※この作品はR-18です。

ゴエティア・●ックス   作:ボルメテウスさん

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未来

研究室にした廃区画は、装置が完全起動してから妙に音を失っていた。

さっきまで耳の奥を掻き回していた振動が引いたせいで、静けさだけが机の角や配線の隙間に沈み込み、そこにあるはずの空気まで薄くなったように思える。

量子コアは装置の中心で淡い光を保ち続けていて、その青さは冷たいのに、見ていると脈のようなものを感じさせた。

生き物じゃないものが呼吸しているように見える時、人はたいてい、見たくないものまで見せられる。

 

俺は装置から少し離れた位置に立ち、ケーブルの先で静かに接続された2Bを見ていた。

背筋はいつも通り真っ直ぐで、指先もほとんど動かない。

だが、あいつの無音は平常のそれとは違っていた。

刃を鞘に納めた時の静けさじゃない。

水の底へ沈んでいく時の静けさだ。

こちらから手を伸ばせば届く距離にいるのに、触れた瞬間に別のどこかへ滑っていきそうな気配がある。

 

「観測は継続しています」

2Bが言った。

声は短く、いつも通り平らで、そのぶんだけ言葉の裏にある負荷が見えにくい。

 

「何が見える」

問いかけてから、聞くべきじゃなかったかもしれないと思った。

未来なんてものは、見えた瞬間にこちらの呼吸に混じる。

混じった呼吸は、たぶん元には戻らない。

 

「同一座標に複数の結果を確認」

2Bはわずかに顎を上げた。

「破壊、未発生。破壊、発生。対象生存。対象喪失。重複しています」

 

紅莉栖がモニターに向かっていた手を止める。

その横顔は光に照らされて青白いのに、目だけは熱を持っていた。

理論が現実に食い込む瞬間の顔だ。

恐れているくせに、手を離す気はない顔でもある。

 

「やっぱり」

紅莉栖は低く言った。

「未来は一本じゃない。観測した地点から枝分かれしてる」

 

「枝分かれ、ね」

俺は苦く笑った。

「ずいぶん育ちのいい木だな。幹より枝の方が太そうだ」

 

紅莉栖はそれに乗らず、モニターの波形を拡大する。

線は静かに揺れているだけなのに、よく見ると同じ場所を何度も通らない。

少しずつ、ほんの少しずつ、別の方へ逸れていく。

雪の上に落ちる雨粒みたいなものだ。

一つだけなら跡は残らないのに、数が増えると地面そのものの形が変わってしまう。

 

通信端末が小さく震え、次の瞬間、アリシアの声が研究室に滑り込んできた。

芝居がかった調子は崩していないのに、息の置き方だけがいつもより浅い。

 

「ねえ、あんたたち」

アリシアが言う。

「さっきから外の回線時刻が揃わないのよ。監視網の時計が、それぞれ勝手に明日を見てる」

 

「明日だけなら可愛いものだ」

俺は壁にもたれ直す。

「こっちは同じ場所で、壊れてる街と無事な街を同時に覗いてる」

 

「それ、笑い話にしてる場合じゃないのよ」

アリシアの声が少しだけ低くなる。

「街じゅうの端末が、観測ログの残り火を拾い始めてる。データの形をしてるくせに、あれ、もうただの情報じゃないわ」

 

紅莉栖がそこで初めて、はっきりと顔を上げた。

「広がってるの」

 

「ええ」

アリシアは短く答える。

「未来そのものが、回線の上を歩いてるみたいにね」

 

その表現を聞いた瞬間、背中の内側が嫌な冷たさで満たされた。

歩く未来。

言葉にすると馬鹿げているのに、今のこの研究室には、馬鹿げたものが平然と机の上に置いてある。

笑えない。

 

扉の向こうで、金属が擦れる音がした。

小さく、しかし躊躇のない音だった。

誰かがこちらの空気を読まずに入ってくる時の音だ。

2Bの視線が扉へ向き、次の瞬間にはすでに体の重心が移っている。

説明の要らない動きだった。

 

「来る」

俺は短く言った。

 

扉が開く。

外の闇を背負って立っていたのは、ヴァルケンだった。

その後ろに二人。

倉庫で会った連中より足取りが静かで、武器を見せびらかす趣味もない。

面倒なのは、だいたいこういう手合いだ。

 

「完成したか」

ヴァルケンは装置を見て言った。

声音は低いが、怒気で押すつもりはないらしい。

その静けさがかえってうるさい。

自分の言葉に確信がある人間の声だ。

 

「お祝いに来てくれたなら、花でも持ってくるべきだったな」

俺は口元だけで笑う。

「手ぶらは印象が悪い」

 

「軽口で包める段階は過ぎた」

ヴァルケンの目が、俺ではなく紅莉栖へ向いた。

「装置を止めろ。今なら、歪みは局所で済む」

 

紅莉栖は一歩前へ出た。

白衣の裾が、床に散ったガラス片をかすかに擦る。

「観測は成功したわ。止める理由にはならない」

 

「成功したから言っている」

ヴァルケンの返答は速かった。

「未来は知識じゃない。刃だ。持った時点で振るわれる」

 

紅莉栖は笑わなかった。

ただ、モニターの光を背に受けたまま、まっすぐヴァルケンを見た。

「刃なら、持つ人間を選ぶだけよ。危険だから手放せなんて、研究室では子供の言い訳にしかならない」

 

その言葉を聞いて、ヴァルケンの後ろにいた一人がわずかに動いた。

引き金に指がかかったのが見える。

会話はまだ続いているのに、先に手を出す癖がある。

そういう連中は、たいてい生き方がせっかちだ。

 

「2B」

俺が呼ぶより先に、黒い影が動いていた。

 

「排除します」

 

剣が閃いたというより、室内の光の流れが一瞬だけ変わった。

短い衝突音が二つ。

窓際へ飛び退いた一人の銃が床へ滑り、もう一人はヴァルケンを庇う位置へ退く。

戦闘と呼ぶには短く、でも互いの生き方は十分に出た。

向こうは壊して奪うために動く。

こちらは守るために刃を抜く。

速さは似ていても、刃の重さは違う。

 

ヴァルケンはそこで初めて、2Bの方を見た。

「まだ接続したままか」

 

「観測継続中です」

2Bは答える。

短いが、その言葉の奥で何かを見続けている気配が濃くなる。

 

「切り離せ」

ヴァルケンは紅莉栖へ言った。

「その個体が見ているのは未来じゃない。未来に裂け目を作る過程だ」

 

紅莉栖は即答しなかった。

モニターを見る。

2Bを見る。

それから、装置の中心で脈打つ光を見る。

科学者の迷い方だった。

感情で揺れるんじゃない。

可能性の数が増えすぎて、一番重い答えを選びかねている。

 

俺はその横顔を見て、妙に腹が据わった。

未来を変えるかどうか。

そんな大げさな問いは、俺には似合わない。

だが、目の前で誰かが自分の役割を背負いすぎている時に、知らん顔を決め込むほど器用でもない。

 

「紅莉栖」

呼ぶ。

「こいつは観測装置だ。時間旅行の切符じゃない」

 

紅莉栖の視線がこちらへ向く。

その目の熱はまだ消えていない。

消えていないから、言わなきゃいけないことがある。

 

「見えた未来を全部、今ここで使う必要はない」

ゆっくり言う。

「選べるって分かっただけで十分だ。選ばないって選択肢も、未来には入るだろ」

 

ヴァルケンがわずかに眉を動かした。

紅莉栖はしばらく黙り、次に小さく息を吐いた。

諦めたんじゃない。

熱を、いったん掌の中に戻しただけだ。

 

「……観測モードを固定する」

紅莉栖が装置へ向き直る。

「干渉は最小限に落とす。未来は残すけど、こちらからは踏み込まない」

 

「賢明だ」

ヴァルケンが言う。

だが、その声は勝者のものではない。

止め切れなかった相手を前にした時の、苦い納得だ。

 

「勘違いしないで」

紅莉栖は振り返らないまま言った。

「やめるんじゃないの。今は、使わないだけよ」

 

アリシアが通信越しに、短く笑った。

「その言い方、好きじゃないけど嫌いでもないわ」

 

研究室の空気が少しだけ緩む。

緩んだところへ、2Bの声が落ちた。

 

「未来ログ、安定化」

ほんの間を置いて続ける。

「観測継続、可能です」

 

俺は装置を見る。

量子コアの光はさっきまでの荒れた脈動を失い、深い水の底みたいな静けさで灯っていた。

派手さはない。

だからこそ、余計に厄介だ。

本当に危ないものは、だいたい静かだ。

 

ヴァルケンはそれ以上踏み込まず、退くように一歩だけ下がった。

扉の向こうの闇が、また彼の背を飲み込んでいく。

 

「次は止める」

去り際に、ヴァルケンはそう言った。

敵の言葉だった。

最後まで、あいつは敵のままなのだろう。

それでいい。

綺麗に分かり合える相手ばかりなら、こんな装置は最初から要らない。

 

扉が閉まり、静けさが戻る。

完全な静寂ではない。

装置の光があり、2Bの観測が続き、回線の向こうではアリシアが都市の時計の乱れを追っている。

世界はもう、元の夜に戻っていない。

ただ大騒ぎをやめて、静かに狂い始めただけだ。

 

紅莉栖がモニターに残ったログを見つめる。

未来の断片は線じゃなく、いくつもの薄い層になって保存されていた。

触れれば崩れそうなのに、消えない。

証拠としてそこにある。

 

「残ったわね」

紅莉栖が言う。

 

「何がだ」

俺は聞く。

 

「未来が」

彼女は答える。

「変えられる可能性ごと」

 

俺はそれに返さず、ログの波形を見る。

小さく揺れ続ける線は、止まったように見えて、ほんの少しずつ形を変えていた。

誰も装置に触れていないのに、変わり続けている。

未来はじっとしていない。

こちらが手を伸ばさなくても、向こうから勝手に形を変える。

厄介で、救いでもある性質だ。

 

窓の外では、夜明け前の街がまだ暗いまま横たわっている。

だが、あの暗がりのどこかで、観測された明日がもう歩き始めているのかもしれない。

足音は聞こえない。

聞こえないからこそ、たぶん確かだ。

 

モニターの端に残った未来ログが、何の前触れもなく一行だけ更新される。

誰も触っていない。

それでも、新しい可能性がそこへ書き足される。

 

俺は笑うでもなく、ため息をつくでもなく、その変化を見ていた。

静かな研究室の真ん中で、完成した観測装置は何も言わずに光っている。

未来を運ぶんじゃない。

ただ、そこにある未来の形が変わり続けることを、見せ続けている。

 

物語はここで閉じる。

だが、未来はたぶん、ここから先も勝手に続いていく。




本編『ゴエティア・●ックス』を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

この物語は、退廃した都市の片隅で生きる運び屋――ゲンマの視点から始まりました。
巨大な組織や世界の理屈に振り回されながらも、彼はただ次の仕事を運び、次の夜を生き延びるために歩き続ける男です。サイバーパンクという荒れた世界の中で、彼の生き方は派手な英雄譚ではなく、どこか泥臭くて現実的なものとして描きたいと考えていました。

そして、その隣に立つのがアリシアです。
電脳魔導師という肩書きを持つ彼女は、冷静な頭脳と芝居がかった言葉を武器に、この世界の裏側を軽やかに歩く人物です。ゲンマが「現場」で状況を動かす男なら、アリシアは「舞台」を組み替える存在と言えるでしょう。この二人が並ぶことで、荒廃した都市の出来事はただの事件ではなく、少しだけ奇妙で、少しだけ皮肉の効いた物語へと変わっていきました。

サイバーパンクという世界観は、機械や電脳の技術が発達した未来を描きながらも、そこに生きる人間の選択や欲望を強く映し出します。
情報があふれ、監視が張り巡らされ、都市そのものが巨大な機械のように動く世界。その中でゲンマやアリシアのような存在は、ほんの小さな歯車に過ぎないかもしれません。それでも彼らは、自分の選択で進む道を決めようとします。

今回の物語は一つの区切りを迎えましたが、世界そのものが静かに終わることはありません。
ネオンに照らされた夜の街では、今日もどこかで新しい依頼が生まれ、誰かがそれを運び、別の誰かがその裏側を覗いているはずです。ゲンマとアリシアの物語も、きっとそのどこかで続いていくのでしょう。

ここまで読んでくださったことに、心から感謝を。
またどこかの街角で、別の運び屋の話をお届けできる日を楽しみにしています。
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