港湾区の夜は、昼の騒音を飲み込んだあとにだけ残る奇妙な静けさがある。
海風がコンテナの隙間を通り抜け、錆びた鉄の匂いを運んでくる。その匂いは、どこか古い機械の内側に潜んでいる油の匂いに似ていた。俺は車のハンドルに腕を預けながら、フロントガラス越しに倉庫の灯りを見ていた。遠くから見ればただの倉庫だ。だが、こうして眺めていると、建物そのものが息を潜めているようにも見える。
「ここが最後の場所なの?」
紅莉栖が助手席で端末を閉じながら言った。声は静かだが、どこか確信めいた硬さがある。
「そういう話だ。だが噂は風と同じで、向きが変わる」
俺は肩をすくめる。港の夜はいつも湿っていて、言葉もどこか重くなる。
後部座席で、2Bがゆっくりと窓の外を見た。
彼女の姿勢は相変わらず整いすぎている。まるで戦闘という概念そのものを体現しているようで、隙がない。
「対象施設の動きは通常範囲内です」
淡々とした声が、静かな車内に落ちる。
「通常って言葉ほど、信用できないものもないわ」
紅莉栖は薄く笑った。「科学でも街でもね」
その言葉は軽いのに、妙に重さが残る。
俺はエンジンを切った。音が止まると、世界が急に広くなる。遠くのクレーンの軋み、海の低い呼吸、そして倉庫の奥から漂う気配。
違和感は、小石みたいなものだ。
最初は靴の中で転がる程度でも、歩き続ければ確実に痛みに変わる。
「俺が行く」
ドアを開けながら言う。「交渉は慣れてる」
「慣れているから信用できるわけじゃないわ」
紅莉栖が肩を寄せてくる。「むしろ逆でしょう」
「そういう評価は嫌いじゃない」
笑いながら倉庫へ歩き出す。
鉄扉を押すと、倉庫の中は薄暗かった。
蛍光灯の光が床の水たまりに反射して、天井の梁が歪んで見える。世界が少しだけ曲がっているみたいだった。
「遅かったな」
暗がりから声がした。
影の奥から、男が歩み出る。帽子のつばが深く、顔の半分が隠れている。
「待たせたか?」
俺はゆっくり歩きながら言う。「品はあるんだろう」
男は笑った。
その笑い声が、ほんの少し遅れてもう一度響く。
胸の奥で、小さな警鐘が鳴る。
「あるとも。だが条件がある」
男は指を鳴らす。「その装置、誰のために使う」
「客のためだ。商売だからな」
言葉を軽くする。「深い意味はない」
「そうか?」
男は首を傾ける。「白衣の女のためじゃないのか」
その一言で、空気が変わった。
誰かがこちらの事情を知っている。つまり、この取引は最初から表の顔をしていない。
「噂話は嫌いだ」
俺は言う。「値段の話をしよう」
その瞬間、梁の上で何かが動いた。
金属の擦れる音。
「二人いるな」
口の中で呟く。
男の笑いが止まる。
次の瞬間、影が落ちた。
梁の上から人影が降りてくる。
銃声が倉庫の空気を裂く。
体が先に動く。
床を蹴り、横に転がる。弾丸が水たまりを弾き、冷たい飛沫が頬を打った。
「取引は中止だ」
俺は低く言う。「脚本が荒すぎる」
梁の影の男が撃ち続ける。
その動きには焦りがある。計画はあったが、予定は崩れた。
その瞬間、倉庫の扉が開いた。
黒い影が滑り込む。
2Bだった。
剣が一閃する。
空気が裂ける音が、銃声よりも鋭く響く。
戦闘は長く続かなかった。
技術の差でも、力の差でもない。ただ、決断の速さが違った。
男たちは逃げる。
倉庫の奥へ消えていく。
静けさが戻る。
紅莉栖がゆっくり歩いてきた。
「ケースは?」
彼女が言う。
床に置かれた白いケースを開く。
中は空だった。
「やっぱりね」
紅莉栖が言う。「本命は別」
俺は息を吐く。
胸の奥で、何かが形を変えている。
これはただの取引じゃない。
時間を作る装置を追うということは、世界の裏側を歩くことだ。
それでも、歩くしかない。
「次の場所は?」
俺は聞く。
紅莉栖が端末を開く。
「あと一つ」
彼女は言う。「材料が」
倉庫の外で、海風が強く吹いた。
俺は空のケースを閉じながら思う。
この夜は、まだ終わらない。