「……この先が中心部よ」
アリシアの声が低く沈む。廃工場の奥、かつて芸術家の作品保管庫だったであろう地下への鉄扉が軋む音を立てて開いた。その隙間から漏れるのは人工照明の鈍い光――いや、光というより熱の淀みだ。血の匂いと消毒液が混ざり、噎せ返るほどに甘ったるい。
「まるで獣の巣穴だな」
「詩人ぶるのは後にしなさい。……来た」
扉の向こうは改造された地下牢。鉄格子の並ぶ通路の壁には旧式のモニターが血糊で曇り、蠢く赤い波形が捕虜の生体反応を示している。その一つ――一番奥の房。冷たい蛍光灯の下に裸足で跪く老人の背中が見える。首輪と両手枷から伸びた鎖が、拷問台の支柱へ無慈悲に繋がれていた。
「……っ!」
アリシアの喉が微かに鳴る。彼女が視線を逸らしたのはほんの一瞬だったが、俺には十分すぎた。彼女の青い瞳の奥に燃える憤怒が、氷のような平静の仮面を焼き切ろうとしているのが見て取れたからだ。
「お前のデータ通りだ。見せつけるつもりだぜ? “抵抗すればこうなる”ってな」
「……冗談じゃないわ。急ぎましょう」
アリシアが歩幅を大きく取る。踏み込む足音が無機質な石畳に反響し、そのたびに老人の背筋が怯えるように震えた。――これが本当の意味での「人体展示」か。退廃的な芸術都市ならではの悪趣味極まりない陳列だ。
「助けに来たぞ」
俺は声を落とさず言い放った。近くの衛兵二人が慌てて銃を構えたが、
「邪魔」
アリシアの電脳接続が光速で走る。兵士たちの網膜ユニットにノイズが走り、痙攣と共に崩れ落ちた。倒れた体から流れ出る電子制御麻酔剤の注入痕――非致死性とはいえ容赦はない。
「ゲンマ!」
「了解」
量子ストレージから小型のプラズマナイフを取り出し、鎖の継ぎ目を灼き切る。白煙が立ち昇る中、アリシアが老人の背中に駆け寄り抱き起こした。
「……大丈夫ですか」
声は震えていた。だが老人は苦痛の呻きひとつ漏らさず、かすれた声でこう言った。
「娘に……どうか……これを――」
ポケットを探り出したのはUSBメモリ型のコイル媒体。おそらくは研究データだ。アリシアはそれを受け取り、唇を噛む。
「分かりました。必ず届けます」
「おい、脱出だ。長居は禁物だぜ」
俺が促すとアリシアは老人を背負い直した。意外としっかりした背中だ。華奢な体型からは想像できない安定感に少しだけ驚く。
「私が運ぶわ。あなたは出口を確保して」
「……了解。姫君の仰せのままに」
茶化すと彼女は小さく笑った。痛みを堪えた笑みだったが、そこには確かに希望の色が宿っていた。
「逃げるのが目的。戦闘は避けるわよ」
「承知した。――行こうか」
足元には割れた試験管と拘束器具の残骸。血と硝煙の混じった臭気の中で、俺たちは固い結束を確認しつつ地上を目指した。
「ゲンマ」
アリシアが呼びかける声は普段より一段低く、抑揚を削ぎ落とした刃のような響きを持っていた。
「ああ」
短く応じながら視線だけを送る。
彼女は囚われていた父親の側にしゃがみ込み、その細く骨ばった背中にそっと触れていた。――俺にとっても初めて見る光景だ。アリシアがこんな風に他人の肉体に直接触れることはほとんどない。ましてや涙を堪えながらの介抱など、想像の外だった。
「怪我の程度は?」
訊ねると彼女は答える前に頷きだけで肯定した。酷い有様だ。背中の革鎧がほぼ全壊し、露出した肌には深々と鞭痕が刻まれている。皮膚が裂けた部分から紫がかった腫れが広がり、血と膿が混じった粘液が糸を引いていた。
「応急処置だけでもしないと……」
アリシアが呟く。彼女の指先がそっと背中をなぞるたびに、父親の喉から苦悶の吐息が洩れた。その痛みを共有するかのように、アリシアの顔も歪む。
「任せてくれ」
俺は量子ストレージを開き、携帯医療パッドと止血ジェルを次々と取り出した。ここまでの潜入準備はすべてこの時のためと言ってもいい。彼女が探し続けていた父親――カレンの親友の父にして“未完成理論”を託された科学者。その命を今ここで無駄にするわけにはいかない。
「まずは傷口を洗浄するぞ」
水筒代わりの小型タンクから消毒液を注ぎ、患部へ少量ずつ流し込む。液体が触れた瞬間、老人の体が弓なりに反った。
「大丈夫……すぐ治りますから」
アリシアの声は母親のような慈愛に満ちていた。その手が父親の頬に触れると、蒼白だった顔にわずかな血色が戻る。
「ありがとう……」
嗄れた声で父親が感謝を述べた。目尻には涙の粒が光る。アリシアはそれを指先で拭い取り、かすかに微笑んだ。
「帰りましょう」
俺は医療パッドを背中に押し当てながら言った。
「おい、俺にも一言くらい感謝してくれよ?」
茶化すと彼女は軽く睨んできたが、その瞳にはもう先程までの悲愴感はなかった。
「……助かったわ。改めて言うわね」
「よし。じゃあ立て直すぞ。逃げ道は?」
アリシアは無言で天井を指さした。監視カメラの死角になっている排気ダクトだ。
「あそこに繋がる隔壁を破れば上層階へ戻れるわ」
「了解。任せとけ」
量子ストレージから指向性爆薬を取り出し、正確に座標を設定する。後はタイミングを見計らって起爆させるだけだ。
「行くぞ。皆一緒に帰るんだ」