クリスマスがもうあと一週間後に迫った日、その人が家に来た。
「家庭教師に、どうだ」
なんでもその人は父と道端で会って、ちょっとした親切をしたらしい。
父が財布をスられて困っていたところを、走ってスリを捕まえて、財布を返した。
スリなんていうのがまさか、父の行動圏内に出るとは思っていなかったので、驚いてしまったけれど……
その人の行動は、確かに立派だと思う。
立派だとは、思うんだけれど……
「お礼をしたいと言ったら、教師の職を探しているからそれを世話してくれないかと言われてね。それで、さすがに学校教諭には紹介できないが、家庭教師になら、と」
「いや、まさか本当にご紹介いただけるとは思わず……冗談のつもりだったのですが……」
その人は遠慮がちに私を見て、申し訳なさそうな顔をした。
父の話によると教員免許は持っているのだが、この教師の足りないと言われるご時世の中で、教員として雇ってもらえなかったらしい。
……そんな人、大丈夫なのかしら……
私にはどうにも、疑わしく思えた。
でも、父がこんなに親し気に、信用している態度で接するのは、本当に珍しいことだ。
それに、母も……
「いいじゃない。しばらくやっていただいて、良さそうなら続けていただく。だめそうであれば、まあ、仕方ないけれど、ということで……」
母も母で、なぜか、その人を気に入っている様子だった。
確かに、格好いい感じの人だ。清潔だし、背が高くて細くて、はにかんだような笑顔が、魅力的……にも、見えるのかもしれない。
でも、私にはどうしても、その人の笑顔が薄っぺらくて、私たちを騙しに来た詐欺師のように思えてしまった。
でも、父もなんだか奇妙に信用しているし、母の印象も悪くないらしい。
それに……
「お姉ちゃんが嫌なら、あたしが教えてもらおうかなー」
妹まで、気に入ってるようだ。
これでは私一人が反対したところで、止められない。
「……わかりました。よろしくお願いします」
もともと私は勉強が得意だし、教えられるところがなければ、有能でも家庭教師は続けられないだろう。
積極的に追い出すようなことをしたら家族を傷つけそうだけれど、円満に出て行ってもらうなら、仕方ないとあきらめてくれるはず……
私は、家庭教師の先生に勉強を見てもらうことになった。
その先生は、
「佐藤セントと言います。よろしく」
そう名乗った。
◆
セント先生の授業は印象が良かったけれど、あまり教えてもらった内容が頭に残っている感じがしなかった。
勉強をしようとしたところまでははっきりと覚えているんだけれど、肝心の授業の内容が記憶にないというのか……でも確かに、授業をしていたような、気はする……
セント先生は、私と同時に、妹がねだるので、妹の授業も受け持つことになった。
あの子は昔から、『お姉ちゃんにだけ何かが与えられる』というのを嫌がって、私がもらうようなものは、全部、自分も自分もとねだるところがあった。
今回もそういうものなんだろう。……かわいい妹ではあるし、仲も悪くはないんだけれど、『なんか、ちょっとなあ』と思うところがある──そういう、普通の姉妹。
妹に、セント先生の授業について、聞いてみた。
そうしたら……
「お姉ちゃん、あたし、セント先生のこと、好きかも」
……まだ、三日目なんだけれど。
なぜか妹は、ものすごい速度で、セント先生のことを気に入っていた。
「ええと、あのね、教員免許を持ってるっていうことは、もう大学も卒業しているはずだから……ちょっと童顔だから若く見えるかもしれないけど、二十代半ばよ、あの人。十歳以上も、歳の差が……」
こういう時に『真剣に』注意をしてしまうのが、私の悪いところだと思う。
まだ幼いと言えるかわいい妹が、年上の男性に『好きかも』なんて言う──これは、微笑ましい、形だけの恋心だ。相手がまともな大人なら、絶対に成就しない。そういうことは、よくある。
こういう『確かに好きだけど、そこまで真剣じゃない』みたいなぽわぽわした気持ちを、真剣な感じで否定されたら、不機嫌になるのはわかっている。私も、そういう気持ちになったことが、ある。
でも、私は注意してしまう……こういう真面目さが、『氷見室さんって固いよね』と言われているところでも、あるんだと思う。
案の定、妹はむっとした。
「そんなこと言うなんて、お姉ちゃん、もしかして、セント先生のこと好きなの?」
「そんなことはないけれど……」
実際、そんなことはない。
最初は詐欺師みたいだと思っていた。そこから『良い人なんだな』というところまで、評価は上がっている。
でも……妹や、父や、母が、魔法にでもかけられたみたいに、すぐにセント先生を気に入っていく様子には、危機感を覚える。それぐらいには、冷静だ。
……魔法。
まさか、本当に、魔法なのかな。
私は魔法少女をやっている。
夢の中で龍に声をかけられて、それを守護するために魔法少女になった。
龍っていうのは、世界の意思そのものらしい。
この世界を危機に陥れようとする異世界からの侵略者がいて、それを倒して、世界を守るのが、私たちの使命だ。
これは警察とか、軍隊とかにはできない仕事みたい。
ヒナタちゃんが『民間軍事会社に委託とかできませんか』と龍の分体に向かって聞いていたけれど、そういうことは、できないらしい。
そういう……なんて言ってたかな……『夢のない組織』に組み込まれてしまうと、私たちの戦う力が大きく減ってしまって、結果的に、防衛が難しくなるんだって。
私は、世界を守ると言われても、正直、よくわからなかった。
でも、学校の友達とか、家族とか、そういうのを守るために、魔法少女になった。
……そうして戦っている、けれど……
魔法っていうのはだいたい、炎を出すとか、氷を出すとか、攻撃用のものばっかりで、人の心を操るものなんか聞いたことがないし、見たことも……ない、とは思う。
はっきりと目に見えてわかる魔法じゃないと、私にはわからない。
魔力の感知みたいなことは、ヒナタちゃんはできるっぽいけど、私にはそういう感覚はないみたいで……
……ヒナタちゃんに相談してみようかな。
でも、迷惑かな。
このあいだ、追い詰められた時に、ヒナタちゃんは覚醒した。それからちょっと寝込んでて、今は学校にも通ってるみたいだけど、それでもまだ、調子が悪そうだし……悪い、かな。
それに、あんまりセント先生を疑うのも、だんだん、申し訳ない気持ちになってきたし……
まして『魔法を使ってるんじゃ』なんて、ほとんど言いがかりだよ、これじゃあ……
「……ごめんなさい。セント先生を悪く言いたかったわけじゃないの。ただなんていうか……」
「お姉ちゃんなんか、知らない!」
妹はすっかりヘソを曲げて、部屋に戻ってしまった。
……その日の夕食の時、妹が母に私のことを悪く言ったみたいで、母からも、たしなめられてしまった。
やっぱり、間違ってるのは私なのかな。
私が──人を疑いすぎてるだけ、なのかな。
◆
昨日の今日だから、妹の機嫌がまだ直らない。
確かにセント先生を疑いすぎた私も悪いけれど、そこまで怒るほどのことでもないと思う。
でも、妹は、考えてみたら、いつもこうだ。不機嫌を周囲にアピールして、私が謝るように圧力をかけてくる……
……かわいい妹のはずなのに。最近は、嫌なところばっかり思い浮かんじゃう。
ヒナタちゃんがピンチの時に覚醒できて、私は倒れているしかなかったのは、たぶん、私の心がこんなふうに汚いからだ。
私は人を信用するのがうまくないし、人が怖い。
特に、誰かに頼られると目の前が真っ白になって、その『頼られごと』を完璧にこなさないといけない気持ちになって、焦って、何もわからなくなってしまう。
なのに私は、昔から気が小さいくせに、背ばっかり高くて、なぜか周囲から頼られてしまう。
それに応えようとして……失敗することも、多かった。そのたび、うまくできなかったことに、嫌気が差した……
ヒナタちゃん、会いたいな。
でも、こんな、家庭教師のことで、覚醒のせいで疲れてるヒナタちゃんをわずらわせて、ヒナタちゃんに嫌われたら、立ち直れないよ……
「トマリさん、どうされました? 悩み事でも?」
「え?」
セント先生の授業中だったことを、今さら思い出す。
何か声をかけられて、無視、しちゃったかな……嫌な気持ちにさせちゃったかな……
「あ、いえ、すいません、授業に集中できていませんでしたよね……」
「いえ、トマリさんは優秀で、本当に、教えるところも少なく……なんて言っている場合ではありませんけれどね、僕の立場だと」
「……あ、あはは……」
「何か悩みがあるなら、相談に乗る……か、授業は、ここまでにしましょうか? 一人で思い悩む時間というのも、若いうちには必要でしょうし」
セント先生が私のところから去ったら、たぶん、妹のところに行くんだろう。
……私がセント先生に離れて欲しくないということではなくって、妹とセント先生を、あまり二人きりにはしたくなかった。
危険な感じはしないけれど、妹の方がセント先生に本気になって、あんまりよくない行動をしそうな、そういう予感がしてしまって……
「いえ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。……授業を続けて、いただけますか?」
「そうですか? ……つらくなったら、いつでも言ってくださいね。では、続きを……」
セント先生だけではなくって、妹の方も疑ってしまう。
もっと、人を信じたい。人を信じられる、強さが欲しい。
セント先生は、悪い人じゃない……
「それではトマリさん、両脚を大きく開いて、クリトリスを育てていきましょうね。爪は切ってありますか?」
「はい」
きちんと集中して授業を聞かなきゃ。
今は……
ああ、教科書を見るまで、何をしているかまで、失念していたなんて、本当に私、態度が悪くて、申し訳ない……
今は、数学の時間だ。だから……
クリトリスをいじって、お豆の感度を上げなきゃ。
せめて真面目に、授業を受けよう。
真面目で優しいセント先生に、失礼がないように。