敵の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで数十秒。
アリシアはようやく僕の胸から離れた。だが急にどかっと距離を取るのではなく、
一拍遅れて、少し名残惜しそうに──いや、警戒が解けただけかもしれないが──
そっと身体を引いた。
「……はぁ。危なかった」
額についた濡れ髪をかき上げる彼女の指先はかすかに震えていた。
恐怖というより、緊迫の余韻がまだ身体に残っているのだろう。
僕はコートの袖を軽く払って答えた。
「助かったのは互い様だよ。君の判断が一秒遅れていたら、僕ら二人とも蜂の巣だった」
「……自覚はあるわ。ありがとう、とは言わないけど」
口調は素っ気ないが、胸元へそっと触れる仕草は、さっきの密着のせいで乱れた服を整えていた。
その乱れ具合が妙に色気を帯びていて、雨のしずくが鎖骨を伝うのが目に入る。
(……見ない方が負けた気がするな)
「さて。“安全圏”まで移動しようか。ここじゃ雨も敵も多すぎる」
「安全圏……って、どこに?」
僕は指を鳴らした。量子ストレージからミニホログラムを開く。
「ここ。廃工場脇の資材コンテナ。あの中だけ電磁ロックを解除済みさ」
「……もしかして最初からここへ誘導するつもりだった?」
「もちろん。君が僕を信用しないことも計算のうちでね」
アリシアは呆れたようにため息をつき、
「ほんと、腹立つくらい便利ね。あなたって」
と、ぼそりと漏らした。
二人でコンテナへ入ると、外よりも雨音が強く響いた。
屋根を叩く雨粒が途切れなく続き、薄い鉄の壁が反響の箱のようになる。
「……落ち着くわね、意外と」
アリシアは濡れた髪を大雑把に払い、コンテナの端に腰を下ろした。
ライトに照らされた彼女の横顔には、いつもの強さだけでなく、疲労と安堵が混ざっていた。
僕はデータパネルを壁に映し、作戦内容を表示する。
「ここから本題に入る。
君の“親友の父”──カレンの父親が消えた件だが、どうも普通の失踪じゃない」
「……わかってる。研究資料を狙われてた。あれを使えば……」
アリシアの声はわずかに震えた。その震えは恐怖ではなく、怒りだ。
「だからこそ、あなたを“利用”するの。
裏の動きに関しては、あなた以上に動ける人間はいない……悔しいけど」
「おや、褒め言葉かな? それとも嫌味かな?」
「両方よ。……でも」
雨音のリズムが変わり、コンテナの外で強い風が吹いた。
一瞬だけ空気が揺れたように感じたその瞬間──
アリシアが視線を上げ、少しだけ口元を緩める。
「……さっき助けてくれたのは本当。
あれがなかったら私は今、捕まってた」
「礼はいらないさ。君が無事でいてくれたほうが、僕の仕事はやりやすい」
「ええ、そうね……あなたが裏切らない限りは」
ピリッとした針のような言葉。
だがその目は、さっきより明らかに柔らかい。
(信用の“端っこ”くらいは掴めたか)
僕はパネルを切り替え、一枚の地図を映し出した。
「次はここだ。カレンの父が最後にアクセスした研究端末。
そのログに“共犯者”の痕跡があった。……奴はまだ動いている」
アリシアが目を細める。青い瞳が鋭く光る。
「共犯者……あなた、名前を知ってるの?」
「まだ確証はないがね。だが君の力と、僕の“裏回線”が揃えば数時間で割れる」
「……その言い方、少しだけ頼もしいわ」
雨音に混ざって、彼女の声がふっと柔らかくなる。
密着して息が触れ合ったあのときよりも、
ずっと自然に……距離が近い。
「じゃあ行くわよ、ゲンマ。
カレンのために、そしてこの街のために」
「もちろん。僕は僕のやり方で君をサポートする。
そして……」
僕は彼女の視線を真っ直ぐ見返した。
「──次は君が僕を信じる番だ」
アリシアの頬がわずかに赤く染まった。
「……考えておくわ。少しだけ、ね」
外で雷鳴が轟く。
資材コンテナを出ると、雨脚はさらに強まっていた。
街灯の光が雨粒を白く散らし、路地全体がぼんやりと滲んで見える。
アリシアはフードを深くかぶりながら、小さく息をつく。
「最悪……。こんな天気、走るには向かない」
「君は髪が濡れるのを嫌がるタイプかと思ってたんだけど」
「嫌いよ。冷えるし、視界が悪くなるし……
でも今は文句を言ってる暇もないでしょ」
そう言いながらも、一歩動いたアリシアの足取りは重かった。
濡れた路面でバランスを崩したのか、ほんの一瞬だけ身体が傾ぐ。
「っと──危ない」
僕は反射的に腕を伸ばし、アリシアの腰を支えた。
想像よりも軽い。
細いウエストを掴んだ指に、緊張で硬直した筋肉の動きが伝わる。
「……っと、と。ごめん」
「……大丈夫。ありが──」
アリシアは言葉を途中で飲み込み、
代わりに僕の手を自分の腰からそっと外した。
だが外す動作が優しい。
拒絶ではなく、ただ「少し照れている」ような空気が残った。
「……行きましょ」
「了解。だが足元には気をつけて」
「あなたに言われたくないわ」
口では強気だが、その言い方には温度がある。
警戒よりも、信頼の方が勝ち始めていた。
建物の屋根を伝って落ちる雨水が、細い川のように道を流れている。
アリシアはそれを避けようとしたが、また足を滑らせそうになり──
今度は自分から僕の腕を掴んできた。
「滑る……。ちょっとだけ、支えて」
「任せて」
「……勘違いしないでよね。
あなたが転ぶと私まで巻き込まれるから、その、予防よ」
「はいはい、了解、予防ね」
軽口を返すと、アリシアはほんの少しだけ唇を尖らせた。
その表情が雨に濡れて、街灯の光で柔らかく輝く。
歩くたびに、彼女の肩が僕の腕に触れる。
濡れた衣服越しでも体温が感じられ、
互いの距離が、ほんの数センチずつ縮まっていく。
(……こんなに近づく日が来るとはね)
「ゲンマ」
「ん?」
「さっきの……その、胸に触れてた時の心拍の話だけど」
「まだ根に持ってるの?」
「違うわよ。……あれは、その……
こっちまで変な鼓動になりそうだったから、やめてほしいってこと」
雨音でかき消されるほど小さな声だった。
けれど確かに、照れと本音が混ざっていた。
「了解。じゃあ次は君が落ち着くまで、ちゃんと支えるよ」
「べ、別に……落ち着いてないわけじゃ……!」
アリシアがむっとしたように僕の腕を軽く小突いた。
だがそのまま、手だけは離さない。
狭い路地を抜けて、雨のカーテンをくぐるたびに、
二人の距離は自然に、確実に縮まっていった。
街の中央を抜ける大きなアーチの影に入ると、雨が一時的に和らぐ。
アリシアはフードを外し、濡れた髪を指で梳きながら小さくつぶやいた。
「……ゲンマ」
「どうした?」
「あなたと移動するの、前より……悪くない」
その言葉は、雨上がりの匂いのように静かに心へ落ちた。
「光栄だよ、アリシア」
「うるさい。……次は走るから、遅れないで」
口では強がるが、
僕の手首を掴む力は、さっきより僅かに強い。
ふたりは再び駆け出した。
濡れた手と手が離れないまま、
雨の街へと一直線に。