車に戻らず、足を止めた。
湿った床の匂いが鼻に残る。
「続き、するか?」
振り返らずに声を投げる。
暗がりの奥で、帽子がわずかに揺れた。
倉庫の蛍光灯がちらつき、そのたびに影が二つに裂けて、また一つに戻る。さっきの笑い声が耳の奥で重なっている。重なり方が不自然だ。遅れがある。ほんの半拍。人間が同時に笑ったときの揃い方じゃない。
「強気だな」
男が言う。
声が、また二重に鳴った。
「強気?」
肩をすくめる。「確認だ。さっきの条件、もう一度聞こう」
「条件は一つだ」
男の影が少し前に出る。「“誰のため”か」
倉庫の奥で、金属が擦れる。
小さな音。焦りが混じる。
「客のためだと言った」
一歩だけ踏み出す。距離は詰めない。「それとも、答えが決まってるのか」
帽子の影が止まる。
二つの呼吸が、わずかにずれる。
「決まっている、とは?」
低い声。
その後ろで、もう一つの声が息を吸う。
「白衣の客だろ?」
俺は言葉を置く。「なら、名前まで言ってみろ」
沈黙が落ちる。
蛍光灯が鳴る。水たまりが揺れる。
男が笑った。
今度は、わずかにずれた笑いが重なる。
「探りか?」
影が傾く。「用心深いねぇ」
「用心はする」
視線を外さない。「二人分の声がする場所ではな」
一瞬だけ、空気が止まった。
帽子の奥で、顎が動く。
奥の暗がりが、わずかに揺れた。梁の上。ほんの細い影が、蛍光灯を遮る。
「面白い」
男が言う。
今度は一つの声だけ。
奥の影が、わずかに遅れて息を吐いた。
「交渉は続けるか?」
俺は問う。「それとも、演技はここまでか」
金属の小さな音。
靴が滑る音。
「演技?」
男が笑う。「買い被りだ」
「買ってない」
短く返す。「確認してる」
間を置く。
言葉を急がない。
「さっきのケース」
視線を横に流す。「新品すぎる。ここに置くには浮いてる」
帽子の影が動く。
後ろの影が、わずかに身じろぎする。
「それがどうした」
今度は高い方の声が先に出た。
低い方が、遅れて重なる。
……順番が逆だ。
「どうもしない」
笑う。「ただ、準備が丁寧すぎる」
蛍光灯がまた瞬く。
影が三つに見える。
「本命はどこだ?」
静かに言う。
長い沈黙。
奥の影が、梁の上でわずかに動く。靴底が金属を擦る音が、遅れて落ちる。
「欲張りだな」
低い声が言う。
「商売だ」
肩をすくめる。「一つだけとは限らない」
帽子の男が一歩前に出る。
その瞬間、奥の影がわずかに身を低くした。逃げ道を測っている。
「撤退も選択肢だ」
男が言う。
声は、また二重。
「選ぶ」
俺は頷く。「ただし、相手が一人ならな」
言葉が落ちた瞬間、
梁の上で小さな音が鳴った。
沈黙。
男の笑いが止まる。
帽子の影が、わずかに横へずれた。
「……今日はここまでにしよう」
低い声。
「賢明だ」
短く返す。
踵を返す。
背中に視線が刺さる。二つ分。
扉へ向かいながら、口元だけで笑う。
……炙れた。
だが、まだ足りない。
外の冷気が頬を打つ。
倉庫の中で、二つの足音が重なった。