路地を抜けて、錆びた階段を上がる。
踏み板が一段ごとに軋んだ。油が切れた匂い。遠くで電車が擦れる音がした。
紅莉栖は俺の半歩後ろを歩いている。白衣の裾が手すりに触れるたび、かすかな布の音が混じった。歩幅は小さいのに、遅れない。研究者ってやつは、案外足取りが一定だ。
「で」
階段の踊り場で立ち止まる。振り返らないまま言う。「材料は分かった。問題は用途だ」
白衣が揺れた。
紅莉栖が少しだけ顔を上げる気配。
「用途を聞いて、断る可能性は?」
「ある」
即答した。「俺は次に繋がらない仕事はやらねえ」
一拍、間が落ちる。
空調の風が吹き抜けて、紙片が足元を転がった。
「……タイムマシン」
紅莉栖が言った。
思わず足が止まった。
階段の金属が、ぎし、と鳴る。
「は?」
声が漏れたのは久しぶりだった。
軽口じゃない。素で出た声。
紅莉栖は表情を変えない。ただ視線だけが真っ直ぐ来る。
「正確には、理論の再現実験」
短く続ける。「でも、呼び名はそれでいい」
乾いた笑いが出かけて、止まった。
冗談に聞こえない顔をしてやがる。
「……やれやれ」
額を掻く。指先に鉄の粉のざらつきが残った。「随分とデカい花火だな」
「驚いた?」
「そりゃな。普通は“兵器”とか“義体強化”とか言い出すところだ」
踊り場の窓から外を見る。曇ったガラスに街の光が滲んでいた。「時間かよ」
紅莉栖は答えない。
代わりに、袋を軽く指で叩いた。カサ、と小さな音。
「理論はある」
ぽつりと落ちる。
「でも、この都市じゃ机の上じゃ足りない」
言葉は短いのに、重さだけが残る。
無茶を言ってる顔じゃない。試験管を置くみたいな冷静さだ。
俺は息を吐いた。
胸の奥に、妙な引っかかりが残る。時間。巻き戻し。……選択肢。
「成功したら、何が変わる」
「分からない」
紅莉栖は迷わない。
「だから試す」
その一言で、背筋が冷えた。
危険なのは装置じゃない。踏み込む覚悟の方だ。
「……あんた、面倒なタイプだな」
「今さら?」
わずかに口角が上がる。
「依頼を受けた時点で、もう巻き込まれてる」
階段を上がりきる。
鉄扉を押すと、夜風が一気に入ってきた。屋上。ネオンが低く瞬いて、街の輪郭がぼやけて見える。
俺はフェンスに寄りかかった。
指でポケットの中の袋を転がす。軽い。軽いのに、妙に重い。
「……時間、ね」
つぶやきが漏れる。
紅莉栖は黙って隣に立った。風で髪が揺れる。視線は街の向こう。
「信じない?」
「信じるとかじゃねえ」
首を振る。「信じたら、戻れなくなる気がする」
紅莉栖は何も言わない。
ただ、指先で白衣の袖口を整えた。癖なんだろう。
少しの沈黙。
ネオンの反射が、ガラス壁に細く流れる。
「……協力者はいるの?」
紅莉栖が聞いた。
「いるかもしれねえな」
口元だけで笑う。
「電脳に強いやつが一人」
名前は出さない。
でも頭の中には、静かに目を閉じる女の姿が浮かんでいた。
アリシア。
理屈を嫌うわけじゃない。だが、この都市で“時間”をいじるなら、回線の目を誤魔化す奴が必要だ。
紅莉栖の理論と、あいつの処理。……相性は悪くない。たぶんな。
「紹介してくれるの?」
紅莉栖の声が少しだけ近い。
「まだ決めてねえ」
正直に言う。「だが、気にはなる。あんたの“装置”も、あんた自身もな」
風が吹き抜けた。
屋上の看板が揺れ、金属音が夜に溶ける。
紅莉栖が小さく息を吐いた。
「……なら、次は実験室で話しましょう」
少しだけ声が柔らかい。「三分じゃ足りないから」
俺は肩をすくめる。
「延長料金、高いぞ」
「払うわ」
即答だった。
夜の街を見下ろしながら、ポケットの中の袋を握る。
時間なんて、触ったこともないものに手を伸ばす。……厄介だ。だが、面白くもある。
アリシアに声をかけるか。
そう考えた瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
まだ、戻れる場所にいるのか。
それとも、もう一歩踏み出してるのか。
風が冷たくなってきた。
俺はフェンスから背を離し、歩き出す。
「行くぞ、博士」
振り向かずに言った。「材料集めは、明日からだ」
白衣の裾が、静かに夜を切った。