倉庫の扉は半開きだった。
冷気が舌に触れる。油と金属と、濡れた段ボールの匂い。床の水たまりに、天井の蛍光灯が細く映っていた。
「入るぞ」
車に残した紅莉栖へ短く投げる。返事はない。端末越しの沈黙が、妙に重い。
奥へ進むたび、靴底が水を引く。
音が自分の分だけに見えて、余計に耳が働く。扉の影が二重に重なっている。誰かが出入りした跡――新しい。
「……調達屋?」
声が落ちた。梁の上からでも床下からでもなく、ちょうど正面の暗がり。
「そうだ」
立ち止まって、両手は見える位置に置く。「品はあるか」
暗がりから男が一歩出た。
帽子。濡れたコート。顔は見えない。けれど歩き方が軽い。脚が地面を探ってない。
「挨拶もなしとは」
男が笑う。「噂どおり、愛想がない」
「愛想は別料金だ」
俺も笑うふりをする。「品を見せろ。金は払う」
「金ねぇ」
男が肩を揺らす。「この街の金は、紙より軽い。……持ってるのは“金”じゃなくて、“命”じゃないのか」
言い方が妙に丁寧だった。
次の瞬間、語尾がわずかに乱れる。別人が同じ台詞を真似しているみたいに。
「欲しいものは、ただの装置だ」
言葉を削る。「余計な詮索はしない」
「詮索?」
男が首を傾ける。「詮索されるのは、そっちの方だろう? 最近、変な連中に追われてるってね」
「追う側が変なら、追われ方も変になる」
一歩だけ前に出る。距離は詰めない。詰めすぎると、向こうの“台本”に乗る。
男は笑って、手袋の指を鳴らした。
暗がりの奥で、何かが擦れる音。箱が動く音じゃない。金属が擦れる、細い音だ。
「用心深いねぇ」
男が言う。
その声が、ほんの一拍遅れてもう一度響いた。重なるように。薄く、同じ言葉が反復する。
……二人いる。
気づいたところで、顔には出さない。
ここで目を泳がせたら負けだ。
「品は」
声を平らにする。
「あるとも」
男が片手を上げる。
奥の影が開き、白いケースが光を拾った。取っ手の金具が綺麗すぎる。新品。倉庫の空気に馴染んでない。
「開ける」
俺が言うと、
「触るな」
男が遮った。
その言葉も、二重に鳴った。
一つは低く、一つは少し高い。片方が主、片方が影。影の方が焦っている。
「信用できないなら、取引は終わりだ」
俺は一歩引く。引くことで、相手の呼吸が乱れるのを待つ。
男は笑い、笑いながら喉を鳴らした。
「いいねぇ。強気だ」
帽子の影の奥で、目だけが光った気がした。
「だが、条件がある。……“誰のため”に使う?」
「誰のためでもない」
答えは短く。「俺の客のためだ」
「客、ね」
男が嬉しそうに言う。
「その客、白衣を着てないか?」
一瞬だけ、背中が硬くなる。
紅莉栖の顔が浮かぶより先に、倉庫の空気が冷たくなった。
「噂ってのは、便利だな」
笑って返す。「根拠のない話は嫌いだ」
「根拠ならある」
男が言う。
その台詞だけ、重ならなかった。一本の声。確信の声。
……ここ、見られてる。
耳の奥で、端末が小さく震えた。
車内からのメッセージ。短い通知音。
『声、二重に聞こえる? こっちのマイクでも拾ってる』
紅莉栖め。気づいてたか。
俺は男を見る。
帽子の下の影が、ほんの少し左右に揺れた。視線の移動。誰かに合図してる。
「取引はまた今度だ」
俺は踵を返す。背中を見せる角度だけ、丁寧に選ぶ。
「逃げるのか?」
男の声が追う。今度は二重。苛立ちが混ざる。
「逃げない」
振り向かない。「選ぶだけだ」
扉へ向かう。
水たまりがまた揺れた。今度は足音じゃない。小さな回転音。ドローンの羽音が、湿った空気を切る。
外へ出る直前、背後で男が笑った。
その笑いも二つに割れて、倉庫の中に残った。