研究室にした廃区画は、夜になると不思議な静けさをまとった。
壁の向こうにあるはずの街の音は遠くへ沈み、残るのは機械が吐き出す低い振動と、金属が温度を失う時にだけ生まれるかすかな軋みだけだった。
俺はモニターの前に立ち、画面に流れる数値の波をぼんやりと眺めていた。
意味の分からない数字の並びなのに、そこに異常が潜んでいることだけは、なぜか直感で理解できる。
未来を観測したという事実は、胸の奥に小さな棘のように残っていた。
あれはただの映像ではなく、記憶の断片が流れ込むような奇妙な感覚で、現実と可能性の境界が一瞬だけ溶けたような時間だった。
「ログは残っているけれど、状態は安定していないわ」
紅莉栖の声は落ち着いていたが、端末を握る指先には僅かな力がこもっている。
彼女は画面に表示された波形を指先で拡大しながら、理論を組み直すように静かに息を吐いた。
「観測した瞬間に、未来の座標が複数に分岐しているのが分かるの」
俺は肩をすくめながらモニターに視線を戻す。
「つまり未来は決まってないってことか」
紅莉栖は首を横に振った。
「決まっていないというより、観測したことで増えた可能性があるわ」
その言葉の意味は完全には理解できなかったが、聞いた瞬間に胸の奥がざわつく。
未来を見ただけのはずなのに、その行為が何かを変えてしまったのだとしたら、これはただの実験では済まない。
机の中央に置かれた量子コアが、静かな呼吸のように淡く光った。
その光は研究室の壁を青く染め、機械の影がゆっくりと揺れる。
「観測は成功しているわ」
紅莉栖は言葉を選ぶように続ける。「でも、この装置は未来を“見る”だけじゃない」
俺はその言葉に少しだけ眉を上げた。
「触ってるってことか」
紅莉栖は端末から目を離さないまま、小さく頷いた。
その瞬間、研究室の照明がわずかに揺れた。
振動は大きくないのに、机の上の工具がかすかに音を立てて動く。
「揺れてるな」
「地震じゃない」
紅莉栖の声は低く、先ほどよりも緊張を帯びていた。
彼女はモニターに表示された数値を見つめながら、理論の計算を頭の中で組み直しているようだった。
視界の端で、壁の輪郭が一瞬だけ二重に見えた。
それは錯覚にしてははっきりしていて、空間そのものがわずかにずれているような感覚が残る。
「時間座標が乱れてる」
紅莉栖が呟く。「観測の干渉が始まっているわ」
その言葉を聞いた瞬間、端末の通信が鳴った。
「やっと気づいたのね」
アリシアの声が通信越しに流れ込む。
彼女の声は軽い調子を保っているが、いつもよりわずかに早口だった。
「外の監視カメラが全部同じ三秒を繰り返してるわ」
俺は思わず笑った。
「三秒の未来を何度も見せてくれるサービスか」
「冗談を言ってる場合じゃないのよ」
アリシアが言う。「時間が滑ってる」
その言葉は研究室の空気を急に冷たくする。
未来観測の影響が装置の中だけでなく、外の世界にまで広がっている。
つまり、俺たちはもう世界の外側に触れてしまったのかもしれない。
その時、研究室の扉が静かに開いた。
誰も触れていないのに、重い金属の扉がゆっくりと動く。
冷たい夜の空気が流れ込み、床の埃がわずかに舞い上がる。
暗がりの向こうから、ゆっくりと足音が近づいた。
ヴァルケンだった。
彼は研究室の中央に置かれた装置を見つめ、少しだけ首を傾ける。
「未来に触れたな」
その声には怒りも焦りもなく、ただ事実を確認するような静けさがあった。
俺は肩をすくめながら答える。
「挨拶にしては物騒だな」
ヴァルケンは視線を装置から外さない。
「それは世界を壊す装置だ」
紅莉栖が一歩前に出る。
彼女の声は落ち着いているが、言葉の端に強い意志が見える。
「時間は観測できる」
「可能だから危険だ」
そのやり取りの途中で、研究室の窓が突然砕けた。
ガラス片が空気を切り裂き、冷たい夜風が室内に流れ込む。
敵が侵入した。
銃声が短く響く。
床を蹴って体を横に転がしながら、俺は状況を頭の中で組み立てる。
戦闘は長く続かなかった。
2Bが前に出た瞬間、空気が一変する。
「排除します」
その言葉の直後、剣の軌跡が夜の光を切り裂いた。
動きは無駄がなく、数秒後には敵の気配が研究室から消えている。
ヴァルケンは動かない。
ただ装置を静かに見つめている。
「触れるな」
彼は言う。「未来は変わる」
俺は量子コアを見る。
その光はさっきよりも強く、装置の内部で時間が渦を巻いているようだった。
未来を見ただけのはずだった。
だが今は違う。
装置はもう、眠っていない。
紅莉栖の目は迷っていなかった。
「起動する」
その言葉が落ちた瞬間、量子コアが強く光る。
研究室の空間が歪み、時間が一瞬だけ重なる。
そして装置は、完全に動き始めた。