量子ストレージ内の隔離スペースは、いつもより静かだった。
いや、正確には――静かすぎた。
仮想ワークベンチの中央に横たわる銀髪の姿は、相変わらず微動だにしない。
完全停止。疑似神経信号ゼロ。数値上は、ただの“置物”だ。
それでも俺は、なぜか視線を外せずにいた。
「……寝てるだけ、って顔してやがる」
独り言が漏れる。
こういう時の癖だ。沈黙に耐えられないわけじゃない。ただ、黙っていると余計なことを考えちまう。
起動コードを叩くのは簡単だ。
軍用シーケンスも、裏の手段も、全部揃ってる。
だが、指が動かなかった。
「命令して起こす、ってのは……性に合わねぇな」
俺がやったのは、起動じゃない。
環境を戻しただけだ。
外部電源を安定供給へ切り替える。
戦闘用じゃない。待機用だ。
人格領域のアクセス制限を解除するが、書き込みは一切しない。触らない。
自爆システムも解除しない。ただし、強制条件だけを一段階後ろへずらす。
「壊す権利も、起きる義務も……俺が決める話じゃない」
最後に、起動許可フラグを“保留”から“解放”へ。
それだけだ。
命令も、任務も、所有権も、何一つ与えていない。
俺は一歩下がり、腕を組んだ。
「ここまでだ。あとは……お前の判断だな」
視線を外す。
起動の瞬間を凝視するのは、どうにも無作法な気がした。
まるで、誰かの目覚めを盗み見てるみたいでな。
――数秒。
何も起きない。
……やっぱり、何も起きないか。
そう思いかけた、その時だ。
数値の端が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ゼロだったはずの電圧が、0.01に跳ねる。
機械音じゃない。規則的でもない。
どこか、呼吸に似たリズム。
「……来たか?」
俺は息を止めた。
事故じゃない。誤作動でもない。
選んだ反応だ。
次に、銀髪の指先が動いた。
ほんの僅かに、確かめるように。
「……おいおい。今の、気のせいじゃねぇよな」
胸部コアが淡く明滅する。
疑似神経回路が一斉に同期を始め、内部ログが流れ込んでくる。
それでも、即座に起き上がらない。
――戦闘即応を抑えている。
兵器としては、あり得ない選択だ。
だが俺は、なぜかそれを“正しい”と感じた。
やがて、ゆっくりと上半身が起き上がる。
無駄のない動き。だが、急がない。
ゴーグルの奥で、見えないはずの視線が“焦点を結んだ”感覚があった。
……見られてるな、これ。
敵意じゃない。
でも、評価でもない。
確認だ。
何がある。
誰がいる。
命令はどこだ――と。
数秒の沈黙。
その間、彼女の内部で膨大な照合が走っているのが、肌で分かる。
そして、ようやく。
「……起動確認」
低く、澄んだ声。
感情を極力排した、軍人の声だ。
「自己識別……ヨルハ二号B型。
システム状態……良好」
そこで、言葉が途切れた。
任務名が来ない。
指揮官識別も、戦場座標も、続かない。
俺は一歩前に出た。
「おはよう。……で、いいのか?」
彼女の顔が、ほんの数度こちらへ向く。
「……あなたは?」
短い問い。
だが、その裏にあるのは警戒だけじゃない。
“命令者を探す癖”が、まだ残っている。
「俺はゲンマ。調達屋だ」
名乗りながら、俺は両手を軽く上げた。
敵意はない――人間相手にやる癖が、そのまま出ちまった。
「……命令は?」
やっぱり来たか。
「ない」
即答した。
「起きるかどうかは、お前に任せた。
これからどうするかも、同じだ」
空気が、ほんの一瞬だけ揺れた。
誤差レベル。だが、確かに。
「……理解、不能」
「だろうな」
苦笑する。
「でも、そういうもんだ。
少なくとも、俺は“所有者”になる気はない」
ゴーグル越しの視線が、もう一度俺を捉える。
今度は、さっきより少しだけ――人を見る目に近い。
「……私は、兵器です」
「知ってる」
「戦闘と命令遂行のために設計されています」
「ああ」
だからこそ、こう言った。
「でも今は、起きたばかりだ。
状況確認を優先しろ。
コーヒーは……飲めるかどうか知らんが」
沈黙。
それから、静かな声。
「……あなたは、私を破棄しないのですか」
真っ直ぐな問いだった。
想定より、ずっと。
「しない」
迷いはなかった。
「少なくとも、俺が関わってる間はな」
彼女はゆっくりと立ち上がる。
兵器としての姿勢制御じゃない。
“立つ”という動作だ。
「……了解しました。
暫定的に、あなたを“非敵性存在”と判断します」
「上出来だ」
俺は肩をすくめた。
「ようこそ、2B。
ここから先は……お互い様だ」
ほんの一瞬。
空気が、柔らいだ気がした。
兵器が起動したんじゃない。
誰かが、目を覚ました。