隔壁が、ため息のような微かな破裂音を残して口を開いた。爆薬は指向性に調整してあるためほとんど音は外へ漏れない。壁面の一部が紙細工のように剥がれ落ち、わずかに外気が流れ込む。
「行くぞ。音は殺せよ」
俺が囁くと、アリシアは父親の体を背負い、静かに頷いた。彼女の瞳に宿るのは決意でも怒りでもない。もっと冷たい、しかし折れない意思の光だ。
踏み出した一歩は驚くほど滑らかだった。濡れた靴裏が床をすべる予感すらない。まるでこの道を前もって知っていたかのように歩幅が一定で、重心移動に無駄がない。
俺が前に立ち、量子ストレージから静音スプレーを散布する。通路に残った血の膜が化学反応により音を吸う膜状へ変質し、俺たちの足音は闇に溶けた。
「監視網、フリーズさせるわ」
アリシアが短く告げた瞬間、空気が一瞬だけ張りつめた。彼女は目を閉じている。外部端末もケーブルもない。ただ瞼の裏側だけで世界を制御しているような神秘的な静寂。
次の瞬間、通路奥にあった監視カメラが一拍だけ揺れ、すぐ元の角度に戻った。
「……今のは?」
「映像を数秒ループさせたわ。私たちは“いなかった”ことになってる」
軽く言うが、やっていることの規模はとんでもない。
この地下全体の視覚監視を、たった一人で騙し続けているというのだから。
俺たちは薄暗い廊下を滑るように進んだ。上階へ続く鉄製の階段にたどり着くまで、誰一人として俺たちの影に触れない。
その途中、巡回兵の足音が近づいてくる。
アリシアがわずかに息を飲んだ。
「こっちへ来る……迂回は無理」
「任せろ」
俺は即座に光学遮断膜を広げ、三人ごと影に包み込む。
巡回兵の光源が壁に揺れ、足音が一歩ずつ迫る。
すぐ近くを通りすぎた瞬間――俺たちの前の空気が揺れ、兵士のマスクに別のルートの地図が表示される。
アリシアが、兵士の網膜ユニットに“虚偽の任務”を書き換えたのだ。
兵士は迷うことなく踵を返し、逆方向へ走り去っていった。
「……助かった」
「私より緊張してるじゃない、ゲンマ」
「いやいや、目を閉じてハッキングする奴が言う台詞じゃねぇよ」
思わず口に出た冗談に、アリシアは小さく笑った。
それはほんの一瞬で、すぐに戦闘前の無表情へ戻ったが、それだけでも十分だ。彼女の緊張が少しだけほぐれた証拠だからだ。
階段を駆け上がり、地上へ続く耐熱扉の前まで来る。
ここを抜ければ、ほぼ脱出成功と言っていい。
「……行ける?」
「行くわ」
アリシアは父親の位置を背中で調整し、静かに構えた。
俺はドアノブに手をかけ、小さく合図する。
「……今だ」
外気が一気に流れ込む。
雨の匂いがする。
生きた空気だ。
その瞬間、俺たちは暗い通路から地上へ飛び出した。
ここまで、一度も敵に見つかっていない。
完璧なステルス脱出だ。
しかし、アリシアが顔を上げたとき、俺は気づいた。
彼女の眉が、かすかに震えている。
「……いやな予感がするわ」
「俺もだ」
次の瞬間、遠くで警報灯が赤く点滅した。
アリシアのハッキングで“90秒遅らせたはずの警報”が──
まだ60秒も残っているはずの警報が。
「嘘……ありえない、誰かが逆算して……!」
「追っ手が来るぞ、アリシア!」
俺たちは即座に身構えた。
安全な脱出はもう終わりだ。
ここから先は、静かには行かせてもらえない。
武装兵とドローンが空を裂き、俺達を追うように迫る。
「……ゲンマ」
「わかってる。戦うぞ」
「ええ。背中、任せたわ」
「お前の背中は高く売れるからな。傷つけられねぇよ」
一瞬だけアリシアが笑い、次の瞬間には表情が鋭く切り替わる。
雨が、戦闘の舞台を開くように地面を叩く。
「アリシア、先に親父さんを逃がす。俺が用意してた“非常手段”を使うぞ」
「非常手段……? まさか、走って逃がすつもりじゃないでしょうね」
「まさか。もっと速い」
俺は量子ストレージに手を差し込み、空間の“継ぎ目”を掴むようにして引き裂いた。
そこから、黒光りする車体がぬるりと押し出される。
場違いにもほどがあるソリッドフレームのスポーツカーだ。
「……は?」
アリシアの声が完全に素だった。
車は床に着地する前に自動でサスペンションを展開し、無音で姿勢を整える。
その挙動は、まるで物理法則を質問すらしていない。
「ちょっと待って。あなた、今どこから車を取り出したの? 空間の体積どうなってるの? 四次元収納なの? それとも質量無視の違法転送?」
「企業秘密だって言ってるだろ。乗せるぞ」
俺は父親を後部シートに押し込み、シートベルトを自動固定させる。
AIが即座に状態をスキャンし、最適な振動吸収モードへ移行した。
「……脱出ルート、設定完了。自動運転に切り替える」
車体前面のライトが青く点滅し、次の瞬間、車は瞬間加速で視界から消えた。
爆発したんじゃなく、本当に“消えた”と言っていいほどの速度で。
アリシアは額に手を当て、深くため息をついた。
「……ゲンマ。あなたのストレージと物理学の教科書、一度ゆっくり対話させた方がいいわ。絶対に友達になれないから」
「仲良くしてくれよ。俺だってギリギリ合法のつもりなんだ」
「その“つもり”が一番危ないのよ……!」
呆れ声の裏に、わずかな安心が混じっていた。
護衛対象が無事に離脱した――
これで、心置きなく戦えるというわけだ。
「さぁ、ゲンマ。本番よ」
「おう。暴れてやろうぜ」
追撃の足音が近づいてくる。しかしアリシアは焦らない。戦場の只中で、彼女だけが温度のない思考で世界を切り分ける。
「まず状況整理。敵は三方向から接近。上層からのドローン六機、地上から突撃兵八名。後衛に狙撃ユニットが一つ」
「ずいぶん正確だな。まだ姿も見えてねぇのに」
「心拍と足音の反響で分かるわ。それより急いで。必要なガジェットを伝える」
アリシアは無表情のまま手を伸ばす。
要求は滑らかで、呼吸の合間に紛れるほど自然だった。
「まず音響攪乱グレネード。広域タイプを二つ」
「ほいよ」
量子ストレージから球形デバイスを放り渡す。
アリシアは片手で受け取り、腰のポーチへ機械的な動きで収めた。
「次に光学遮断膜。展開範囲は三メートル、上方向優先」
「了解」
布のように見える黒膜を渡すと、アリシアは一瞥して小さく頷く。
「最後に……電磁パルスの簡易版。出力は低めでいい」
「敵ドローン対策か?」
「ええ。数秒でも動きを止めれば勝機はある。あなたが前で牽制、私が後ろで制圧する形になるわ」
追撃は刻一刻と迫る。それでも彼女の声音は揺れない。
アリシア・アークライトという女は、恐怖を感じるより前に“戦術”へ落とし込む。
「……準備完了。ゲンマ、あなたは?」
「とっくに出来てる。相棒を待ってただけだ」
アリシアは一瞬だけ目を細め、わずかに微笑んだ。
「なら行くわよ。――反撃開始」
突撃兵の影が雨の向こうで揺れた。銃口の光がちらつく。距離は二十五メートル。奴らのブーツが水たまりを踏むたび、鋭い音が跳ね返る。
「じゃ、アリシア。前、頼んだ」
「……本気で言ってるの? 女の子を盾にするつもり?」
「違う違う。お前の方が強いだけだろ」
「もっと言い方あるでしょ、それ」
皮肉めいた声と同時に、アリシアの足が地面を蹴る。
疾走というより“滑空”だ。雨粒の隙間を縫って前方へ飛び出し、敵兵の真正面へ滑り込む。
「接敵!」
俺は音響攪乱グレネードを投げ、アリシアの進行方向とは逆側に投下した。
爆発音の代わりに、空気を震わせる低周波が鳴り響く。
敵兵の動きが一瞬だけ鈍る。
「ナイス。助かるわ」
アリシアはその隙を逃さず、兵士の懐に滑り込んだ。
掌底打ちが一人の胸装甲を潰し、反転して足払い、倒れた兵士の銃を蹴り上げてそのまま別兵へ叩きつける。
(あいかわらず無駄のない動きだ……)
だが敵はまだ終わらない。
背後からドローン三機が彼女を囲むように姿勢を低くした。
「アリシア、上!」
「分かってる!」
彼女の声と同時に、俺は電磁パルスを展開。
空気がバチ、と裂け、三機のドローンが一斉に痙攣するように落下した。
「助かったわ。後で褒めてあげる」
「褒める前に感謝じゃないのか?」
「感謝すると調子に乗るでしょ?」
「よく分かってんじゃねーか」
軽口を叩いている間にも、敵兵は二名が側面へ回り込んでいた。
アリシアの視界が一瞬そちらへ向く。
だが、その視線の先にいるのはもう一人――背後から迫る狙撃手だ。
「アリシア伏せろ!」
俺の声より早く、銃弾が空気を裂いた。
アリシアは直感だけで身を翻し、ギリギリで致命傷を避ける。
だが直後、別の兵が死角から彼女へ突進した。
(まずい──!)
俺は瞬時に量子ストレージへ手を突っ込み、小型の粘着式スタンボムを取り出した。
アリシアの腰の高さを狙って投げる。
「アリシア、左へ!」
「!」
彼女が滑るように横へ跳ぶ。
直後、スタンボムが敵兵の胸部に貼りつき、青白い火花を散らしながら爆発。
兵士は仰け反って地面に沈む。
「……助かった」
「感謝したな? いま“助かった”って言ったぞ?」
「言ってないわ。……半分くらいは言ったかもしれないけど」
そんなやり取りをしながらも、アリシアはすでに次のターゲットへ向かっていた。
残る突撃兵は三名。
俺は光学遮断膜を展開し、視界誘導を操作する。
膜が生み出した“反射の死角”を抜け、アリシアは兵士の背後へ迫る。
「後ろよ!」
一人の兵士が気づき、銃を向ける。
だが間に合わない。
アリシアの踵が顎を跳ね上げ、同時に肘がもう一人の喉を潰す。
三人目が反応する前に、俺の投げたフラッシュガムが視界を奪い、アリシアが一撃で沈めた。
雨の中、彼女の長い金髪がしぶきを払う。
呼吸はわずかに荒いが、まだ動ける。
「……ゲンマ」
「ん?」
「あなた、後ろ!」
俺の背中で甲高い警告音が鳴った。
振り向けば、先ほど落としたはずのドローンの一機が完全起動。
照準はまっすぐ俺へ向けられている。
(やべ──)
引き金が光るより早く、アリシアの身体が俺に飛び込んだ。
腕が俺の胸を押し、彼女自身の体を盾にするように押し倒す。
弾丸は俺の頭上をかすめ、背後の壁に穴を開けた。
「……危なかったわね」
その声は、叱るようで、震えていた。
「お前……俺を庇うなよ。前衛だろ」
「ふん。後衛が撃たれたら前衛が困るでしょ」
その理屈はむちゃくちゃだ。
だが、悪くなかった。
「仕方ないわね。まだ来る。立ちなさい、ゲンマ」
「はいはい。相棒に助けられてばっかじゃ格好つかねぇな」
「そこは否定してあげるべきなのかしら?」
雨音のなか、ふたりは再び背中合わせに構えた。
戦いはまだ続く。
だが、互いがいるなら――恐怖は敵にならない。
雨脚がさらに強まる。
視界の端で、敵残党が一人、腰に装着した奇妙な筒を取り出した。
銃ではない。化学兵器の投射器だ。
「アリシア、下がれ!」
「なに──?」
警告は遅れた。
筒の先端から、紫がかった煙が噴きつける。
風向きが悪かった。煙は雨と混ざり、アリシアの正面へ流れ込む。
「っ……!」
吸ったわけではない。それでも皮膚を通して浸透する類の薬剤だとすぐ分かった。
アリシアの肩が、ほんの一秒で強張り、その直後、逆にふっと力が抜ける。
「アリシア!」
「……だい、じょう……だと……思う……」
思ってないだろ、それ。
彼女の瞳がわずかに潤み、焦点が合ったりぼやけたりする。呼吸が浅く、体幹のバランスが乱れている。
“媚薬”と呼ぶにしては危険すぎる。これ、明らかに戦闘員を無力化するための抑制剤だ。
敵はそれを理解していた。
アリシアの攻撃力が落ちた瞬間を狙い、三人が同時に距離を詰めてくる。
(まずい──狙いは完全にアリシアだ)
俺は咄嗟に地面を蹴った。
アリシアの腰を掴み、彼女の体ごと後方へ引き寄せる。
「……っ!? ゲンマ、離──」
「暴れるな! 今動いたら倒れるぞ!」
アリシアの体温が急に上がっている。
呼吸も荒い。今の状態で戦えるはずがない。
敵の銃口がこちらへ向く。
俺は煙幕を投げ、白い壁を作ると同時にアリシアの足を抱え上げた。
「え、ちょ、何して──」
「戦場で倒れる奴は全員こうやって運ぶんだよ! 文句は後だ!」
アリシアの手が俺の胸を弱く押す。
だが力はない。
いつもの冷静さはすでに霧散しており、触れた指先が熱で震えている。
「……ゲンマ……頭が、回らない……」
「分かってる。原因はあの煙だ。少なくとも、解毒までは前線に立つな」
アリシアの息が首元にかかる。
濡れた髪が俺の腕に張りつき、いつもなら鋭い視線も今は揺れている。
「ほら、しっかり掴まれ。落ちたら俺が困る」
「……言い方……」
「いいから黙ってろ、相棒」
煙幕が晴れる前に、俺はアリシアを抱えたまま近くの廃資材置き場へ飛び込んだ。
降りしきる雨が鉄板を叩き、敵の足音はすぐ後ろまで迫っている。
「ゲンマ……わたし……足が……」
「歩かなくていい。今は俺が動く」
背後で銃火が弾け、火花が散る。
敵の追撃が本格的に始まった。
俺はアリシアをしっかり抱え直し、彼女の頭が揺れないよう肩に固定する。
「絶対に捕まらねぇぞ。
お前は俺が連れて帰る。──どんな状態でもな」
アリシアは微かに頷いた。
震えた指先が、俺の胸元を掴む。
「……お願い……ゲンマ……」
「ああ、任せろ。暴走ガジェットも、狂った化学兵器も、全部まとめて相手してやる」
雨の闇を裂くように、俺は走り出した。
雨の粒が皮膚に鉛のように叩きつける。
アリシアを抱えたまま廃材の山を飛び越え、俺は裏路地へ転がり込んだ。
だが敵の足音はすぐそこまで迫ってくる。
「ゲンマ……敵、五……いえ、六……」
アリシアが俺の肩に額を預けながらかすれた声を絞り出す。
状態異常のせいで視界が揺れ、呼吸も浅い。
それでも戦況把握だけはぎりぎりこなすあたり、やはり化物だ。
「了解。後方六ってことだな。よし……」
俺は量子ストレージを開き、全力で走りながら小型装置をいくつも取り出す。
追われている最中に手を伸ばし、装置を路地へ放り投げる。
一機目――跳躍罠(スプリング・スパイク)。
踏んだ瞬間にバネが爆ぜ、敵を跳ね飛ばす機構。
敵のブーツが触れた瞬間、鈍い破裂音が響き、悲鳴が上がった。
二機目――光学散乱膜(ミラーブレイカー)。
撒布された膜が雨に当たり、斜光反射で敵の視界を乱す。
後ろから怒号が響いた。
「視界が……ッ! くそっ、どこへ行った!」
三機目――即席フェロモンスモーク。
獣型監視ドローンを誤誘導するための香料混ぜ。
後方でドローン同士が衝突する金属音が響く。
アリシアが腕の中で小さく笑った。
「逃げながら罠を張るなんて……あなた、本当に調達屋なの?」
「職業は“何でも屋”なんだよ! あとで履歴書見せてやるよ!」
「履歴書……あるの……?」
「ああ。真っ白のやつがな!」
アリシアがふっと笑う。
苦しい状況でもその笑みを見るだけで、足が一段と速くなる気がした。
だが敵はまだ追ってくる。
雨で罠の効果が薄れ、重装備の兵士たちが平然と距離を詰めてくる。
「くそ、タフだな……!」
「……ゲンマ、左の建物。細い路地がある……そこなら……」
「助かる、ナビは任せた!」
アリシアの指し示した路地へ飛び込み、俺は角を曲がる瞬間に閃光地雷を投げつけた。
白光が雨粒を逆光で照らし、後方の兵士が次々に目を押さえて倒れ込む。
「よし、いける……!」
そう思った瞬間、
「……ゲンマ、前!」
アリシアの声で意識が前へ跳ねた。
路地奥から別部隊が現れ、銃口をこちらに向けている。
「挟み撃ちかよ!」
避ける時間はない。アリシアを抱えたままではなおさらだ。
俺は咄嗟に自分のコートを引き裂き、内側の反射布シールドを展開した。
遮蔽の膜が空中に広がり、銃弾が弾け飛ぶ。
「くっ……! シールド保たねぇ……!」
「ゲンマ……そこ、後ろから抜け道……!」
「ナイス!」
俺は布シールドを押しつけるように敵へ投げつけ、その衝撃で生まれた一瞬の視界遮断を利用して路地壁の亀裂へ飛び込んだ。
狭すぎる通路だ。アリシアを抱えていなければ通れない。
背中で銃弾が石壁に食い込む音が響く。
「……大丈夫……?」
「お前を落としたら俺が死ぬわ! しっかり掴まってろ!」
アリシアの指が俺の胸元を握る。
少しだけ熱が引いたのか、呼吸がまともになってきた。
しかし敵はまだ追ってくる。
狭い通路向こうで、金属を割る破砕音がした。
(このままじゃ捕まる……だが──)
出口まであと十数メートル。
そこで迎撃すればまだ勝機はある。
「アリシア、もう少しで安全圏だ。解毒が効くまで、俺が全部やる」
「……ええ。だけど……無茶は……しないで」
「こんなの無茶の内に入らねぇよ!」
俺は彼女を抱え直し、暗い通路を突き進んだ。
雨音が遠ざかり、代わりに敵の靴音が鋭く響く。
走れ。
逃げろ。
生き延びろ。
アリシアを守るためなら、俺はあらゆる罠を持っている。
そしてその全てを、これからぶちまけるつもりだ。
狭い通路を抜けた瞬間、雨に濡れた広場へ飛び出した。
背後から迫る敵部隊の足音はもう間近。
アリシアを抱えたままでは速度が落ちる――それでも、離すという選択肢は微塵もなかった。
「……ゲンマ、来る……っ」
「ああ。ここで迎え撃つ」
俺はアリシアの身体を腕の中で支えながら、量子ストレージに手を突っ込む。
空間の奥底から、隠していた“本命の武装”が手に吸い寄せられるように出てきた。
掌ほどの大きさだが、中身は小型の戦争兵器そのもの。
コードネームは《オーバードライブ・ノード》。
「ちょっと……それ、本気で使うの……?」
「今が本気出さずにいつ出すんだよ」
俺はノードを地面に叩きつけた。
瞬間、地表に青白い幾何学模様が走り、円形の防御フィールドが展開する。
敵兵が広場へ飛び込んだ瞬間、フィールドが自動発射弾を弾き返し、火花が散った。
「な……何だ、この壁は!?」
「ゲンマ……これ、軍用レベル……」
「企業秘密としか言えねぇな!」
アリシアを左腕で抱えたまま、俺は右腕をフィールド外へ伸ばし、ドローンに狙いをつける。
取り出したのは、携行型の偏光レーザーリボルバー。
雨粒を蒸発させながら、照準線が真っ直ぐ敵を貫く。
「寝てろ!」
引き金と同時、青い光弾が放たれ、ドローン三機が一斉に爆散した。
破片が雨に飲まれながら落下し、敵兵が慌てて後退する。
「アリシア、敵の動き……」
「上から二名、左の遮蔽物から三名……ええ、あなたの撃ち抜くタイミングは完璧よ」
「よし、なら……!」
俺は彼女の指示に合わせ、ビル壁に仕掛けておいた“貼り付け式爆裂罠”を遠隔起動した。
敵がその真横を通り抜けようとした瞬間――
ズガァンッ!
破裂音とともに衝撃波が走り、敵の隊列が一気に崩れる。
「っ……退け! 戦力が持たない!!」
敵側の指揮官が叫ぶが遅い。
俺はノードの第二機能――迎撃兵装・レイラインカッターを起動した。
広場の地面に走る幾何線が集束し、刀のような光刃が三本せり上がる。
「……え、それ、格好つけすぎじゃない?」
「こういうのは見た目が大事なんだよ!」
光刃は俺の動きに合わせて軌跡を描き、逃げようとする敵の銃を両断していく。
金属破片が雨に散り、敵兵はついに戦意を喪失した。
「撤退だ! これ以上は持たん!!」
残存兵が蜘蛛の子を散らすように退いていく。
薄暗い廃都の一角に、静寂が戻った。
ノードを停止し、光の模様が消える。
俺は大きく息を吐き、腕の中のアリシアへ目を向けた。
「……終わったぞ。アリシア、生きてるか?」
「生きてるわよ……あなた、ほんとに調達屋なの?」
「調達“も”できる何でも屋だよ」
「……ふふ、もう否定できないわね……。あなたがいなかったら私、確実に捕まってた」
アリシアがわずかに微笑む。
状態異常はまだ完全には抜けていないが、気力は戻ってきている。
「よし、そろそろ移動するぞ。この場所もじきに二陣が来る」
「……ええ。抱えていきなさいよ。まだ自分で歩けそうにないから」
「言われなくてもそうする。落ちたら責任取れねぇしな」
「落としたら怒るだけじゃ済まないわよ?」
「了解了解。しっかり掴まってろ、相棒」
俺はアリシアを抱え直し、雨の夜の街へと駆け出した。
崩れゆく廃都の静寂に足音を残しながら、
追手のいない次の安全圏へ向けて――
二人は闇へ溶けるように姿を消した。
戦闘が完全に終わった静寂の中、アリシアの身体が僅かに震えた。
雨で濡れた金髪が頬に貼りつき、蒼い瞳はどこか焦点を失いかけている。
呼吸が浅く、熱を押し殺すように肩が上下していた。
「……アリシア、大丈夫か?」
問いかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
その瞳はふだんの冷徹さではなく、どこか“火照り”を帯びた艶が宿っている。媚薬の影響はまだ抜けきっていない――それが一目で分かった。
「……だいじょうぶ……じゃない、かも……しれないわね……」
ふらりと身体が寄ってくる。
普段は決して近づきすぎないアリシアが、俺の胸元に指を添え、熱に浮かされたように見上げてくる。
雨粒が彼女の唇に沿って滑り、その濡れた光沢が異様なほど色っぽい。
「身体が……勝手に熱くなるの……呼吸が、落ち着かない……」
囁く声は震え、しかし妙に甘い。
媚薬で乱された体温が、触れてもいないのに伝わってくるほど。
「ゲンマ……あなたの声が、近くにほしい……」
その一言で、残っていた理性がわずかに揺らぐ。
アリシアの指先が俺の胸を掴むように滑り、身体を寄せる。
雨に濡れた睫毛が震え、唇が微かに開いた。
――誘うように。
――求めるように。
気づけば、俺は彼女の頬に手を添えていた。
「アリシア……」
その名を呼んだ瞬間、彼女の指が俺の襟元を掴む。
「……キスして……落ち着くから……」
震える唇が触れた。
濡れた熱と甘い呼吸が混ざり合い、世界が一瞬だけ止まった。