研究室にした廃区画は、夜になると音がよく響いた。
天井の古い換気装置がゆっくり回るたび、低い振動が床を伝ってくる。
机の上には、拾い集めた材料が整然と並べられていた。
それぞれが違う場所から来たはずなのに、今は一つの装置の輪郭を形作っている。
紅莉栖は装置の前に立ち、指先で配線の接続を確かめていた。
端末の光が白衣の袖を照らし、青い影が壁に揺れる。
「これで、理論上の準備は終わり」
言葉は落ち着いているが、わずかに呼吸が速い。
興奮を隠そうとしている時の声だと、最近は分かるようになってきた。
「理論上って言葉は、あまり安心できないな」
俺は壁にもたれたまま答える。「現実ではどうなんだ」
紅莉栖は振り返らない。
しばらく沈黙が続く。
「観測だけなら、世界は壊れないはずよ」
その言い方は妙に慎重だった。
壊れないと言い切らないところが、逆に引っかかる。
後ろで椅子がわずかに軋む。
2Bが装置の隣に立ち、静かに装甲の接続端子を確認していた。
「接続準備、完了」
低い声が部屋の奥まで滑る。
機械のように正確な言葉だが、不思議と冷たくは聞こえない。
俺は装置を見た。
円形のフレームの中央に量子コアが収まり、そこから細いケーブルが放射状に伸びている。
見た目はただの実験装置にしか見えないのに、紅莉栖はこれを“時間を観測する装置”だと言う。
未来を覗く装置。
そんな言葉は、映画の中で聞くくらいがちょうどいいはずだった。
「最後に確認する」
紅莉栖が言う。「観測は一瞬だけ。成功しても失敗しても、装置はすぐ停止する」
「未来を見るだけ、って話だったな」
「そうよ」
紅莉栖は少しだけ間を置く。「理論上は、干渉しない」
その“理論上”という言葉が、さっきより重く聞こえた。
装置の電源が入る。
低い振動が机を伝い、金属のフレームがわずかに震え始めた。
研究室の空気が変わる。
温度が一度だけ下がった気がして、背中に冷たいものが走る。
2Bが静かに装置へ接続される。
装甲の端子から細い光が流れ、量子コアの内部が淡く発光した。
「観測開始」
紅莉栖の声が小さく落ちる。
次の瞬間、空間が揺れた。
光が歪む。
研究室の壁が、ほんのわずかに遠ざかるような感覚。
俺の視界に、見たことのない景色が差し込んだ。
崩れた建物。
黒い煙。
空に浮かぶ巨大な構造物。
それは映像ではなく、記憶の断片みたいに流れ込んでくる。
そして、もう一つ。
瓦礫の向こうに立つ男の姿。
ヴァルケン。
「……見えた」
紅莉栖の声が震える。
しかし次の瞬間、光景が変わる。
同じ場所なのに、今度は街が崩れていない。
人々が歩き、空は穏やかで、戦闘の気配はどこにもない。
未来が、二つ重なっている。
「おかしい」
紅莉栖が呟く。「未来が固定されていない」
装置の振動が強くなる。
量子コアの光が脈打つように明滅する。
「観測が深くなってる」
その声には焦りが混じっていた。
俺の視界に、もう一つの光景が流れ込む。
研究室の床。
血の跡。
そして。
2Bの剣。
次の瞬間、装置の光が消えた。
振動が止まり、研究室に静寂が戻る。
しばらく誰も動かなかった。
紅莉栖がゆっくり息を吐く。
端末を握る手が、わずかに震えている。
「観測は成功した」
言葉は落ち着いている。
だが、目の奥に揺れが残っていた。
「未来は一つじゃない」
彼女は静かに言う。「観測した瞬間に、未来が分岐してる」
俺は机の端に手を置く。
冷たい金属の感触が現実を引き戻す。
「つまり、未来は決まってない」
「ええ」
紅莉栖が頷く。「そして、観測は干渉になる」
部屋の奥で、2Bがゆっくり顔を上げた。
「未来は干渉されています」
その一言で、空気がまた重くなる。
俺はモニターを見る。
観測ログがまだ残っている。
画面の端に、座標が表示されていた。
見覚えのある場所。
ヴァルケンの拠点だ。
未来を覗いたはずなのに。
どうして、敵の居場所がここにある。
研究室の静寂の中で、量子コアが小さく一度だけ光った。