マリアンヌは夢を見る。
それは、失われたはずの記憶だった。
「はぁ、『人間代表』ですか」
すでに記憶にはないはずの故郷世界の神殿。
すでに思い出すこともなかったはずの、しかし、オリガによってしつこくしつこく語られていたはずの情報。
薄暗いその部屋の白磁の内壁も、重々しい木のテーブルも、教義的な意味を持つ『石で造られた花』の入った花瓶も、すでに記憶ではなく情報にしかすぎない。
だというのに……
夢の中のマリアンヌは、その時に抱いた感情さえも、ありありと思い出せた。
それが『喜怒哀楽』というように、はっきりと、他人に伝えられるようなものではなく、もっと微細で、もっと言葉にしがたいもの──
かすかな諦念。わずかな怒り。ほんの少しの興味。疲労。期待。喜び。それから先達が鳴り物入りで入って来る後進を見た時に抱く、危機感のようなもの……
もっと他に、もっともっと説明のできない感情があった。
……夢の中のマリアンヌは、その複雑精緻な『気持ち』を、細かな配分に至るまで、つぶさに思い出すことができていた。
「そうだよ! いよいよ『人間代表』が選ばれた! この意味は、きみにもわかるだろう!?」
オリガというのは生まれつきの体質で魔法を使うことができないドワーフだ。
差別対象であり、国によっては『人』として扱われないこともある。
そんな彼女は教会で保護されている身の上らしかったが、持ち前の技術力、特に錬金術分野におけるたぐいまれなる才能のお陰で、一定の地位にいた。
聖女候補の中でも最有力であるマリアンヌと、こうして一対一で話せるというのは、かなりの特権が認められている証拠だ。
しかもその『最有力聖女候補』さえもまだ知らない『人間代表』の情報を知っているのだから、この当時の教会の内部では相当な権利を認められていたのだろう。
……当時のマリアンヌは『政治』に興味がなかった。だから、やたらとからんでくるこの先輩のことを、『うるさいな』と思っていた。尊敬は、なかった。ただ、追い払うほどの気力もなかった──
──そう、そうだ。『猫を被っていた』。
マリアンヌは聖女になるために必死な少女だった。
もともと貧乏な生まれだったから。怒りが常にあった。体制に対する反抗心みたいなもの……世の中が間違っていると思っていた。苦しむべきでない人が苦しみ、苦しむべき人が受けて当然の罰をやり過ごして何食わぬ顔をしているということに対する、若くて青い怒りがあった。
そのために聖女になるべきだ、と思った。
マリアンヌは現実的な物の考え方をする少女だった。
ようするに下町スラム生まれでスレていた。
だから、自分の才覚に自覚的だったし、若さと美しさにも自覚的だった。
それに、それらを食い物にされないための立ち回りを考えてもいた。
……マリアンヌが聖女候補となった当時は、まだ、世界に危機が訪れると思われておらず、聖女なんていうのが教会の一つのポストでしかないと思われていたから、余計に、『聖女という立場を足掛かりにして、教会内で立場を手にして、それから、活動をする』という意思に満ちていた。
それが、聖女候補になって数年で変わってしまった。
世界の滅びの予言が来たから。
それまで『推薦枠』で聖女候補だった貴族のお嬢さんたちは、『急用』で実家に帰ってしまい、気付けば聖女候補は、マリアンヌのように、後ろ盾がなくて『世界の危機』に立ち向かうしかない者か、本物の頭の中お花畑で『世界を守るために命を捧げます』というような狂信者かしかいなかった。
良くも悪くもモチベーションが高い連中が残った中で、それでもマリアンヌの適性は圧倒的だった。
生まれつき背負った『固有魔法』のお陰もあって、後ろ盾はないものの、あまり悪い想いをさせないようにしよう、という配慮をされていたのも、大きい。
こうして楽しく美しい思い出だけを積み重ねることを許されたマリアンヌは、気付けばすっかり、世界のための尖兵としての地位を確立していて……
この日、『世界の命運』を背負い、『人間代表』という『ご主人様』を接待しつつ、死地に赴くことが決まってしまったようだった。
ありありと蘇る記憶。
まざまざと思い返される当時の感情。
崇高な使命に燃え上がれるほどにはピュアではなく、かといってもはや聖女になる以外の道も考えられず、すべて捨てて逃げるには良い思い出が多すぎる。そういう、なんともいえない状況で──
「実はね、すでに彼を連れてきているんだよ!」
「…………はい?」
──オリガが、記憶にない発言をした。
マリアンヌは違和感を覚えた。
だが、そもそもこれは『夢』だ。過去の情報を寝ている間に思い返しているだけだ。
そもそもなどと言い出すならば、そもそもマリアンヌにはもはやこの当時のことの『記憶』はない。なんの奇跡か『思い出している』様子だが、これは、オリガの話をもとに勝手に再構築したシーンを見ているだけなのだろう、と俯瞰的に『夢』を見るマリアンヌは判断した。
その夢の中で、
「きみに会いたいっていうからさ。特別に、ぼくが連れて来てあげたんだ」
「はあ」
マリアンヌは、当時のまま、そっけない反応をした。
慇懃無礼、あるいは丁寧無気力。その下にモチベーションを隠しているけれど、人付き合いはだいたい仮面で行う。それが、マリアンヌという少女だったことを、改めて思い出す。
自分が自分らしい感情で、自分のように反応をしているのを見るのは、不思議な気持ちだった。
そうして記憶の中で、情報とは違うタイミングで、マリアンヌは『人間代表』に引き合わされる。
その人物は……
「…………あなたが、『人間代表』ですか?」
ありえない、と夢を俯瞰しているマリアンヌは感じた。
だが、夢の中の、瑞々しい、少女時代のマリアンヌは、『その人物』を『人間代表』と思っているから、違和感は覚えていなかった。
ただ、当時のまま──自分が接待し、どうにかこうにか、世界の危機に出向かせるように仕向ける人物に、ちょっとだけがっかりしていた。
ついに死地に行く日が来ちゃったかあ、というがっかりだ。
もちろん、生きて帰るつもりで考えてもいたけれど。
そういう当たり前の反応をしながら出迎えた『人間代表』は……」
「ああ、セントっていうんだ。よろしく、マリアンヌ」
……なぜか、影のセントだった。
絶対にこういう事実はなかったと、俯瞰的にこの『夢』を見ているマリアンヌは思った。
けれど……
「そうですか。精一杯勤めさせていただきますので、よろしくお願いしますね、セント様」
夢の中のマリアンヌは、仮面のように微笑んで、『人間代表のセント』に挨拶をしていた。
おかしなことが、起こっている。
あるいは、夢とは、そういうものかもしれないけれど。