玄関のドアを閉めた瞬間、俺は小さく息を吐いた。
ゴミ出しと郵便受けの確認。ほんの数分の用事だ。だが今朝は、それだけで妙に神経を使う。
「……すぐ戻る。留守番、頼む」
振り返ると、2Bはソファから静かに立ち上がっていた。
こちらを見る視線は真っ直ぐで、揺れがない。
「同行を提案します」
「いや。中の方が安全だ」
即答すると、彼女は一瞬だけ沈黙した。
思考処理に入った時特有の、ほんの短い間。
「……了解。待機します」
命令ではないと理解しているからこそ、生まれる間だった。
俺はそれを見て、内心で小さく頷く。
廊下に出る。共用部は静まり返っていた。
だが、昨夜から続く違和感は消えない。視線の気配。説明できない圧。
郵便受けを開け、封筒を一通抜き取る。その間も、背中が落ち着かなかった。
(考えすぎだ……)
自分に言い聞かせ、部屋へ戻る。
――ドアを開けた瞬間、足が止まった。
「……おい」
室内の様子が、明らかに違う。
家具の配置が微妙に変えられ、ソファは壁寄り。テーブルは遮蔽物になる位置へ移動。
窓際には死角を潰す配置。見えないが、確実に“備えた”形跡がある。
2Bは部屋の中央に立っていた。姿勢は変わらない。
だが空気が違う。張りつめている。
「侵入確率が上昇しました」
「……留守番って、そういう意味じゃねぇ」
「命令内容に、行動制限は含まれていませんでした」
淡々とした返答。
反論しようとして、俺は口を噤んだ。
「……結果的に助かってるのが、余計に言いづらいな」
「被害を最小化する判断です」
理屈としては、完全に正しい。
俺は頭を掻き、短く息を吐く。
「次からは一言くれ」
「了解しました」
簡潔な返答。拒否はない。
俺はキッチンへ向かい、コーヒーを淹れ直しながら端末を確認する。通信ログに、昨夜より濃いノイズが走っていた。
「……やっぱり、追われてるな」
「断定はできません」
「だが、状況証拠は揃ってきてる」
2Bは頷き、淡々と続ける。
「通信断片を捕捉しました。
『回収』『破棄ではない』『抹消タグ』」
「……嫌な単語ばかりだ」
「私に対して使用される用語としては、妥当です」
「妥当でも、許容はしねぇ」
言い切ると、彼女の視線がわずかにこちらへ向いた。
感情ではない。確認だ。だが、それで十分だった。
「提案があります」
「聞こう」
「接触前に移動すべきです。包囲が完成する前に」
「同意見だ」
即答する。
勝てるかどうかじゃない。ここでやれば、面倒が増える。
準備を始めた、その時だった。
窓際で微かな音。小型ドローン。静音型だ。
「……朝からドローンは勘弁してほしい」
「同意します」
2Bが一歩前に出る。剣は抜かない。
正確な一撃でセンサーを無力化し、落下音を最小限に抑える。
だが、それで終わりじゃない。
廊下側で足音。工作員が一人。非致死性の拘束具を構えている。
「回収優先、か」
「排除しますか」
「制圧でいい。ここは戦場じゃない」
「了解」
一瞬だった。
2Bは速い。だが致命に行かない。関節、重心、神経遮断。
兵器として完璧で、同時に抑制が効いている。
――数が増える気配。
俺は即断した。
「撤退だ。勝てる勝てないじゃない。ここでやると、面倒が増える」
「了解。撤退します」
命令待ちはない。理解して、即応している。
裏口へ。非常階段。
背後で通信が走る気配がした。
『本隊到着』
『対象確保、優先度上昇』
「……厄介だな」
階段を駆け下りながら、俺は言う。
「お前は“物”じゃない」
2Bは走りながら、一拍だけ遅れて答えた。
「……記録します」
それだけだ。
だが、その一拍には、確かな変化があった。
街へ出る。人混み。雑音。
追跡は続いている。だが、まだ決定打はない。
今は逃げる。
勝てるからこそ、逃げる。
――この選択が正しかったかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも今、俺たちは一緒に判断した。
それで、十分だった。