逃走ルートに入って、三分ほど経った頃だ。
廃通信塔から引いた仮設ケーブルを切り離し、地下水路に滑り込んだ。
湿った暗闇の中、俺は2Bを支えながら進む。
「……歩けるか」
「可能です。
ただし、出力は最低限に制限しています」
「十分だ。今は逃げ切れば勝ちだ」
だが――
耳の奥で、小さなノイズが鳴った。
嫌な予感がして、即座に端末を確認する。
本来、完全遮断したはずの回線に、一本だけ“残っている糸”があった。
「……チッ」
その糸が、勝手に繋がった。
次の瞬間、視界の端にホログラムが立ち上がる。
妨害網を逆に踏み抜いてきた、強制投影。
そこに現れたのは――人影だった。
年齢は四十前後。
軍服でもスーツでもない、灰色の実務服。
表情は薄く、笑っているようにも、無表情にも見える。
「初めまして、と言うべきかな」
低く、落ち着いた声。
「回収統制官、コードネーム《ヴァルケン》」
――来たな。
こいつが、上か。
「君が“補給源”か」
開口一番、それだった。
「……ずいぶん失礼な挨拶だな」
俺は立ち止まり、2Bを支えたまま応じる。
「人の名前を覚える気はないのか」
「必要がない」
即答だった。
「だが、興味はある。
君一人の存在で、我々の追跡網が三系統も崩れた」
指揮官は画面越しに、俺と2Bを見比べる。
「特に君だ。
調達屋。戦術家。即席の囮役。
……そして、燃料」
2Bの体が、わずかに硬直する。
「あなたが、指揮官ですか」
2Bが静かに問う。
「正確には“現場責任者”だ。
君の型式は、知っている」
指揮官は微かに目を細めた。
「ヨルハ系。
生体燃料併用型。
……ずいぶん、懐かしい設計だ」
「回答を拒否します」
「当然だ」
楽しそうに、彼は笑った。
「さて。中継ノード破壊は痛手だ。
だが致命傷ではない」
画面の奥で、別のモニターが点灯する。
そこに映ったのは――
さっき俺たちが抜けてきた地下水路の、三つ先の分岐点。
……完全に、見られている。
「逃走経路、把握済み。
君たちは今、私の“視界”の中心にいる」
背筋が冷えた。
「……わざわざ名乗って、何の用だ」
「挨拶と、確認だ」
指揮官は、穏やかに言った。
「君は、彼女を使うつもりか。
それとも――」
一瞬、視線が俺に刺さる。
「彼女に、使われるつもりか」
2Bの声が、わずかに鋭くなる。
「その表現は、不適切です」
「そうかもしれない」
だが、指揮官は気にしない。
「君は優秀だ。
制約下での制圧、非致死優先、補給効率も悪くない」
まるで、製品評価だ。
「だが、問題がある」
「問題?」
「君たちは――」
彼は、ゆっくりと言った。
「“補給源”を守ろうとしている」
その瞬間、すべてが繋がった。
「それは、戦術として最悪だ」
静かな宣告。
「補給を守る者は、必ず負ける。
我々は次から、君ではなく――」
視線が、2Bに移る。
「“彼女が補給を欲しがる瞬間”を狙う」
2Bの指が、剣の柄にかかる。
「……脅迫ですか」
「忠告だ」
指揮官は首を振る。
「君は価値がある。
だが、彼は違う」
俺を指す。
「交換条件にすらならない」
――ほう。
「つまり?」
「君を回収し、彼は廃棄する」
はっきり言われた。
だが、不思議と腹は立たなかった。
むしろ――面白い。
「なあ、指揮官」
俺は笑って言う。
「一つだけ、教えてやるよ」
「何だ」
「さっきのノード、あれ“囮”だ」
一瞬、指揮官の眉が動いた。
「本命の逆探知は、もう別ルートで走ってる」
沈黙。
ほんの一秒。
だが、それで十分だった。
「……なるほど」
彼は、ゆっくり息を吐いた。
「君は、厄介だな」
「光栄だ」
「いいだろう」
指揮官は、初めて真顔になった。
「次は、私が前に出る」
通信が切れる。
ホログラムが消え、地下水路に静寂が戻った。
しばらくして、2Bが小さく言う。
「……敵指揮官、非常に危険です」
「ああ」
俺は苦笑する。
「ようやく、まともな相手が出てきた」
そして、肩の重みを感じる。
「……エネルギー残量は」
「残り、二九%」
「……急がねえとな」
俺は2Bを支え直し、闇の奥へ進んだ。