして、この場を去る。エレベーターは誰かが普通に本屋の中で使ったのだろう、ボタンを押してから箱が到着するまでにずいぶんかかった。

 帰り道の長い上昇の中、各フロアの案内表を何とはなしに見上げながら、俺は問いかける。 

「サキュバスってみんなあんな感じなんですか」

「いやぁ、あれは特殊でしょ」

「あ、そうなんですね」

 それを聞けて安心した。

 ……が、気の休まる暇はない。エレベーターを降りて本屋から出た瞬間、視界にはあの矢印が再び現れたからだ。

 今度のそれは、本屋とは全く別の方向を指している。

「さて、次の目的地に行こうか」

「えっ。いや、次……?」

 まるで何かが進展しているような言い方をされても困る。

「え、今、何の収穫もなかったですよね?」

「体探しの意味では、そうだね」

「この矢印の行く先って何なんですか……?」

「裏社会への入口だよ」

「はぁ」

「首から下だけでも、サキュバスの体っていうのは有用だからね。あるとしたら裏社会のどこかにあるはず」

「……だからそれを手当り次第に?」

「そうだね。それしかないから」

「なんで手がかりの在り処は分からないのに、裏社会の入口の在り処は分かるんですか」

「それは私が案内人だから」

「……天国の?」

「そう。社会の闇を知らずして、この天国を知ることはできない」

「な、なんで?」

「行けば分かるよ」

「……えぇ」

 小夏に会って、何かが分かったとは思えないのだけど。

 しかしこの短い旅の中で、俺はすでに、ユリへの若干の愛着を得てしまった。だからここで体探しの旅を断固拒否するだけの理由が、今の自分にはない。体の手がかりは見つからなくても、せめて天国の案内人の思惑を理解できる時が来ることを祈って、渋々ながらもう少しこの矢印に従うことに甘んじることにする。

 俺がこの世界に立ち入った時点で、時刻は昼を大きく回っていたのだろうか。そういえば時計を見ていないが、太陽は目に見えて傾き、歩きながら眺めるとビルの影に隠れることが増えている。

 ここが天国であるというわりに、今は、俺の心にも同じように影が差している。なぜなのかは自分にもよく分からない。

 日が沈むまでに体が見つかればいいのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 矢印に従って歩くことで、俺たちは喧騒的なエリアから徐々に離れていった。建物は少しずつ低くなって、人々の歩みも心なしか緩やかになって見える。通りすがりに、公園を走り回る子どもやそれを見守る親の姿を眺めると、それがどこかすごく遠い存在に思えた。

 道中、ユリはやはりよく喋った。

「小夏ちゃん、不眠不休で働いてるんだってね」

「あー、なんかそんな感じのこと言ってましたね」

「反応薄くない?」

「いや、年間365連勤がとんでもないことなのは分かるんですけど……」

 しかしユリはたしか、サキュバスの特徴の一つに「不死身」を挙げていた。不死身の存在にとっての連勤がどの程度の過酷さなのか、俺には分からない。そして実際、小夏は平気そうにしていた。

 自分なら絶対に御免なことを、「あの人は平気そうだから」というだけの理由で納得しようとする。男の脳みそは根本がフェラチオの要求に似ているのかもしれない。

「いや連勤っていうか、不眠の方がやばくない? 365徹だよ?」

「えっ? 単にゆっくりは寝られてないとかではなく?」

「さぁ……?」

「さぁって……」

 サキュバスなら理論上はそれが可能ということなのか。もし本当にそんな働かせ方を強制されているなら、さすが不死身の女がいる世界の違法風俗は伊達ではないといっそ感心したような気持ちになってしまう。

 小夏はきっと、一日くらいゆっくり眠りたいと思うことはないのかと問われれば無いと答えるのだろう。……そんなことを考えるとまた気持ちが沈んできてしまう。

 車道を挟んだ向かいの歩道を母親と一緒に歩いていた女児が、正面から歩いてくる散歩中の犬を指さして「わんわん! わんわん!」とはしゃいでいた。しかしすれ違い様、その犬にバウバウ!と思い切り吠えられると、その子は心臓が止まりそうな勢いですくみ上がって無言になってしまった。

 すいません〜と言いつつ去っていく犬と飼い主。びっくりしたねぇ〜と我が子に同情する母親。強がりなのか、ぶんぶんと首を横に振るキッズ。

 ……あんな牧歌的な光景の中にいる人たちですら、将来、小夏のようになる可能性を秘めているのだろうか。

「ちなみにサキュバスって、あのくらいの手錠なら普通にひきちぎるからね」

「えぇ。じゃああれはプレイ専用のってこと……?」

「そう。怖いよね」

「いや、見たわけじゃないから実感ないですけど……」

 実感はないけれど、小夏に関してはむしろそうであってくれた方が安心できるような気がする。彼女が何を優先して生きるかはともかく、その気になれば抵抗できることとそれすら不可能なことには天地の差があるから。

「見たら引いちゃうかもね」

「音とかエグそうですもんね。ちぎったら」

「だからサキュバスは、人間の前ではあんまりそういうことはしたがらないんだよ」

「へぇー」

 それは単なる配慮なのか。それとも、性欲を吸って生きる魔族の生存戦略なのか。びびった男が勃起するとは思えないから、後者の気もする。

 ふと前方から、そこそこ大きな犬を連れた女性が歩いてくるのが見える。さっきのキッズが吠えられていた様を思い出すと、大人気なくも少なからず緊張してしまう。全能の力を持っていても心はそれに追いつかず、俺は普通の人間として「万が一の事があれば、人は犬に勝てない」ということを意識してしまう。……その気になっても満足に抵抗できないことの恐怖とは、まさにこの類のものだろう。

 大きな犬は、こちらに一瞥だけ寄越したあと素通りしていった。

「サキュバスの強さって全部、魔力ありきだからさ。性欲の対象にならないとやばいわけ。か弱い女の子を見た時の方がムラっと来るでしょ?」

「あ、やっぱり」

「やっぱり?」

「そういう感じかなって思ったんです。サキュバスがなんていうか、人間っぽいのは」

「えぇ。分かってたなら、なんで小夏ちゃんを抱かなかったの」

「え?」

「その方が彼女は喜んだのに」

「……だからそれは」

 人前でセックスをするのが嫌だった。たとえその「人」というのがサキュバスの生首だったとしてもである。……なぜならそれはしてはいけないことである気がするから。俺は自分のセックスを見られたくないのではなく、自分の悪事を見られたくないのだ。

 と、言い訳の言語化を脳裏に探していた時。

「お?」

 これまでずっと正面を指していた矢印が、ぐいっと右に曲がった。本屋の時のように目的地に到着したのかと思い、その場で立ち止まり右を向く。……しかし車道を挟んだその先には、コインパーキングと自販機があるばかりだった。

 パーキングには何台か車が停まっている。そのどれかの中にまた違法な働かされ方をしているサキュバスでも乗っているのだろうか。そう考えて目を凝らしてみるけれど、いくら睨んだところでどの車も無人にしか見えない。しかし考えてみれば、俺たちが目指している物は違法絡みのサキュバスではなく「裏社会」なのだ。それならたとえば、あの車のどれかに麻薬か何かが積んであって、それに絡むことで話が進展する可能性だってある。

 ……と、我ながら物騒な可能性を考慮していたのだけど。

「あっ?」

 駐車場を睨みつけている間に、矢印が動いた。その切っ先は徐々に左側に回って、ゆっくりと正面に戻ろうとしている。

 目的地が移動している……? そんなことがあり得るのか? と咄嗟に思いかけるけれど、それこそ「目的地」が麻薬その物なら、運搬されることでそれが移動する可能性は十分にある。……いや、しかしそれにしては矢印の動き方が緩やかすぎる。まるで徒歩で、俺が今いる道と垂直に交わる向こうの道の奥から歩いて来ているみたいだ。日が傾きかけているとはいえこんな明るい時間帯から、違法な物品を徒歩で運搬なんてするものなのか? ついさっきまでずっとそれが動いていなかったことも気になる。穏やかな街中にポツンとコインロッカーが置いてあって、そこから運び屋が持ち出したとかなのか……?

 とにかく、真相はこの目で確かめるしかない。見てそれと分かる物であってくれればいいけど……と思いつつ直近の交差点に向かう。予想通り、矢印は直角の曲がり角の先から歩いてくる人の集まりを一貫して指している。

 十字の交差点に着くと、大量の中学生だか高校生だかが右手側の信号の向こうに溜まっていた。わらわらと続くその学生の群れを見るに、どうやらその道の先には学校があって、今はちょうど下校時刻らしい。信号が青になると、ちょっとしたウォーリーを探せみたいな密度のティーンエイジャーたちがお喋りに花を咲かせながら横断歩道を渡り始める。矢印はそちらに向いているので、俺も学生集団とすれ違うようにそこを渡る。

 しかしその瞬間、ぐりんっ……と矢印が180度反転した。

「え……」

 目的地になっているのは、今すれ違った学生のうちの誰かだと……? 学生が運び屋? スペース的にはそりゃあ学校指定のカバンに薬でも銃でもしまい込めるだろうけど、いや、しかし、いくらなんでもそんなことが実際にあるのか……?

 周囲の目が気になる。ここで踵を返しては、学生たちをストーキングする形になってしまうから。……しかしやるしかない。どうせこの世界は俺に危害を加えて来ないのだから、通報されることもないはずだと信じて。

 横断歩道を半ばでUターンして、学生集団のあとをつけていく。やはり矢印は間違いなくそのうちの誰かを指している。しかしその検知能力はそこまで詳細な物ではないらしく、歩道の左右をスライド移動した程度では切っ先が振れもしない。この矢印によって集団の中から一人を見つけることは不可能に思えた。

 しかし幸いにも、それから五分もしないうちに、矢印は再び90度ほど大きく回転する。分かれ道で「じゃあね」と集団から別れた一人の学生の方を、切っ先が明確に指し示したのだ。

 その学生は女子だった。ポニーテールと小柄な体格が後ろ姿からも特徴的といえば特徴的で、当然ながらまったく運び屋には見えない。

 道のそこかしこには、他の学生や一般人が歩いている。俺はこのまま彼女を家まで尾行するのか? 声のかけ方も分からないから消去法でそうするしかない気がするけれど、いくら女性の99%がサキュバスの世界でも、子ども相手にそれをするのは気が引ける。いや大人相手なら良いという話ではまったくないのだけど……。

 と、自分で自分に言い訳をしながら、周囲からの視線に疑心暗鬼的に敏感になっていた時のこと。

「永平真希(ながひらまき)さん」

 ユリが突然声を張って、誰かの名前を呼んだ。

 数メートル先を歩いていた女子学生が、体ごと振り向く。

「今日って予約入ってる?」

 生首からそう尋ねられた彼女……マキが一瞬目を見開いたのは、超常現象に対する驚きだったのだろうか? それにしては彼女はユリではなく、俺の方を見ていた気がするけれど。

 マキがツカツカと歩み寄ってきて、ユリを見下ろすように一瞥したあと、やはりはっきりと俺の顔を見て言う。

「すみません。今晩は埋まっていて」

「今晩? じゃあ夜までは時間あるの?」

 押しの強い言い方に、マキはまたジロリと恨めしそうに生首を見下ろす。黙っているだけの俺は会話への入り方も分からず、そもそも何を話しているのかも分からず、ただ気まずくなって、ユリのことを胸の高さまで持ち上げた。

 よく見るとマキは体格の印象通り、顔立ちもかなり幼く見える。けれどそこに浮かぶやや厭世的な表情がミスマッチで、いまいち年齢を測りきれない。入学したばかりの中学生だと思えばそうである気もするし、大学受験を控えた高校生だと思えばそうである気もする。

 彼女は諦めたようなため息を吐いて、ユリの問いに答えた。

「空いてます」

「じゃあ今から彼と、よろしく」

「分かりました。……家こっちです」

 ポニテを揺らして回れ右。背を向けた彼女が、声をかける前と変わらないペースで歩き始める。それについて行く形になる俺は、なんだか不可抗力のストーカーに戻ったような気分がした。

 ……なんとなく、あまり察しが良い方ではない俺の脳裏にも嫌な予感が漂い始める。矢印は依然としてマキを指しているが、つまるところその矢印は「どういったものを指す物」なのか? 裏社会への入口だとユリは表現したけれど、それでは抽象的すぎる。この矢印は、本当にそんなに抽象的な物だろうか。

 俺はこれからマキの家で、一緒に大麻でも吸うのだろうか? 今現在の彼女がそれをカバンに忍ばせているわけではなくても、違法薬物やそれに絡んだ裏社会への入口には違いないから矢印が彼女を指しているのかもしれない。……が、実際は違う気がする。というのも、全く詳しくないけれど、たぶんおそらく、麻薬とはべつに予約制で一緒に摂取する物ではない気がするから。予約制で購入だけするならまだしも、マキとユリは明らかに在庫の余裕ではなく時間の余裕の話をしていた。

 十分ほど歩いた先の、何の変哲もない一軒家の前で、マキは足を止めた。制服の内ポケットから玄関の鍵を取り出して、彼女は無言で帰宅する。

 ユリをまた脇に抱えて、閉まりはしたが鍵がかけられることはないその扉をこの手で開く。知らない人の家の扉を自らの手で開いた経験はこれが初めてかもしれない。初めて行く家の玄関は、普通は家主が開くものだから。

 マキは俺を歓迎していない。一方で、物理的な拒絶もしていない。……というかきっと、それが出来ない事情があるのだ。

「部屋、二階です」

 玄関を入ってすぐに螺旋状の階段があり、その上の方からマキの声がする。俺は靴を脱いで彼女を追う。

 二階にはいくつか部屋があったが、そのうちの一つだけ扉が開いていた。中を覗くと、勉強机にベッド、本棚、明るい色のカーテンで遮られた窓に、埋め込み型のクローゼットが目につく。……要するにそこはマキの部屋で、本人がその中央に立ってこちらを待ち構えていた。

 小学生の頃に買った物を替えていないのだろうか。勉強机の下には、ひらがな五十音の載ったカーペットが敷かれていた。

「扉、閉めてください」

「あ、うん」

 言われて部屋の扉を後ろ手に閉める。ちらりと確認すると、どうやら施錠機能はないようだった。

 ……そしてその扉が閉じられた瞬間。長いため息を吐いたマキが、制服の上着を脱ぎ始める。

 脱衣が上着だけで留まる様子は、案の定なかった。

「待った!」

 シャツのボタンを外し始めた彼女を制止する。

 一瞬見えた怪訝そうな顔が、すぐに不自然に明るい微笑みへと移り変わる。威圧感とは無縁ながら、それはあの地下で屈強な男が浮かべた笑顔と同じ、分かりやすく上っ面の嘘だった。

「あぁ、着たままの方がいいですか」

「いや、違う。ごめん、その……俺は君を買いに来たわけじゃないんだ」

「……はぁ」

 マキの表情に本心からの怪訝さが戻る。

 やはりそうだ……彼女は売春を強制されている。それが貧困という無形の圧力から来る物なのか、それとも虐待やいじめの一環として起きている物なのかは分からないけれど、結果としてある物はとにかく未成年の売春に他ならない。

 あの違法風俗に行った時も、矢印はその「場所」を指していたわけではなかったのだ。矢印は小夏という「人物」を指していた。あの矢印は、違法性の渦中にある被害者そのものを指す物なのだろう。ユリとマキの会話を反芻しながら歩き、今この状況にたどり着きもすれば、さすがの俺でもそのくらいは察せる。

 そして俺の目的とはそもそも、ユリの体を発見・回収すること……それ以外にない。俺はそのことをマキに説明するべく試みた。

 すると、生首に驚かない人物の順応力はやはり相当高いのだろうか。彼女はすんなりとこちらの話を理解してくれた。

 ベッドに腰かけたマキから、勉強机に備え付けられている椅子を勧められる。俺は素直にそれに座り、ユリのことは机の上に置いた。

「なるほど……。つまり裏社会をしらみ潰しに探せば、いつかはその体にたどり着けるかも……と」

「そう、そういうこと」

「なら確かに、わたしの父が何か知っているかもしれません。……あ、体のことではないですけど。その、そういう人とも繋がってると思うので……」

「お父さんか……」

 というと、マキは父親から売春を強いられているのか。そしてその父親には、同じ穴のムジナである知り合いがいると。

 俺は矢印に従って裏社会観光をしていればそのうちゴールにたどり着けると思っていたけれど、この矢印の指す先が場所ではなく被害者そのものなら、「切り離された体は「被害者」に判定されるのか?」という問題が付きまとう。体が被害者判定を受けず、場所はそもそも矢印に指されないとなれば、場合によっては「矢印だけの力では一生ゴールにたどり着けない」ということになる。それを思えば、もしかするとマキの言う通り、人脈による力を重視するべきなのかもしれない。

 しかしそうは言っても、犯罪者共と密なコミュニケーションを取ることには普通に気が進まないのだが……。

「あ……」

 何かに反応したマキが、不意に立ち上がる。カーテンを開けて窓の外を見下ろす。

「父です」

 そう告げる彼女の声は、少し震えていた。

 よく耳を澄ますと、確かにこの家の下あたりから車のエンジン音が聞こえる。間もなくしてそれは止まり、ドアが開閉する音、扉をロックする音。……それから今度はもっとはっきりと、一階で玄関の鍵が開く音がした。

 虐待の加害者の帰還に、きっとマキの内心は表に出ている様子よりもずっと深刻に震え上がっているのだろう。しかし言ってはなんだけれど、この状況にびびっているのは俺も同じだ。家主と鉢合わせるまで秒読みになったことを悟った空き巣の気持ちとはこんな感じだろうか? 娘を売り飛ばすような鬼畜が、がさつな足音を立てながら階段を登ってくる。……俺はどうなる? どうすればいい? 大体、社会人が帰宅するにしてはちょっと早すぎないか、窓の外はまだ夕暮れにもなっていない!

 その男は、ノックもせずに娘の部屋のドアを開けた。

「……おっ?」

「……お、お邪魔してます」

 目が合い、俺は椅子から立ち上がりながら、とりあえず会釈をしてみる。

 真希の父親は、特別悪い人間には見えない風貌をしていた。身だしなみが荒れているわけでもなく、体型がだらしないわけでもなく、表情にサディズムが透けているわけでもなければ声に威圧感があるわけでもない。ただたまたま早く帰ってきただけの、私服が許されるタイプの業種に就いているお父さん……そんな第一印象だった。

 だけどそんな普通らしく見える彼は、俺の存在を認識するなり柔和な笑顔を浮かべて、言った。

「あぁ、あなたでしたか。そいつブスですけど、何してもいいんで。可愛がってやってください」

 それだけ言って、父親は去る。臭いものに蓋をするかのように、何の躊躇いもなく部屋の扉を閉めて。

 三人きりの密室(一人は生首)に戻った部屋には、なんとも言えない気まずい沈黙が漂い、足のある者は立ち尽くすことしか出来なかった。

 だがどうやら足のない者は、ただ発言の間を伺っていただけだったらしい。

「真希ちゃんは可愛い方だよね」

 机の上の生首が、マイペースにそう言った。

 冗談を言っていられる状況でもないのに、俺は思わずツッコミのニュアンスでそこに対応する。

「なんですか「方」って」

「いやだってサキュバスって美人率高いし」

「相対的な物じゃないでしょうそういうのは」

「顔面偏差値っていうのに?」

「……え? 偏差値って相対的な物なんですか?」

「……あっ。ごめんそっか、君はそのレベルだった」

「えっ、ど、どのレベル……?」

 ユリはわざとらしい苦笑を浮かべて黙る。なんとなく雰囲気で、自分が金さえ払えば誰でも入れるような通信制の高卒であることに原因がありそうなところまでは分かった。俺は知らぬ間に「FランのFはフェニックスのF」みたいなことを言ってしまったのかもしれない。この話にはこれ以上関わらない方がいい。

「あっははは!」

「うおっ」

 突然の大きな声に肩が跳ねる。見ると、マキがくしゃっとした顔で俺たちを見て笑っていた。

 この子、ちゃんと笑えるんだ……と、無責任にも意外性を感じる。無責任にも、少し安心する。

「二人とも、仲良いんですね」

「でしょ」

「え、いや今日知り合った仲……」

「えっ、そうなんですか?」

「まぁ細かいことは気にしないで」

 そうだな、生首も喋ってるくらいだし、細かいことは気にしない方がいい。

 ひとしきりやり取りが終わると、沈黙は再び降りてくる。けれどもうそこに気まずさはなかった。俺たち三人はなんとなく察したのだろう、自分たちが今の状況を結託して切り抜けるべき仲間同士であることに。

 なにせマキの父親は、俺とマキがセックスすると思っている。彼とは初対面のはずなのに俺のことを知っている素振りだったのはきっと、違法風俗に顔パスで入れたことと同じ天国の仕様だろう。天国の全ては俺に危害を加えないどころか、おそらく人の記憶や認識すら都合よくねじ曲げる。……が、その恩恵を得られるのは俺だけで、マキも同じようにはいかない。

 俺がこのまま数分も経たずにこの場を去ったらどうなる? あの父親は、娘が客に何かしらの粗相をやらかしたと考えるのではないか。そうなるとマキの身が危険に晒される。が、だからといって、まさか本当にセックスをするというわけにもいかない。

 俺は天国から授かった全能の力によって、このピンチを乗り切らなければならない。そのためにはマキの理解と協力が必要不可欠だ。

 一番手っ取り早いのは、父親の認識をさらにねじ曲げて「客が早々に帰ったのは自然なことだ」と思わせることだけれど……。

「さて……。それでマキちゃん、これから俺たちがどうするかだけど」

「……ですね」

 わずかに……しかし明確に、マキの纏う空気に警戒の色が戻る。サキュバスといえども、やはり売春は彼女の心を深く傷つけているのだろう。……だから俺のミッションには、父親を誤魔化すことの他に、彼女を安心させることも含まれている。

 そのために俺は、現時点でこちらの持っている情報や考えている内容を全てマキに話した。彼女に手を出す気はないこと、俺一人だけがあらゆる危害から守られていること、俺には願いを叶える全能の力があること、それはおそらく洗脳にも使えること。そして、現状への解決アプローチには洗脳以外の選択肢もあること。

 なぜ洗脳一択ではないのかといえば、それはマキの今後の生活に問題があるからである。

「洗脳の難点は、パッと思いつく物で二つ。一つ、絶対に解けないという保証がないこと。二つ、物事の認識が狂った父親と、マキちゃんが今後も生活していかなきゃいけないこと」

 俺があらゆる場所・相手に顔パスを通せているのは、危害を遠ざける作用の一環だと考えられる。だから俺自身の身を守るために全能の力で洗脳を行うのであれば、それが意図せず解ける心配などは無いと考えられる。しかしそれを俺以外のため……マキのために使うとなると、その効果の絶対性までは保証できない。いや、あるいは「絶対に解けない洗脳を」と俺が願えば、それも叶うのだろうか?

 仮に叶うとしよう。けれどその場合でも、マキは結局「様子のおかしい父親」と生活していくことになる。しかもその生活は、力の主ですら「本当に大丈夫なのか?」と心配になるほどのぶっつけ本番の上に成り立つ物で、万が一洗脳が解ければ一大事、解けないなら解けないで不気味……と不安定な状態が続くことになる。マキがそれを気にせずにいられるなら良いのだけど……。

 娘に売春をさせる父親なんて、元々様子がおかしいどころの騒ぎではないだろうに。と、そう思うのは部外者だけで、この手の認識は、当事者が同じように割り切れるとは限らない。

 実際、こんな突拍子もない前提ありきの話をすんなりと理解してくれたマキですら、二つ返事でそれを受け入れることはできないようだった。

「ちょっと……それは確かに、自信ないかもです。たとえば父から「今日の客とはどんなことをしたんだ」と聞かれたら、適当に話を合わせないといけないってことですもんね?」

「そんなこと聞かれるの……?」

「聞かれます」

「じゃあやっぱり危ないか……」

 受け答えによって洗脳の解ける解けないが決まるわけではなかった場合ですら、その調子では明らかにマキの心労が懸念される。どれだけ「問題のなさそうな洗脳方法の詳細」を詰めて考えても、それのどこに穴が残っているのか(あるいは無いのか)確かめようがない以上、洗脳ルートは一度ボツにして考えた方が良い。

 座った椅子の背もたれに体重を預けると、本来は子ども用であるそれが大きく軋んだ。窓のカーテンは再び閉め切られていて、一階からはテレビの音がわずかに漏れ聞こえてくる。

 第二の案は、あるにはある。が、それはあまり人道的な案とはいえない。外道の脳みそをいじることの方がマシだと思える程度には苦肉の策になる。

「あ、あの」

「うん?」

 ベッドに腰かけていたマキが突然立ち上がる。そして不安そうに俺の顔と、その背後にある部屋の扉を交互に見やる。

「その、話の途中なんですけど。わたしたちがあんまり静かだと、父が怪しむかもって……」

「……あー」

 確かに、そういえば俺たちは今、セックスをしているということになっているのだった。ぼそぼそとお喋りしているだけでは怪しまれるかもしれない。

 俺は思わずマキから目をそらしてユリの方を見た。いっそ彼女が居眠りでもしていてくれればそれが一番気が楽だったのだけど、実際はばっちり目が合ってしまった。

 向こうにはそれが変なアイコンタクトとして伝わったのかもしれない。

「じゃあ、お二人さんでセックスごっこでもする?」

 俺が考えていたこととほぼ同じ台詞を、真面目とも冗談とも知れないトーンでユリが口にした。

 マキはそれについて、あながち想定外というわけでもなかったらしく、

「……わりとそうするしかないですよね」

 と苦々しく呟く。そしてそれに続いて、諦めたような笑みと共に言った。

「それかもう、本当にシちゃうかですね」

「…………」

「……慣れてますし、気にしないでください」

 俺が何も答えずにいると、マキの表情からは笑みだけが引いていった。

 無論、仕方なしで未成年を犯す気なんてサラサラない。ただ俺は、彼女にそれほどの覚悟があるなら、苦肉の策も有効かもしれないと、人の心に欠けた打算的なことばかりを考えていた。

 俺には、売春を強いられる子どもの気持ちが分からない。たぶん大抵の人は同じだろうけど、だからといって無理解の罪が軽くなるわけでもない。それは相対的なことではないから。

 そういう意味で、俺の考える策は、彼女を見捨てることと大差ないのかもしれない。……そう考えたところで、他にできることは思いつかないから困る。

「マキちゃん」

「はい」

「エッチしてる自分を見るのは嫌い?」

「え……?」

 俺は願った。肉声と聞き分けられないほどの音質を誇るスピーカーが欲しいと。すると次の瞬間、小型のそれはもう手元にあった。

 俺はさらに願う。そのスピーカーから、再生したい音声があるのだと。

 

『あっ……んっ、あっ、あぅっ……うぅ♡』

 

「えっ……」

 その喘ぎ声を耳にして、マキは絶句していた。それはそうだろう、何せその声は彼女自身の声に酷似していたのだから。

 彼女な明らかに狼狽えていた。

「今の、わたしの……?」

「そう、マキちゃんの声」

 自分自身の声というやつは、録音してみると自認とは大きく違った声質に聞こえるものだ。マキが一発でそれを自身の声だと把握したことを受けて、俺は「悪趣味な客から聞かされたことがあるのかもな」と思った。

 それこそが、この作戦の抱えている問題なのだ。

「言ったでしょ、俺の願いはたぶん大体叶う。俺とマキちゃんがセックスしてるフリの音が必要なら、それは用意できる」

「あ……、なるほど」

「ついでに、現場証拠だって必要なら揃えられる。いかにも乱暴に犯しましたって感じの、事後っぽい雰囲気とかね」

「完璧じゃないですか」

「……完璧なのかな」

 むしろ悪い意味で、完璧すぎるのかもしれない。

 たとえばレイプ被害を受けて、ひどく傷ついている女の子がいたとして。その子が犯されている時の映像が残っていたとして。傷ついたその子に、ちょっと必要だからその映像を見てほしいんだけどと頼むのは、あまりにも酷なことだと思う。

 なのに、自らの喘ぎ声を聞かせ、あるいは悲鳴や嗚咽を聞かせ、自らの尊厳が蹂躙された現場を完璧に再現するだなんて……そんな所業は、それ以上の鬼畜だということになるのではないか。

 セックスごっこならぬ「セックスをしたフリ」なら、俺はきっと完璧に行うことが出来る。父親から「どんなことをしたの」と聞かれるなら、何がどうしてこのような事後になった……というところまで台本のように考えたっていい。即興の出任せでは難しくても、これから台本を二人でじっくり考えて、文化祭準備のように一緒にフェイクの現場作りに励めば、きっとあの父親を上手くあしらうことが出来るだろう。

 ……それが出来たところで、マキの心の傷をえぐりながら実現するそれは本末転倒なのではと、俺だって思う。

「問題は時間だよ。全能の力でパパッと現場を再現したら十分かそこらで作業が終わっちゃうから、それだと不自然でしょ」

 ユリからの実務面での指摘に、マキが答える。

「ですね。だからこの部屋の中で息を潜めて、適当に時間を潰さないと……ってことですよね?」

「そうだね。少なくても一時間くらいは、そうしてることになるんじゃないかな」

 スピーカーから自分の喘ぎ声が響く部屋の中で、トラウマを彷彿とさせるようなわざと荒らされた部屋の中で、一時間もジッと時が過ぎるのを待つ……? セックスするよりはマシだからといって、それで彼女を守ったと言えるのだろうか? いや、無理がある。

 けれど他の案が思いつかない。マキから狼狽えた様子は消えて、今は気丈に作戦会議をしているけれど、その本心はどんな物だろう?

「いいじゃないですか。やりましょう」

「マキちゃん、正直に答えて」

「はい?」

「本当にいいと思ってる?」

 俺が「正直に答えてほしい」と願い、問うたなら、誰も嘘をつくことは出来ない。取り繕うことも出来ない。

 だからマキは本心から、どこか得意げな笑みを浮かべて答えた。

「もちろん! 面白そうですし」

 ……俺は忘れかけていた。未成年でも、彼女はサキュバスなのだということを。

 さらに聞くと、狼狽えて見えた理由は、単に驚いたかららしい。来ると分かっていればべつに平気だと、嘘を封じられたマキは答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マキと俺と、それからユリも入れた三人で、台本を考えた。適度なペースで部屋に響くダミーの喘ぎ声を妨げないように、やり取りは念のためテレパシーを使って行った。俺がそうであれと願うだけで、テレパシー能力は三人ともにあっさりと備わった。

 ユリの提案で、台本上の俺はサディストということになった。「似合うから」とそれを勧めてきた彼女に俺は形だけ抗議して、ユリがそれに軽妙な返しをする。そのやり取りを見てマキが笑う。そんな流れで、自然とその案は採用された。

 方針が定まったことで、スピーカーから流れる声には苦しげな物が多くなっていく。首を絞められているっぽい声、腹を殴られているっぽい声、恐怖や激痛に叫ぶような声に、時々許しを乞うパートまで入る。……並の女子学生が居てはノイローゼになりそうな環境がそこにあった。

 念入りに確認することをこちらに躊躇わせるほど、マキは一貫して平気そうだった。「たまには優しくしてくださいよ〜」とか言って、スピーカーからの内容を茶化しさえする。それがきっかけで台本には飴と鞭の要素が加わり、そこから連鎖的に「飴欲しさに媚びるマキ」の概念が台本の方にもスピーカーの方にも生まれていく。倫理観が死んでいることに目をつむれば、かなり真っ当に創作をしている感触があった。

 架空の性行為の段取りが大体定まったなら、次は部屋をそれっぽく荒らしていく。抜かりがないように、自称「体があった頃はモテ散らかしてた女」ことユリに監修してもらう。

「ゴムって何個くらい使うのがそれっぽいんですかね」

「いやゼロ個だよ」

「え?」

「サキュバスは意思だけで避妊できるの。妊娠したくないって思ったら、何百発出されてもしないから。だから誰もゴムなんてつけない。性病の概念もないし」

「えぇ……そうなんですか」

「ね〜真希ちゃん、いつも中出しばっかりだもんね?」

「いや〜ごっくんも多いですよ」

「私も首だけになってからはもっぱらそれだな」

「なんて会話だ……」

 俺はそこそこ引いたが、過酷な運命を生きるサキュバス同士通じ合うところがあるのか、ユリとマキはそれなりに気が合うようだった。

 あまりダイナミックなことはしない台本に設定したこともあり、部屋のセッティングは早々に終わる。スピーカーの声の方もちょうどリアリティのための休憩モードに入った。あとはやることといえば、マキに「中出しされた」という結果だけを付与することくらいだけど……。それをやってハイ解散、というわけにもいかない。全ての作業は三十分もかからずに終わってしまったから。台本上の性行為の内容的密度に対して、その短時間での解散はあまりにも不自然に映る。

 マキいわく、客の相手をする時間の平均は二時間ほどらしい。残りの一時間半以上をどうやって潰すのかを三人で協議した結果、ユリの提案から映画を見ようという話になった。

 願えば叶う力によって、部屋の中を暗室のように暗くする。部屋に入る限りの大きなスクリーンを用意して、プロジェクターでそこに映像を映す。マキのリクエストによって上映タイトルは「鬼滅の刃 無限城編 第一章」となった。俺の知る限り、それはまだ映画館でしか見られない物だったけれど、天国の中ではお構い無しだ。

 自分たちの声をテレパシーにしたことと同じように、映画の音も自分たちにしか聞こえない物にする。休憩タイムを終えて再び始まったスピーカーの喘ぎ声が邪魔に感じることもあったけれど、そちらまで自分たちに聞こえなくするとかえって「本当に部屋の外には聞こえているのか」と不安になるだろうから我慢した。

 マキはまだその映画を見たことがないのだという。初見がこんな状況では気の毒にと思いながら、すでに見たことのある俺は黙って上映に付き合う。……その映画の尺が二時間半あることも知ってはいたが、黙っておいた。

 それから二時間半後。猗窩座の悲しき過去が明らかとなったついでに、俺が「初回から約三時間もの間マキをボコボコに犯した鬼畜」としてマキの父親の記憶に残ることが確定する。不名誉かつ心外ではあるが、やむを得ない。

 明かりを点けた部屋で「めっっっっちゃ面白かったですね!」と興奮をあらわにテレパシーを送ってくるマキの幸せそうな顔を見れば、細かいことはどうでもよくなる。全能の力とはきっと本来こんな風に人の幸せのために使うべき物なのだと、俺はようやくその力の真理に触れたような気がした。

「じゃあ仕上げだけやって、そろそろ帰るよ」

 窓の外にもうカーテン越しの光はない。映画を見ている間に外の世界は夕暮れを通り越して、もうほとんど夜が来た。……夜には予約が入っているのだと、マキは初めに言っていた。

 全能の力によって、人間の道徳感覚からすれば無慈悲なほど徹底的に最後の仕上げを行う。中出しは二穴に対して行われたことになり、体には痛々しい痣や、彼女を侮辱する言葉の数々が書き込まれる。恥じらいのハの字もなくそれを目で確認してアハハと軽快に笑う彼女から、俺は物理的にも心理的にも目を逸らし続けた。

 ここへ来た時のマキは、あんなに絶望的な表情を浮かべて服を脱ごうとしていたのに。今の彼女は「お兄さん目そらしすぎw」「もしかして、実は童貞ですか?w」とはだけた姿で俺をおちょくってくる。サキュバスとはそういうものなのだろうか。それとも、まともでいられる環境を提供されなかった子どもは、そのようになってしまうものなのだろうか。

「童貞じゃないよ」

 と俺は答える。強がりに聞こえたのか、マキはくすくす笑ったけれど、俺の心は罪悪感に痛んだ。

 童貞とは、ある種の潔白の証明だ。俺に潔白さなんてない。もしそれがあったら、俺の天国はきっと、もっと違う形になっていたはず。マキだって、もっとマシな人生を歩めていたはず。この天国が俺のために作られた物だというなら、マキのような被害者を生んだ責任は俺にだってあるのではないか……。

「あっ」

「え?」

 不意にマキのテレパシーが悲鳴に似た声をあげて、俺は我に返る。見るとそれまでけらけら笑っていた彼女が、はだけた制服にも当たる形でぶっかけられた精液を見てフリーズしている。

 あぁそうかと、俺は自分の学生時代を思い出した。そしてすぐにその精液を消去する。

「いやごめん。そうか制服は、替えがないよね」

「あ、いや、……すみませんそうなんです」

 ただそれだけの返事をするのに、マキはなぜかすごく悲しそうな顔をしていた。楽しい雰囲気に水を差されたにしても過剰ではないかと思えるほどに。

 制服に替えがない以上、一度制服を汚してしまえば辻褄合わせの観点から、翌日の彼女は全能の力云々に関係なくまずそれを着られなくなってしまう。それでは生活に支障が出ることに気づき、台本の中からも制服を汚す案はボツにする。

 ……が、こちらとしては、それを初めからボツにしなかった理由も一応持っているわけで。それで少し、俺も返事をするのが遅れてしまった。それがまずかったのかもしれない。

「あ、でも、ジャージとか、着る物自体はなんでもありますし。別にやってもらって大丈夫ですよ!」

 あわてた素振りでマキが言う。俺が彼女を見て「なぜそこまで悲しそうな顔をするの」と思ったことと同じように、彼女も俺のフリーズを見て何か良からぬ雰囲気を察知してしまったのかもしれない。

 しかし気を遣ってもらうならそれこそ、彼女の心が蔑ろにされては本末転倒なのだ。俺は言う。

「マキちゃん、正直に答えて。制服を汚されるのは嫌?」

「……ごめんなさい嫌です」

「分かった。やめておこう」

「わがまま言ってごめんなさい」

「わがままじゃないよ」

 彼女から目を逸らしたまま答える。相手の目を見ようとしたら、不可抗力で余計な肌色まで視界に入ってしまいそうだったから。

 俯いた足元に、ひらがな五十音の載ったカーペットが見える。……これが購入された頃には、マキはまだ幸せな生活を送っていたのだろうか……と考えてしまう。

「俺が制服にぶっかけをしようと思ったのは、脱がせたくなかったからだから」

「え……?」

「肌に直接やっちゃうとさ、もう上から何も着れないでしょ、落書きとかと違って。だから、なるべく服の上からの方がいいかなって。はだけた制服を着せたままとか、状況的にもそれっぽいし」

「……なんで脱ぐとダメなんですか?」

「なんでって……」

 なんとなく、今のマキならそう言うのだろうなとは思ったけれど。

 俺はこれでも、彼女を守るための工夫をしているつもりだ。結果として常人では聴くに堪えないような音声を聴かせ、体を汚し侮辱的な言葉を刻むことにはなったけれど、それらは「マキが後々の辻褄合わせをやりやすくするための覚えやすい事柄」を用意するために仕方なくやったことだと、俺は言い張る。……けれどだからこそ、服を脱がせることはそれに必須ではないはずだと考えた。

 我ながら感覚が麻痺して来そうだけど。本来、年頃の女の子に対して男が「服を脱げ」と命じることは、途方もなく残酷なことだ。工夫の内でも避けられるなら避けるべきだと思う。だから無から生じる精液によってマキのことを汚すとしても、服の上からがいいと思った。けれど指摘されてみればそれは、単なる俺の見落としと独りよがりだったのだ。そうと分かればこだわる理由はもう何もない。

「……服の上からじゃないと、どさくさに紛れて裸を見ようとしてると思われるかなって」

 気を遣わせたくない一心だった。

 俺はマキから強制的に「嘘をつく権利」を奪っておいて、自分自身は嘘をついた。

 マキは一瞬きょとんとしたあと、可笑しそうに笑った。

「お兄さん、やっぱり童貞でしょ」

 女性の99%がサキュバスである世界ではなおさら、俺の言葉はそういう風に聞こえたのかもしれない。自分の考えている正しさは人間相手が前提のもので、サキュバス相手には的外れなのかもしれないと、俺も思わないわけではないけれど……。

 しかし、もし裸を見られることを気に留めないことがサキュバスらしさなのだとすれば。どうしてマキは初めて俺の前で服を脱ごうとした時、あんな心をヤスリで削るような顔をしていたのか。考えても考えても、俺にはそれが分からない。だから俺には、俺に分かる正しさを追い求めることしか選択肢がない。

 ユリも入れた三人で協議する。そもそもこれだけ体を汚しておけば、ぶっかけは必須ではないのではないか? スピーカーからの音声とも矛盾はしていないはず。たかがそれ一つを抜いたくらいでマキが父親から「手を抜いたのではないか」と因縁をつけられる心配もないだろう。……でも顔にならかけてもいいんじゃない? 必須ではないのにあえてかける理由ってなに? せっかくサキュバスには、魔力さえあればお風呂に入らなくても清潔でいられる便利な機能があるから、どうせすぐ落とせるなら落書きと痣だけじゃもったいないかなっていう感じで。……却下。

 というわけで、台本上の射精はすべてマキの体内に放ったものとすることが決定する。見た目だけボロボロになった彼女をベッドに寝かせてミッションコンプリート。俺はユリを抱えてこの場を去る。

「お兄さん」

 部屋を出る時、背中に声をかけられた。

「よかったら、また来てください。優しくしてくれるなら……本当にお客さんとしてでも」

 最後の一言に、悲壮感はこもっていなかったように思う。それがそうであってほしいという、俺の願望でなければ。

「ありがとう」

 振り返りはせず返事して、俺は廊下から後ろ手に部屋のドアを閉める。階段を降りて玄関へ。居間があるのだろう方向からは、今はテレビゲームの音が鳴っていた。

「お邪魔しました」

「あ、はーい。またいつでも」

 そっけない、まるで関心のなさそうな声だけの返事を受けながら、俺は靴を履いて外に出る。

 暗くなった空にはすっかり月が昇っていた。目と鼻の先に何軒か見える民家からは家族団欒の声が聞こえてきたり、夕食の良い匂いが漂ってきたりする。

 ……そう遠くないうちに、逆らえない未成年をオモチャにしようと企む男がここを訪れる。それがどこの誰なのかは知らないが、俺は自分の持てる力で、その男に報いを受けさせるべきだろうか?

「ユリさん。俺が、マキを買おうとする男を片っ端から排除していったら、どうなると思います?」

 彼女に聞いて、なぜ答えが分かると思ったのだろう。……なぜか必ず分かる気がしたのだ。天国の案内人を自称する彼女なら、答えを知っている気がした。

 そしてその予感は当たる。

「どうなるのかまでは私も分からない。ただ一つだけ言うなら、真希の父親は定職についてないよ。彼女の生活費は彼女自身が稼いでる向きが強い」

「…………クソだな」

 マキを買う男を仮に根絶やしにすれば、彼女がまともに生活するための費用の出処すら怪しくなる……ということ。

 なら俺が願って金を出せばいい。一瞬そう考える。しかしそれを言い出せば、俺はその力であの父親をマキから引き離すべきだろう。しかしそうすると今度はマキが親無しの孤独な身になり、そうなった時に俺がするべきことは……。

 孤独にさせるだけさせておいて、あとは福祉に丸投げするのか? それとも俺が彼女にとって理想の父親を無から創出すれば、彼女はそれを受け入れてくれるだろうか? そんなに単純な話だと思っているのは、部外者だけの気がするけれど。

 それに何より、自分自身が父親の代わりを務める気概もない男が、短絡的かどうかも判断つかない恣意で彼女のまわりの人間を消していって、あるいは増やしていって、それで何かが上手くいくとは到底思えない。

「まぁ今日のところは、もう帰ろうよ」

 悪魔のささやきか、良心的なアドバイスか。それすら俺には分からなかったけれど。だからこそユリの言葉は、否応なしに道標としての価値を持ってしまう。

「焦ることはないって、何事も。ここは君の天国なんだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 濃い一日を体験した自覚があるけれど、不思議と体に疲れは感じなかった。これも天国の力なのかもしれない。とはいえ、それで夜通しユリの体探しを続けようとは思わない。本人が言ったのだ、何事も焦ることはないと。

 ユリいわく、俺の自宅は生前と同じ立地で天国にも存在しているらしい。電車に乗ってそこに帰るべく、俺たちは来た道を引き返して駅に向かう。最初の場所……生首を乗せるための台座があったあの駅前の交差点を目指し戻っていく。

 歩き始めてすぐに、あっ、と気がついた。

「そういえば、裏社会の人脈とやらを聞き忘れましたね」

「え、今?」

 気づいていたなら言ってくれてもよかったのに。

 マキの父親とロクに話さなかったことで、俺はあの家に行った目的を何ら果たせないまま帰路につくことになった。……まぁでも正直なところ、あんな男とは出来るだけ口をききたくなかったというのが本音ではある。

 サキュバスだらけの天国は、夜になっても表面上は現世と何ら変わらない風景を保っていた。家路につくサラリーマンや、大声で騒ぎながら通り過ぎていく若者の群れ、走り去るバイク、横切る野良猫。カゴに大きな買い物袋を突っ込んだママチャリに乗っていた女性はやたらと美人だったけど、無点灯だった。

 数時間ぶりに緊張が解けたからか、ふとトイレに行きたくなる。適当なコンビニで借りようと思ったが、ちょうど行く手に現れたのはコンビニではなく公衆トイレ付きの小さな公園だった。

 公園のトイレって汚いから苦手なんだよな……と思いつつ、なんとなく、ユリを抱えたまま尿意に耐える状況からは一刻も早く抜け出したい気がして、結局そこに立ち寄ることにした。

 トイレの他にはブランコと滑り台、少しの植え込みとベンチ、街灯、長い柱に掲げられた時計があるくらいの素朴な公園には、よく見ると少し目を引く先客がいた。

 ブランコの近くに、車椅子を押している若い男がいる。その車椅子に乗っている若い女性は、両足の膝から先がなかった。それを隠すように長いスカートが、不自然にぺたんと垂れ下がっていたことでそうだと分かる。

 ユリはサキュバスを不死身だと言っていたはずだ。けれどその本人に首から下はなく、今見た女性も、失った足が生えてくるわけではないらしい。不死身のはずなのになぜそうなのか、理屈は分からないけれど、それはそれとして男の方には親近感が湧く。けれどあまり露骨に見てしまっては奇異の視線に思われるだろうから、努めて視線をそらすようにする。

 トイレに向かう道すがら、シンと静かな夜の空気を伝って、その二人の会話が聞こえてきた。

「昔はよく、このブランコでも遊んだね」

「あぁ、なつかしい。……靴を飛ばしてたなぁ」

「久しぶりに乗ってみる?」

「あ、いじわる。漕げないよ」

「僕が押してあげるよ」

 ……そんな会話を盗み聞きながら、トイレの前まで来たところで俺はハッと気づく。ユリを男子トイレの中まで連れていくわけにはいかない。かといって、ではどこで待っていてもらおう……?

 不自然に立ち止まった俺の心中を、彼女が察するのは早かった。

「もしかして私の置き場に困ってる?」

「置き場って……。でもまぁそうです」

「洗面台にでも置いといて」

「ダメでしょ」

「じゃあ君が女子トイレに入るか」

「論外すぎる」

「そうでもないよ。ここは君の天国なんだから」

「……はぁ?」

 ふと、昼間のことを思い出した。ナンパ(と呼んでいいのかすら分からないが)した女性を人目のつかない場所に連れ込んでフェラチオさせた時のことを。……あの時、たしか相手の女性は、まるで人が行き交う道のど真ん中でおもむろにそれをおっぱじめることもやぶさかではない……という風なことを言っていなかったか?

 天国は俺に危害を加えないのだという。それはもしや、たとえば何をしても絶対に捕まらないという意味でもあるのだろうか? ユリが今言ったのは、そういうことなのだろうか。……仮にそうだったとして、じゃあ女子トイレに入るか〜なんて話にはなるわけがないのだけど。

 俺は願った。ワープゲートよ開け。

「ちょっとここで待っててもらえますか」

「わお」

 胸元あたりの高さの空中に、洗面台の鏡程度の大きさのワープゲートが開く。それは明かりのついた自宅の玄関に繋がっていて、鍵類が置かれたり額に入った小さなジグソーパズルが飾られている……俺のよく知る実家の靴箱の上に、ちょうど生首が一つ置けそうなだけのスペースが空いている。俺はそこにユリを安置して、ゲートを閉じる。

 それからトイレに入ってすぐ、俺はついさっき聞いたユリの言葉を思い出した。「ここは俺の天国」。……外観に反して、そのトイレの中は新しめの私立校みたいに小綺麗だった。俺にとっての不都合は、何はともあれ(それがトイレであれ)この世界にはないということなのか。

 ともかくさっさと用を済ませて帰ろう。小便器の前に立ってチャックを下ろし、そして必要を終えてそれを再び上げた頃。

 ……背後にある個室から、女性のうめき声のような物が聞こえてきた。

 思わず背筋が凍る。いくら内装が小綺麗でも、夜のトイレに一人きり。そういえば来た時からずっと扉の閉じていた個室の中からうめき声が聞こえてくれば、ホラーを感じずにはいられない。

「うぅ……うっ……」

 ……うめき声は、次第に嗚咽のようになっていく。それがなおさら怖い。もし扉の向こうに居るのが怪異なら、俺は今すぐ全速力で逃走するべきなのに、なぜだか足が凍りついたように動かない。緊張した人間の体は状況を鑑みることなく硬直するものなのかもしれない。

 ワープゲートを再び開いてユリに助けを求めようか? 本気でそう考えた瞬間に、俺はまた彼女の台詞を思い出す。ここは俺の天国。汚いトイレがないように、白昼堂々性行為に及んでもおそらく咎められないように、俺にとっての不都合が尽く存在しない世界。……そんな世界に、俺を震え上がらせる剥き出しのホラーがあるわけがない。

 そう自分に言い聞かせた瞬間、答え合わせであるかのように、扉の向こうからの声は言葉の体を成した。

「もう〜……勘弁してくださいよぉ……。飲めないんですってぇ……」

「……あ、あのー」

 ノックをしながら、中の人に声をかけてみる。それが怪異ではなくただの人だとすれば、男子トイレの個室の中から女性の声が聞こえてくるというのは普通に考えて異常事態なのだと、ようやく思考が回りだして理解できてくる。

 よく見ると、扉に鍵はかかっていなかった。なぜ男子トイレなのかは分からないが、中にいる人が普通に体調不良で危機的状況下の可能性もある。不死身のサキュバスに体調不良があるのか知らないけど、うわ言のような言葉は呂律が怪しく、泥酔した人が寝込んでいる可能性が高いように思えた。

 ノックにも呼びかけにも応答はない。それどころか何一つ音がしなくなった。意識を失っていたりすると放置するのはまずいんじゃないか……? そう思って俺は、その扉を開くことにした。

 心臓の音が速まる。押して開いていく扉がスローモーションに見える。……これで中に誰もいなかったらトラウマ確定だ。

 そんな想像もした俺は、しかしそこで、思っていた物とはまったく違う衝撃に遭遇することになる。

 開こうとした扉は、途中で何かにつっかえて止まった。何かが可動部に挟まったというよりは、個室の中に置かれた大きな物にせき止められているような感触だった。なんだろうと思って、途中までは開いた隙間から中を伺ってみると……。

 ……閉じた便座の蓋に突っ伏す形で、全裸の女性がこちらに背を向け座り込んでいた。

「えっ……」

「ん……?」

 扉に足なり尻なりを小突かれたせいか、意識を手放しかけていたその女性が頭を上げる。そしてのっそりと重々しい動きで立ち上がり、体ごと振り返り、俺と目が合う。

 唖然とするこちらの顔をしばし観察した彼女は、それからようやく自身の裸体を見下ろした。

「……なっ、あっ!? えっ!? あっ、えっ!?」

 パニックになる彼女。その下腹部には淫紋が浮かんでいる。さすがサキュバスということなのか、パニックにはなるのに胸や股を隠そうという素振りはまったくなかった。

 しかしその慌てぶりを見て、俺はハッと気がつく。……もしかして彼女は今、ここが女子トイレだと思っているのでは!?

 だとすれば、外にいる車椅子のカップルに悲鳴が届くまであと一秒もないかもしれない。

「あっ、ここ男子トイレ! 男子トイレ、ね!?」

 自らの身を退け、背後にある小便器を全裸の彼女に見せつける。なんだこの状況と頭の片隅で思ったが、こっちも必死だった。

 えっあっえっ……と引き続きパニック状態の女性。しかし思考が完全にショートしているわけではないようで、俺の顔と個室の外の景色を交互に何度も確認した彼女は、やがて青ざめた顔で自らの口元を片手で押さえた。まるで悲鳴を押しとどめる風に。

 そして余った片手で、彼女は強烈な力で俺の手を引いた。およそ人間の力とは思えないその牽引力によって、俺はあっという間もなく個室の中へと引きずり込まれる。

 抱き合うような形になりながら、すぐに扉が閉じられた。おそろしく素早い手際で鍵までかけられた。今度はこちらがパニックになりかける番だったが、彼女の方がそれにはお構いなしで跪く。一切のためらいなくトイレの床に両膝をついて、必死さに震える両手でこちらの腰あたりを掴み、泣き出しそうな声と絶望の表情で頭上の男に懇願しだす。

 外に聞こえないようにか、それともそれが彼女の精神状態の限界だったのか。絞り出された声はかすれてか細かった。

「み、見逃してください。なんでもします、言うこと聞きます。お願いです見逃して……」

「……え、えぇ?」

 なんのことだ? 俺が彼女の服を剥ぎ取ったとでも思われているのか? そんな風に一瞬意図を察しかねたけれど、ついさっき体験した人間では敵うはずもない怪物的な膂力の存在が、俺を暴漢として恐れているわけではないだろうという論理的結論を導き出す。

 そしてそのおかげで、俺は今目の前の彼女が置かれている状況という物に察しがついた。

 ……おそらくこれは、今の状況が男女逆だったらどうなっているのかという話なのだ。

「か、会社の飲み会で、飲み会のあと、記憶がなくて、気づいたらここで。その、服とかも、分かんなくて、悪気はない、なくて。それで、あの、だから……」

「な、なるほど。大体分かりました」

 さっきのうわ言から察するに、きっと彼女はアルコールが苦手にも関わらず無理強いされて泥酔させられたのだろう。服が剥ぎ取られてこの場にないことを考えると、それはレイプ目的の反抗だったのかもしれない。あるいは泥酔した彼女自身がどこかに脱ぎ捨ててきた可能性もあるが……、とにかく事の発端がひたすらに気の毒であることには変わりない。

 そしてそんな彼女は今、性別的に立ち入るべきではない方のトイレに全裸で侵入していたところを目撃されて、警察に通報されるか否かの瀬戸際にいるということになる。会社の飲み会に出ていたということは社会的立場のある人なのだろうから、実刑が下るかなんてこととはもはや関係なく、とにかく警察のお世話にはなりたくないのだろう。だからこんなに必死の形相で見逃してくれと懇願している。

 大体分かった。俺がそう告げた時、彼女は一瞬、地獄の空から蜘蛛の糸が垂れてくるのを見たような顔をした。……しかしそのコンマ一秒後、相手の表情が浮かないことに気づいたせいか、彼女の中での蜘蛛の糸は早々にちぎれてしまったらしい。

 裸の女が俺の足元で、卑屈に顔を歪めながら指で輪っかを作り、フェラチオのジェスチャーを繰り出す。

「な、なんでも、本当になんでも、今すぐしますから。ね……? 見逃してください。なんでも言うこと聞きますよ? 一生あなたに尽くしますから、ね……?」

「……いや、あの。べつに通報とかしませんよ」

「あ、あっ、ありがとうございますっ! えへ、えへへ、あぁ、お兄さんは命の恩人です……!」

「恩人て」

 よく考えてみると、どちらかといえば、俺が彼女を放置して帰った方が向こうとしては嬉しかったのではないか。不死身のサキュバスがアルコール中毒で死ぬということはないだろうし。すると俺は恩人どころか死神ということになる。

 しかしそう考えて、ふと疑問が浮かぶ。……仮に俺に見つからなかったとして、その世界線の彼女は、服もないままどうやって家に帰ったのだろう?

 俺はもしかすると本当に、彼女の恩人になるべきなのではなかろうか。たとえそれが、センスのない恩人であっても。

「へっ……?」

 肌を覆う感触に違和感を覚えて、未だ跪いたままの女性が自身の体を見下ろす。その頃には彼女はもう裸ではなく、上下とものっぺりした赤色の、オシャレのオの字もないジャージを着ていた。

 俺だってもっとマシな服を送りたかった。しかし願えば叶う力は、ある程度まではオートで細部を整えてくれるとはいっても、やはり思い浮かびもしない物まで用意してくれることはないらしい。女性服に疎い俺が……あるいはそもそもファッション自体に疎い俺が、今この場で彼女にポンと渡せる衣服はその程度だった。

 けれどもまぁ、今日無事に家に帰る分にはそれでも問題ないだろう。センスの無さを棚に上げて、人助けをしたことへの優越感が顔に出ていなかったのかといえば……きっと出ていたと思う。

 サキュバスは男の欲を煽るのが上手い性質上、そういった物にも目ざといのかもしれない。

「……あっ、え、もしかしてこれ、お兄さんが出してくれたんですか?」

「あ、はい」

 天国の補正ありきでもなお爆速の理解に、こちらが驚く。

 名前も知らない、今や全裸ではなく上下ジャージの女性は、状況理解の速さに似た瞬時の切り替えで、それまで絶望や卑屈に染まっていた表情をパッと輝かせた。

「わぁ、えっ、ありがとうございます! いいんですかこんな、何から何まで」

「ま、まぁ」

「嬉しいです、本当に助かります! この御恩は必ずお返ししますね……! そうだ連絡先を交……かん……」

「……あぁ」

 ポケットに手を突っ込んだ瞬間に何かを察したらしい彼女を見て、俺も察する。ここに裸で寝込んでいた彼女は何も荷物の類を持っていなかった……が、会社に手ぶらで行く人はいないだろう。つまり彼女の持ち物はすべて紛失されたのである。

 俺はその場の思いつきで、自分の力が物探しに使えるのかを試してみることにした。するとこちらとしては見覚えのない鞄が、気づいた頃には目の前の彼女の手にぶら下がっていた。

「えっ、うそ」

 動揺しながらも彼女が中身を漁る。そしてそこからスマホを取り出して、目にも止まらぬ速度でロックを解除した。完全に本人の持ち物だ。

「あ、こ、これも……? そんな、ありがとうございます」

「いや、俺もこんなことまで出来るのは知らなくて。見つかったならよかったです」

「はい! これで連絡先も交換できますね。何かあったらいつでも頼ってください、力になりますから」

「どうも」

 正直、見ず知らずの相手に何かを頼る未来は想像できなかったけれど、流れで連絡先交換(LINE)はやっておく。何がどこで身を助けるか分からないこと以上に、それが社交辞令というものだから。

 彼女のLINE名は本名で登録されているようで、苗字だろう「瀬名川」の表示とそこに並ぶ自撮りアイコンに、そこはかとなく縁遠さを感じる。俺はアニメアイコンにハンドルネームという有様だから。

 よしっ、とご機嫌な調子でもらした瀬名川がスマホを鞄にしまう。そして個室の扉を薄く開いて、トイレに他の利用者が来ていないことを確認する。

「それじゃあ私、帰りますね。本当にありがとうございました」

「いえいえ。気をつけて」

 ジャージの瀬名川を見送る俺の頭の中は、半ば上の空。こちらが具体的に想像できない探し物まで天国の力で行えるなら、もっとマシな服装だって用意できたんじゃないか。たとえば彼女が元々着ていた服を呼び出すとか。……いやでもそれだと不穏な経緯から想像して、その服が万が一「着られる状態ではない物」になっていたとしたら困るのか。いや、それなら「元々彼女が着ていた物の新品」という願い方にすれば……。

「きゃあ!」

「えっ!?」

 考察の念が悲鳴にかき消される。その声は瀬名川の物だった。

 慌てて個室の外に駆け出ると、トイレの入口には瀬名川ともう一人、明らかにヤンキーと分かる風貌の男が立っていた。瀬名川は彼に絡まれているのか? なぜトイレの前で? いや違う……まさかあいつが瀬名川の服を剥いだ犯人か!? どう見ても会社の飲み会の同席者ではないが、泥酔した彼女の帰路を襲ったということも……。

 と、渦巻く思考が、ヤンキー男の第一声ですべて否定される。

「なにお姉さん、この中で何してたの?」

「あ、いや、その……」

「これって普通に犯罪じゃね? 入口んとこに監視カメラ付いてるしさ、通報したら一発だよね」

「や、やめてください」

 話題に出た監視カメラとやらを、俺は考える間もなく見上げた。確かにある。入口付近、出入りする者を間違いなく画角に捉えていただろう位置に……そして現在の瀬名川とヤンキー男のことは捉えられない位置に、監視カメラが。

 つまりあのヤンキーは、ただ普通にトイレに立ち寄っただけの一般人だ。しかしそこで偶然、男子トイレから立ち去る最中の瀬名川と鉢合わせて、彼女のことを秒で「脅せる相手」と認識したのだろう。……だから状況としては非常にまずい。

 どうしよう、どう助ければいい? まずそもそも会話が通用する相手なのか? 声をかけることにすら、俺は二の足を踏んでしまう。良識の欠片もないヤンキーとはいえ、ここが天国である以上俺に危害は加えられないはずだ……とか、そういった話は全て思考から吹き飛んでいた。

 そして俺が冷静さを取り戻すよりも先に、向こうがこちらの存在に気づく。

「ん? あれ、お兄さん、これお兄さんの彼女?」

「えっ?」

 不意を突かれて、誰がどう見ても「違います」と言っているに等しい反応をしてしまった。

 これじゃダメだ。そこは堂々と「そうだ俺の彼女だ」と言わなければ。そうすれば「恋人に手を出すこと」も「危害」のうちにカウントされて瀬名川を救えるかもしれない。初動でキョドってしまったものの、今ならまだその作戦の実践くらい間に合うはず。気を取り直し、改めて毅然とした返事をしようと、俺は息を吸い込む。

「違います」

 冷たく言い捨てたのは、瀬名川だった。

 俺の思考はまたパニックに陥る。なんで……瀬名川はなんでそんなことを言う? そんな自殺行為に、どういう意図があることなんだ? 彼女は何を考えてそんなことをした? 彼女は俺にどうしてほしい……? 助けてほしいんじゃないのか……?

「ふーん。じゃあいいか」

 こちらの考えがまとまるより先に、ヤンキーが瀬名川の肩を抱き寄せる。そして彼女の耳元でささやく。

「お姉さん、通報されたくないなら、分かるよね?」

「……はい」

 消え入りそうな返事と共に、彼女がこちらを向く。もしその目が「助けて」と訴えていれば、俺だって努力はできたはずなのに。

 なのに実際は、彼女は目だけで力強く、明らかに別の何かを訴えかけていた。それと同時に、指先を箒のようにはらうジェスチャーで何かを伝えようともしている。なんだ……? 何か良い案があるのか? 俺の力の良い使い道を思いついているとか……?

 意図を図りかねているうちに、ヤンキーが再びこちらに目を向ける。

「お兄さんも一緒に行く?」

「は……?」

 何に誘われたのかもよく分からないうちに、瀬名川がぶんぶんと必死の形相で首を横に振っていた。そしてもどかしそうに、また指で空中をはらう素振りを見せる。

 それでようやく、俺は彼女の意図を理解した。

 いいから、早く逃げて。……瀬名川は俺にそう言っているのか。なぜなら彼女は、俺に恩を返そうとしているから。

 きっと瀬名川は、俺に危害が及ぶことはないという天国の法則を知らないのだ。そして俺の持つ力のことを、好きな物をなんでも出せる程度の力だと思っている。だから俺が「うお〜彼女を離せ〜」とヤンキーに喧嘩をしかけ、返り討ちにされることを危惧している。それだけはあってはならないことだと。

 でも……でも違うんだ瀬名川、この状況はそういうのじゃない。今一番心配しなきゃいけないのはそっちの身の安全なんだよ。……そう思うけれど、それを今ここでどう表現したらいいのかが分からない。いや、表現の必要なんかないのだ、彼女を救うことだけ出来ればそれでいい。しかし俺はどうすれば彼女を救える? 正直、天国の力であのヤンキーをぶっ飛ばすことなら今すぐにでも可能だろう。だけど相手がいくら外道でも、人間であることには変わりなく、いくらなんでも過剰防衛はまずい。慣れない力で有無を言わせないほどの暴力を振るうなんてリスキーすぎる。でも、じゃあ適切に、誰も余計に傷つけることなく、この場を丸く収める方法とはいったいなんだ……!?

 思考の濁流にのまれてフリーズした俺のことを、ヤンキーは鼻で笑った。そしてそいつは瀬名川の肩を抱き寄せ、こちらに背を向け、我がもの顔でこの場を去ろうとする。

「どこでする?」

「ホテルとか……」

「オレ金ないわ」

「私が出します」

「他の奴らも呼んでいい?」

「……はい」

 そんな会話が、遠ざかる背中からなぜかはっきりと聞こえた。

 待て、待て、ダメだ、そういうのは。俺は何をどうするべきなのかも分からないまま、とにかく二人を追いかける。瀬名川はサキュバスだから、今晩だけレイプに耐えればそれで済むとか、それなら自分は平気だとか思っているのか? でもダメだ、そういうクズが今晩だけとか、肉体関係だけとか、そんなところで止まるとは思えない。だから絶対に行っちゃダメだ。

「お゛えっ……!」

 トイレから駆け出た瞬間に、異様な声が耳に入った。いや、声というよりも音に近かったそれは、何にせよとにかく尋常のものではない。思わずその声がした方を振り向くと、そこにはあの車椅子のカップルがいた。……ただ、その立ち位置が不自然だった。

 街灯の下で、男の方が車椅子の真横に立ち、どこか宙を眺めたまま体ごと車椅子の方向に向いている。そして彼女の方は車椅子の上から顔だけを寄せる形で、その男の股間に密着していた。

 無い足を隠すスカートが、コップの水でもこぼしたかのように一部分だけ濡れている。男の方が彼女の頭に触れると、彼女の体がこわばることが遠目からでも分かった。彼女が、太ももの上に置いた両手をギュッと握りしめるからだ。

「う゛っ……ぉ゛っ、…………ごぇ゛っ」

「サナちゃん。いつもお世話してあげてるんだから、ちゃんと感謝してしゃぶってね?」

「……ふ、ふぁい」

 サナと呼ばれたその女性がえずくたび、口元から透明な液体がばたばたとこぼれてスカートを汚す。咥えさせられているモノが全て口や喉に隠れて見えなくても、彼女が加虐的な口淫を強いられていることは明らかだった。

 あの彼氏らしき男、初めて見た時からおかしいと思ってはいた。ブランコで靴飛ばしをした思い出を知っていて、なぜ足を失った今の彼女にその話を振るのか。もしかすると二人の間ではそれでいいのかもしれないと一度は流したけれど、やはりあの男はおかしい。台詞から鑑みても、彼が今そこで行っていることはDVその物じゃないか。

 しかも、公然と堂々と性行為に及ぶことを気にも留めないのは、俺にだけ適用される特権ではなかったのか? サキュバスにとってはこれも普通の範疇なのか? 何がどこまでおかしいのかが分からない。そうだ、案内人が……ユリがいないから、誰も俺にそれを教えてくれないのだ。俺はあのサナという女性を助けるべきなのか、それとも小夏の時のように、そっとしておくべきなのか。それを確かめるためにはユリを……。

 ……ハッとする。サナのショッキングな場面に気を取られて、瀬名川のことを一瞬失念していた。疑う余地のない緊急性を要しているのは彼女の方なのに。

「……え」

 俺が正面方向に向き直ると、すでにそこに瀬名川とヤンキーの姿はなかった。ほんの一瞬目を離しただけなのに、小さく遠くに見える姿さえない。

 ……いや、それは本当に一瞬だったのだろうか。俺の体感ではそうだったけれど、考え事をしているとタイムスリップのように大きく時間が経過していた……なんて経験は、元々日常茶飯事だった。あまりの光景に俺がフリーズしていた時間は、体感よりももっと長かったのかもしれない。

 俺はそのせいで、瀬名川のことを見捨てたのか……?

 ……いや、いや待て、まだ違う。そうだ、俺の力は探し物に向いている。「瀬名川」をこの場に呼び寄せてしまえば、彼女を助けられるのではないか。よしそれだ、それならヤンキー男も撒けて一石二鳥だろう。俺は願う。瀬名川よ……。

 …………いや、本当にそれでいいのか?

 呼び寄せる寸前で、漠然と嫌な予感がする。なぜだろう、一度目を離した彼女を再び目の前に連れてくることに、とてつもなく不吉な予感がする。何か大切なことを見落としている気がする。彼女を呼び寄せた途端に俺はそれが何であるのかを思い出して後悔することになるような……そんな気がする。

 だから俺は、まず先に情報を願った。天国よ教えてくれ、瀬名川は今どこにいる、何をしている、無事なのか?

 ……無事とは何を指すのだろう? 不死身のサキュバスにとって、取り返しのつかないこととは何なのだろう? 願いながら、同時に疑問に思う。自分の使う言葉の意味が、自分でも分かっていなかった。

 どうやら天国は、願ったところで哲学的な問いには答えてくれないらしい。頭の中に直接流れ込んできた映像は、淡々と事実だけを描写していた。

 どこかの建物の影で跪いた瀬名川が、ヤンキー男から尿を飲まされていた。頭を小突かれた彼女は眉をハの字に曲げた苦しそうな顔で、必死に口内の物を嚥下している。

 ……俺が今彼女を呼び寄せれば、目の前に現れるのは手遅れの証だ。「俺がトロいせいでこうなった」という証が目の前まで来る。それで彼女のことを救えるならまだ良いが、しかし実際どうなのだろう。突然目の前から獲物が消えたヤンキー男の方は、それをどう考える? 怪現象に慄いておとなしく帰るか? それとも獲物を失った腹いせに、瀬名川のことを警察にチクる? あるいは消えた原因が俺にあると分かったりするのだろうか? 天国のルールは、誰が何を知っていて何を知らないのか、何が平気で何が深刻なのか、渦中で見ていてもよく分からない。

 どうすればいいのか分からなくて。俺は、ワープゲートを開いた。繋がった先は最初と同じ、玄関の靴箱の上。そこに居るユリを回収して、ゲートを閉じる。

 俺は願う。今起きていることのあらましがこの場でユリに伝わるように。そして即座に問う。

「ユリさん、俺、どうしたらいいんですかこれ」

「どうもしなくていいよ」

「はぁ……?」

「だってここは君の天国だよ。都合の悪いことが起こるはずない。瀬名川って人はなんやかんや明日も生きていけるし、そこのサナちゃんもそう。君が何もしなくても、全部大丈夫だよ」

「どう見たって大丈夫じゃ……」

「でもトイレは綺麗だったでしょ?」

「そんなの……」

 関係ないでしょう。……そう返そうとして、言葉に詰まった。

 振り向いて確認すると、公衆トイレの外観はやはり当初のイメージ相応に汚い。もし事業か何かで中を改修することになったとしても、外観だけ汚いままにしておくなんてことはあり得ないはずだけど、実際はそれがあり得た。表面上の見た目からは分からなくても、中身は都合のいいようになっている。そういう実例を俺は見たのだ。

 この目に映る、虐げられるサキュバスたちの存在が、その外観に当たるとでもいうのだろうか。けれど、でも、それなら、内装に当たる部分は、いったいどこにあるのか。サキュバスにとっての内装とはいったい何だ……?

「心でしょ」

 ユリが言う。こちらの思考に対して、あまりにも良すぎるタイミングで。

「つらい目に遭ってるように見えても、誰の心も壊れない。それが君にとっての天国だからね」

「……壊れなければ何があってもいいってわけじゃ」

「君がそれを言うの?」

 俺の腕に抱えられたユリは、自力では身じろぎ一つできない。彼女は俺を見上げることなく、ただへその高さから外の世界を見ている。

 俺はそれでなんとなく分かった。この案内人を自称する生首は、天国の中でも異質・特別な存在なのだろう。彼女は明らかに多くを知っている、知りすぎている。俺の心の内だとか、生前の俺の振る舞いだとかを、きっと何でも。

 だから彼女は俺の偽善を見抜く。天国が「俺のために用意された俺の望む通りの世界」なら、虐げられる者の存在も、それを助けることも、全ては自作自演だ。……そしてそれは「助けないという選択を肯定する存在」だって同じなのではないか。

 俺は今日ずっと……ずっと何をやっているんだろう。

「まぁ、どうしてもっていうなら、記憶を消しなよ」

「え?」

「ヤンキーの記憶。瀬名川と鉢合わせたって記憶を消せば、全部解決でしょ? 物的証拠があるならそれも」

「……あ、そうか」

「ただ、それをやるならまずは瀬名川だけをここに呼んだ方がいい。真希ちゃんの時と同じで、現場で被害者の方が混乱したら危ないから、まずは説明からしないと」

「な、なるほど。……あれ、でもそれなら、今ユリさんにしたみたいに、瀬名川さんにも情報を直接送ればいいんじゃ?」

「だから、その「急に情報が送られてきた」ってこと自体にパニクるでしょ、対面で説明しないと。私は君の案内人だからスッと分かったけどさ」

「な、なるほど……」

 さすが案内人、天国の一部である「願えば叶う力」の使い方まで熟知している。一人であれこれ考えるより、これからは彼女に相談した方が話が早いのかもしれない。

 俺は今度こそ願う。瀬名川よ、俺の目の前に現れろ。そしてヤンキー男とその友人らからは、この件に関するすべての記憶が消えますように。

 ……突然ワープさせられた瀬名川は、ねこだましをくらったような顔で呆然とその場に立ち尽くしていた。

 俺は彼女に事情を説明する。ユリを抱えたままで身振り手振りを使えないことが若干不便だったけれど、必要なことは大体伝えられたし、伝わったと思う。瀬名川はどこか上の空ながら適切に相槌を打ち続けて、そして最後に要約として言った。

「つまり私は、助かった……ってことですよね」

「そうです。もう誰からも脅される心配はないし、警察沙汰とも無縁です」

「……うそみたい」

 覚悟を決めて飛び込んだ窮地から一転して生還した人の反応とはそういうものなのかもしれない。裸で許しを乞っていた時と打って変わって、彼女から受ける感謝の念は、良い意味でまるで抜け殻だった。

「あの、本当にありがとうございます。二度も助けてもらって、こんな、本当に何から何まで」

「いや、助けられてよかったです。正直俺もパニックで」

「あぁ、あはは……。パニックは私もそうでしたね。……あの、本当にこの御恩は全力でお返ししますから、なんでも言ってくださいね。なんなら今から、お兄さんとならホテルにでも……」

「いや、それだと本末転倒になっちゃいますよ」

「そんなことっ」

 否定しかけた彼女が、ユリのことをちらりと見下ろす。そして何かを察したように言葉を飲み込む。

「……いや、そうですね。せっかく助けてもらったんですから、ご厚意に甘えようと思います」

「よかった」

「はい。じゃあまた、何かあったらいつでも声をかけてください。本当にありがとうございました。それじゃあ」

「はい、またいつか」

 深々とお辞儀をしてからこの場を去る瀬名川を、俺は心の中では手を振って見送る。実際はユリを抱えたまま棒立ちで、ただ感慨深さのままにその背中を見つめていた。

 初めてだ。天国に来て初めて、まともに人を救うことが出来た。

 いつまでも、俺は遠ざかる瀬名川の姿を眺め続ける。……するとその余韻に被さるかのように、聞き覚えのある声が耳に入った。

「ありがとう。よく頑張ったね」

 声のした方を見ると、例のDV男が、にこにこ顔のサナの頭をなでていた。

「うんっ。喜んでもらえてよかったぁ」

「ふふ、好きだよサナ」

「わたしも好き」

 ……イチャつき始めた二人から、俺は目をそらす。あれはDV特有の醜い飴と鞭……それからそれに惑わされる女性の典型だと思ったけれど、それと同時に小夏のことが頭をよぎった。

 サナに「本当はつらい?」と聞いたら、嘘を封じられた上で「全然」と返ってくるかもしれない。それでも無理やりにでもクズ男とは引き離してやるのが、もしかすると長い目で見た場合での最も適切な優しさになるのかもしれないけれど、それは価値観の押し付けと紙一重になる。俺はそれをよく知っている。不登校時代、「どうすれば彼は学校に行けるようになるのか」という文脈で物を考えていた大人は、それがどんなに善良な思いから来るものであっても、俺という人間を理解することには決して、小指の先ほども至らなかった。俺はそれがつらくて、死んだ今でも、そのつらさを現在進行形の物として覚えている。

 人を救うとは、いったい何なのか。瀬名川のケースのように全ての話が道徳的に単純ならいいのに。ここが自作自演の世界なら……可哀想な女の子を救って悦に浸りたいなら、どうしてそれが簡単にできるようになっていないのだろう? いったい何なのだ、この天国という場所は。一人を助けられた今もまだ分からない。瀬名川を助けられた俺は、今度はいったいどうすればいい……?

 心が読めているはずのユリは、その問いに対しては答えをくれない。

「……ずっとここで余韻に浸るの?」

 自力で歩けない彼女が、うんざりした調子でそう言う。

 サナが彼氏に向ける幸せそうな笑顔を目に焼き付けて、俺は公園を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歩き続けるうちに、あのスクランブル交差点が見えてきた。

「ワープゲートの発想はあるのに、なんで普通の方法で帰るの?」

 ユリに聞かれて、俺は答える。

「そういうのはもっと、慣れてからの方がいいかなって」

「力に?」

「いや、土地に」

「現世と同じだよ。大体は」

「大体はでしょう?」

 あの本屋やマキの家がそうであったように、自分の足で行ったからこそ、道のりまでセットで印象に残る場所もある。ファストトラベルの多用は、本当は地続きの世界を飛び石のようにしてしまう気がして、天国のことをよく知りもしないうちに使うことは気が引ける。その中でも特に「家路を歩く感覚」というものは、残しておいた方がいい気がした。

 信号待ちの間、ユリはさらに聞いてきた。

「これは素朴な疑問なんだけどさ」

「はい」

「君はどうして私を持つ時に、ちょっと腕を曲げて持つの? 疲れない?」

「……疲れない、わけではないはずなんですけど」

 疲れないと言うと嘘になるけれど、疲れると言っても嘘になる。ロクに運動もしない引きこもりの俺が、それなりに重い物を一日中不自然な持ち方で抱えて、限界が来ないという方がおかしい。が、実際のところその限界は来る気配すらない。ぶっちゃけしんどいなぁと思いはするけどそれ止まりで、自分でも自分のことがよく分からない。

 けれどそもそも、それはユリからの問いに対する答えにはなっていない。俺が彼女を頑なに腹のあたりの高さで持っている理由は一つしかないのだから。

「そもそも俺がだらんって腕を伸ばして持ったら、まずいでしょう」

「なにが?」

「位置が下がるんですよ」

 腹筋よりも下へ、へそよりも下へ。俺が気を抜けば、ユリの頭の位置はズレる。

「ちんちんに当たるってこと?」

「そうなりますね」

「いいじゃんべつに」

「どのあたりが?」

「私気にしないよ」

「俺を気にしてくださいよ」

 そういえば髪コキをしたことって生前に一度もなかったな……とか、そんなことを訳もなく布越しに考えたくない。いや、ていうかそうか、ユリが俺の心を読めるなら、初めて彼女の首を持った時の内心の感想も今の思考もすべてバレているのか。最悪だ。

 ふん……とユリが鼻で笑った。言葉にした方を笑われたのか内心を笑われたのかはもはや分からない。まぁこの際どちらでもいいが。

 信号が青になって歩き出す。大きな交差点にしては切り替わりが早い気がするけれど、天国の信号は俺がいる時だけ早めに変わったりするのだろうか。これも答えはどちらだっていいけれど。

 駅に着いたら願って、残高無限のSuicaを出す。都会の駅はやたら広く、目指すべきホームはさてどこだ……と思った頃には、視界に矢印が浮かんでいた。また変な場所に連れていかれるんじゃないだろうな……と疑いながらもそれに従って歩くと、普通に目当てらしきホームにたどり着く。見知った駅の名前が〜〜方面と書いてあるから、きっと乗り換え無しの一本で帰れるだろう。

 さすがに電車が俺に合わせて来るようなことはなく、自宅の最寄りをすっ飛ばす快速なんかを見送っていると10分以上待つことになった。ホーム備え付けのベンチに座って、ユリの頬をむにむにしたり、髪に指を絡めてみたりして暇を潰した。暇な時はそんな風にしろと本人が言っていた気がする。

 弄ぶ感触から得られる楽しさは、優越感を多分に含んでいる。首から上しかなくても、ずっと抱えて運んでいても、相手の得体が知れなくても。俺はたぶん、ユリのことを性的対象として認識しているのだろう。どんなに触り心地がよかったところで、たとえば赤子相手ではこんな気持ちにはならないだろうから。

 けれど俺は、彼女に触れることに興奮はしない。

 唇に触れると、彼女は当たり前のように俺の指を舐めだす。それどころか咥えて、ちゅうちゅうと吸い付いてくる。……俺はその感触を確かに受けながら、楽しくとも昂らない己の不思議を感じていた。

 性的な優越感はある。その一方で、狭義の意味での性欲が沸いてこない。彼女にこれ以上何かをしたいだとか、あるいは他の誰かとセックスしたいだとか、オナニーをしたいだとか。そういう欲求が今はなぜだか沸いてこない。そしてそれはきっと、今に始まった話ではないのだ。小夏を見た時も、マキを見た時も、瀬名川も、サナも。本来なら、俺はああいう時……。

 ……つまりはなんというか、今日はもう疲れてしまったのだと思う。

「電車きたよ」

「あ、はい」

 少しぼーっとしていて、ユリが言ってくれなければ見逃していたかもしれない。車両内は平日の夜にしては空いていて、座れはせずとも吊り革にあぶれることはなかった。願うだけで崩れないバランスが得られる上にユリを抱えているから、そもそも吊り革を使うことはないのだけど。

 同じ車両内でドアの傍に立っていた学生の男女二人組みが目につく。着ている制服がマキと同じ物だったのだ。やけに遅い帰りだが部活の関係だろうか。マキは年齢不詳の掴みどころがない容姿をしていたけれど、今いる二人はかなり大人びて見える。まず間違いなく高校生だろう。それでマキが高校生であったことを初めて知る。

 ……今頃マキは客の相手をしているのだろうか。せめて、ひどいことをされていなければいいけれど。しかしそもそもサキュバスである彼女にとって、性行為を強制されることのうちどんな部分が恐ろしくて、どんな部分に傷つけられて、どんな部分は平気なのか。俺はそれを知らないから、どう心配していいのかも分からない。……いや、知らないのではない、怖くて本人に聞けなかったのだ。その気になればいくらでも聞けたはずなのに。

 小夏は今頃どうしているだろう、今日は何人の客を取らされたのだろう。サナはあの恋人と幸せにやっているのか、それともまた虐げられているのか。それに今日は助けられた瀬名川だって、明日からが無事なのかは分からない。彼女は元々、飲めない酒を無理やり飲まされて泥酔していたのではなかったか。しかもそれが会社の飲み会だったというなら、また同じことが起きないとも限らないのではないか。……けれどさすがの俺にも、全能の力でそれをどうにかしようとすることが現実的とは思えない。マキの時と同じだ。俺には、救う相手の人生を背負う覚悟がない。

 しかしまたその一方で、力は道徳に沿って使わなければならない。なぜならその力は万能すぎて、「誰も傷つかなくさせる」だけなら「人の感じ方自体」を変えてしまえば事足りてしまうから。でもその使い方は要するに洗脳である。人格への強制的な介入は、レイプなんかよりももっと直接的な、言葉そのままの意味での「心の殺人」に当たる。だからその手の乱暴な手段による救いはむしろ罪になる。責任を背負いきれないことに合わせてそこが難しくて、手に余るのだ。

 人を救うとは、いったい何なのか。なぜ俺は天国に来て、そんなことに苦悩するようになったのだろう。俺はただ、自分に都合のいい世界で、ユリの体を探していただけではなかったのか?

「なぁ、フェラしてよ」

「……他の子に頼みなよ」

「いねぇじゃん今」

 男女の会話が耳に入って、場違いな響きに何事かと我に返る。

 気のせいでなければ……あるいは認めたくないけれど、その会話は、例の高校生二人による物らしい。

 ユリの生首に対する反応と同じように、車両内に居合わせる誰もがその会話に無関心だった。

「いやだよ」

「頼むよ」

「いやだって」

「ちょっとでいいから」

「いやっ」

「…………はぁ」

 男の方が深いため息を吐いた。サキュバスのくせに性行為をしぶる相手へ、これでもかと不満を表明するかのように。

 そして彼は、独り言にしては大きな声で言う。

「オレだって他の奴がいるならそっちに頼みてぇよ」

「……………………わかったよ」

 女子の方も女子の方で、怨嗟にも迫る不満をあらわに返答していた。ため息を吐いて、その場にしゃがみこみ、目の前の制服ズボンのチャックを下ろす。

 ……そしてそのまま数秒、彼女は動きを止めた。まっすぐと正面に向いた目は、しかしどこか虚空を見ているようで。引き結ばれた唇が、わなわなと力んだようにうごめく。そうした異様な様子のまま、彼女は何かがつっかえたように動かなくなってしまう。

 涙の粒が、彼女の頬を伝ったように見えた。

 俺はそれを一瞬、見間違いか何かかと思った。だってそれは、いろいろな状況が違うとはいえあまりにも、俺がベレー帽のサキュバスをナンパした時とは反応が違いすぎたから。

 いつの間にか二人の傍に歩み寄っていた背の高い女性が、男子高校生の手を取った。そしてその掴んだ手を、痴漢を捕らえたかのように高々と掲げる。

「ねぇちょっと。その子嫌がってますよね?」

「は?」

「もしかして人間ですか、その子」

「……だったらなんだよ」

 不遜な態度の男子を制した女性が、しゃがんだままの女子高生に「逃げな」と諭す。ハッと我に返ったような彼女はしばらくその女性を見上げたあと立ち上がり、伝わるのかどうか怪しいほど浅い礼をしてから、本当に逃げるように別の車両へ移動していった。

 ……俺はそれを呆然と見ていた。

 訳も分からず叫び出したくなる衝動が、社会常識とは全く関係なく、ただただ動揺によって腹の底に押さえつけられる。開いた口が塞がらない。立っているのもやっとだった。

 ……人間? 女性の99%がサキュバスの世界で、残り1%の人間女性が、さっきの女子高生だった……?

 だとすれば、今この瞬間、俺の目の前で起きていたことはいったい……いったいなんだ?

「私じゃダメですか?」

「は?」

「誰でもいいんでしょ、さっきの彼女じゃなくても。私がしゃぶってあげるから、それでいい?」

「……べつにいいけど」

「よかった」

 言って、その女性はしゃがみこむ。開かれたままになった社会の窓からイチモツを出して、平気でそれを咥え込む。……車内の誰もそれを気に留めない。呆気にとられた俺だけが、その光景から目を離せなくなる。

 女性がフェラを続ける間に、電車は二つの駅に停車した。当然、停車の度それなりに乗客の入れ替わりが起こる。新しく乗ってきた客はその性別や年齢を問わず、車内で起きている光景に一瞬だけ視線を向けるけれど、そこで見た物に対してすぐに興味を失って、窓の外をぼーっと眺めたりスマホをいじり始めたりする。

「オレ次で降りるんで、イラマしていいっすか」

「ん……」

 聞かれた女性は返事のかわりに、男の両手を自分の頭に乗せさせた。好きにしろというメッセージだ。

 俺が見ている相手は、きっと何の変哲もないただの男子高校生だろうに。その男子高校生が、遠慮もなしに、見ず知らずの相手だろうサキュバスに腰を振る。相手の受ける苦痛などお構いなしで喉を突く。まるでそれが、この世界の常識の範疇であるかのように。

 残り一駅の間に彼はすんなり射精して、「じゃあ、どうも」とだけ言い残して目当ての駅に降りていった。車内に残ったサキュバスの女性は口元をハンカチで拭い、元々立っていたのだろう場所に戻って吊り革を掴む。どうやらそこには彼女の友人も居たようで、

「よく気づいたね」

「まぁね」

 と他愛なさそうな雰囲気で話していた。

 二人の会話はそのまま自然な流れで、最近見た面白いCMの話題に移行していく。まるで何事もなかったかのように。直前にあった出来事は、取るに足らないことだったとでもいう風に。

「次、降りるよ」

「あっ……」

 ユリの声でハッとして次の停車駅の表示を見ると、たしかに自宅の最寄りになっていた。

 都会に比べればずいぶん小さな駅のホームに降りて、改札を通って外に出る。見知った景色は駅前にあるラーメン屋や歯医者の見映えまで記憶そのままで、まるで自分が生き返ったような錯覚に陥る。

 けれど俺は、今もユリの生首を抱えていて。それを見た誰も、当たり前のようにその光景に興味を示さない。だから当然ここが現世であるはずもない。

 家までは歩くと15分程度かかって、若干しんどい。タクシーを使う金も、跨る自転車も、その気になればいくらでも用意できるけれど……。今日に限っては、俺はそのまま歩いて帰ることにする。

 考えを整理する時間がほしかった。

「……あの女子高生、人間だったんですね」

「みたいね」

「この世界の男って、相手が人間でもああいうことをするんですか」

「人によるかな」

 珍しくもないことだ……という調子で、ユリはそう答えた。

 見上げた月の輝きは、街の光に負けて弱々しい。傍らを通り過ぎていく車のライトが、ついぞ運転免許を取らずに死んだ自分にノスタルジーを感じさせる。自分の中で車というものはずっと、大人が運転して子どもが同乗するものだった。俺は最後まで大人にならなかった。

 それを大した恥とも思わないのは、自分が恵まれているからだろうか。たとえば環境に恵まれなかった人は、自分もあのテールライトをなびかせて、どこか遠くに行きたいと思うものなのだろうか。

 ……どこか遠くへ行けば何かが変わるという発想こそ、恵まれた者の持つ物なのではないかと、俺は傲慢にも思う。

「やっぱり、異性はサキュバスで当たり前の世界だから、男がそうなったりするんですかね」

「そうだね」

「……ってことは、この世界の人間女性はみんな、どこに行ってもずっと、ああいう思いをしながら生きていくんですか」

「そうなんじゃないかな。たぶん」

 どうでもよさそうな、投げやりな返事だった。

 普通に考えれば、女性は人類の半数で、人間女性の数はさらにそのうちの1%。……その人数が受けている境遇をどうでもいいと思う人は、ユリ以外にもきっと少なくないのだろう。

 だから彼女はマジョリティとして続ける。

「でも、大抵はさっきみたいに助けてもらえるんだけどね、サキュバスに」

「大抵って?」

「望まない性行為を実際にするところまでは、そうそういかないってこと」

「……それは何よりですけどね」

 そういう問題ではないのだろうと、俺は思う。

 大抵は助けてくれるということは、サキュバスから見ても、人間女性は気の毒な存在なのだろう。完全アウェーのこの世界で、人間より強い存在が味方になってくれることは確かに心強いことかもしれない。……けれどそれは、この世界に対する納得には結びつかないだろう。

 自らを助けてくれる心強い存在こそが、自らをアウェーに陥れた社会の構成要素の主なのだ。それは心に障害を持つ者が、自分を爪弾きにした社会からの福祉によって生き永らえることに似ている。俺が同じ立場だったら到底納得できない。ありがとうサキュバスだなんて思えるはずがない。むしろ、お前たちさえこの世界にいなければと、サキュバスのことを恨むだろう。にも関わらず、現実問題としてサキュバスの助け無しでは満足に身を守る自信もない。……そんな立場に生まれて生きることを想像すると、心中穏やかではいられなくなる。

 けれど、俺はあの女子高生が人間であることに、指摘されなければ最後まで気づきもしなかっただろう。それで同情だけは一人前とは話にならない……ということも分かってはいる。俺もあの女子高生の視点から見た世界における、消えてしまえばいい存在の一つであるのだということを自覚せざるを得ない。

 家路を行く足取りが重くなる。吹きつける夜風が冷たい。ユリを抱える指から感じるはずのぬくもりも、慣れてしまってもうよく分からなくなった。

 ……そうして暗い気持ちで歩くうちに、俺はふと一つの疑問に至る。

「あれ、でもそういえば。異性側のトイレに入ることは、この世界でも犯罪なんですよね?」

「まぁね」

「なのになんで、公共の場でのああいう行為は許されてるんですか……?」

「いや普通に犯罪だよ。誰も告発しないってだけで」

「え」

「たとえば友達が違法ダウンロードでアニメを見てたとして、わざわざそれを警察にチクったりはしないでしょ? それと一緒。がっつり犯罪だけど、居合わせた人が全員めんどくさくて黙ってるだけ。逆にいえばこの世界の大半の人にとって、ああいう光景はその程度のことでしかない」

「え、でも、それならトイレの方も」

「あれはトイレというより全裸の方が問題なんだよ。エッチは需要と供給が当人たちの間で噛み合ってるからいいけど、無差別なタイプの犯罪は天国でもそこそこ重罪だから」

「全裸? ……あ、そうか」

 言われるまで気づいていなかった。あのトイレの防犯カメラには、男子トイレに立ち入る瀬名川の姿が映っている。しかし、その男子トイレ内に彼女の衣服はなく、また彼女は個室内で発見された時すでに全裸だった。……ということは、カメラに映った「男子トイレに立ち入る瀬名川」も当然、全裸だったということになる。ひいてはその映像は、瀬名川がより公の場を全裸で徘徊していたことを証明する物になってしまう。それはサキュバスだらけの世界においてもさすがにまずいことらしい。

 だから彼女は焦っていたのか。トイレの個室で目を覚まし、自分が服を着ていないことに気づいた瞬間、彼女はきっと全てを理解したのだ、心当たりがあったのだ。どこかしらのタイミングで何かしらの経緯があって……ともかくそれなりの距離を、自分は裸のまま歩いてきてしまったのだということに。

 幸いそれは誰にも目撃されなかったのかもしれない。あるいは目撃されても運良くスルーされたのかもしれない。それなら、服を着てトイレから出て、そのまま家に帰れば真実は闇に葬られることになる。……監視カメラに残った映像を除けばだけれど。

 そうか、だから彼女はあの時、ヤンキー男の脅しに屈したのか。

「もしかして、ただトイレに入っただけならそこまでの大事にはならない……?」

「まぁたぶん、基本的にはね。酒に酔って間違えちゃったとか言っとけば、説教されるくらいで済むんじゃないかな」

「なるほど……」

 感心している場合ではないのだけれども。

 そんな話をしている間に、自宅までの距離はもう目と鼻の先になる。大通りを逸れて、ぐねぐねと微妙なカーブの多い……京都の街並みの対義語のような住宅街に入って、もうあと一分ほどで家に着く。長い一日の終わりに近づく。瀬名川の目先の窮地を救いはしたけれど……根本的なところまでは誰一人として救えなかった全能の力の持ち主は、それでも当たり前のように家に帰ることが出来てしまった。

 一人きりの暗い家は苦手だ。それで願ったから、玄関から廊下から居間までずっと、家の中には明かりがついていた。家の鍵を靴箱の上に放り出し、居間にあるソファまで行って沈み込むように腰を下ろす。……なんだかずいぶんと久しぶりに帰ってきたような気がする。

 テレビをつけるにあたってリモコンは必要ない。願えばそれは叶う。こんなところでばかり、俺は力の使い方に慣れつつある。

 手洗いも願えば必要ない。しばらくソファでぼーっとした後に気力を取り戻し、低くて幅の広いテーブルの前に座布団を呼び出して座り、ユリをテーブルの上に置く。つけたテレビではちょうどグルメ番組が流れていて、俺はひとまず夕食にありつくことにする。紹介されていた寿司が美味そうだったから、それをそのまま願って出した。

「ユリさんも食べます?」

「いや私はいい。サキュバスに普通の食事はいらないんだ」

「へぇ」

 まぁ、そうでなければわざわざ性欲なんか食わずに、普通にご飯を食べて生きているだろうから、そりゃそうか。

 街を歩いていれば、何かしら飲み食いしている女性の姿くらいは普通に目につくものだった。というかすでに、テレビの中でも女性芸能人が食レポをしている。知らない人だけど、確率的に考えて彼女もサキュバスだろう。「必要ない」と「食べられない」は別なのだと思われる。一緒に食事もできないようではいわゆる終電なくなっちゃったねもやりづらいだろうし、サキュバスという生物の性質としてそれは妥当な物だろう。というか、もしその性質が食べても太らないことを意味しているなら、普通に羨ましい。

 ……あぁいや、俺も今となっては、願うがままにその体質なのか。未だに一般人の気質が抜けない。番組の紹介する料理のお値段を見て「高っ」と思うこともあれば、大トロを食べる時には若干緊張する。

 食事しているところをまじまじと見られても気まずいだけだから、ユリの目はテレビの方に向くようにした。初めに見ていたグルメ番組は、よく見ると効果音の編集がうっとうしくて、別のチャンネルに変える。しかし他にめぼしい番組もみつからず、今度はサブスクで何かアニメでも見ることにする。

 死ねばアニメの続きは見られなくなるものだとばかり生きていた頃は思っていたけれど、普通に生前追っていたタイトルの続きが更新されていた。

 アニメが一話終わる頃には寿司もたいらげる。歯磨きも風呂も着替えも願うだけでスキップできるから、もうあとは寝るだけになる。寝室のベッドは旅館のように綺麗にセッティングされていて、一方で、普段使いの毛布の纏う隠しきれない年季に懐かしさを感じた。

 もしかすると俺は、死んでからここに来るまでの間にそこそこの時を要していたのかもしれない。本人の希望によってユリのことは枕元に置いて、俺は自分の「死後、意識がなかった間」に思いを馳せながら目を閉じる。照明のスイッチは部屋の入口にしかないけれど、願えばそれも必要なく、寝付きを促す暗闇が降りてくる。

 おやすみなさい……社交辞令のようにその言葉を交わしあってわずか数分。修学旅行の夜か何かのように、枕元のユリが喋り出す。

「今日一日見てみて、どうだった? 天国は、上手くやっていけそう?」

「……どうって」

 その一言のせいで、考えないようにしていたことを全て思い出した。小夏は、マキは、瀬名川は、サナは、あの女子高生は。今頃いったい、どんな気持ちで生きているのか……。

 ……それを考えるたびに思うことがある。

「一つ気になるんですけど」

「なに?」

「……ここって本当に天国なんですか?」

 光無き黒い天井を見上げながら、俺は問う。暗闇に慣れない目では横を向いてもユリの顔は見えないだろうし、そもそも見ようとも思わない。

 口に出してみると改めて、その問いはまったく確信になど触れていないような気がした。俺は心のどこかでその問いの答えを知っていたのだと思う。……ただ、それでもそれを認めたくなかった。

「どうして疑わしく思うの?」

 心底不思議そうな声が、闇の中から耳元によこされる。そういえば異性と添い寝したことは生前なかったなと、現実逃避のようなことを思う。

 どうして疑わしく思わないと思うの? と聞き返したいくらいだった。

「どうしてって。俺はともかく、今日俺が見た女性たちにとって、この世界は地獄じゃないですか」

「そうだね。でもどうして、それでここが天国かどうか疑おうと思ったの?」

「……え?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。全ての言葉が想定外だった。

 彼女たちにとってこの世界が地獄かどうかは議論の余地があるとか、その観点から見れば確かにここは天国ではないとも言えるかもしれないとか。そういう返事が来ることを俺は予想していた。けれどユリは前者をあっさり認めて、その上で後者を真っ向から否定したのだ。彼女はこう言っている。「それはここが天国であることを疑う理由にはならないだろう」と。

 だから、彼女が何を言っているのか、俺は分からなくなった。

「……いや、地獄絵図が広がる天国なんて、聞いたことないじゃないですか」

「そう? 今日見た女の子たちにとっての地獄は、君にとっても地獄絵図だった?」

「……どういう意味です?」

「彼女たちの視点と君の視点は、イコールで結ばれてるわけじゃないでしょって」

「それは……」

 その言い方はずるい。他人の価値観と俺の価値観は違う、当然だ。しかしだからといって、それと他人の苦しみを想像できることは違う。天国とはもっと、みんなが幸せになれる場所であるべきなんじゃないのか。

「みんなで幸せには無理だよ」

 心を読んだユリが言い切る。

「なんで……?」

「人は多様だから。誰かの幸せは誰かの不幸せになるのが常なんだよ。ゼロサムゲーム的な意味ではなくてね」

「……現実はそうかもですけど。現世と違って、そっちが現実なら、こっちは夢みたいな物じゃないですか、天国って。願えば叶う力がポンと与えられるような、そんな世界なら、全員が幸せになることだって」

「無理だね」

「なんで」

「だってみんなが幸せな世界だと、君はつまらないでしょ?」

「……なんでですか?」

「え、言ってほしいの? 自分の胸に聞いてみなよ」

「…………」

 ユリが何を指してそう言っているのか、俺は理解できてしまう。彼女がこれまで何度も口にしてきた「君の天国」という言葉が脳裏をよぎる。俺はずっとそれを単なる事実に即した呼称として受け取りたがっていたけれど、でも、やはりそれはずっと皮肉として放たれていた言葉だったのだろうか。

 俺にとっての天国。他の誰でもなく、俺だけにとっての天国……。

「……俺がまともな人間だったら、誰も傷つかなかったんですか」

 俺が、いてもたってもいられずに今日見た地獄絵図の払拭を試みる人間だったら。責任云々を考える前にまずは手を差し伸べられる人間だったら。俺が今、のんきに布団に入っているような人間ではなかったなら。この天国は、もっと別の姿を見せていたのだろうか。……もしそうなら、諸悪の根源は俺じゃないか。

 重要な……それでいて重大な問いを口にしたつもりだった。けれどユリの反応は、残酷なほどにそっけない。

「どうかな。まともって何? 押しつけじゃなく正しく全ての人間の幸せを願える人間なんて、実在するかな?」

「けど少なくとも、レイプや虐待には虫唾が走る、吐き気を催すって人が天国を持ったら、その天国に今日見たような光景はなかったりするんじゃ……?」

「まぁ、それはそうだけど」

「……そんな話ってありますか」

 俺がそうあれと願ったわけではないのに。受付の説明もロクに聞かず、ただ与えられた物を受け取っただけなのに。それで自分が全ての罪の根源になるなんて、そんなことがあっていいのか。それが「天国」のやることか……!?

 逆ギレ、他責思考。そんな言葉が頭をよぎる。理不尽への抗議に対しても、負い目のある人間にはそれが付きまとう。

「いや、べつに今さら気に病むことないでしょ。私はちゃんと全部最初から知ってたよ。君が生前、オナニーする時、どんな物をオカズにしてたのかも」

「でもそれは、漫画は現実と違う」

「漫画だけじゃないでしょ」

「AVだってフィクションですよ」

「でも実際に起きてることでしょ? グリーンバックで撮影してCGのまんこに挿入してるわけじゃないんだから」

「それは……。けど、台本と同意と信頼が、あるのとないのとでは全然話が」

「それらがあったところで、君が好んで見ていたような内容の撮影に臨んだ女性たちが、撮影中、みんな幸せだったと思う? 全部平気で、少しもつらくなかったって? 私は思わない。みんなお金のために歯を食いしばって頑張ってたはずだと思う。そして君もそれが分かってなかったわけじゃない。分かった上でなお好んでるんでしょ?」

「だ、だからって、俺が今日見た地獄を望んだっていうんですか……?」

「望んだとまでは言わないよ。でも実際見てみて、どうだった?」

「どうって……。ひどい物だった」

「興奮した?」

「するわけない」

 確かに俺は、漫画やAVの中にはそういう内容を望んできたけれど。それが現実にあっていいだなんて思うはずがない。なぜならそれは人間に耐えられる物ではないからだ。AV女優は確かに歯を食いしばって耐えている、しかし逆に言えばそれは「耐えられる」ということを意味してもいる。その手の仕事から負う心の傷が、レイプや虐待の被害者と同じ度合いであるとは、俺には思えない。その度合いの差こそが、許される物と許されない物の差なのだ。

 実際、だから俺は今日、性的興奮を覚えなかった。だから誰にも手を出さなかったじゃないか。我慢したわけじゃない、手を出したいと思いもしなかった。俺には良識があるから。

 俺は、人一人の心と人生を壊してまで、気持ちよくなりたいとは思わない。

「それは、もしそこで興奮したら、その興奮を発露したら、相手が壊れてしまうから?」

「そうです」

「どうして壊れると思うの?」

「どうしてって、それが人間だからです。人間には耐えられないことがある。そんなのは世間を見ていれば分かることで」

「人間の……でしょ?」

「……は?」

「君が言ってるのは、人間の限界でしょ」

「…………そうです」

 ユリが何を言おうとしているのか、そこで俺はようやく理解する。こちらの心を、趣味を、本性を知る彼女が、不毛なことなど言うはずがなかった。

 俺の至った気づきを、かわりに彼女が言葉にする。

「君が今日見た女の子たちは、一人を除いてみんな人間じゃない。サキュバスだよ」

「で、でも」

「あのね、私は思うんだけど……。もし人間の女性が「頻繁に男を性的に満足させないと生きていけない病」にかかったとしたら、どうなるかな。サキュバスの体質っていうのはそれだと思うんだけど」

「……それは」

 それはおそらく、人間に耐えられる境遇じゃない。

 けれどサキュバスはその境遇の中で涼しい顔をして生きている。外的要因によって虐げられ傷つくサキュバスはいても、自らの体質に耐えられずに苦しむサキュバスはきっといない。少なくとも、今日見た地獄の中にそれはなかった。……なぜならサキュバスという生き物は、人間とは根本的に作りが違うから?

 だとすれば、人間基準の物差しで彼女らの幸不幸を測ることは、的外れにもなるというのか……? 善悪や、何が正しいのかも?

 自らを包む夜の暗闇が、今や寝付きを促すものではなく、哲学的前後不覚の比喩のように思えてくる。その暗闇の中から耳元に聞こえる女の声は高く、俺はその声の主が首から下の体を失っていることを知っている。その境遇は考えてみれば車椅子に乗るよりもずっと深刻なもので、俺がユリに介護者として適切な態度で接することが出来ていたのかは分からない、自信が持てることじゃない。彼女が案内人として余裕げな態度を一貫してくれていたおかげで、これまでそれを気にすることがなかっただけで。

 首だけになって生きる境遇は、地獄とは違うのだろうか。何が地獄で何が違うのか、素朴な人間の感性が抜けきらない俺に分かるのだろうか。

「小夏ちゃんは自分の境遇に納得してた。諦めるんじゃなくて前向きに」

「……彼女は特殊ですよ」

「真希ちゃんはしんどそうだったけど、君が次回は客として現れても、それ自体は嫌じゃないらしかったね」

「あれは、虐待を受けて育った子どもがする精一杯の好意の表現で、本心じゃない」

「なら彼女の嘘を封じて今度聞いてみなよ。エッチ無しで会えるならそっちの方がいいのかって。私は、君が思ってるのとは違う答えが返ってくると思うけど」

「どうして」

「だって逆に、今日一度でも、君の予想通りの返事がサキュバスから返ってきたことがあった?」

「……それはおぼえてない」

「そう。……で、瀬名川って人は確かに、また近いうちにひどい目に遭っちゃうのかもね。でも社会的立場を脅かされることに怯えてる彼女が、どうして暴力のことも同じように恐れると思うの? もし彼女から恩返しのエッチを受け取るなら、その時に乱暴したって平気かもしれないよ。レイプだって、それが暴力であること自体は彼女にとって平気なのかも」

「じゃあ仮に……仮にそうだったとしたら。何だっていうんです……?」

「君にとってここはちゃんと天国なんじゃないのって話。サナはあれで本当に幸せなのかも。いつか大人になった真希ちゃんは、10代の頃のことを苦い体験の一言で済ませるかも。……もしそうだとしたら、君が彼女らの地獄を嫌う理由はある?」

「あの女子高生は」

「あの子は人間だから、まぁ、ほぼ確実にずっと地獄だろうけど。どの程度かはともかく」

「それならやっぱりこの世界は地獄で……」

「でもさ。そんなこと言ってたら、君の望むようなAVは撮れなくなっちゃうよ?」

「……なにって?」

「不幸な人が一人もいない世界に、尊厳を切り売りする人はいないからさ。君の望むAVもなくなっちゃうよって」

「いやそれは、さっきも言いましたけど、程度の差が」

「それはつまり、ある程度のつらさは天国にもあっていいってこと?」

「……そういうわけじゃ」

「全体の1%以下は、ある程度にはならない? 個別の苦痛の度合いに問題があるなら、1%以下の人数が味わう地獄はダメで、それよりずっと多い人が味わう「地獄とまではいえない苦痛」はいいって言える理由は?」

「よくはないですよ」

「でも、ないと困るんでしょ?」

「こまっ……困るのは、困らないと言ったら嘘になりますけど」

「ね。だからさ……、君の語る善悪ははっきり言って、その場その場の思いつき、雰囲気だよね。中身がない」

「…………分かりました、それは認めます」

 ここが天国だというなら、どうしてそんなことをなじられなければならないのか……とは思うけれども。

 しかし、あぁそうだ、俺は偽善者だ。性癖は悪辣なサディストで、趣味に合うAVがこの世から根絶やしにされては困る。本物の性犯罪はこの世から根絶されるべきだと思う一方で、AVの中にだけはそれを再現した光景に残っていてほしいと思ってしまう。その性分のせいで、AV上のレイプと本物のレイプの哲学的境界線が限りなく曖昧になったサキュバスなんて生物がこの天国に登場して、あの地獄絵図を作り出してしまったというなら、それはそうとも俺のせいだ、認めるよ。

 でも、それならどうして天国は、AVだけを置いていってはくれなかったのだろう。どうして俺に、自身の欠点をまざまざと見せつけるような真似をするのだろう。

 いや、そもそものことを考えるなら、俺のような人間が天国に行けること自体がおかしかったのか……?

「私たちは君に、本物の天国を見せたいんだよ」

「……本物?」

 そして、私「たち」……?

 多重層の不可解に首を傾げる俺に、語りかけるユリの声は優しい。いや、彼女はいつも、ずっと一貫して優しかったような気もする。

「そう、本物。君のすべてを肯定する世界こそが、本物の天国だから」

「すべてって……。人には、肯定されるべきじゃない部分もありますよ」

「そう。だからそれは、天国の考え方じゃないってことになる。……そもそもどうして、一人に一つの天国があると思う?」

「それは、……いやそれは俺も気になってたんです」

 生前に立派なことをしていたならともかく、なぜ俺のような社会不適合者にオーダーメイドの天国が与えられたのか。その答えとして妥当な物は一つしか思い浮かばない。「前提として全ての人間は必ず、死後、天国に行く。そして天国という物は必ず、その人に合わせたオーダーメイドである」。……これ以外にない。

 けれど、なぜそうなっているのかが分からない。波乱の出来事ばかり起こるから、それをじっくり考える時間もなかったけれど、不可解といえば実に不可解だ。なぜ全ての人間が天国に行ける? なぜオーダーメイドになる?

「神様は人間を罰さない。人間を生むという罪を犯した自分たちに、その権利はないと思ってるから。天国は人間への償いなんだよ」

「え、人間を生んだことって罪なんですか」

「少なくとも今の世論ではそうなってるね」

「神様に世論があるんですか……?」

「そりゃあるよ。……で、償いとして天国を与えるにあたって、一つ大きな問題があった。それは人が多様であること。誰かの幸せは誰かの不幸せで、全ての人間を一律に幸せにさせることは、人間の多様性を保ったままでは不可能だった」

「さっきも言ってましたね」

「うん。だからそれが、一人に一つの天国を与えるようになった理由。結局、全ての人を幸せにしようと思ったら、全ての人を「その人に合わせた世界」に隔離するしかなかったんだよ」

「なるほど……?」

「で、せっかく隔離するなら、全力でその人を幸せにしないとおかしいでしょ? 正しいも間違ってるもない、善悪も道徳も関係ない。とにかくその人の幸せのことだけを考えないと」

「……ん? え、でもちょっと待ってください。人を生むことは罪なんですよね?」

「うん」

「じゃあ、人の幸せのために天国の中に「他人」を用意するのは、本末転倒じゃないですか」

 天国の中にいる俺以外の人が幸せかどうかなんて、その文脈においてはもはやどうでもいい。幸せだろうと不幸せだろうと、そもそも「人が天国のために用意された」という時点で論理が破綻している。

 けれどもそう、まさか神様が、その程度のことに気づかないはずもなく。予想の範疇すぎる質問が寄越されたからか、ユリは暗がりの中から、子どもを見守るような声で笑った。

「そう。だから天国に「人やそれに準じる存在」は、君一人しかいないの」

「えっ。でも」

「私たち「天国」は、君を幸せにするためだけに生まれた、君を肯定するためだけに存在してる装置なんだよ。天国にあるもの全てが総じて一つの「私たち」なの。そして私たちに「君を幸せにしたい」以外の感情はない。演技はするけどね、君を楽しませるために」

「……え、ごめんちょっと、話についていけないんですけど」

「ざっくり言うと、2ちゃんねるにはひろゆきと君しかいないってこと」

「はぁ……?」

 本当に何を言っているのか分からない。……が、彼女の語った通りの内容でもなければ、今の状況に辻褄が合わないこともまた事実だった。

 ユリも、小夏も、マキも、瀬名川も、サナも、あの女子高生も。それ以外のあらゆる人物も、全ては「天国」という同一人物……? という意味の分からない答えが、どうもこの世界の真実らしい。あらゆる人物に宿っているように見える感情は全て演技で、本当は誰も何も感じていない……まるで哲学的ゾンビの話題その物だ。

 しかしだからといって、じゃあ何をしてもいいや……という結論には至れない。現世の他人にだって、その自我の実在を確かめる方法はなかった。辻褄の有無なんて物は関係ない。ただ本能的に「人間」である俺は、哲学的ゾンビと人間を区別して考えることに順応できない。相手が何者かに関わらず、人の形をしている者がひどい目に遭っていたら同情してしまう。そしてそれこそが、俺にとっては何よりも真剣に向き合うべき最大の問題なのだ。

「……まぁひとまずそれはそうなんだとしても。だから思考停止してもいいやとは思えませんよ」

「それはもちろん、分かってるよ」

「だったらやっぱり、この天国の在り方はおかしい」

「どうして? 不幸な他人は必要だって、さっき話したでしょ」

「……だったとしても! じゃあ、架空のAVを作ればいいじゃないですかっ。それこそ本物と見分けがつかないほどのCGで、天国ならそれが可能なんじゃないんですか?」

「でもそれだと、君のことを肯定できない」

「出来るでしょう」

「出来ないよ。天国は君に、君の性癖はこの天国の中に限っては悪くないものなんだよって、伝えないといけないから」

「だからそれをAVで」

「ダメだよ。だって君は、借り物の善悪を基準にAVって答えを選んでるだけだから。私たちは君の価値観を肯定するけど、その善悪の基準に関しては、そもそも君の物じゃない」

「……それはどういう?」

「だって君は、必要に応じて女の子を見捨てられた。小夏のことを「本人がそう言うなら」と、真希のことを「自分には責任を背負いきれないから」と。瀬名川のことは「そこまで面倒見きれないから」、サナのことは「首を突っ込むべきか分からないから」、女子高生のことは「問題の規模が大きすぎてどうしたらいいのか分からないから」で、君はわりと平気で見捨ててきた。無意識に逃げるわけでも自己正当化するわけでもなく、ちゃんと選択的に見捨ててそこそこ平気だった。……それが出来る人間にとって、どうして彼女らをオカズにすることや、彼女らと思いのままにセックスすることだけが、許すに許せない絶対悪になるのさ。おかしいでしょ」

「……いやそれはっ、そんな、なんっ……平気なんてことは」

「本当は、神と世間とその時の相手本人が許すなら、何も問題になることがないなら、AVみたいなことを自分でもしてみたいんでしょう?」

「そんなこと……!」

 そんなこと、ない。

 ……いや、でも、ただ「ない」というのでは、不正確かもしれない。

 俺はそんなことをしたいとは思わない。してみたいとは思わない。本当だ。……けれどそれを思わなかっただけでは、人としての正しさには足りないのだろうか。

 べつに、監禁被害者と大差ない違法風俗店の嬢や親に売られた子ども、不可抗力で弱みを握った相手や幸の薄い身体障害者や、あるいはこの世を地獄だと思っている人……を、そういうような人と、あえて自分本意なセックスをしたいだとか、そんなことを望んだ試しはない。断じてない、一度もない。……いや、なかった。なかったのに、この天国ではそういった変なものばかりが、手を伸ばせば届く距離に飛び込んでくる。

 心が二つある。小夏が人並みの幸せを手にしてくれたら、俺はそれを心から祝福するだろう。マキが高校生として当たり前の生活を手に入れてもそうだ。他の人物の幸せや平穏に関してもそうだ。……ただその一方で、別のことを少しも考えないと言ったら嘘になる。今日見た誰しもが、それはもう凄惨な性暴力を受けたあとに、むくりと起き上がって、寝起きのように伸びをして、あのベレー帽のサキュバスがそうだったように、何事もなかったかのような素振りを見せてくれたら……。もしそうだったらどんなに良いだろうと、俺は思ってしまう。そしてもしそれが実現するなら、そんなあり得ないことが、実現してしまうほどの前提が成立するのなら……。

 ……その凄惨な性暴力とやらの加害者が俺自身であってもいいんじゃないかと、本当は思ってしまう。

 だけどそれは、尊重されるべきではないことだ。前提が変わることで善悪がいくらねじ曲がっても、誰も傷つかないのだとしても、それは哲学的ゾンビの話と同じだから。俺が人間である以上、それを尊重してほしいと叫ぶわけにはいかない。俺自身がそれを肯定できない。

 だから俺は、彼女が言うようなことをしたいとは思わない。

「だから私たちは、どうにかして君のそれを肯定してあげたい」

「なんでそんな無茶なことを」

「自分で自分を肯定できないことほどつらいことはないからだよ。ここは天国なんだよ? 天国の主が、どうして自分自身を否定し続けなきゃならないのさ」

「……そんなこと言ったって」

「認めようよ。君はすでに知ってるはずだよ、天国っていうのがどういう物か。神様がどうとか、そういう話じゃなくて、君は現世でそれを見てきたはずだよ」

「現世で……?」

「そう。……天国っていうのは、「他人の地獄」を眺めることで成立するんだよ」

「……それは、ごく一部の人にとってでしょう?」

 確かに俺のようなサディストは、他人の地獄を眺めることに幸せを見出しているとも言える。あるいは恵まれた生まれの人たちは、不幸な境遇に生まれた他人のことを見て「自分がああならなくてよかった」と思うかもしれない。それを「他人の地獄を眺めることが天国」と表現することは確かに可能だ。……でもそれは、人の幸せの僅か一例でしかない。

 他人を傷つけなくても、他人と比べなくても、ただ自身の幸せをひたむきに享受できる人間なんていくらでもいる。どうせ天国が手に入るというなら、俺はそういう物がいい。

 ……だけど、これも本当は心のどこかで、ユリに言われる前から気づいていたことなのかもしれない。そのひたむきな幸せとやらは、自分の身の丈に合うものではないのかもしれないと。悪い意味ではなく、良い意味でもなく、ただ人間の多様性の在り方の一例として、俺にとってはそうなのではないかと。

「一部ってほど少なくない。でも仮にそうだったとしても、君はごく一部の側だよ」

「誰かを傷つけなきゃ幸せになれない?」

「そうじゃない。……君は、人間社会で生きていくことには才能の有無があると思ったことはない?」

「……ありますよ」

 社会不適合者として生きて、そう思わない者はきっといない。俺の魂には、そういう負の視点がこびりついている。

「でしょ? 受け答えや考え方を見てたらそれは分かるよ。だから、生まれつき社会に適合しやすかった人間から見て、君みたいな生きづらそうな人は、優しい言い方でも「不憫な存在」に当たると思う。……つまり、何の疑問もなく努力ができて、それによって人並みの幸せを手に入れ、そういう自分の人生に素朴に満足することの出来た人たちにとって、現世は天国に近かった。そしてそこに適合できない君みたいな人にとって、現世は地獄に近かった」

「いや、それはさすがに違う。現世は苦難に満ちていて、思い通りになることはほとんどないのが当たり前で、天国みたいな暮らしをしてる人は誤差みたいなものでしょう」

「だからその苦難も踏まえて幸せを感じられる人たちが大勢いるから、その人たちから見た現世が天国なんだよ」

「……仮にそうだとして、俺は眺められる地獄の側だったと?」

「そう。まさにそうだった。サキュバスだらけの世界で苦しむ人間の女性は、君にとって他人事じゃない。君の心を壊す物が、他の人にとっては「ありがちな苦労」でしかないんだから」

「だからって、俺が見世物になって誰かを幸せにしたわけじゃない」

「そんなことは私も言ってないよ」

「じゃあなんで天国はわざわざ……!」

「それは、天国が君の価値観に沿ってるから。……眺められた側の君にとって、天国の象徴は地獄を眺めることにあるから。ひたむきな幸せとか、楽に救えるピンチとか、そういうのは全部君にとって「リアルじゃない」から」

「…………」

「それに元々君は、自分より下を見て、自分があれじゃなくてよかったとも思うタイプでしょ?」

「……それはそうですけど」

 だからって、そんな。俺に認識できる幸せは、そんな形の物しかないというのか。俺がサディストの社会不適合者だから。仮にこの手で他人を幸せに出来たとして、その時に得られる気持ちを「優越感」や「達成感」としか表現できないから。それは人を傷つけることや征服することと地続きの心だから。だからどのみち人を傷つけ続けることでしか、完璧な幸せは得られないというのか。

 ……自分を理解しなかった大人たちへの不満を、子どもの頃から文字通り死ぬまで引きずっていたような人間には、それが限界なのか。

 認めたくない反面、納得感もあった。確かにこの天国のやり方は俺の価値観に沿っている。俺が虐げられるサキュバスたちの価値観に強制介入することで彼女らを幸せにすることをタブー視したように、天国も俺の価値観を尊重してくれている。だから俺を善良な人間にしようとはしない。それをしてしまったら、それはもはや俺ではなくなってしまうから。

「さっきも言ったけど、天国に本当は人なんていない。君以外にはね。ただ人っぽく見えるものがあるだけ」

「……そういう話でしたね」

「うん。だからね、「人を傷つける」ってこと自体、ここでは悪いことじゃないんだよ。……君にはそれを分かってほしい。分かって、思う存分幸せになってほしい。せっかくの天国なんだから」

「……幸せかぁ」

 実は、同じようなことを言ってくれた人が生前にもいた。願えば叶う力を持っているわけでもないのに、君には幸せになってほしいと、そんな無茶ぶりを平気で言う人がいた。俺は恵まれていたのだ。

 ユリに指摘された通りの性分を背負った俺は、その生前の時にも、今と同じことを思った。

 そういう台詞は、言うだけなら無料だ。特に俺が、借り物の理性を大切に抱えているうちは。

「ユリさんも、人じゃないんですか?」

 話しているうちに、暗闇にも目が慣れてきた。首だけをめぐらせて隣を見ると、うっすらと見える輪郭の中で、ユリは確かに微笑んでいた。

 彼女は俺の質問の意図を、一発で正確に汲んだのだ。

「そう、それなんだけどね。私はサキュバスで、しかも自力では動けないでしょ? ……だから君から魔力をもらえないと、腹ペコになっちゃってとても困るんだけど。どうかな……? 私のこと、助けてくれる?」

 首だけのサキュバスのユリが、救えないサディストの俺に向かってそう尋ねる。

 サキュバスが生きていくために必須の魔力とやらは、人の性欲を原料にする物らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手加減とかされると魔力が濁るから、好きなように全力でやってね。……ユリは逆さまに持ち上げられたままそう言った。

 性欲から得る魔力は、男の満足度が高ければ高いほど純度が高く濃い物になるらしい。当然、濃いほど栄養があって味も良い。だからサキュバスたちはみんな事務的ではなく、創意工夫のこめられたより良い性交を模索し、追求する。

 しかしそうは言っても、首から下のないユリに出来ることは限られている。俺は順当に、彼女の口を使うことにした。

 良識と疲弊した精神によってなりを潜めていた性欲は、化けの皮を剥がされたことで本来の熱を取り戻す。あるいはそこには、単純に快感を得たい気持ちとはまた別の、大きく啖呵をきった相手のことを試したいという嗜虐心もあったように思う。

 せっかく欲を満たすのに、相手の姿が暗くてよく見えないのはもったいない。かといって眩しさに目を細めるのも嫌で、照明の消された寝室には、本来存在するはずのない……残り火のように淡い暖色の光が浮かび上がった。

 首の断面が見えるほど真っ逆さまに持ち上げられたユリが、何の躊躇もなく大きく口を開けている。そしてその真下には、彼女のことを窒息させて喜ぶ棒が、今日一日抑制され続けたことへの復讐であるかのように昂っている。

 あのDV彼氏がしていたように、俺もユリの喉に根元まで挿入した。ごっ……と一度水っぽい音が鳴って、彼女の喉が震える。

 ……そう、あごのすぐ下で首が切断されているユリにも、挿入してみれば確かに喉があった。断面に触れると見えない皮膚に覆われているような感触があることしかり、彼女の体には謎が多い。どこかにある彼女の体と内部がリンクしているのか、それとも全然違う仕組みなのかは分からないけれど、とにかくイラマチオをすることに支障がないのは確かだった。

 それからはもう、まさにオナホ扱いになる。自力での身動きがとれない彼女の頭を、こちらの都合で好き勝手に上下させる。危害を加えられない法則によって噛み付くことはできず、腕がないので物理的に拒否することもできず、窒息から逃れようと身をよじることさえ叶わない。……精神をえぐる類とはまた別の、直球の地獄があっさりと完成してしまった。

 俺は時々彼女の喉から物を完全に引き抜いて、息継ぎの権利を与える。そして咳き込み、ゲロを吐き、呼吸に漕ぎ着けるまでもやっとだという彼女にテレパシー能力を与えて、問いかける。

「つらいですか?」

 ……するとそれを何度繰り返しても、目の前の凄惨な絵面に反して、頭に直接響く声には余裕がにじむ。

「ぜ〜んぜん。もっとして?」

 決まってそのような趣旨の回答しかしない彼女は、だから再び虐待される。テレパシーは、息継ぎが落ち着くのを待たずに会話を成立させるための手段だ。向こうもその意図を汲んでいるのか、見た目にどれだけ余裕がなくても必ず即座に返事をよこす。そして息が整う前に、再び地獄に沈められる。

 初めのうち、喉を塞がれた彼女は満足に悲鳴も上げられずにいた。完全に塞がった喉では声も出せず、胃の中身(これがどこから来ているのかは本当に謎だが)が逆流しようものなら、それは鼻腔にまで流れ込む。普通なら泣いて許しを乞うなり気絶なり発狂なりする状況だろうに、ユリは決してそんな素振りを見せない。……彼女が天国の一部だから?

 次第に喉に物が馴染んできたのか、彼女は無言で悶え苦しむのではなく、水の入ったポンプの中をかき混ぜるような音を出して悲鳴に代えるようになった。がぼっ……ごぼっ……と音が鳴って、口の端から吐瀉物が漏れる。鼻の穴からも相変わらず同じものが垂れてくる。胃液で粘膜を焼かれる痛みと、酸欠によって脳細胞の壊死する痛みが、おそらく彼女を絶え間なく襲っている。生理的な反射としての涙もボロボロこぼれる。しかしそうしてこぼれる物の全てが、床に垂れ落ちる直前にはこの世から消え去る。掃除が面倒だという俺の願いによって。ユリの苦痛は消えないのに。

 僅かに与えられる休憩が来るたび、ぜーはーと必死に息継ぎをしていた彼女は段々と衰弱していって、そのうち満足に同じことを出来なくなっていった。口を解放してもひゅーひゅーと細い息をするだけで、今にも死にそうな様子になっていく。俺はそうなるまでに何度も彼女に聞いた。つらい? やめたい? ……けれど彼女の答えは一度も変わった試しがない。目に見える彼女はこんなに衰弱しているのに。

「まだまだ余裕だよ?」

 人間が相手だったら……というか、ここが天国ではなかったら。さすがにそれ以上無茶をすると本当に殺してしまうかもしれず、このあたりが潮時になる。けれど今の俺は、願うだけで望みを叶えられてしまう。それがどれだけ残酷で人道に反していても、ユリがそれこそが天国の本懐だというならなおさら確実に、その願いは叶ってしまう。

 つらくなったらいつでも言ってくださいね。俺はそう言って、死にかけのユリの喉をオナホとして使い続けた。テレパシー能力は、彼女の口が塞がっている間だけ剥奪した。それは単に俺が望んだタイミングでつつがなくコミュニケーションを行うための物であって、彼女に与えられたいつでも使えるギブアップの権利ではないから。彼女のギブアップの一言は、俺が許可しなければ口走ることすらできない。

 ……ユリが言っていたのはつまりそういうことなのだ。他人の地獄を眺めて我が身の天国にするとは、俺の本性を全て肯定するとは、その実こういったことを容認することにある。そんなことを、はたしてユリは、自分が地獄の底に突き落とされて滅多刺しにされるような目に遭っても、まだ支持すると言えるのだろうか。

 口だけで「幸せになってほしい」と言うのは簡単だ。俺でも言える。他人に実際的な役割を任せることも場合によっては簡単だろう。けれど自分が渦中に飛び込むとなると、それが容易なはずはない。……俺はユリが前言撤回するのを待っていた。

 今のユリに意識を失う権利はない、死ぬ権利もない。ただ願われて、強制的に意識を保ち続ける。俺をいくらか楽しませるためだけに、死に値する苦痛を延々と味わい続ける。

 息継ぎのために一時的に解放したとみせかけて、一秒も待たずに再び喉奥をえぐる。休憩が、命乞いのチャンスが、当然のように巡ってくるわけではないのだということを分からせるために。

 けれどそんなことを続けていると、頭の中にテレパシーとは別の声が聞こえてくる。映像も浮かぶ。ユリが悲しそうな顔をして言うのだ。私たち、今日一日一緒に行動して、仲良くなれたと思ったのに、どうしてこんなひどいことをするの……? 苦しいよ、つらいよ、悲しいよ……。私、何か君に嫌われるようなことをした……?

 その声に耐えられなくなってきたあたりで、もう一度現実の彼女に問う。

「つらいですか?」

 かはっ……ひっ……ひっ……と、呼吸と呼べるのかも分からない音をたてながら生死の狭間で悶えるユリ。それとは対照的に、テレパシーは落ち着いた声で答える。

「君の方は? 大丈夫?」

「…………」

 俺はそれで、彼女に前言撤回させることを諦めた。全能の力を得たところで、何か根本的な……生物としての違いのような物を見せつけられた気がしたから。

 射精のタイミングだって好きに操れるから、俺は彼女が音を上げるまで何時間でもこの拷問を続けるつもりだった。けれどもうそれもやめにする。願いでかけたロックのような物を解いて、そうすればあとは、ただ普通に欲を満たすだけで終着点が見えてくる。

 心が二つある。俺はユリとだって仲良くしたい。頭の中に罪悪感の声がするくらい、それは本当に思っていることだ。けれど同時に、彼女を拷問にかけて射精に至ること自体には、何の力も使う必要がない。ただ俺自身の本能だけでそれが実現してしまう。ユリの苦しむ姿を見ると、それが可哀想であればあるほど、……いや違う。「ユリの」ではない。「異性の」それを見ると、俺はそうなってしまう。

 もはやそれを認めるしかなくて、だから最後まで手加減しなかった。快楽のために相手の苦痛を無視するのではなく、より濃い快楽を得るために、わざと相手を苦しませた。そして最後には膿のような白濁を彼女の奥に吐き捨てる。道端で適当にナンパした相手から普通のフェラをされても射精自体は出来るのに、今日一日行動を共にした仲であるユリにわざわざ地獄の苦痛を与えてそれを吐き出す。挙句の果てには、俺はまた別の女のことを思い出す。

 小夏は言っていた。自分が虐げられることで、他の大勢の人が満たされるのだと。しかし彼女は知っているのだろうか、自分を散々苦しめてようやく満足げにしおれた肉棒が、せいぜい数分のオナニーでも同じ状態にたどり着くことを。彼女はそれを踏まえても「自分の苦痛が人を満たしている」と思えるのだろうか。

 ぐちゃぐちゃに汚れたユリの顔が、上下を元通りにひっくり返す間に綺麗さっぱり清潔な状態に戻る。彼女の受けた苦痛を証明する物は、それでお互いの記憶以外に何もなくなる。

 淡く灯る薄明かりの中に掲げられて、彼女は何事もなかったかのように微笑んで言う。

「濃いのいっぱいありがとう。またよろしくね」

 俺はただ、自分の道徳的価値基準の揺らぐ音を聞きながら、「うん」と答えるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 枕元に置き直したユリは、それから五分も経たないうちに寝息を立て始めた。俺はそれを確認して、彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出る。

 クローゼットを開く手間も惜しんで俺は願った。昼間、あの違法風俗で受け取ったUSBを我が手中に。……そしてそれを握りしめたまま、寝室の扉をある願いと共に開く。

 扉の向こうに本来あるべき廊下はなく、そこには願った通りの「存在しないはずの書斎」が広がっていた。正面の小さな机にはパソコンが置いてあって、俺は後ろ手に扉を閉じて、そのパソコンにUSBを差し込む。

 この書斎の中では、比喩ではなく、時間がとてもゆっくり流れる。具体的にどの程度そうなのか細かくは決めなかったけれど、とにかくここで一日二日過ごしたところで、外の世界では数時間も経たないはずだ。願えば叶う力は、そのように既存の世界の法則を無視した願いも叶えられるはずである。いや、きっと叶う。漠然とそんな確信があった。

 USBの中には、小夏の部屋を監視する映像がきっかり24時間分入っていた。パソコンの隅に表示された日付と監視映像の日付を見比べるに、どうやらそのデータは一週間ほど前の物らしい。小夏の逃亡や反抗を抑止するための物なのか、それとも客の度が過ぎた行いを抑止するための物なのか、はたまたこの映像自体が商品になるのか。俺はその元々の意図を知らないけれど、俺が今ここでこれを視聴する意図としては、一番最後の物が該当する。

 ユリに根負けしたことで、俺は開き直りつつあった。小夏が具体的にどのような目に遭っているのか、好奇心と下心でもって確認したくなったのである。寝る間を惜しんでまでやることかと我ながら思うけれど、なぜだかそもそも、今はあまり眠くもない。

 24時間分のデータすべてに目を通そう。そう意気込んで、動画編集ソフトを立ち上げる。そこで映像を再生して、見たはいいけれどいまいち面白くないパートについてはカット編集を加えていく。……これを繰り返すことで、全編を見終える頃には「自分用のベスト版」が出来上がっていることになる。

 視聴の際、下は脱ぎ捨てた。映像にはしっかり音声も乗っていたが、過去の映像が相手なら、悲鳴を聴きながら自慰をすることに何の抵抗もなかった。

 確認したところ、小夏が部屋に一人でいる時間は、どうやら連続して二時間以上続くことがないらしい。裕福そうに見えること以外は特に共通点のない男たちが次々現れて、方向性は様々ながら、決まって誰もが小夏のことを虐める。苦痛を与える者、屈辱を与える者、苦痛と見紛う快楽を与える者。一見優しそうに見えたり、会話を楽しんでいるように見えた相手も、最終的にはその三つのどれかに収まる。プレイが激しさを増すほど、悲鳴と嬌声の区別は曖昧になっていく。客個人と小夏の関係性が見えてくるほど、雑談の一つまでもが余さず尊厳を弄ぶ行いに見えてくる。……そして極めつけに、彼女の相手は客ばかりではなかった。

 一人(あるいは一つのグループ)の客が帰ると、事務室から複数人の従業員が現れて部屋の清掃が始まる。しかしその時、おそらくはスケジュールに余裕がある場合に限って、清掃が始まる前に従業員による小夏の陵辱が始まることがある。監視映像に堂々と映っている以上、これはその職場において当然の権利なのだろう。小夏自身、それに抗議するどころか、客を相手取る時と同じように愛想のある対応を心がけているように見える。たとえその輪姦・陵辱が、次の客が来る直前まで続いたとしても。

 映像の中には、表社会には間違っても流せないほどのグロテスクな場面が映っていることもあった。俺は血が苦手だけど、サディストの中にはやはりその真逆のタイプもいるらしい。相手が不死身のサキュバスであるのをいいことに、そういう輩は本当に滅茶苦茶なことをする。……俺もユリを殺しかけたから人のことを責められたものではないのだけれど。

 苦手ながら、俺はその手の映像もしっかり全て見届けた。小夏が受けた苦痛を正確に知るため……ではなく、それは単なる「仮に見たいと思っても、そうそう見られる物ではないから」というもったいない精神から来るものだった。

 体力的な問題とは別に、飽きの観点から、さすがに24時間ぶっ通しで視聴を続けることは難しい。俺はちょくちょく休憩を挟みながらその映像を見進めていく。グロパートの間は休憩の頻度が増えたし、少し休憩するつもりがいつの間にか寝落ちしていたことも何度かあった。

 この書斎には窓がない。時計もパソコン画面の隅の小さな表示だけ。寝落ちして目が覚めた瞬間は時間の感覚がなくなる。けれど逆にその「時間を気にしなくてもいい」という点に贅沢さがあるとも言える。床に布団を敷いて、パソコン前の椅子と行ったり来たり。休憩と視聴との往復をただ繰り返すことがしんどくなってきたら、寝転がったままスマホをいじるなりして別の遊びをしてみたりもする。

 そんな生活がはたして何時間続いたのだったか。この部屋に入った直後の時計の表示がどうなっていたかを俺は途中で忘れてしまった。だから書斎内の時間でここにどれだけ滞在したのかもはや分からない。教えてくれと天国に願えば知れるのだろうけど、知りたいとも思わなかった。タイムアタックをしているわけではないのだから。

 俺は監視映像のオリジナル版を全て見終えた。そしてその後、カット編集を加えたベスト版をもう一度見返した。こういうカット編集は大抵、初見の対応だけでは不十分な物だからだ。ベスト版などという「見返すことを前提とした物」を作る以上、その完成が初見だけで成り立つことはほとんどない。……これは生前に得た心得だ。

 それからさらに数時間後。俺はようやく納得のいくベスト版を作り上げ、それをUSBに保存して、時の流れの歪んだ書斎を出る。

 扉を抜けて寝室に戻ると、シャッターを降ろし忘れた窓から薄いカーテン越しに朝日が差し込んでいた。外からはスズメやカラスの鳴き声も聞こえてくる。いくら時を引き伸ばしても、外の世界の夜明けには間に合わなかったらしい。

 ベッドの上、枕の隣で。ユリはすでに目を覚ましていた。

「おはよう。早起きだね」

「……えぇ、まぁ」

 ユリともあろう者が、俺が今まで何をしていたのか知らないこともあるまいに。皮肉じみて真っ当な朝の挨拶に、俺は中途半端な返事しかできなかった。

 ユリを抱えて居間に行く。テレビをつけて、朝食にする。そういえば書斎の中では何も食べなかったから腹は減っている。なんだか無性に麺類が食べたい気がしてラーメンを出した。うまい、はやい、無料……にとどまらず、朝からにんにく多めにすることで起きる諸々の問題を願うだけで解決できるところも、天国の素朴に良い点である。

 小夏の受けた凄惨な虐待の中には、切り取った彼女の体の一部を被害者本人に食べさせるという所業もあった。

 その映像は俺を心底ドン引きさせたが、しかし食欲を奪うには至らなかったらしい。現場にいたならともかく、映像越しの光景なら案外そんなものなのかもしれない。……もちろんその映像は、今やカット編集の彼方に葬り去られているけれど。

 テレビには朝のニュース番組が映っている。そちらを向けてテーブルの上に置かれたユリに、一応の社交辞令で聞く。

「ユリさんも食べます?」

「ううん。いい」

 予想通りの答えだった。それにラーメンは、考えてみれば生首に食べさせるにはそこそこ難易度の高い形をしている。聞く前から、俺が自分のことしか考えていないことが露呈していた。

 昨日は気づかなかったけれど、そのニュース番組を見ていると、どうやら天国では芸能人が現世から一新されているらしいことが分かる。見知った顔があまりにもいなかった。が、どこかで見たようなキャラクター性は見知らぬ人物のそこかしこに見受けられる。サキュバスがいるのといないのとでは社会の在り方が大きく変わるだろうから、そこにネームドの人物を据え置きでは引っ張って来られなかったということなのだろうか。

 お天気お姉さんの中継トークを聞きながら、確率的に考えてこの人もサキュバスなんだよなぁ……と下世話なことを思う。サキュバスだということは頻繁に誰かと性行為に及んでいることの確定であるわけで、身バレのリスクを思えば、その相手は一般人よりも業界内の人物であった方が都合が良い気もする。……なるほどそうなってくると、「そういう業界の中でしれっと生きてる既存の芸能人」を見るのは、つらくなることも多いのかもしれない。

 天気予報によると、今日は一日晴れらしかった。

「ねぇ、今日の予定はどうするの?」

 テレビの方を向けられたままのユリが聞く。

「今日は、もう一度小夏さんに会いに行こうかなと」

「え、なんで」

「確認したいことがあって」

「えー、じゃあ私の体探しは?」

 不満そうなユリの声。あたかも一日でも早く五体満足に戻りたいかのようなその抗議に、俺は白々しさを感じる。

 俺はその瞬間、あることを願った。そしてそれは叶った。

 どさっ……という音がして、床に女性の体が転がる。その体はあの時の瀬名川と同じ上下赤色のダサいジャージを着ていて、首から上がスパッと切断されたように綺麗になくなっている。

 ユリの首を運んで、その体の断面にすり合わせる。すると組み立て式の機材が合致するようなカチッという音が鳴って、二つは見事にくっ付いた。

 途端、体を得たユリがギュインと不自然な素早さで起き上がる。逆再生動画のように、どの筋肉をどう使えばそうなるのか分からない曲線不足の姿勢で起き上がった彼女は、意外そうな顔でこちらを振り返った。

「よく気づいたね」

「……まぁ、遅すぎたくらいですけど」

 あれ……と思ったのは、願えば叶う力で、瀬名川のスマホを探した時のこと。機種すら知らない、場所の見当もつかない、そもそも現存しているのかも分からない。そんな物をあれだけあっさり目の前に取り寄せられるなら、無機物かどうかの差はあるにしてももしかして……と思った。けれど昨晩は、それをすぐに試そうと思えるほどの気力が残っていなかった。

 案の定ユリの体は、俺が汗水垂らして探すまでもなく、ただ願うだけでポンと取り戻せるものだった。ついさっきの口振りからしても、昨日までのユリの振る舞いだけで考えても、彼女がこのことに気づいていなかったという可能性はまず無いだろう。つまり俺は昨日一日、適当な口実でちょろまかされて、特に意味もなくあちこちの闇を巡らされていたことになる。

 ……いや違う、意味はあった。あれは、あの天国巡りこそがユリの目的……天国のチュートリアルだったのだ。

 俺は今、そのチュートリアルをクリアした。天国の何たるかを聞き、万能の力の使い方をマスターした。これがゲームなら、ここからがやっと本番ということになる。

 体を得たユリは自分の手でチャンネルを取り、録画されていたお笑いトーク番組の再生を始めた。

「私にもラーメンちょうだい」

「え」

「いや、えっじゃなくて。腕があったら食べたいでしょ」

「な、なるほど?」

 そういう物なのか。

 俺は彼女の分のラーメンも出す。わざわざ頼むということは、この力は俺だけの物なのだろう。

 ついさっきまで生首だった女性が、今はジャージ姿で隣に座ってラーメンをすすっている。まるで先月あたりから同棲していたのではないかという絵面の馴染みように、俺は少し可笑しくなった。

 部屋の壁掛け時計を見上げると、時刻はまだ七時過ぎ。朝からバラエティ番組を見ていると休日の雰囲気が漂ってくるけれど、カレンダー的には今日も普通に平日で、かといって俺たちに働くべき理由はない。

「でもさ、体出しちゃってよかったの?」

「というと?」

「あちこち出かける口実がなくなっちゃったじゃん。それこそ風俗に行く時だって、体探しに行ってくるって言えたのに」

「でもユリさん心を読むでしょう。連れていかないのも不自然だし」

「それはそうだけど。建前があった方がそっちの気が楽かなって」

「……まぁそういう面はあるでしょうね」

 心が読まれていてもなお建前に縋る自分の姿が容易に想像できる。しかしその姿とは要するに自己否定の一種だ。ユリは、天国は、それを剥がしたいのではなかったか。

 天国の理念にどっぷり賛同するわけではまだないけれど。もしかするとそうしてみてもいいのかもしれないと思える興味くらいは、昨日一晩を経て湧いている。

「でも俺は今日どのみち、小夏さんに会いに行くんで」

「何をしに?」

「いろいろなことを確かめに」

「あー、ぼかした」

「ぼかしたくなるようなことですからね」

「ふーん」

 全てを知ったようなニヤけた顔で(実際知っているのだろう)、ユリが俺のことを見つめる。首をめぐらせること一つ出来なかった昨日を思うと、なんだか感慨深い。

 急ぐ必要はないはずだけど、なんだか一度だらけると家を出るための勢いが失われる気がして、俺はさっさと朝食をたいらげる。歯磨きは済んだことになれと願って済ませ、着替えはクローゼットを開くこともなく瞬間的に完了し、あっという間に支度が終わる。持ち物はその都度呼び出せばいいだけだから手ぶらで玄関へ向かう。

 ユリはこれといって同伴はしたがらなかった。デートスポットに行くわけでもあるまいに、体もみつかった今、俺たち二人が行動を共にする理由は乏しい。ユリから「一人で大丈夫?」と子ども扱いの言葉を受けて、俺はかなり迷った末に「大丈夫ですよ」と返した。迷ったのは一人になることの不安からではなく、その言葉が拒絶のニュアンスで伝わってしまうのではという不安からだった。

 ただ実際、一人になることへの不安もゼロだと言えば嘘になる。昨日一日、俺の言いづらいことは全て、ユリがかわりに言ってくれていたような気がする。その庇護はまさしく子どもに対する親のそれだったような気が……今にして思えばしなくもない。

 けれどつまりそれは、裏を返せばこの先に「大人になる楽しみ」があるということ。チュートリアルの終わりとそれは、なるほど上手く噛み合っているように思える。

「あ、待って待って!」

 ドタドタとわんぱくな足音と共に呼び止める声があって、玄関扉に手をかけたまま俺は振り返る。

 すると、ほんの一瞬の間に。本人のフランクかつ強かな印象とはギャップのある華奢な指に頬を包まれて、薄いのに柔らかな唇が、何かの誓いのように口づけられていた。

「行ってらっしゃいのちゅー」

「……ど、どうも?」

「柄じゃないって思ったでしょ」

「どっちかというと、……いや、まぁ、そうですね」

 彼女自身のキャラというよりも、お互いの関係性を参照して意外だった。ユリは誰かと恋人同士になれば全然そういうこともしそうな人物だけれど、俺と彼女がそういう関係になった覚えはなかったから。

 だけど、その細かいニュアンスをここで説明しても仕方がない。変に取り繕っても意味がない気がして、俺は率直な感想を述べた。するとそれを受けたユリは自虐的に笑う。

「単にあこがれ。自分からするの、体がないと出来ないでしょ?」

「……あぁ、確かに」

「叶えてくれてありがとね」

「……どういたしまして?」

 その場で俺に取れる気の利いた返しとはなんだったのだろう? ユリが可笑しそうに笑うところを見てそう自問しながらも、俺も悪い気はせず笑った。

 駅までは自転車で向かうことにする。どうせだから電動のそれを呼び出す。信号待ちを挟んでせいぜい10分未満の道のりに、俺はユリの過去を想像する。俺にとって生首の彼女を見ていた期間はたった一日だけれど、彼女はどれだけの期間をその状態で過ごしたのだろう……と。

 実際には、この天国の全ては俺のためのオーダーメイドで、俺が死者となるまでは存在していなかったはず。けれどそれはこちら視点の話であって、数日前に生まれたばかりの彼女が、自分のことを生後数日だと心から認識している保証はない。自分が天国の一部でであることを自覚していても、彼女には彼女の「個人としての記憶」だってあるのかもしれない。そしてそれはきっと、この世界にいる全ての人物に関してもそうだ。そうでなければ、何もかもが成立しない。

 駅についたら最初に来た電車に乗る。それ一本で目的地まで行けることは全能の力で確認済み。平日朝の車両内はさぞ混み合っているのだろうな……と思いきや、意外や意外、むしろ座ることが出来た。これはもしかすると俺が無意識のうちに、そうだったらいいのにと願ったせいなのかもしれない。

 昨日の帰りとは違って、車両内で女性に絡む男は一人もいない。さすがに朝っぱらからそういうことは起こらないのかも……と一瞬思ったけれど、よく考えてみるとそれは本質的なことではないように思えてくる。なにせ俺の知る普通の感覚としては、目につく女性の誰とでもいつでもどこでもセックスし放題なんて世界が到来したなら、それを味わい尽くす男がそこかしこに居て当然のはずだから。

 サキュバスとの共存が長くなると、男たちも一周回って落ち着くのだろうか? いや、サキュバスの性質上それはあり得ない。男たちの性欲が衰えたら、社会のほぼ半数を占めているだろうサキュバスたちが魔力不足で生きていけなくなる。彼女らが社会に平然と居続けていることが、男たちの性欲の健在を証明している。

 ではなぜ、俺に今見えている景色は落ち着いているのだろう。……その疑問の答えは、まさに「俺が今その景色を見ているから」なのではないか? あちこちでセックスをおっぱじめている風景がどこへ行っても当たり前の世界に迷い込んだら、俺は正直げんなりする、疲れてしまう。自分もその世界の恩恵を授かるかどうかはともかく、勝手なことだけどどのみちしんどいと感じるから、だから天国は理念のもとに「俺にとって快適な空間」を演出しているのではないか。昨日見た諸々の光景は、チュートリアルモードゆえの例外だったのではないか?

 そんなことを考えているうちに数駅を過ぎて、電車はだんだんと都会の方へ近づき、人の乗り降りも活発になってくる。俺はなんとなくその入れ替わりを眺めていた。よく考えてみれば女性の1%が人間ということは、女性の100人に1人はそうであるということ。都会の人混みを見ていれば、その中に1人くらいは人間女性が居ても全然不思議ではないんだな……と、意味もなくそんなことを考えながら。

 すると、ある駅から乗り込んできた男女数名の中に、肩掛けの大きなカバンに上下青色のジャージ姿が悪目立ちしている女子学生の姿があった。

 俺はその女子学生の顔を見てギョッとする。同時に、向こうもこちらの存在を認識するなり同じくらい驚く。

 その女子学生とは、マキだった。

 彼女は俺のことを認識して、気まずそうに、敵意のない微笑みを浮かべた。

 隣の席に座っていた男が、そんな俺たちのやり取りを見て席を立つ。知り合いでしょうどうぞ隣にと言わんばかりに。まだ挨拶の一言も交わしていないのに、目線のやり取りを見ただけでよく分かったな……と感心半分に呆気に取られていると、マキが俺の分までかわりに「ありがとうございます」と言って、隣に腰を下ろした。

 彼女が俺に向けてかけた言葉の第一声は、作り笑顔を伴って不自然に明るかった。

「ごめんなさい。ダメでした」

「え?」

「せっかく、制服を汚さないように気を遣ってもらったのに」

「……あぁ」

 その一言と状況証拠で、彼女の身に昨晩何が起きたのかを俺は察した。本人がいる手前できないけれど、気持ちとしては本当に頭を抱えたいほどのショックだった。

 彼女は昨晩、俺と入れ替わりで来た客に制服を汚された。だから仕方なくジャージで通学している。……しかしそもそもなぜ彼女は電車で通学しているのか? 俺は昨日、校舎から歩いてきただろう彼女を徒歩で尾行して家まで行ったのに。……その疑問の答えは一つ、彼女の身売りには「持ち帰り」があり得るからだとしか思えない。

 つまりマキは昨日、客の家に連れ込まれ、陵辱され、本当は嫌なのに制服まで汚されて、そのまま自宅に戻ることなく朝になって、仕方なく電車で通学しているということになる。そうでなければ、俺がここでジャージ姿の彼女と対面することはなかった。

 これが天国のやることなのか……。順応に前向きさを持ち始めていたはずの俺の気持ちは、また暗く沈んでいくことを思い出す。天国はこれを楽しめというのか。今のマキを見て、天国が天国たるゆえんを噛みしめろというのか。

 マキはせめて、誰にも会わずに学校までたどり着ければよかったのに。俺に向けて作り笑いを浮かべる彼女の心境はどんな物なのだろう。気まずいの一言で片付けられる物だろうか。

 ……しかし確かに俺は、そんな彼女に向けて天国の力を振りかざすことが出来る。その発想がある。噛みしめるのは幸せなのか、己の業なのか、分からないけれど。とにかく俺はそれを選ぶ。エゴだと分かっていても選ばずにいられなかった。

「ねぇマキちゃん。もし、どんな洋服でも……たとえば制服でも、無限に新品を手に入れられる魔法があるとしたら。その魔法をほしいと思う?」

「え?」

 膝の上に学校指定のカバンを置いて座る彼女が、キョトンとした顔をする。

「それはまぁ、もらえるならほしいですよね。すっごい修行をしなきゃいけないとかだったら嫌ですけど」

「マキちゃんはもうその魔法を持ってるよ」

「え?」

「念じるだけで使えるから、試してみて」

「なんですかそれ〜」

「いいから試して」

「う……」

 凄んだつもりはなかったけれど、ほんの少し押しの強い態度を取るとマキは露骨に怯んだ。不本意にも何かトラウマを刺激してしまったのかもしれない。

 ただともかくそれで、彼女は俺の言うことを聞いてくれたようだった。膝に乗せたカバンの上に、ポンと彼女の通う高校の制服が現れる。それは綺麗にたたまれたシワひとつない新品で、あとで確かめれば分かるだろうけど、サイズも彼女にぴったりの物。

 それを目にした彼女は、キョトンというよりも……いっそ戦慄するような表情を見せた。それはまるで、宝くじで億を当てた人のリアクションだった。

「消すのも念じるだけで出来るから、試してみて」

「……あ、はい」

 状況を飲み込みきれていない風の返事に合わせて、彼女の手元から制服が消える。そしてまたすぐに現れる。今度はさらに二着三着と追加で同じ物が現れて、またすぐに消えて行き一着に戻る。

 彼女は任意の洋服を無限に手に入れる能力を得た。俺が、そうなれと願ったから。

 天国の住人は、いかにも一定の意図を反映されているかのように、こういう時には異常な察しの良さを見せる。瀬名川の時のように。

「……え、これ、お兄さんが出来るようにしてくれたんですか?」

「まぁ、そう」

「……うそ」

 マキが制服を宝物のように抱きしめる。作り笑いを浮かべる最後の余裕は瞬く間に剥がれて、目は潤み、声は震えだす。

 壊されて打ち捨てられた自身の尊厳を眺めるかのように、彼女は俯きがちに視線を落としたまま、本心を語ってくれる。

「……わたし、べつに、こだわりとかなくて。服の趣味とかべつに、なんでもいいんですけど。でもなんていうか、それでも、身だしなみはちゃんとしたい方で……」

 ぽろぽろと涙が落ちる。人目を気にする余裕もなく、ただ新しい制服を二度と離すまいと抱きながら、彼女の心は一つ決壊する。

 なんとなく、マキの性格が分かったような気がした。彼女はきっと真面目なのだろう。オシャレがしたいわけではなくても、TPOに合わせた服装を心がけることに己の尊厳を懸けているタイプだ。パジャマで宅配物を受け取りに出ることをあり得ないと考えるような性分が、きっと彼女の性格の一面なのだろう。

 そんな真面目な高校生が、理不尽な搾取をする大人から、その性分一つすら尊重してもらえなかった。サキュバスであるマキにとって、それは単純なレイプよりもよほど堪えることだったのかもしれない。

 俺はそんな彼女を救ったのだろうか。今彼女が得た力は一生物だ。今後一生、彼女の尊厳がその角度から傷つけられることはない。……俺はそうすれば喜ばれるだろうという打算で、彼女に能力を送ったのだ。

 なぜ彼女を喜ばせたいか? それはその姿を見て、自分が満足するためである。何の努力もなく手に入れた力を駆使することでも、俺は平気で悦に浸ることができる。それは全くもって、善意などという立派な物ではない。

 相変わらず、俺は思うのだ。彼女に服を与えるのはいい。けれど彼女自身を引き取って、大人として責任をもって彼女を守り、育て、向き合っていく覚悟は、俺にはない。社会不適合者の心に、それは全能の力を持ってなお荷が重い。俺は彼女を救えない。服を何百着何千着出せたところで、彼女は売春を強制される生活から抜け出せるわけじゃないのに。

 ……それでも難なく悦に浸れる男に向けた、これが天国のベストな形なのだろうか。

「お兄さん、ありがとうございます。こんな能力をもらえたら、わたし、もう何も怖いことなんてないです」

「そう? よかった」

「本当にありがとうございます。あぁ、今日お兄さんに会えてよかった」

「たしかに。今会えてよかったね」

「はいっ。……それでお兄さん、よかったらお礼をしたいんですけど」

「お礼?」

 なんとなく予想はしていた。瀬名川の時と全く同じ流れ、似たような文言。おそらくこれが、天国の基本戦略なのだろう。

 きっと俺に恩を感じたサキュバスは、昨日の夜のユリのような扱われ方をしても、俺に幻滅したりしない。俺の中に二つある心を両方満たす方法は、まずサキュバスを助け、仲良くなり、その後そのサキュバスを陵辱し、それが受け入れられることだから。天国はその機会を提供している。なるほど眺める「他人の地獄」か、確かにまずは地獄がなければ、蜘蛛の糸を垂らす場所もない。たとえそれが神の慈悲ではなく、釣り堀感覚で異性を見る下衆の趣味だろうと。

 だから俺はそのタイミングで、本当は小夏にするはずだった事の一つを試してみることにする。

「じゃあ一つ質問に答えて」

「質問? 答えるだけですか?」

「うん」

 直前の涙はどこへやら、今はほくほく顔で幸せを噛みしめている彼女に、俺は聞く。

「天国は全員で一人だって話は本当?」

 ……背中側の窓から差し込む光に照らされたマキの顔をジッと見つめて、彼女が単なる一個人であれば、意味が分からないだろう質問をぶつける。

 愛想と喜びに満ちたマキの表情から、およそ感情と呼べそうな物すべてが干上がるように引いた。目からは光が失せて、口角は下がり、声に抑揚がなくなる。

「はい。私たちは全員で一つの天国です」

 マキの声や体を使って、別の誰かが答えているかのようだった。

 周囲の乗客を確認しても、誰もマキの豹変に興味を示さない。生首に動じない人々ならそれも当たり前なのかもしれないが……。

「乗客全員であなたの方を一斉に見つめ、声を揃えて回答することも考えましたが、ホラー演出が過ぎると判断して却下しました」

「え? あ、あぁ、うん。ありがとう」

 市井の人々の動じなさは、本当は単一の存在である「天国」が当然に情報を共有していることである物なのでは? そう考えたこちらの一歩先を回って、マキの中の天国が気を遣ってくれていた。確かにその演出をされると電車に乗ることがトラウマになりそうだから、やめておいてもらえて助かった。

 天国という存在はべつに、無愛想で機械的な……いわゆる典型的なシステム然とした存在というわけではないらしい。こちらの「ありがとう」に対して、マキの顔を使ってにこりと微笑んだその姿は普通に可憐で、声にも瞬く間に親しみが宿りだす。初めの無機質さはきっと……というか目に見える全てが余すことなく、所詮は演出なのだろう。

「どういたしまして。心配なさらずとも、私たちは何があっても傷つく演技をするだけで、それが私たち自身に届くことはありません。どうぞあなたの思うがままに、私たち天国を楽しんでください。それが私たちの望みです」

「……傷つくことが演技なら、喜ぶことも演技なのか?」

「はい」

 即答だった。しかし天国はこう続ける。

「それを気に病むあなたではないと、私たちは強く信頼しています」

「……なるほど」

 さすが天国、よく分かっている。

 そもそもの話として、俺が今ここで天国に問うたことは単なる確認事項……あるいは愚問だった。天国が真に傷つくことはないとユリの口から聞いた時、その言葉を少しでも信じたのであれば、それは自動的に今の問いの答えに通じることになるから。

 社会的地位を脅かされても平気なら、窮地を救われた瀬名川は喜ばない。体がない生活に不満を覚えなければ、体を取り戻したユリははしゃがない。小さな性分一つさえ尊重されないことに傷つかなければ、マキは制服を抱きしめて泣いたり笑ったりしない。……彼女らが本当に何にも傷つかないなら、俺が見た彼女らの喜びも全て嘘、演技である。

 けれど実際、俺はそこに悦びを見出してしまう。その「嘘や演技であっても気にしない」ということこそが、俺にとっての「本物らしさ」なのだろう。もし俺がもっと短絡的な人間だったら、マキの父親を殴り倒し、マキを買いに来る客たちを殴り倒し、クズ共がそれで反省してハッピーエンド……という具合の天国になっていたはず。けれど実際はそれとは毛色が違う。なぜ違っているのか? 俺の感性がそれを「偽物」だと感じてしまうからだ。ということは逆に、この世界で俺が目にするものは全て、俺にとっての「本物」だということになる。

 そう考えると確かに、この世界は居心地がいい。嘘か本当か、本心か建前か。エスパーでもないくせに、そんな物が悦びの確信であると信じてやまない連中のことが、俺は生きていた頃からずっと嫌いだった。

「ありがとう天国。……これからもよろしく」

「こちらこそ。……永平真希に戻りますか?」

「うん。お願い」

「……お兄さん?」

 不思議そうな顔を不意に浮かべて、天国ではなくマキが俺のことを覗き込んでくる。俺たちは再び舞台の上に立ったのだということが直感的に分かる。

「お礼だっけ?」

「そうです。……わたし子どもだから、大したことできないですけど。でもその、そういうことだったらたぶん、他の子より慣れてるから、上手くできるかなって……思ったり」

 マキの手が俺の太ももに乗る。さするようにしながらじっとりと這い上がってくるそれはやがて、俺の心が大人としてまともかどうかを確かめる地点にたどり着こうとする。

 俺はマキの肩を叩き、手招きで耳を寄せさせ、誰にも聞こえないように小さくささやくことで、その手を止めさせた。本当は天国中の全員に聞かれていると分かっていても、演技には演技で返すのが、きっとこの天国を楽しむコツだから。

「高校生とそういうことするのって犯罪じゃなかったっけ……?」

「へ?」

 何を今さら……という顔でマキがとぼけた顔をする。けれど俺が周りの乗客の様子をちらちらと確認する仕草をすると、彼女はハッとして自らの口元を手で押さえた。

 未成年淫行は犯罪! それは天国においても現世と変わらない。とはいえ男子高校生が成人らしきサキュバスからフェラされている光景なら普通に見たことを踏まえると、もしかすると大抵の人は目の前でその犯行が起きても見て見ぬフリをするのかもしれない。しかしそうなる確証はない以上、衆人環視の場における未成年からのお誘いは犯罪の告発に近い。

 俺は天国の力に守られて、自分の立っている場所が治外法権になるけれど。マキは……「天国」ではなく「マキ」は、そのことを知らない。

「や、やだなぁ、冗談じゃないですか。マジだと思ってったらさすがに、えっと、き……キモいんです、けど?」

「え? あ、そっかごめんごめん。いやガチ犯罪かと思って焦った〜」

「うわぁ。ひ、引くわ〜」

 茶番の言葉と裏腹に、マキが目だけで「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と死ぬほど必死に謝っていた。俺はテレパシーで「慌てなくて大丈夫」と送る。彼女の境遇を思うと今の状況は気の毒でならないけれど、しかしまぁ俺は、マキとそういう関係になるつもりはないのだ。……今のところは。

 無差別的犯行でなければ大抵の性犯罪を見過ごすらしい天国の住人たちなら、今のやり取りを見て首を突っ込んでくることはないだろう。俺とマキは必死に(俺は必死なフリで)自分たちのやり取りを誤魔化して、そうしている間に、お礼云々の話はうやむやになった。

 それから数分もなく、電車が目的地に到着する。マキは席を立ったけれど、俺は立たなかった。さもこの次以降の駅に用事があるのだというていで、手を振って彼女を見送る。相変わらず大事そうに抱えている制服には、適当なトイレかどこかで着替えてから登校するのかもしれない。

 俺は一駅先で降りて改札を出てから、念のため五分ほど間を空けて、人一人が通れる大きさのワープゲートを開く。そこを通って一駅分戻り、例の台座があるスクランブル交差点の前に出る。ユリの首なき台座は、今も空っぽのままだった。

 目的が目的である以上、なんとなくマキには同じ駅で降りることを知られたくなかった。俺は一人で交差点を渡る。道を覚えているか自信がないから視界に矢印を浮かべて、そのまましばらく大通り沿いを歩き、途中で裏通りに逸れる。そして妙な印象が残ってしまったラーメン屋を通り過ぎながら、例の本屋へとたどり着く。

 一階の本棚の森の奥。ボタンを押せばすぐに開いたエレベーターには、幸いまたしても誰も乗っていなかった。一人で乗り込みドアを閉じて、地下一階行きのボタンを押す。

 長いと分かっていてなお、相変わらずその「地下一階」までの降下時間は長く感じた。扉が開くて例の廊下が目の前に伸びて、その先の扉の横には、今日は以前と違う人物がスーツを着て立っている。

 ゴリラ男の時と違って今回の男は細身で背が高かった。目元には華奢なフレームの丸眼鏡をかけていて、触覚のように細い前髪が一筋だけ顔の前に垂れている。ゴリラになぞらえて生き物繋がりで印象を挙げるとすれば、彼の場合はカマキリだろうか。

 見た目に威圧感はないはずなのに、なぜだろう、そのカマキリ男とは、あまり関わり合いにならない方が良い気がした。

 しかしそうは言っても、ここは俺の天国である。ユリの庇護から巣立った俺は、自らに与えられた立場や力を過信することで、それを度胸とする。

「予約してないんですけど、今って空いてますか?」

「もちろん。貴方様をお待たせするなんてことはあり得ません」

 うやうやしく、しかしどこかこちらを見下すように、カマキリ男が手のひらで扉の先を勧めてくる。俺は小脇に抱える首もなく、今度は両手でその扉を開く。

 物の少ない部屋の中、相変わらずの拘束具合で、大きなベッドの上に小夏がいた。

「んぅ! んぅーんぅ!!」

 ベッドの上の彼女が暴れる。本人が一日で心変わりしていなければ、それは助けを求める声ではなく、ただ起床していることを報せるためのリアクションらしい。

「こんにちは小夏さん。昨日、喋る生首と一緒に来た者です。覚えてますか?」

「ん!」

 話しかけると、小夏がコクコクと頷いた。ユリのおかげでよく印象に残ったのだろう、助かった。

 俺は小夏の口枷を解く。一日目と違い、彼女が口を開けたまま待機することはなかった。

「昨日ぶりですねお兄さん。今日はエッチしていきますか?」

「その前に聞きたいことがあって」

「お、なんでしょう?」

 予測済みだったのか、それとも性行為にこだわってはいないのか。小夏は俺がまたお喋りを始めても、別段不機嫌になる様子はなかった。

 ベッドの隣に願うことで椅子を出して、俺はそこに座る。目隠しも手錠も付けたままの小夏へ、聞きたかったことを聞く。

「昨日、ここの監視カメラの映像をもらったんです。小夏さんのアドバイス通り」

「おぉ」

「で、24時間分もらった映像を全部見たんです。……AVを見る感覚で」

「え、すごい。光栄です」

「光栄?」

「だって24時間全部見るって、すごく大変なことなのに。興味を持ってもらえて嬉しいです」

 小夏は、時間的矛盾には言及しなかった。どうして昨日会ってからまだ24時間経っていないのに……という話はしなかった。その矛盾が俺にとっては矛盾にならないことを知っていたのか、それとも単に早送りで見たと思われたのか。あるいは、深く考えずに返答しているだけなのか。天国がどの演技を選んでいるのかを、俺は考える。

 もし早送りだと思われているなら、彼女は俺が聞きたいことの核心により近づいていることになる。かといってべつにそれを期待するわけではなく、俺は話を続ける。

「まぁ貴重な映像でしたからね。それに俺もサディストですし。……それで、ここからが重要なんですけど」

「はい」

「映像を全て確認したあと、俺はそれにカット編集を加えて、お気に入りのシーンだけを抜粋したベスト版を作ったんです」

「おおっ、そんなことまで」

「……そしたら24時間あった映像は、4時間になりました」

「えっ」

 およそ6分の5をカット。そのバッサリ具合に小夏は絶句した……わけではなかった。

 目元が見えなくても分かるくらいはっきりと、彼女の表情に高揚が浮かぶ。

「4時間も!? 映画2本分じゃないですか、そんなに気に入ってもらえたんですか!」

「……いや小夏さん、6分の5は……20時間はカットされたんですよ?」

「それはまぁ、エッチしてない時間も結構ありますし」

「だとしてもでしょう? 俺は……俺は気軽にそれをカットしたけど、現場にいる小夏さんは一秒たりともそれをスキップ出来なかったはず」

「でも、お兄さんも全部見たんでしょう?」

「見ただけですよ」

 スプラッタ映画……あるいはスナッフビデオのような内容まで監視映像には映り込んでいた。彼女の自我を全否定するような言葉の暴力だって当たり前のように飛び交っていた。それをただ眺めるのと、被害の当事者になることでは、似ても似つかない。

 だからこそ俺は、ここが天国だというなら、小夏本人に聞いてみたくなったのだ。

「自分が一秒も飛ばせずに味わった苦痛を、いらないからポイって平気で……24時間中の20時間分も捨てられるなんて。それって、小夏さんからすればどんな気持ちになることなんですか……?」

「……ん〜」

 グッと小夏の唇が結ばれ、あごにシワが寄る。彼女はうなり声と共に長考に入った。客に対して失礼ではない言葉を、本心からなるべく近いところで探しているのだろうか?

 一分か二分か、それくらいの間悩んでから彼女は、回答の遅れこそ最も罪深いことだとでもいう風に、吹っ切れない迷いをそのまま口にした。

「……もしかしてお兄さんは、あたしに傷ついてほしいですか?」

「え?」

「サディストの人って、相手が嫌がりそうなことをわざと言ったりするじゃないですか。もしかしてそれなのかなって」

「あー」

 映像の中にも確かにそういう物があった。小夏と同じくらいの歳の女の子が外の世界ではどれだけ幸せで尊厳に満ちた生活をしているのか……そんなことを嬉しそうに語る男がいた。その男は、困った風な小夏が「あたしはここの暮らしにも満足してますよ」と弱々しく答えると、それを聞いてまた嬉しそうに小夏のことを虐めにかかるのだ。「これでも?」と……。

 ちなみに俺はその映像をカットした。AV上の長い会話は、それが多少興味深い内容でも、性的コンテンツとしての密度を損なう物だから。

「嫌がるところを見たいってわけじゃないですよ。ただ純粋に答えを聞きたかっただけです」

「なるほど。じゃああたしも本心で答えますね」

 口元だけでも分かる真剣さが小夏に宿る。それは声音にも現れる。その様子は昨日、彼女の嘘を封じた時の物に似ていた。

「……失った物ばかり数えるのはネガティブが過ぎると思います」

「え……?」

「あたしはお兄さんから、4時間分も気に入る箇所があったっていう嬉しい報告をしてもらったんです。目の前のお客さん……お兄さんとは別の人に満足してもらったことに加えて、さらに4時間分、しかも見返すこと前提のですよ? 嬉しいに決まってるっていうか、冥利に尽きますよ。本当に」

「……そういうものですか」

「そういうものです。それに、お兄さんのお気には召さなかった20時間も、別の誰かが気に入るかもしれませんし」

「なるほど」

 つまり小夏は、本当にまったく傷つかないのだと。いや、実は心の奥底では傷ついているのかもしれないけれど、それを無い物として扱うことが彼女自身の美学だと。そういうことなのか。

 俺はまさにそれを知りたかった。天国という存在が傷つくことはないという話は分かったから、その天国が演じる人格の一つ一つが、演技の一環として傷つくのかどうかを知りたかった。そしてその答えの一つ……小夏の答えは、「傷つかない」だった。

 天国のことだから、親しくなるサキュバスは全員この調子なのかもしれない。いや、もしそうでなかったとしても、それは俺が「傷つかないタイプのサキュバス」を探せばいいだけの話だ。……そのタイプのサキュバスが普通にいると分かったこと自体が大きな収穫だった。

 演技のキャラクターとしての一個人であったとしても、それが傷つくのであれば俺はやっぱり、借り物で上っ面の道徳心だろうと、それを死守していこうと思っていた。他人の地獄を覗くことの意味は、せいぜい隠れてシコること程度にしておこうと思ったのだ。

 だけど、傷つかない相手がいるのなら。少なくともその相手に対しては、隠れる必要などないのではないか。

 俺は小夏の口に、外した口枷を再装着する。

「んぅ? んーんー?」

 帰り支度を始めたとでも思われたのだろうか、何か疑問形の言葉を投げかけられていることだけは分かる。「帰るの?」とか「気に入らなかった?」とか、そのあたりだろうか。

 視界を塞がれ、言葉を封じられ、裸のまま手錠でベッドに繋がれた小夏のことを見下ろす。その姿があまりにも無防備なのはいつものことなのか、それとも俺がお喋りだけが目的の客だと思われているからなのか。どちらだったとしても、どのみち彼女に客を拒否する権利はないのだろう。

 俺は天井角にある監視カメラを見上げる。昨日ここに来た時にはきちんと考えもしなかった。自分の姿が録画され、それが誰かに見られる可能性があることなど。……自分が客観視点からどんな風に映るのかなんてこと、気にも留めなかった。

 ズボンのベルトを緩める。そういえば生前に「自分のセックスを眺める機会」はついに一度もなかったなぁ、と思いを馳せる。そして小夏に何の断りもなく、俺はベッドの上に登る。軋む音を聞いて、小夏が何かを察したことがこちらにも伝わってくる。

 俺は、自分のセックスを録画した映像を、見たくないとは思わない。

 

 


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