※この作品はR-18です。

みにくい魔剣の子IF閑話   作:えいちゃ

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すみません、思ったより話が長くなりそうなので分割させてください……。
アンケート結果通り、風雅をやっていきます。
過去にふたりがなんやかんやあったのは、本編の『ガーデナーと断絶3.4』を呼んでいただければと思います。



風雅の帰擁.1

 

 

 雪は、横殴りに降っていた。

 空も地面も同じ白に潰れ、数十歩先では起伏すら輪郭を失っている。吹き上げられた粉雪が視界を何度も塞ぎ、そのたびに神域の景色は一度消えて、また別の形で現れた。

 リンデンは雪面を強く蹴った。

 

 腕の中には風雅がいる。

 右腕を背へ、左腕を膝裏へ回し、身体をなるべく揺らさないよう抱き上げていた。風雅自身もリンデンの首へ片腕を掛けているが、もう一方の手は腰元から離れない。いつでも剣へ手を伸ばせる姿勢だけは崩していなかった。

 もっとも、その脚で立つことは難しい。

 右腿の外側には、細い穴が二つ開いていた。

 血は多くない。

 それがかえって厄介だった。

 

 神域を支配する魔剣使いによる射撃は肉を大きく破壊せず、必要な箇所だけを正確に穿っていた。一本は大腿部を貫き、もう一本は神経の通る箇所を狙っている。脚そのものを切断するのではなく、自力移動だけを奪うための傷だった。

 その上、風雅は雪の中に倒れていた時間が長い。

 濡れた衣服の下で皮膚温は落ち、撃たれた脚を中心に感覚も鈍くなり始めている。

 

「……リンデン」

 

 風に削られながら、風雅の声が耳へ届いた。

 

「はい」

 

「少し、右へ」

 

 リンデンは問い返さず進路を変えた。

 直後、さきほどまでいた位置を一本の光が貫いた。

 雪面が細く弾ける。

 爆発はしない。

 ただ一直線に穿たれた雪が、そのまま黒く抉れていた。

 

「見えていましたか」

 

「ほんの少しだけ。……穏やかじゃないわね。随分と正確よ」

 

「同感です」

 

 それきり、会話は途切れた。

 風雅の声にはまだ張りがある。

 けれど、彼の襟元を掴む指はときおりわずかに強くなる。撃たれた脚に何かが走るたび、そうして耐えているのだろう。

 リンデンは走る速度を落とさなかった。

 

 止まれば、次が来る。

 敵は殺すつもりなら、最初の一射でそうしていたはずだ。

 脚だけを奪った。

 それはつまり、追いつくまで動けなくしておきたいということだった。

 風雅も何も言わなかった。

 リンデンの腕の中へ身体を預けながら、吹雪の向こうへ目を凝らしている。

 

 昔なら、もっと簡単に声を掛けられた。

 呼び止めることも、指示を出すことも、注意をすることも。

 今は必要なことだけが短く交わされ、その先へ言葉が続かない。

 リンデンもまた、それを無理に繋ごうとはしなかった。

 雪を蹴る音と、浅い呼吸と、風の鳴る音だけが二人の間に残る。

 やがて走り続ける脚が速度を落とした。

 風雅もほぼ同時に顔を上げる。

 

 正面。

 吹雪の向こうに、緩やかに隆起した雪壁があった。

 天然の吹き溜まりに近い。ただし、その奥に岩盤か氷塊があるのか、表面の雪が異様に厚く積み重なっている。

 リンデンは視線を左右へ走らせる。

 開けた雪原。

 追手から身を隠せる遮蔽物はほとんどない。

 そこだけが例外だった。

 

「……あそこへ入ります」

 

 風雅が雪壁を見る。

 

「分かったわ」

 

 それだけだった。

 雪壁へ近づき、足を止める。

 片腕だけで風雅を支え直した。

 空いた手を前へ伸ばす。

 空間がわずかに歪み、そこから一冊の書物が現れた。

 

 グラフロジカ。

 頁がひとりでに開く。

 風に煽られることもなく、透明な紙面に刻まれた構造式だけが淡く光を帯びた。

 リンデンは雪壁を見た。

 表層は柔らかい。

 その奥に圧雪層があり、さらに奥に硬く凍結した古い雪の層がある。

 壊し過ぎれば崩落する。

 浅ければ二人分の空間を確保できない。

 必要なのは、壁そのものを破壊することではない。

 内部だけを崩すこと。

 

「少し揺れます」

 

「ええ」

 

 風雅がリンデンの首へ回した腕へ、静かに力を込めた。

 リンデンの指が式面を滑る。

 式が組み替わる。

 雪と氷に含まれる水分、空隙、密度差。そこへ干渉するための変換式が短い時間で組み上がっていく。

 やがて、雪壁の内部から低い音がした。

 

 ご、と。

 

 何かが潰れたような鈍い音だった。

 表面にはほとんど変化がない。

 グラフロジカを閉じ、そのまま一歩下がった。

 

「掴まっていてください」

 

 風雅は黙って頷いた。

 踏み込む。

 肩から雪壁へ突っ込んだ。

 表面の圧雪だけが割れた。その奥は、先ほどの術式によってすでに脆くなっている。リンデンの身体が雪を押し退けるように沈み、二人まとめて白の内側へ消えた。

 視界が一度、完全に塞がる。

 

 次の瞬間には暗い空間へ抜けた。

 リンデンは膝をつきながら着地し、風雅を抱え直す。

 細かな雪が頭上から降り注いだ。

 風雅の呼吸が一瞬だけ乱れたが、それ以上の声は出なかった。

 

 周囲を確認する。内部は想定より広い。

 二人が横になれる程度の奥行きがあり、天井も低すぎない。天然の空洞に近い部分へ、こちらから穴を繋げたらしい。

 まず風雅を壁際へ座らせた。

 背中が雪壁へ触れないよう、手早く装備の一部を下へ敷く。

 

「ここで待っていてください」

 

「……ええ」

 

 リンデンはすぐに入口へ戻った。

 外から流れ込む風が、狭い穴を通って雪煙を巻き上げている。

 その向こうには白一色の雪原。

 まだ敵の姿は見えない。

 リンデンは入口周辺の雪を掻き寄せ、表面を崩していく。完全に塞ぐのではない。空気と視界を確保するための細い隙間だけを残し、外側から見れば自然な吹き溜まりにしか見えない形へ整えていく。

 

 最後にもう一度グラフロジカを開いた。

 入口周囲の雪だけを軽く固める。

 崩落防止と同時に、外側の形状を乱さない程度に固定する。

 光が消えた。

 雪洞の中が静かになる。

 外の吹雪はまだ聞こえている。

 しかし先ほどまで全身を叩いていた風は届かない。

 

 リンデンは入口の細い隙間からしばらく外を見た。

 白。

 風。

 何もない。

 少なくとも、すぐ近くに追手の姿は見えなかった。

 背後では、衣擦れの小さな音がした。

 振り返ると、風雅は壁際に座ったまま撃たれた脚を伸ばしている。

 顔色は悪い。

 唇からも、普段の血色が少し失われていた。

 目が合う。

 二人とも、すぐには何も言わなかった。

 

「……傷を見ます」

 

 やがてリンデンがそう告げる。

 風雅はほんの少し間を置いてから、

 

「……お願い、するわ」

 

 そう答えた。

 リンデンは彼女の前へ膝をつく。

 雪洞の入口を覆う白の向こうで、風が低く鳴った。

 追手が諦めたとは思えない。

 それでも今だけは、二人の姿は雪の下へ隠れていた。

 

 彼は風雅の前へ膝をついたまま、まず装備のポーチを開いた。

 雪洞の中は薄暗い。

 入口に残した僅かな隙間から白い光が差し込み、吹雪に合わせて明暗を繰り返している。風の音は雪壁を一枚隔てたことで遠くなったが、完全には消えない。低く擦れるような音が、洞の奥まで絶えず届いていた。

 リンデンは携帯灯を取り出し、光量を絞って雪面へ置いた。

 淡い明かりが風雅の脚を照らす。

 

「装備を外します」

 

「……ええ」

 

 風雅は短く答えた。

 リンデンの手が右脚へ伸びる。

 雪と血で濡れた装具の留め具を一つずつ外し、患部を圧迫しないよう慎重にずらしていく。布地が傷口の近くを通るたび、風雅の指が膝の上で微かに曲がった。

 声は出さない。

 ただ、呼吸だけが一度浅くなる。

 リンデンはそこで手を止めた。

 

「痛みますか」

 

「……少し」

 

「どの辺りです」

 

 風雅は一瞬だけ考えるように視線を下げた。

 

「傷そのものより……奥かしら。熱いような、冷たいような……上手く説明できないわね」

 

「分かりました」

 

 リンデンはそれ以上聞かず、再び装具を外した。

 右腿が露わになる。

 射入口は小さい。

 けれど、その周囲は赤黒く腫れ、その先では皮膚の色が不自然に白く抜けていた。雪へ長時間触れていた箇所ほど血色が薄く、触れずとも体温が落ちていることが分かる。

 リンデンの眉がわずかに寄る。

 

「……かなり冷えています」

 

「そうでしょうね」

 

「感覚を確認します」

 

 風雅が頷くのを確認し、リンデンは手袋を外した。

 素手の指先を、まず傷から離れた腿の上部へ軽く触れさせる。

 

「ここは」

 

「分かるわ」

 

 少し下へ。

 

「ここは?」

 

「……ええ」

 

 さらに外側へ移る。

 風雅の視線がリンデンの指を追っていた。

 

「ここ」

 

「分かるけれど……少し鈍いわね」

 

 リンデンは指の位置を変えた。

 今度は膝のすぐ上。

 

「こちらは」

 

 風雅はすぐには答えなかった。

 眉間へ小さく皺が寄る。

 

「……触っている?」

 

「はい」

 

「そう」

 

 風雅の唇が僅かに引き結ばれた。

 

「ほとんど分からないわ」

 

 リンデンは何も言わず、さらに下へ手を移す。

 脛。

 足首。

 指先。

 場所によって反応に大きな差がある。

 あるところでは触れた瞬間に風雅の足指が僅かに動き、別の場所では何度触れても表情一つ変わらない。

 リンデンは足の甲を軽く押した。

 

「これは」

 

「……分からない」

 

 少し強める。

 

「今は?」

 

 風雅の肩が微かに動いた。

 

「今のは……痛い」

 

「位置は分かりますか」

 

「大体は」

 

 リンデンは静かに息を吐いた。

 完全に感覚が失われているわけではない。

 それでも、神経への損傷は明らかだった。

 

「次、少し動かします」

 

「ええ」

 

 リンデンは風雅の踵を支え、もう片方の手で膝を固定した。

 ゆっくりと脚を曲げる。

 

「っ……」

 

 初めて、風雅の口から明確な声が漏れた。

 短い。

 すぐに飲み込まれる。

 けれど膝の上へ置かれていた手が雪を掴み、指先が白くなるほど力が入っている。

 リンデンは即座に止めた。

 

「ここまでですね」

 

「……そうね」

 

 風雅は数度呼吸を整えた。

 痛みが引くまで待ってから、何でもないように口元を緩めようとする。

 

「おだやかじゃないわね。シドウともあろう者が、脚一本でこの有様だなんて」

 

 リンデンはその言葉には乗らなかった。

 

「無理に動かす必要はありません」

 

「……ええ」

 

 返事だけが少し小さくなった。

 リンデンは救急用品を並べていく。

 まず傷口周囲を洗浄する。

 冷え切った皮膚へ液体が触れた瞬間、風雅の腿が微かに震えた。

 

「冷たいですか」

 

「今さら冷たさには驚かないわ」

 

 そう答えた直後、洗浄液が射入口へ触れる。

 

「――っ」

 

 風雅の背中が雪壁から僅かに離れた。

 息が細く詰まる。

 それでも脚を引こうとはしない。

 動かせないのか、耐えているのか。

 その両方だろう。

 リンデンは手を止めず、必要な範囲だけを短時間で処置した。

 

「もう少しです」

 

「……続けて」

 

 風雅の声は少し掠れていた。

 リンデンは傷口を確認しながら、周囲の血液と雪を拭い取る。

 神経を狙った弾道。

 筋肉の損傷そのものは限定的だが、内部で出血している可能性がある。

 止血材を当て、圧を調整する。

 強く押しすぎれば血流をさらに悪化させる。

 弱ければ止まらない。

 風雅の表情を見ながら、少しずつ力を加えた。

 

「……そこ」

 

 風雅が低く言った。

 

「痛みますか」

 

「ええ。そこは、かなり」

 

「分かりました」

 

 リンデンが僅かに位置をずらす。

 その途端、風雅の肩から力が抜けた。

 

「……ありがとう」

 

「いえ」

 

 また沈黙が戻る。

 リンデンの手だけが動いている。

 風雅はしばらく、その手元を見ていた。

 

 傷口。

 包帯。

 リンデンの指。

 そして、その横顔。

 

 何度か口を開きかけた。

 そのたびに何も言わず、視線を落とす。

 リンデンは気づいていたかもしれない。

 けれど、尋ねなかった。

 今度は凍傷の処置へ移っていた。

 急激に温めることは避け、濡れた布を取り除いて乾いた保温材で包んでいく。

 リンデンの手が脛へ触れたとき、風雅の脚が小さく震えた。

 

「痛みですか」

 

「……違うわ」

 

「では」

 

 風雅が少し困ったように目を伏せる。

 

「感覚が戻ってきているだけ。じんじんするの」

 

「痛みが強くなったら言ってください」

 

「分かったわ」

 

 徐々に血が戻り始めるにつれ、最初は何も感じなかった部分へ、細かな刺激が生まれていく。

 風雅はそれを黙って耐えていた。

 時折、足指が僅かに動く。

 脛の筋肉が小さく強張る。

 呼吸が浅くなり、そのたびにゆっくり吐き直す。

 リンデンは触覚を再確認するため、先ほど反応のなかった位置へ指を当てた。

 

「ここは」

 

 風雅の眉が少し動く。

 

「……分かる」

 

「先ほどよりは?」

 

「ええ。今はちゃんと分かるわ」

 

「では、こちら」

 

「それも」

 

 もう一か所。

 

「……そこは少し痛い」

 

「良い反応です」

 

 風雅が僅かに目を細めた。

 

「痛いのに?」

 

「感覚が戻っているという意味では」

 

「そういうものなのね」

 

 言葉がそこで途切れた。

 リンデンは最後の固定を終える。

 傷口を保護し、脚全体を保温材で包み、動かないよう位置を整える。

 

「しばらくこのままでいてください」

 

「ええ」

 

「脚へ体重を掛けるのも避けてください」

 

「分かっているわ」

 

 リンデンは使った器具を片付け始めた。

 風雅はその姿を見ている。

 外では、吹雪が変わらず雪壁を叩いている。

 雪洞の中では、携帯灯の淡い光だけが二人の間に落ちていた。

 

「……リンデン」

 

 風雅が呼んだ。

 リンデンの手が止まる。

 

「はい」

 

 風雅はすぐには続けなかった。

 膝の上へ置いた自分の手を見つめる。

 指先が僅かに動いている。

 

「一つ……聞いてもいいかしら」

 

「何でしょう」

 

 風雅は息を吸った。

 けれど、言葉はなかなか出てこなかった。

 剣を抜く時なら迷わない。

 敵の刃を前にしても、これほど時間は掛からない。

 それなのに、その一言だけが喉の奥へ引っ掛かっている。

 

「……貴方は」

 

 風雅はそこで一度言葉を切った。

 視線を上げる。

 

「まだ、シドウのことを……姉だと思ってくれているのかしら」

 

 リンデンは黙って風雅を見た。

 風雅も目を逸らさない。

 ただ、返事を待つ間だけ、膝の上の指がゆっくり握られていった。

 

「はい」

 

 リンデンは答えた。

 迷いはなかった。

 

「昔も今も、風雅姉さんは私の大切な姉です」

 

 風雅の指が止まった。

 

「それが変わったことは、一度もありません」

 

 雪洞の中に、外の風だけが残る。

 風雅はしばらく何も言わなかった。

 リンデンの顔を見ていた。

 やがて視線を落とす。

 

「……そう」

 

 小さな声だった。

 それ以上は続かなかった。

 リンデンも何も言わない。

 風雅はただ、包帯で覆われた自分の脚へ視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。

 その吐息だけが、先ほどまでより僅かに長かった。

 

 治療を終えたあと、リンデンは雪洞の奥へ簡易シートを広げた。

 薄い素材だったが、雪へ直接身体を預けるよりは幾分かましだった。風雅をそこへ横たえ、負傷した右脚の下へ畳んだ布を差し込んで僅かに高くする。さらに携行用の簡易毛布を広げ、肩口から足先までを覆った。

 

「冷えるようでしたら言ってください」

 

「ええ」

 

 風雅の返事は小さかった。

 リンデンはそれ以上何も言わず、入口近くへ移動する。

 雪壁へ背を預けて座り、片膝を立てた。

 カモフラージュのために残した僅かな隙間へ顔を寄せ、外を窺う。そこから見えるものは、ほとんど白だけだった。風に巻き上げられる粉雪が絶えず視界を横切り、遠方にあるはずの地形まで綺麗に消している。

 

 追手の姿はない。

 だからといって、立ち去ったとは限らなかった。

 リンデンはじっと外を見ている。

 その横顔を、風雅もまた見ていた。

 

 簡易毛布の中で、身体は少しずつ温度を取り戻している。

 右脚にはまだ痛みがある。傷口の奥で鈍い熱が続き、感覚の薄かった場所には遅れて戻ってきた刺激が細く走っていた。

 それでも、先ほどまでとは違っていた。

 脚のことではない。

 胸の奥に長く沈んでいたものが、ほんの少しだけ形を変えている。

 

 ――昔も今も、風雅姉さんは私の大切な姉です。

 

 リンデンの言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

 あまりにも迷いがなかった。

 自分が何年、何十年、あるいはそれ以上の時間をかけても口にできなかった問いへ、リンデンはほとんど間を置かなかった。

 風雅は毛布の中で指を動かした。

 

 自分の胸元に触れる。

 そこに何かあるわけでもない。

 ただ、少し落ち着かない。

 視線を戻す。

 リンデンは変わらず外を見ている。

 その背中は、昔よりずっと大きい。

 当然だった。

 風雅の記憶の中には、まだ幼い頃のリンデンが幾つも残っている。剣を持たせれば手の大きさが足りず、握り方を直すために後ろから包むように手を添えたこともあった。

 

 転べば手を差し出した。

 疲れれば休ませた。

 小さな頃なら、その身体を抱き上げたこともある。

 今は逆だった。

 自分が抱き上げられた。

 吹雪の中を運ばれ、守られ、傷を手当てされた。

 しかもリンデンは、それを特別なことのようには扱わない。

 風雅だから、姉だから。

 それだけで十分なのだと、態度そのものが言っている。

 その事実が、妙に胸を締めつけた。

 

 風雅は一度目を閉じた。

 雪洞の中には、外を流れる風の音と、時折雪が落ちる微かな音だけがある。

 静かだった。

 静かすぎるほどだった。

 その中で、自分の呼吸だけが妙に近く聞こえる。

 少しして、風雅は再び目を開けた。

 

「……ねえ」

 

 声が思っていたより小さく出た。

 リンデンが振り返る。

 

「はい」

 

 風雅はそこで言葉を止めた。

 視線が合う。

 先ほどなら、もう少し簡単に言えたかもしれない。

 けれど今は、何を口にしようとしているのか自分でもよく分かっている。

 

「……リンデン」

 

「何でしょう」

 

 風雅は毛布の端を指で掴んだ。

 少しだけ強く握る。

 

「まだ……少し寒くて」

 

 リンデンが風雅を見る。

 それから毛布へ視線を落とした。

 

「追加の保温材を――」

 

「いえ」

 

 思わず、風雅の声が少し早くなった。

 リンデンの手が止まる。

 風雅は視線を逸らした。

 言ってしまえばいい。

 それだけなのに、妙に言葉が出ない。

 剣の間合いなら、一歩踏み込むことに迷いなどない。

 今は、その一歩が遠かった。

 

「……そうではなくて」

 

 風雅は小さく息を吸った。

 そして、リンデンを見る。

 

「少し……暖めてくれないかしら」

 

 言ったあと、風雅は黙った。

 リンデンもすぐには答えなかった。

 ほんの少し考えるように視線を落とす。

 風雅の胸の奥で、何かが微かに揺れた。

 断られると思ったわけではない。

 けれど、自分からこうして求めること自体が久しぶりだった。

 まして相手がリンデンなら、なおさらだった。

 

「……どうぞ」

 

 やがてリンデンが答えた。

 それだけだった。

 風雅の肩から、ごく僅かに力が抜ける。

 リンデンは入口から少し離れ、雪壁へ背を預け直した。

 両脚を前へ伸ばし、その間に風雅が収まれるだけの空間を作る。

 風雅は身体を起こそうとした。

 

「無理に動かないでください」

 

「これくらいなら――」

 

「脚に負担が掛かります」

 

 リンデンが傍へ寄る。

 片腕を背へ回し、もう片方の手を膝裏へ差し込む。

 また、身体が浮いた。

 風雅は何も言わなかった。

 今度は吹雪の中でも、逃走の最中でもない。

 静かな雪洞の中で、ただ場所を移すためだけに抱かれている。

 そのことが、先ほどよりも妙に意識へ残った。

 

 リンデンは風雅をゆっくり下ろす。

 自分の脚の間へ。

 負傷した右脚を圧迫しないよう位置を整え、左脚も楽な角度へ伸ばす。

 風雅の背中が、リンデンの胸へ触れた。

 そこで一瞬、風雅の呼吸が止まった。

 

「苦しくありませんか」

 

「……大丈夫よ」

 

 声が少し低くなった。

 リンデンは簡易毛布を持ち上げ、二人まとめて包む。

 毛布の内側へ、少しずつ熱が籠もっていく。

 背中越しにリンデンの体温が伝わる。

 風雅の肩の左右には彼の腕があり、その先で毛布の端を整えている。

 腰の外側には、リンデンの脚がある。

 閉じ込められているという感覚はなかった。

 むしろ、その逆だった。

 支えられている。そんな感覚の方が近い。

 風雅はしばらく身体を硬くしていた。

 どこへ手を置けばいいのか分からず、毛布の上で指先だけを動かす。

 

「寒さはどうですか」

 

 頭のすぐ上から声が落ちる。

 

「……少し、ましになったわ」

 

「良かったです」

 

 それだけ。

 リンデンはまた入口へ視線を向ける。

 風雅は胸の中で息を吐いた。

 まったく意識していない。それが少しだけ可笑しくもあり、同時にありがたかった。

 もし妙に気を遣われていたら、きっと耐えられなかった。

 

 風雅は身体の力を少し抜いた。

 背中をリンデンへ預ける。

 最初はほんの僅かに。それでもリンデンが何も言わないことを確かめてから、もう少しだけ。

 後頭部が彼の胸元近くへ触れる。鼓動が聞こえるほどではない。ただ、呼吸に合わせて胸が僅かに動くのが分かる。

 彼女はゆっくりと目を閉じた。

 暖かい。

 単純に、それだけだった。

 なのに、胸の奥へ妙な安心が広がっていく。

 風雅は毛布の中で片手を動かした。

 迷った末、リンデンの腕へ指先を触れさせる。

 ただ触れただけ。

 掴みもしない。

 そのまましばらく動かなかった。

 

 外では吹雪が続いている。

 追手がどこにいるのかも分からない。右脚にはまだ傷があり、すぐに動ける状態でもない。状況だけを見れば、安心できる要素などほとんどなかった。

 それでも風雅は、先ほどより呼吸が楽になっていることに気づいた。

 しばらくして。

 

「……リンデン」

 

 再び、風雅が名前を呼んだ。

 

「はい」

 

 今度の声は近い。

 胸元から直接伝わるようだった。

 風雅は目を開けなかった。

 

「シドウね……」

 

 そこまで言って、一度止まる。

 指先がリンデンの腕へ僅かに触れたまま動く。

 

「貴方を斬ってから……ずっと、不安だったの」

 

 風雅の声は小さく、けれど先ほどまでとは違って、途中で引き返そうとはしなかった。

 リンデンの胸元へ後頭部を預けたまま、毛布の中で彼の腕へ触れている指先をゆっくりと滑らせる。握るでもなく、ただそこにあることを確かめるような動きだった。

 

「ずっと……ね。あの時のことを考えていたわ。シドウが剣を振ったことも、その剣が貴方へ届いてしまったことも、そのあと何も言えないまま離れたことも」

 

 雪洞の外を、長い風が通り過ぎていく。

 入口を覆う雪が微かに震え、薄い光が揺れた。

 リンデンは口を挟まなかった。

 風雅が続けるまで待っていた。

 

「姉だなんて、もう名乗れないと思ったの。貴方を守る側だったはずなのに、シドウ自身が貴方を傷つけてしまったから」

 

 毛布の中で、風雅の指が止まる。

 

「それまでならね、何があっても……少なくとも、貴方の前では姉でいられると思っていたのよ。剣を教えることも、叱ることも、困っていたら手を貸すことも。そういうものを全部、シドウは当然のように持っていた」

 

 僅かに笑おうとした気配だけが、声に混じった。

 

「随分と勝手な話よね。一度間違えただけで、自分から全部捨てておいて……そのくせ、貴方からも姉ではないと思われていたらどうしようなんて、ずっと怖がっていたのだから」

 

 最後の言葉は、少しだけ掠れた。

 風雅は目を閉じたまま、リンデンの胸へほんの僅かに体重を預け直す。

 背中に伝わってくる彼の呼吸は変わらない。

 それがかえって、続きを口にしやすかった。

 

「貴方がいなくなって……一度、本当にいなくなって。それから随分と時間が経って、またこうして戻ってきたでしょう」

 

 風雅はそこで一度、息を止めた。

 

「嬉しかったわ」

 

 その一言だけは、ひどく素直だった。

 

「本当に。……それなのに、いざ貴方を前にしたら、何を言えばいいのか分からなかった。謝るべきなのか、何もなかったように話しかけるべきなのか。昔みたいにリンデンと呼んでいいのかさえ、少し迷ったわ」

 

 リンデンの腕へ置かれていた指が、僅かに強くなる。

 

「だから今日、貴方に抱き上げられた時……驚いたの。シドウは勝手に、もうそんなふうに触れてもらえる関係ではないと思っていたから」

 

 しばらく、風雅は何も言わなかった。

 雪洞の薄暗がりの中で、二人分の呼吸だけが重なっている。

 やがてリンデンが、静かに口を開いた。

 

「……私も、似たようなことを考えていました」

 

 風雅の指が止まった。

 ゆっくりと目を開く。

 

「貴方も?」

 

「はい」

 

 リンデンは入口へ向けていた視線を少し落とした。

 

「姉さんに斬られたことを、私は姉さんだけの問題だとは思っていませんでした」

 

 風雅が小さく眉を寄せる。

 

「リンデン、それは――」

 

「責めているわけではありません」

 

 声は穏やかだった。

 

「むしろ逆です」

 

 リンデンは少し間を置いた。

 

「あの頃の私は、もうかなり……余裕がなくなっていました。それでも自分が家族のそばにいることで、何かだけは守れているつもりだったんです」

 

 言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。

 

「でも、姉さんに斬られた時に思いました。私がここにいるせいで、姉さんたちまで変わってしまったのではないか、と」

 

 風雅が振り返りかけた。

 けれど負傷した脚がある。

 リンデンの腕が身体を支え、無理に捻らないよう静かに留めた。

 

「……そんな」

 

「今なら、違ったと分かります」

 

 リンデンは続けた。

 

「あの時は、そう思えなかっただけです」

 

 風雅は何も言えなかった。

 

「私がいるせいで誰かが傷つく。私がいるせいで、皆さんが今までの皆さんではなくなる。そう考え始めたら……そばにいること自体が怖くなりました」

 

 雪洞の中へ、その言葉が静かに沈んでいく。

 

「だから、姉さんが離れた時も……追いかけられなかったんです」

 

 風雅の唇が僅かに開いた。

 

「姉さんが私を嫌ったから離れたとは、思っていませんでした。ただ、私がそばにいることで、また何かを変えてしまうのなら……離れていた方がいいと」

 

「……リンデン」

 

「それが姉さんだけではなく、皆さんとの距離を取った理由の一つです」

 

 リンデンはそこで言葉を止めた。

 長い時間が流れた。

 実際には、それほど長くなかったのかもしれない。

 けれど風雅には、あの頃から今日まで続いていた時間が、そこで一度すべて立ち止まったように感じられた。

 自分は、自分が彼を傷つけたから離れた。

 リンデンは、自分が彼女たちを変えてしまったと思って離れた。

 どちらも相手を拒んだわけではなかった。

 近づくことが怖くて、互いに同じ方向へ背を向けただけだった。

 

「……罪深いわね」

 

 風雅が呟いた。

 今度はいつもの口癖に、ほとんど冗談の響きがなかった。

 

「本当に」

 

 風雅はゆっくり身体を起こした。

 リンデンが支える。

 負傷した脚を動かさないよう気をつけながら、胸元へ向き直る。

 その時、風雅の視線が止まった。

 リンデンの衣服の隙間から、薄く残った傷痕が覗いている。

 左肩から胸元へ斜めに走る、古い傷。

 見間違えるはずもなかった。

 風雅自身が残したものだった。

 目を逸らそうとして、できなかった。

 

「……まだ、残っているのね」

 

 リンデンが自分の胸元を見る。

 

「これですか」

 

「ええ」

 

 風雅の声が少しだけ硬くなる。

 リンデンは何でもないことのように答えた。

 

「残っていますね」

 

 それだけだった。

 責めるでもなく、隠すでもない。

 風雅はしばらくその傷を見ていた。

 やがて、ゆっくりと手を上げる。

 

「……触れても?」

 

 リンデンは風雅を見た。

 

「どうぞ」

 

 風雅の指先が、胸元へ触れた。

 衣服の隙間から覗く傷痕を、一本の指でそっと辿る。

 肩口から。

 斜めに。

 胸へ。

 剣を振った時の軌道を、指先でもう一度なぞるように。

 あの時とは違って、力などほとんど入っていない。

 それでも風雅の手は、途中で一度止まった。

 指の下には、確かにリンデンの身体がある。

 温かい。

 生きている。

 一度失われたはずの身体が、今ここにあった。

 

「……シドウがつけた傷なのね」

 

「はい」

 

「消えなかったのね」

 

「そうですね」

 

 風雅の指先が、また僅かに動く。

 

「嫌?」

 

 リンデンは少しだけ目を細めた。

 

「何がですか」

 

「この傷が残っていること」

 

 リンデンは答えるまで、ほんの少しだけ時間を置いた。

 

「嫌ではありません」

 

 風雅が顔を上げる。

 

「忘れたいと思ったこともありません」

 

「……どうして?」

 

「私の人生の一部だからです」

 

 風雅の指が止まった。

 

「良かったことだけを残して、それ以外をなかったことにするつもりはありません。あの時に何があって、私が何を思って、姉さんが何を思っていたのか。それも全部、今の私につながっています」

 

 風雅は何も言わなかった。

 

「それに」

 

 リンデンが続ける。

 

「傷が残っているからといって、姉さんが私の姉でなくなるわけでもありませんから」

 

 風雅の目が、ゆっくり細くなった。

 胸元に置いていた手が、ほんの僅かに震えた。

 

「……本当に、貴方は」

 

 そこで言葉が途切れる。

 風雅は視線を落とし、もう一度傷痕をなぞった。

 今度は、最後まで。

 指先が傷を抜け、そのままリンデンの胸へ掌を置く。

 そこには鼓動があった。

 風雅はその感触を、しばらく黙って受け取った。

 

「……温かいわね」

 

「生きていますから」

 

「そうね」

 

 風雅が小さく笑った。

 ほんの少しだった。

 けれど今日初めて、無理に作ったものではない笑みだった。

 

「そうだったわ」

 

 掌の下で、心臓がまた一つ打つ。

 風雅はゆっくり顔を上げた。

 リンデンがすぐそこにいる。

 思っていたより近かった。

 吐息が届くほどの距離。その距離で、リンデンも風雅を見ている。

 その瞳には、問いかけるような色が僅かにあった。

 

「風雅姉さん?」

 

 呼ばれる。

 姉さん。

 その言葉をずっと欲しがっていた。

 取り戻したいと思っていた。

 そして、ついさっき確かに取り戻した。

 それなのに。

 風雅の胸の奥には、それだけでは説明できないものが残っていた。

 

 昔から知っている顔。

 幼い頃から見てきた相手。

 剣を教えた弟。

 一度傷つけ、離れ、失い、長い時間の果てにもう一度戻ってきた存在。

 それらが全部同じリンデンなのに、いま目の前にいる彼を見つめていると、昔とは違う形で胸が騒ぐ。

 風雅は少しだけ唇を開いた。

 何かを言おうとする。

 けれど、それが声音に乗ることはなかった。

 

「……おだやかじゃないわね」

 

 吐息に近い声だった。

 

「何がですか」

 

「シドウがよ」

 

 リンデンが僅かに首を傾げる。

 風雅はその仕草を見つめたまま、ほんの少しだけ迷った。

 逃げようと思えば、まだ逃げられた。

 いつものように笑って誤魔化して、これは何でもないのだと自分に言い聞かせることもできた。

 けれど胸元へ置いた掌の下で、リンデンの鼓動がもう一度伝わってくる。

 生きている。

 ここにいる。

 風雅は目を伏せた。

 それから、ゆっくり顔を近づける。

 リンデンは動かなかった。

 風雅の唇が、彼の唇へ触れる。

 

 最初は、確かめるようだった。

 触れた熱に驚くように僅かに止まり、けれど離れない。

 風雅自身が、そこでようやく自分のしていることを理解した。

 これは間違いでも、弾みでもない。

 自分はいま、リンデンに口づけている。

 そう分かってしまってからも、風雅は唇を離さなかった。

 ほんの少しだけ顔の角度を変える。

 重なった唇が、先ほどより深く馴染む。

 呼吸ができないほどではない。

 それでも普段よりずっと近い距離に、風雅の息がゆっくり浅くなる。

 胸元へ置いた手にも、自然と僅かな力が入った。

 リンデンが拒まない。

 それを確かめるように、風雅はもう一度だけ唇を押し当てた。

 

 長いようで、実際には数秒ほどだったのかもしれない。

 けれど風雅には、それで十分だった。

 これはもう、触れてしまっただけではない。

 確かにキスをした。

 自分の意志で。

 リンデンと。

 そう理解したところで、ようやく風雅は唇を離した。

 

 すぐには距離を戻せなかった。

 吐息だけが、二人の間を行き来する。

 風雅はリンデンを見た。

 頬が少し熱い。

 自分でもそれが分かる。

 けれど、目は逸らさなかった。

 

「……今のは」

 

 声が僅かに掠れる。

 風雅は一度だけ息を整えた。

 

「忘れないでちょうだい」

 

 リンデンが彼女を見る。

 風雅は胸元に置いた手を退けないまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「シドウも、忘れないから」

 

 それから、少し遅れて。

 

「……罪深いわね」

 

 今度の言葉には、微かな照れが混じった。

 

「姉だって言ってもらったばかりなのに」

 

 雪洞の外では、吹雪がまだ続いている。

 けれど毛布の内側には、もう先ほどまでとは違う熱が残っていた。

 

次回すけべする騎士(10/5まで)

  • 風雅
  • ソナタ
  • 濡羽
  • 玄鉄
  • レアリザス︎︎ ♂︎︎or ♀
  • スリー♂︎︎ or♀
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