放課後スキン・アルケミー 作:lismme
翌朝。前日の甘い体験を思い出しながら、教室の扉を開ける。
目を閉じれば、今も耳の奥であの曲が鳴り響き、鼻の奥には彼女の香りがこびりついているかのようだ。あのアオイの姿を思い出すだけで、頭がぼーっとするような感覚がする。まさか、風切アオイの皮が手に入った挙句、あんな体験ができるなんて——。
「……邪魔。通路でぼさっと立ってるのやめてくれない?」
後ろから、現実へと引き戻す声が響く。昨日聞いた覚えのある声だった。振り返れば、立っていたのは赤崎衣織。その顔を見て、昨日は初めにこいつの姿で誘い出されたことを思い出す。
昨日と異なり、俺を見てもキツい目つきが緩むことはない。それが本人である証拠ともいえる。目の下には小さくクマができており、見るからに疲れた様子だ。
昨日休んだんじゃなかったのか?
「はぁ?あんたにそんなこと言われる筋合い無いんだけど。さっさとそこ退いてくれる?」
口の中でつぶやいた言葉を耳ざとく聞きつけ、怪訝な表情を見せる赤崎。俺を強引に押しのけると、自分の席へと歩いていった。
何もそんな怒ることないだろ……。
普段よりも割増しで当たりが強かった。席についた後も、周りへ近寄ってくるなというオーラを放っている。
あんなに邪険にされると俺としてもいい気分はしない。だが、今の俺には対抗手段がある。お前の身体は俺たちが握っているも同然なんだから。
「おっす。お前も大変だな。そっとしといてやれ」
丁度いいタイミングで玄太郎が挨拶をしてきた。どうやら赤崎とのやりとりを聞いていたらしい。こいつは話が速い。
「なぁ、次ヤるなら赤崎にしないか?あのツンデレのデレ抜きみたいな女、一度犯してやれたらスカッとすると思うんだよね」
「ふぅーん……」
俺の提案を、玄太郎は顎に手を当ててつつ、どこか得意げに聞いている。俺のことを面白がり、そしてほんの少しだけ憐れむような、複雑な表情だった。
「どうした?あ、忙しいとかなら別に俺一人でも……」
「いや、別に構わねえけどさ……」
俺の話を遮り、もう一度赤崎の方をチラ見する玄太郎。
「お前も意外と鈍感だよな」
視線を俺に戻すと、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「……?どういう意味だ?」
「さあね」
******************************
日付を少し遡る、ある放課後。保健室から、一人の女性が出てくる。この学校の養護教諭、槙原翠だ。
『会議中につき不在。急用の方は職員室まで』
磁石付きのホワイトボードに書きつけると、保健室の扉に貼り付け、書類を持って職員室へと向かっていった。
「よし、行ったな……」
廊下の角からその様子を伺い、つぶやいた者がいた。落ち着いた目元に、後ろでまとめられた長髪。セーターにジーンズというカジュアルな服装の上から、緩く白衣を羽織っている。
今しがた出て行ったはずの翠と全く同じ体、服装を備えた人間が、物陰に息を潜めていた。翠の皮を纏うことで姿を変えた、墨野玄太郎だった。
本物の翠の姿が廊下の向こうへ消えたのを見計らうと、ゆっくりと保健室の扉へと向かう。周囲を警戒しつつも、その歩みは堂々としていた。養護教諭が保健室に入る。ごく普通の光景だ。これでビクビクしながら入ろうものなら、それこそ逆に怪しまれてしまう。
不在のボードを無視し、そっとドアを開ける。保健室の中は静かだった。幸い、ベッドで休んでいる生徒はいない。音を立てないようドアを閉めると、そそくさと翠のデスクへと向かう。
「さーてと、今日は誰か良さそうな人がいるかな〜?」
女性のアルトボイスで呟き、机上に重ねられた来室記録用紙に目を通す。玄太郎がここに訪れた理由は、今の翠の姿のように、他人の皮を生成するために必要な血液を集めることだった。特に女子の名前に注意しつつ、リストの名前に視線を走らせていく。
「この間の桃子先輩みたいな大当たりは中々いないと思うが……ん?」
リストの中に、玄太郎は見覚えのある名前を見つけた。
赤崎衣織。
今日の来室者の一番下にあった名前は、玄太郎の同級生の女子だった。特に親しい関係ではない。というより、玄太郎は彼女が特定の誰かと親しくしているのを見たことがなかった。
記憶を辿れば、今日の午前中までは出席していたが、昼休み以降いつの間にか消えて姿を現さなかったはずだ。記録を見れば、確かに「早退」の文字に丸がついている。
「まあ、そうだろうな……いや待て」
ため息をつきながら机に紙を戻そうとした所で、もう一度目を凝らす。一見普通の記録に混じった違和感が、不意に彼の意識に登ったのだ。
まず不思議なのは体温欄だった。36.8℃。早退が必要なほどの熱はない。ならば、と玄太郎が症状の欄を見ると、ただ一言「倦怠感」と書かれているだけだった。普通、このような事で早退など不可能なはずだ。
最後に、備考欄。
『過度の練習による疲労の兆候あり。本人の自己管理能力は高いが、注意を要する』
翠の筆跡で、備考にはそう書かれていた。表面上は普通の記述だ。しかし玄太郎の記憶では、彼女は帰宅部のはずであった。部活でのオーバーワークなど起きるはずはない。
「これ、何かあるな」
この謎を解きたい。玄太郎の心には、子供のような好奇心が芽生えはじめていた。小さく呟くなり、手がかりを求めて周囲をキョロキョロと見回す。戸棚にはいくつかのファイルが入っていたが、どうやら鍵がかかっている。戸棚の隣の小さな机に、パソコンが置かれているのが目に入った。
まだ、本物が帰ってくる気配はない。
入り口を警戒しながらモニターの前に移動すると、キーボードを叩いて画面を起動する。
「あちゃー……」
翠の髪をぽりぽりと掻き、頭を抱える。起動された画面では、ログインパスワードを要求するポップアップが真ん中で輝いていた。
「やっぱダメかぁ……?」
がっくりとうなだれて諦めの声が出かけた時、キーボードの横に、とある装置が置かれているのに気づく。それが何か理解した瞬間、翠の口角が釣り上がり、残念な表情は悪戯っぽい笑みに変わった。
「学校のPCって一昔前のイメージだったけど、意外とハイテクなのもあるんだな」
右手の人差し指を立てると、装置の四角い枠の上に、ぽん、と軽く載せる。
指紋認証装置。
普通なら、ただのパスワードよりも更に突破しにくい防壁だ。しかし玄太郎は、スマホを使った友人との実験を通じて、この皮が指紋まで完全にコピーしているという事実を知っていた。
指を置いて数秒すると、パスワードのボックスに黒い*の列が並び、画面が移行する。
「くくく、まさかこんな形で覗かれるとは思ってねぇもんな」
画面を開くと、すでに生徒のデータベースシステムがウィンドウに表示されている。ニヤニヤと笑いながら「赤崎衣織」の名前を探してアクセスし、記録を漁っていくと、他の生徒と同じ健康記録に混じって、【部外秘】と名付けられたファイルが存在するのが見つかった。
「ビンゴだ」
躊躇なくそれをクリックすると、新たな書類がポップアップする。
「『芸能活動に関する配慮のお願い』……?」
復唱するかのように件名を読み上げる翠の声が、保健室の中に響いた。