路地の湿気が、妙に肌にまとわりつく。
自販機の低い唸りだけが、ここが街の中だって証明してた。
壁にもたれながら、視線だけ動かす。
屋上の端、排気口の影、濡れたアスファルトの反射。……静かだが、静かすぎる。誰かが見てるときの静けさだ。
足音が近づいてきた。
軽い。迷いがない。急がないくせに、まっすぐ。
白衣の裾が先に見えた。次に赤茶の髪。街灯に触れるたび、色が変わる。
「時間は三分だけ。その間に“あなたが本物”だって証明して」
いきなりだな、と思った。
けど、笑う。癖みたいなもんだ。
「挨拶は省略派か。嫌いじゃねえ」
ポケットから手を抜いて、軽く伸びをする。「三分もいらねえ。一分でどうだ?」
腕を組んだまま、少女は動かない。視線だけが速い。
測ってる。品定めじゃない。実験の途中みたいな目。
「減点方式」
「上等だ」
路地の奥で、水が揺れた。風じゃない。
反射の形が一瞬だけズレる。……誰かいる。
自販機の側面を、指の背で軽く叩く。コン、と乾いた音。
次の瞬間、街灯が一つだけ瞬いて、屋上の影が遅れて動いた。
少女の目がそっちへ流れる。すぐ戻る。
「……なるほど。噂は盛ってないのね」
「盛ると後で困る」
肩をすくめる。「で、博士サマは?」
少女は少しだけ顎を上げた。
「牧瀬紅莉栖。依頼人」
短い名乗り。余計なものがない。
嫌いじゃない。
沈黙が落ちる。遠くでタイヤが水を切る音。
紅莉栖がポケットから小さな袋を出した。透明。中身は見えない。封だけがやけに丁寧だ。
「これと同系統を、少し」
差し出してくる。「普通の流通には乗らない」
受け取らない。まず観る。
封の折れ目、指の癖、焦った人間の手つき。……面倒事の匂い。
「……やれやれ」
息を吐く。「軽いのに重そうだな」
「面倒じゃない案件なんて、あなたに届かないでしょ」
口角だけ上げてくる。挑発、というより確認だ。
「煽り方も研究済みかよ」
指先で袋をつまむ。軽い。軽すぎる。
ポケットに滑らせながら、言葉を削る。
「依頼の中身、全部は聞かねえ」
一拍。
「だが、人を壊す類なら断る」
紅莉栖が一度だけ瞬いた。
それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「合理的ね。その線引き、嫌いじゃない」
路地の奥で、水がもう一度跳ねる。
今度は近い。
背中を壁から離す。歩き出す。
振り向かない。
「三分、まだ残ってるぞ」
肩越しに言う。「歩きながらでいいなら、続き聞く」
白衣の裾が後ろで揺れた。
足音が半歩だけ遅れて並ぶ。
「延長ね」
声に、わずかな熱。「いいわ。条件、あとで詰めましょう」
雨の匂いが遠ざかる。
路地の出口が近づくたび、街のざわめきが戻ってくる。
……厄介な依頼人だ。
けど、嫌いじゃない。