雨脚が強まる中、二人は廃墟の影へと消えて行った。
廃工場群を抜けた先は更に陰鬱だった。アスファルトは亀裂で波打ち、錆びたパイプが血管のように路地を覆う。湿ったコンクリートの匂いと排水溝の悪臭が混ざり合い、空気さえ腐っているかのようだ。
「気配がある……」
アリシアが囁く。路地裏の暗闇から鈍い足音が響いてくる。三人——いや四人か?
「追い詰めたぞぉ……どこに隠れていようと構わねぇ」
獣じみた笑い声が湿気を振るわせる。廃ビルの鉄階段を踏む音が次第に近づいてくる。
「ここでやり合うか?」
「馬鹿言うな」
咄嗟に手首を掴まれた。彼女は壁沿いの狭隘部に身を潜めようとする。だが——
「待て! 逆方向は——」
制止より早く路地の死角へ引っ張られる。壁際に押しつけられた彼女の体が僕に密着する。コート越しにも伝わる柔らかさ。甘い香りと汗が混じった独特の匂いが鼻腔を刺す。
(くそ……! なんて距離だ)
厚手のコート越しでも分かる膨らみが胸板に押し当てられてくる。息遣いが布を通じて伝わり、僕の肋骨まで震わせてくる。
「動くな。奴らは曲がり角で待ち伏せる」
彼女の声は低く掠れている。喉仏が微かに上下し、艶めかしい鎖骨の窪みが襟元から覗く。
「わかった。ただし僕を盾にするなよ」
そうは言ったものの、僕は右腕を伸ばし彼女の肩越しに廃材を支えた。壁と僕の腕の間で生まれた“三角区画”にアリシアが収まる形だ。
(まるで檻だな……しかも最高級素材の檻だ)
目の前に垂れた金色の髪。濡れた前髪が額に貼りつき、潤んだ瞳が至近距離で煌めく。吐息は湿気と雨と緊張が混ざり合い、ミントと蜂蜜を煮詰めたような中毒性のある芳香を漂わせる。
「……っ」
息を詰める彼女の喉がまた震えた。僅かな身じろぎで乳房が掌に擦れかかる。僕は反射的に右手を壁に戻し、彼女の肩を抱く形で固定した。
「深呼吸禁止。肺まで震える」
「わかってる……!」
囁く声がかすれすぎて艶っぽい。雨音で掻き消されたはずなのに鼓膜にべったり粘つく。
「そっちへ行け!」「まだ姿は見えんが……」
複数の足音が交互に折り重なる。僕たちは石膏像のように硬直する。彼女の体温だけが生々しく伝わってくる。
(このまま触ってしまえば楽になれる……だが——)
理性が火花を上げた。喉が乾きを訴える。僕は舌先で湿気を集め唇を舐めた。その途端、彼女の睫毛が跳ねるように持ち上がった。
視線がぶつかる。焦点距離0.2メートル。
「……」
次の瞬間、彼女の指が僕の胸ポケットの金具を摘まんだ。抗議の代わりに耳朶にかすめる程度の吐息。
(止めろと言いたげだな……だが今の僕が我慢するのは地獄だぞ)
胸の中心が軋みを上げる。欲望と業務との狭間に火花が散る。思考回路が焼け切れそうだ。
「今……何を考えてる?」
蚊の羽音に紛れた問い。彼女の掌が僕の腹に押し当てられる。柔らかな圧力と震える指先。その感触は火傷しそうな熱量を帯びている。
答えずにいると、壁の方で鈍い打撃音が上がった。反射的に腕を引き寄せた結果、彼女の顔が僕の頬に触れる。
(……唇が掠めた)
心拍数が狂う。僕は咄嗟に首を傾けた。紙一重でキスを避けたのだ。
「そっちは反応なし」「もっと奥だ」
靴音が遠ざかっていく。荒い息を飲み込むのに一拍だけ時間がかかった。
(解放されて良かったのか? 惜しいと思ってしまった自分に驚いている……)
ようやく全身の力を抜くと、彼女が一歩後退した。濡れた髪が背中で跳ね、背筋のラインが露わになる。
「ありがとう。おかげで逃げられた」
淡々とした礼。僕は咳払いをして胸元の金具を正す。
「仕事上の判断だ。他意はない」
「……そう」
彼女は雨粒を払う素振りで瞼を伏せた。薄紅色の唇が閉じられると同時に、僕の中の昂ぶりも押し込められた。
「で? これからどうする?」
「既に準備は終わっているが、データは君の能力だったら、すぐに分かるだろ」
「えぇ、本当に。まぁ、とりあえずは事件を追うわよ」