すみません、思ったより話が長くなりそうなので分割させてください……。
アンケート結果通り、風雅をやっていきます。
過去にふたりがなんやかんやあったのは、本編の『ガーデナーと断絶3.4』を呼んでいただければと思います。
雪は、横殴りに降っていた。
空も地面も同じ白に潰れ、数十歩先では起伏すら輪郭を失っている。吹き上げられた粉雪が視界を何度も塞ぎ、そのたびに神域の景色は一度消えて、また別の形で現れた。
リンデンは雪面を強く蹴った。
腕の中には風雅がいる。
右腕を背へ、左腕を膝裏へ回し、身体をなるべく揺らさないよう抱き上げていた。風雅自身もリンデンの首へ片腕を掛けているが、もう一方の手は腰元から離れない。いつでも剣へ手を伸ばせる姿勢だけは崩していなかった。
もっとも、その脚で立つことは難しい。
右腿の外側には、細い穴が二つ開いていた。
血は多くない。
それがかえって厄介だった。
神域を支配する魔剣使いによる射撃は肉を大きく破壊せず、必要な箇所だけを正確に穿っていた。一本は大腿部を貫き、もう一本は神経の通る箇所を狙っている。脚そのものを切断するのではなく、自力移動だけを奪うための傷だった。
その上、風雅は雪の中に倒れていた時間が長い。
濡れた衣服の下で皮膚温は落ち、撃たれた脚を中心に感覚も鈍くなり始めている。
「……リンデン」
風に削られながら、風雅の声が耳へ届いた。
「はい」
「少し、右へ」
リンデンは問い返さず進路を変えた。
直後、さきほどまでいた位置を一本の光が貫いた。
雪面が細く弾ける。
爆発はしない。
ただ一直線に穿たれた雪が、そのまま黒く抉れていた。
「見えていましたか」
「ほんの少しだけ。……穏やかじゃないわね。随分と正確よ」
「同感です」
それきり、会話は途切れた。
風雅の声にはまだ張りがある。
けれど、彼の襟元を掴む指はときおりわずかに強くなる。撃たれた脚に何かが走るたび、そうして耐えているのだろう。
リンデンは走る速度を落とさなかった。
止まれば、次が来る。
敵は殺すつもりなら、最初の一射でそうしていたはずだ。
脚だけを奪った。
それはつまり、追いつくまで動けなくしておきたいということだった。
風雅も何も言わなかった。
リンデンの腕の中へ身体を預けながら、吹雪の向こうへ目を凝らしている。
昔なら、もっと簡単に声を掛けられた。
呼び止めることも、指示を出すことも、注意をすることも。
今は必要なことだけが短く交わされ、その先へ言葉が続かない。
リンデンもまた、それを無理に繋ごうとはしなかった。
雪を蹴る音と、浅い呼吸と、風の鳴る音だけが二人の間に残る。
やがて走り続ける脚が速度を落とした。
風雅もほぼ同時に顔を上げる。
正面。
吹雪の向こうに、緩やかに隆起した雪壁があった。
天然の吹き溜まりに近い。ただし、その奥に岩盤か氷塊があるのか、表面の雪が異様に厚く積み重なっている。
リンデンは視線を左右へ走らせる。
開けた雪原。
追手から身を隠せる遮蔽物はほとんどない。
そこだけが例外だった。
「……あそこへ入ります」
風雅が雪壁を見る。
「分かったわ」
それだけだった。
雪壁へ近づき、足を止める。
片腕だけで風雅を支え直した。
空いた手を前へ伸ばす。
空間がわずかに歪み、そこから一冊の書物が現れた。
グラフロジカ。
頁がひとりでに開く。
風に煽られることもなく、透明な紙面に刻まれた構造式だけが淡く光を帯びた。
リンデンは雪壁を見た。
表層は柔らかい。
その奥に圧雪層があり、さらに奥に硬く凍結した古い雪の層がある。
壊し過ぎれば崩落する。
浅ければ二人分の空間を確保できない。
必要なのは、壁そのものを破壊することではない。
内部だけを崩すこと。
「少し揺れます」
「ええ」
風雅がリンデンの首へ回した腕へ、静かに力を込めた。
リンデンの指が式面を滑る。
式が組み替わる。
雪と氷に含まれる水分、空隙、密度差。そこへ干渉するための変換式が短い時間で組み上がっていく。
やがて、雪壁の内部から低い音がした。
ご、と。
何かが潰れたような鈍い音だった。
表面にはほとんど変化がない。
グラフロジカを閉じ、そのまま一歩下がった。
「掴まっていてください」
風雅は黙って頷いた。
踏み込む。
肩から雪壁へ突っ込んだ。
表面の圧雪だけが割れた。その奥は、先ほどの術式によってすでに脆くなっている。リンデンの身体が雪を押し退けるように沈み、二人まとめて白の内側へ消えた。
視界が一度、完全に塞がる。
次の瞬間には暗い空間へ抜けた。
リンデンは膝をつきながら着地し、風雅を抱え直す。
細かな雪が頭上から降り注いだ。
風雅の呼吸が一瞬だけ乱れたが、それ以上の声は出なかった。
周囲を確認する。内部は想定より広い。
二人が横になれる程度の奥行きがあり、天井も低すぎない。天然の空洞に近い部分へ、こちらから穴を繋げたらしい。
まず風雅を壁際へ座らせた。
背中が雪壁へ触れないよう、手早く装備の一部を下へ敷く。
「ここで待っていてください」
「……ええ」
リンデンはすぐに入口へ戻った。
外から流れ込む風が、狭い穴を通って雪煙を巻き上げている。
その向こうには白一色の雪原。
まだ敵の姿は見えない。
リンデンは入口周辺の雪を掻き寄せ、表面を崩していく。完全に塞ぐのではない。空気と視界を確保するための細い隙間だけを残し、外側から見れば自然な吹き溜まりにしか見えない形へ整えていく。
最後にもう一度グラフロジカを開いた。
入口周囲の雪だけを軽く固める。
崩落防止と同時に、外側の形状を乱さない程度に固定する。
光が消えた。
雪洞の中が静かになる。
外の吹雪はまだ聞こえている。
しかし先ほどまで全身を叩いていた風は届かない。
リンデンは入口の細い隙間からしばらく外を見た。
白。
風。
何もない。
少なくとも、すぐ近くに追手の姿は見えなかった。
背後では、衣擦れの小さな音がした。
振り返ると、風雅は壁際に座ったまま撃たれた脚を伸ばしている。
顔色は悪い。
唇からも、普段の血色が少し失われていた。
目が合う。
二人とも、すぐには何も言わなかった。
「……傷を見ます」
やがてリンデンがそう告げる。
風雅はほんの少し間を置いてから、
「……お願い、するわ」
そう答えた。
リンデンは彼女の前へ膝をつく。
雪洞の入口を覆う白の向こうで、風が低く鳴った。
追手が諦めたとは思えない。
それでも今だけは、二人の姿は雪の下へ隠れていた。
彼は風雅の前へ膝をついたまま、まず装備のポーチを開いた。
雪洞の中は薄暗い。
入口に残した僅かな隙間から白い光が差し込み、吹雪に合わせて明暗を繰り返している。風の音は雪壁を一枚隔てたことで遠くなったが、完全には消えない。低く擦れるような音が、洞の奥まで絶えず届いていた。
リンデンは携帯灯を取り出し、光量を絞って雪面へ置いた。
淡い明かりが風雅の脚を照らす。
「装備を外します」
「……ええ」
風雅は短く答えた。
リンデンの手が右脚へ伸びる。
雪と血で濡れた装具の留め具を一つずつ外し、患部を圧迫しないよう慎重にずらしていく。布地が傷口の近くを通るたび、風雅の指が膝の上で微かに曲がった。
声は出さない。
ただ、呼吸だけが一度浅くなる。
リンデンはそこで手を止めた。
「痛みますか」
「……少し」
「どの辺りです」
風雅は一瞬だけ考えるように視線を下げた。
「傷そのものより……奥かしら。熱いような、冷たいような……上手く説明できないわね」
「分かりました」
リンデンはそれ以上聞かず、再び装具を外した。
右腿が露わになる。
射入口は小さい。
けれど、その周囲は赤黒く腫れ、その先では皮膚の色が不自然に白く抜けていた。雪へ長時間触れていた箇所ほど血色が薄く、触れずとも体温が落ちていることが分かる。
リンデンの眉がわずかに寄る。
「……かなり冷えています」
「そうでしょうね」
「感覚を確認します」
風雅が頷くのを確認し、リンデンは手袋を外した。
素手の指先を、まず傷から離れた腿の上部へ軽く触れさせる。
「ここは」
「分かるわ」
少し下へ。
「ここは?」
「……ええ」
さらに外側へ移る。
風雅の視線がリンデンの指を追っていた。
「ここ」
「分かるけれど……少し鈍いわね」
リンデンは指の位置を変えた。
今度は膝のすぐ上。
「こちらは」
風雅はすぐには答えなかった。
眉間へ小さく皺が寄る。
「……触っている?」
「はい」
「そう」
風雅の唇が僅かに引き結ばれた。
「ほとんど分からないわ」
リンデンは何も言わず、さらに下へ手を移す。
脛。
足首。
指先。
場所によって反応に大きな差がある。
あるところでは触れた瞬間に風雅の足指が僅かに動き、別の場所では何度触れても表情一つ変わらない。
リンデンは足の甲を軽く押した。
「これは」
「……分からない」
少し強める。
「今は?」
風雅の肩が微かに動いた。
「今のは……痛い」
「位置は分かりますか」
「大体は」
リンデンは静かに息を吐いた。
完全に感覚が失われているわけではない。
それでも、神経への損傷は明らかだった。
「次、少し動かします」
「ええ」
リンデンは風雅の踵を支え、もう片方の手で膝を固定した。
ゆっくりと脚を曲げる。
「っ……」
初めて、風雅の口から明確な声が漏れた。
短い。
すぐに飲み込まれる。
けれど膝の上へ置かれていた手が雪を掴み、指先が白くなるほど力が入っている。
リンデンは即座に止めた。
「ここまでですね」
「……そうね」
風雅は数度呼吸を整えた。
痛みが引くまで待ってから、何でもないように口元を緩めようとする。
「おだやかじゃないわね。シドウともあろう者が、脚一本でこの有様だなんて」
リンデンはその言葉には乗らなかった。
「無理に動かす必要はありません」
「……ええ」
返事だけが少し小さくなった。
リンデンは救急用品を並べていく。
まず傷口周囲を洗浄する。
冷え切った皮膚へ液体が触れた瞬間、風雅の腿が微かに震えた。
「冷たいですか」
「今さら冷たさには驚かないわ」
そう答えた直後、洗浄液が射入口へ触れる。
「――っ」
風雅の背中が雪壁から僅かに離れた。
息が細く詰まる。
それでも脚を引こうとはしない。
動かせないのか、耐えているのか。
その両方だろう。
リンデンは手を止めず、必要な範囲だけを短時間で処置した。
「もう少しです」
「……続けて」
風雅の声は少し掠れていた。
リンデンは傷口を確認しながら、周囲の血液と雪を拭い取る。
神経を狙った弾道。
筋肉の損傷そのものは限定的だが、内部で出血している可能性がある。
止血材を当て、圧を調整する。
強く押しすぎれば血流をさらに悪化させる。
弱ければ止まらない。
風雅の表情を見ながら、少しずつ力を加えた。
「……そこ」
風雅が低く言った。
「痛みますか」
「ええ。そこは、かなり」
「分かりました」
リンデンが僅かに位置をずらす。
その途端、風雅の肩から力が抜けた。
「……ありがとう」
「いえ」
また沈黙が戻る。
リンデンの手だけが動いている。
風雅はしばらく、その手元を見ていた。
傷口。
包帯。
リンデンの指。
そして、その横顔。
何度か口を開きかけた。
そのたびに何も言わず、視線を落とす。
リンデンは気づいていたかもしれない。
けれど、尋ねなかった。
今度は凍傷の処置へ移っていた。
急激に温めることは避け、濡れた布を取り除いて乾いた保温材で包んでいく。
リンデンの手が脛へ触れたとき、風雅の脚が小さく震えた。
「痛みですか」
「……違うわ」
「では」
風雅が少し困ったように目を伏せる。
「感覚が戻ってきているだけ。じんじんするの」
「痛みが強くなったら言ってください」
「分かったわ」
徐々に血が戻り始めるにつれ、最初は何も感じなかった部分へ、細かな刺激が生まれていく。
風雅はそれを黙って耐えていた。
時折、足指が僅かに動く。
脛の筋肉が小さく強張る。
呼吸が浅くなり、そのたびにゆっくり吐き直す。
リンデンは触覚を再確認するため、先ほど反応のなかった位置へ指を当てた。
「ここは」
風雅の眉が少し動く。
「……分かる」
「先ほどよりは?」
「ええ。今はちゃんと分かるわ」
「では、こちら」
「それも」
もう一か所。
「……そこは少し痛い」
「良い反応です」
風雅が僅かに目を細めた。
「痛いのに?」
「感覚が戻っているという意味では」
「そういうものなのね」
言葉がそこで途切れた。
リンデンは最後の固定を終える。
傷口を保護し、脚全体を保温材で包み、動かないよう位置を整える。
「しばらくこのままでいてください」
「ええ」
「脚へ体重を掛けるのも避けてください」
「分かっているわ」
リンデンは使った器具を片付け始めた。
風雅はその姿を見ている。
外では、吹雪が変わらず雪壁を叩いている。
雪洞の中では、携帯灯の淡い光だけが二人の間に落ちていた。
「……リンデン」
風雅が呼んだ。
リンデンの手が止まる。
「はい」
風雅はすぐには続けなかった。
膝の上へ置いた自分の手を見つめる。
指先が僅かに動いている。
「一つ……聞いてもいいかしら」
「何でしょう」
風雅は息を吸った。
けれど、言葉はなかなか出てこなかった。
剣を抜く時なら迷わない。
敵の刃を前にしても、これほど時間は掛からない。
それなのに、その一言だけが喉の奥へ引っ掛かっている。
「……貴方は」
風雅はそこで一度言葉を切った。
視線を上げる。
「まだ、シドウのことを……姉だと思ってくれているのかしら」
リンデンは黙って風雅を見た。
風雅も目を逸らさない。
ただ、返事を待つ間だけ、膝の上の指がゆっくり握られていった。
「はい」
リンデンは答えた。
迷いはなかった。
「昔も今も、風雅姉さんは私の大切な姉です」
風雅の指が止まった。
「それが変わったことは、一度もありません」
雪洞の中に、外の風だけが残る。
風雅はしばらく何も言わなかった。
リンデンの顔を見ていた。
やがて視線を落とす。
「……そう」
小さな声だった。
それ以上は続かなかった。
リンデンも何も言わない。
風雅はただ、包帯で覆われた自分の脚へ視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。
その吐息だけが、先ほどまでより僅かに長かった。
治療を終えたあと、リンデンは雪洞の奥へ簡易シートを広げた。
薄い素材だったが、雪へ直接身体を預けるよりは幾分かましだった。風雅をそこへ横たえ、負傷した右脚の下へ畳んだ布を差し込んで僅かに高くする。さらに携行用の簡易毛布を広げ、肩口から足先までを覆った。
「冷えるようでしたら言ってください」
「ええ」
風雅の返事は小さかった。
リンデンはそれ以上何も言わず、入口近くへ移動する。
雪壁へ背を預けて座り、片膝を立てた。
カモフラージュのために残した僅かな隙間へ顔を寄せ、外を窺う。そこから見えるものは、ほとんど白だけだった。風に巻き上げられる粉雪が絶えず視界を横切り、遠方にあるはずの地形まで綺麗に消している。
追手の姿はない。
だからといって、立ち去ったとは限らなかった。
リンデンはじっと外を見ている。
その横顔を、風雅もまた見ていた。
簡易毛布の中で、身体は少しずつ温度を取り戻している。
右脚にはまだ痛みがある。傷口の奥で鈍い熱が続き、感覚の薄かった場所には遅れて戻ってきた刺激が細く走っていた。
それでも、先ほどまでとは違っていた。
脚のことではない。
胸の奥に長く沈んでいたものが、ほんの少しだけ形を変えている。
――昔も今も、風雅姉さんは私の大切な姉です。
リンデンの言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
あまりにも迷いがなかった。
自分が何年、何十年、あるいはそれ以上の時間をかけても口にできなかった問いへ、リンデンはほとんど間を置かなかった。
風雅は毛布の中で指を動かした。
自分の胸元に触れる。
そこに何かあるわけでもない。
ただ、少し落ち着かない。
視線を戻す。
リンデンは変わらず外を見ている。
その背中は、昔よりずっと大きい。
当然だった。
風雅の記憶の中には、まだ幼い頃のリンデンが幾つも残っている。剣を持たせれば手の大きさが足りず、握り方を直すために後ろから包むように手を添えたこともあった。
転べば手を差し出した。
疲れれば休ませた。
小さな頃なら、その身体を抱き上げたこともある。
今は逆だった。
自分が抱き上げられた。
吹雪の中を運ばれ、守られ、傷を手当てされた。
しかもリンデンは、それを特別なことのようには扱わない。
風雅だから、姉だから。
それだけで十分なのだと、態度そのものが言っている。
その事実が、妙に胸を締めつけた。
風雅は一度目を閉じた。
雪洞の中には、外を流れる風の音と、時折雪が落ちる微かな音だけがある。
静かだった。
静かすぎるほどだった。
その中で、自分の呼吸だけが妙に近く聞こえる。
少しして、風雅は再び目を開けた。
「……ねえ」
声が思っていたより小さく出た。
リンデンが振り返る。
「はい」
風雅はそこで言葉を止めた。
視線が合う。
先ほどなら、もう少し簡単に言えたかもしれない。
けれど今は、何を口にしようとしているのか自分でもよく分かっている。
「……リンデン」
「何でしょう」
風雅は毛布の端を指で掴んだ。
少しだけ強く握る。
「まだ……少し寒くて」
リンデンが風雅を見る。
それから毛布へ視線を落とした。
「追加の保温材を――」
「いえ」
思わず、風雅の声が少し早くなった。
リンデンの手が止まる。
風雅は視線を逸らした。
言ってしまえばいい。
それだけなのに、妙に言葉が出ない。
剣の間合いなら、一歩踏み込むことに迷いなどない。
今は、その一歩が遠かった。
「……そうではなくて」
風雅は小さく息を吸った。
そして、リンデンを見る。
「少し……暖めてくれないかしら」
言ったあと、風雅は黙った。
リンデンもすぐには答えなかった。
ほんの少し考えるように視線を落とす。
風雅の胸の奥で、何かが微かに揺れた。
断られると思ったわけではない。
けれど、自分からこうして求めること自体が久しぶりだった。
まして相手がリンデンなら、なおさらだった。
「……どうぞ」
やがてリンデンが答えた。
それだけだった。
風雅の肩から、ごく僅かに力が抜ける。
リンデンは入口から少し離れ、雪壁へ背を預け直した。
両脚を前へ伸ばし、その間に風雅が収まれるだけの空間を作る。
風雅は身体を起こそうとした。
「無理に動かないでください」
「これくらいなら――」
「脚に負担が掛かります」
リンデンが傍へ寄る。
片腕を背へ回し、もう片方の手を膝裏へ差し込む。
また、身体が浮いた。
風雅は何も言わなかった。
今度は吹雪の中でも、逃走の最中でもない。
静かな雪洞の中で、ただ場所を移すためだけに抱かれている。
そのことが、先ほどよりも妙に意識へ残った。
リンデンは風雅をゆっくり下ろす。
自分の脚の間へ。
負傷した右脚を圧迫しないよう位置を整え、左脚も楽な角度へ伸ばす。
風雅の背中が、リンデンの胸へ触れた。
そこで一瞬、風雅の呼吸が止まった。
「苦しくありませんか」
「……大丈夫よ」
声が少し低くなった。
リンデンは簡易毛布を持ち上げ、二人まとめて包む。
毛布の内側へ、少しずつ熱が籠もっていく。
背中越しにリンデンの体温が伝わる。
風雅の肩の左右には彼の腕があり、その先で毛布の端を整えている。
腰の外側には、リンデンの脚がある。
閉じ込められているという感覚はなかった。
むしろ、その逆だった。
支えられている。そんな感覚の方が近い。
風雅はしばらく身体を硬くしていた。
どこへ手を置けばいいのか分からず、毛布の上で指先だけを動かす。
「寒さはどうですか」
頭のすぐ上から声が落ちる。
「……少し、ましになったわ」
「良かったです」
それだけ。
リンデンはまた入口へ視線を向ける。
風雅は胸の中で息を吐いた。
まったく意識していない。それが少しだけ可笑しくもあり、同時にありがたかった。
もし妙に気を遣われていたら、きっと耐えられなかった。
風雅は身体の力を少し抜いた。
背中をリンデンへ預ける。
最初はほんの僅かに。それでもリンデンが何も言わないことを確かめてから、もう少しだけ。
後頭部が彼の胸元近くへ触れる。鼓動が聞こえるほどではない。ただ、呼吸に合わせて胸が僅かに動くのが分かる。
彼女はゆっくりと目を閉じた。
暖かい。
単純に、それだけだった。
なのに、胸の奥へ妙な安心が広がっていく。
風雅は毛布の中で片手を動かした。
迷った末、リンデンの腕へ指先を触れさせる。
ただ触れただけ。
掴みもしない。
そのまましばらく動かなかった。
外では吹雪が続いている。
追手がどこにいるのかも分からない。右脚にはまだ傷があり、すぐに動ける状態でもない。状況だけを見れば、安心できる要素などほとんどなかった。
それでも風雅は、先ほどより呼吸が楽になっていることに気づいた。
しばらくして。
「……リンデン」
再び、風雅が名前を呼んだ。
「はい」
今度の声は近い。
胸元から直接伝わるようだった。
風雅は目を開けなかった。
「シドウね……」
そこまで言って、一度止まる。
指先がリンデンの腕へ僅かに触れたまま動く。
「貴方を斬ってから……ずっと、不安だったの」
風雅の声は小さく、けれど先ほどまでとは違って、途中で引き返そうとはしなかった。
リンデンの胸元へ後頭部を預けたまま、毛布の中で彼の腕へ触れている指先をゆっくりと滑らせる。握るでもなく、ただそこにあることを確かめるような動きだった。
「ずっと……ね。あの時のことを考えていたわ。シドウが剣を振ったことも、その剣が貴方へ届いてしまったことも、そのあと何も言えないまま離れたことも」
雪洞の外を、長い風が通り過ぎていく。
入口を覆う雪が微かに震え、薄い光が揺れた。
リンデンは口を挟まなかった。
風雅が続けるまで待っていた。
「姉だなんて、もう名乗れないと思ったの。貴方を守る側だったはずなのに、シドウ自身が貴方を傷つけてしまったから」
毛布の中で、風雅の指が止まる。
「それまでならね、何があっても……少なくとも、貴方の前では姉でいられると思っていたのよ。剣を教えることも、叱ることも、困っていたら手を貸すことも。そういうものを全部、シドウは当然のように持っていた」
僅かに笑おうとした気配だけが、声に混じった。
「随分と勝手な話よね。一度間違えただけで、自分から全部捨てておいて……そのくせ、貴方からも姉ではないと思われていたらどうしようなんて、ずっと怖がっていたのだから」
最後の言葉は、少しだけ掠れた。
風雅は目を閉じたまま、リンデンの胸へほんの僅かに体重を預け直す。
背中に伝わってくる彼の呼吸は変わらない。
それがかえって、続きを口にしやすかった。
「貴方がいなくなって……一度、本当にいなくなって。それから随分と時間が経って、またこうして戻ってきたでしょう」
風雅はそこで一度、息を止めた。
「嬉しかったわ」
その一言だけは、ひどく素直だった。
「本当に。……それなのに、いざ貴方を前にしたら、何を言えばいいのか分からなかった。謝るべきなのか、何もなかったように話しかけるべきなのか。昔みたいにリンデンと呼んでいいのかさえ、少し迷ったわ」
リンデンの腕へ置かれていた指が、僅かに強くなる。
「だから今日、貴方に抱き上げられた時……驚いたの。シドウは勝手に、もうそんなふうに触れてもらえる関係ではないと思っていたから」
しばらく、風雅は何も言わなかった。
雪洞の薄暗がりの中で、二人分の呼吸だけが重なっている。
やがてリンデンが、静かに口を開いた。
「……私も、似たようなことを考えていました」
風雅の指が止まった。
ゆっくりと目を開く。
「貴方も?」
「はい」
リンデンは入口へ向けていた視線を少し落とした。
「姉さんに斬られたことを、私は姉さんだけの問題だとは思っていませんでした」
風雅が小さく眉を寄せる。
「リンデン、それは――」
「責めているわけではありません」
声は穏やかだった。
「むしろ逆です」
リンデンは少し間を置いた。
「あの頃の私は、もうかなり……余裕がなくなっていました。それでも自分が家族のそばにいることで、何かだけは守れているつもりだったんです」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「でも、姉さんに斬られた時に思いました。私がここにいるせいで、姉さんたちまで変わってしまったのではないか、と」
風雅が振り返りかけた。
けれど負傷した脚がある。
リンデンの腕が身体を支え、無理に捻らないよう静かに留めた。
「……そんな」
「今なら、違ったと分かります」
リンデンは続けた。
「あの時は、そう思えなかっただけです」
風雅は何も言えなかった。
「私がいるせいで誰かが傷つく。私がいるせいで、皆さんが今までの皆さんではなくなる。そう考え始めたら……そばにいること自体が怖くなりました」
雪洞の中へ、その言葉が静かに沈んでいく。
「だから、姉さんが離れた時も……追いかけられなかったんです」
風雅の唇が僅かに開いた。
「姉さんが私を嫌ったから離れたとは、思っていませんでした。ただ、私がそばにいることで、また何かを変えてしまうのなら……離れていた方がいいと」
「……リンデン」
「それが姉さんだけではなく、皆さんとの距離を取った理由の一つです」
リンデンはそこで言葉を止めた。
長い時間が流れた。
実際には、それほど長くなかったのかもしれない。
けれど風雅には、あの頃から今日まで続いていた時間が、そこで一度すべて立ち止まったように感じられた。
自分は、自分が彼を傷つけたから離れた。
リンデンは、自分が彼女たちを変えてしまったと思って離れた。
どちらも相手を拒んだわけではなかった。
近づくことが怖くて、互いに同じ方向へ背を向けただけだった。
「……罪深いわね」
風雅が呟いた。
今度はいつもの口癖に、ほとんど冗談の響きがなかった。
「本当に」
風雅はゆっくり身体を起こした。
リンデンが支える。
負傷した脚を動かさないよう気をつけながら、胸元へ向き直る。
その時、風雅の視線が止まった。
リンデンの衣服の隙間から、薄く残った傷痕が覗いている。
左肩から胸元へ斜めに走る、古い傷。
見間違えるはずもなかった。
風雅自身が残したものだった。
目を逸らそうとして、できなかった。
「……まだ、残っているのね」
リンデンが自分の胸元を見る。
「これですか」
「ええ」
風雅の声が少しだけ硬くなる。
リンデンは何でもないことのように答えた。
「残っていますね」
それだけだった。
責めるでもなく、隠すでもない。
風雅はしばらくその傷を見ていた。
やがて、ゆっくりと手を上げる。
「……触れても?」
リンデンは風雅を見た。
「どうぞ」
風雅の指先が、胸元へ触れた。
衣服の隙間から覗く傷痕を、一本の指でそっと辿る。
肩口から。
斜めに。
胸へ。
剣を振った時の軌道を、指先でもう一度なぞるように。
あの時とは違って、力などほとんど入っていない。
それでも風雅の手は、途中で一度止まった。
指の下には、確かにリンデンの身体がある。
温かい。
生きている。
一度失われたはずの身体が、今ここにあった。
「……シドウがつけた傷なのね」
「はい」
「消えなかったのね」
「そうですね」
風雅の指先が、また僅かに動く。
「嫌?」
リンデンは少しだけ目を細めた。
「何がですか」
「この傷が残っていること」
リンデンは答えるまで、ほんの少しだけ時間を置いた。
「嫌ではありません」
風雅が顔を上げる。
「忘れたいと思ったこともありません」
「……どうして?」
「私の人生の一部だからです」
風雅の指が止まった。
「良かったことだけを残して、それ以外をなかったことにするつもりはありません。あの時に何があって、私が何を思って、姉さんが何を思っていたのか。それも全部、今の私につながっています」
風雅は何も言わなかった。
「それに」
リンデンが続ける。
「傷が残っているからといって、姉さんが私の姉でなくなるわけでもありませんから」
風雅の目が、ゆっくり細くなった。
胸元に置いていた手が、ほんの僅かに震えた。
「……本当に、貴方は」
そこで言葉が途切れる。
風雅は視線を落とし、もう一度傷痕をなぞった。
今度は、最後まで。
指先が傷を抜け、そのままリンデンの胸へ掌を置く。
そこには鼓動があった。
風雅はその感触を、しばらく黙って受け取った。
「……温かいわね」
「生きていますから」
「そうね」
風雅が小さく笑った。
ほんの少しだった。
けれど今日初めて、無理に作ったものではない笑みだった。
「そうだったわ」
掌の下で、心臓がまた一つ打つ。
風雅はゆっくり顔を上げた。
リンデンがすぐそこにいる。
思っていたより近かった。
吐息が届くほどの距離。その距離で、リンデンも風雅を見ている。
その瞳には、問いかけるような色が僅かにあった。
「風雅姉さん?」
呼ばれる。
姉さん。
その言葉をずっと欲しがっていた。
取り戻したいと思っていた。
そして、ついさっき確かに取り戻した。
それなのに。
風雅の胸の奥には、それだけでは説明できないものが残っていた。
昔から知っている顔。
幼い頃から見てきた相手。
剣を教えた弟。
一度傷つけ、離れ、失い、長い時間の果てにもう一度戻ってきた存在。
それらが全部同じリンデンなのに、いま目の前にいる彼を見つめていると、昔とは違う形で胸が騒ぐ。
風雅は少しだけ唇を開いた。
何かを言おうとする。
けれど、それが声音に乗ることはなかった。
「……おだやかじゃないわね」
吐息に近い声だった。
「何がですか」
「シドウがよ」
リンデンが僅かに首を傾げる。
風雅はその仕草を見つめたまま、ほんの少しだけ迷った。
逃げようと思えば、まだ逃げられた。
いつものように笑って誤魔化して、これは何でもないのだと自分に言い聞かせることもできた。
けれど胸元へ置いた掌の下で、リンデンの鼓動がもう一度伝わってくる。
生きている。
ここにいる。
風雅は目を伏せた。
それから、ゆっくり顔を近づける。
リンデンは動かなかった。
風雅の唇が、彼の唇へ触れる。
最初は、確かめるようだった。
触れた熱に驚くように僅かに止まり、けれど離れない。
風雅自身が、そこでようやく自分のしていることを理解した。
これは間違いでも、弾みでもない。
自分はいま、リンデンに口づけている。
そう分かってしまってからも、風雅は唇を離さなかった。
ほんの少しだけ顔の角度を変える。
重なった唇が、先ほどより深く馴染む。
呼吸ができないほどではない。
それでも普段よりずっと近い距離に、風雅の息がゆっくり浅くなる。
胸元へ置いた手にも、自然と僅かな力が入った。
リンデンが拒まない。
それを確かめるように、風雅はもう一度だけ唇を押し当てた。
長いようで、実際には数秒ほどだったのかもしれない。
けれど風雅には、それで十分だった。
これはもう、触れてしまっただけではない。
確かにキスをした。
自分の意志で。
リンデンと。
そう理解したところで、ようやく風雅は唇を離した。
すぐには距離を戻せなかった。
吐息だけが、二人の間を行き来する。
風雅はリンデンを見た。
頬が少し熱い。
自分でもそれが分かる。
けれど、目は逸らさなかった。
「……今のは」
声が僅かに掠れる。
風雅は一度だけ息を整えた。
「忘れないでちょうだい」
リンデンが彼女を見る。
風雅は胸元に置いた手を退けないまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「シドウも、忘れないから」
それから、少し遅れて。
「……罪深いわね」
今度の言葉には、微かな照れが混じった。
「姉だって言ってもらったばかりなのに」
雪洞の外では、吹雪がまだ続いている。
けれど毛布の内側には、もう先ほどまでとは違う熱が残っていた。
次回すけべする騎士(10/5まで)
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風雅
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ソナタ
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濡羽
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玄鉄
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スリー♂︎︎ or♀