「エロ怖」日本の怪異を訪ねて 怖くてドエロい短篇集⭐️イラスト付き 作:みなぽん
下野国那須郡 狐母の伝
下野国那須郡の山里に、父母を相次いで失いし幼子ありけり。父は山仕事にて命を落とし、母は悲しみと貧苦のうちに病を得て、後を追うように世を去りたり。子はわずか三歳にして身寄りなく、村人の哀れみを受けて命をつないでおりしが、引き取る者もなく、やがて山裾の荒れ家に一人残されけり。
その夜より、不思議なること起こりたり。
朝になれば竈には飯が炊かれ、破れた着物は繕われ、子の枕元には温かき汁物が置かれておりたり。村人、誰の仕業かと怪しみて様子をうかがいしところ、ある夕暮れ、荒れ家の戸口より一人の女が入るを見たり。女は亡き母に生き写しの顔をして、幼子を抱き上げ、優しく髪を撫でておりたり。
「もう寂しい思いはさせませぬ。今宵より、母がそなたのそばにおりますぞ」
女はまことの母のごとく子を育てたり。飯を食わせ、病を看病し、夜泣きすれば胸に抱き、子守歌を歌い聞かせたり。子は女を母と信じ、女もまた我が子を慈しむように、朝夕片時も離れず世話をしたり。
村人は、死した母の魂が戻りたるものかと噂しける。されど、ある者が夜更けに家の窓より覗き見れば、女の姿はなく、囲炉裏の傍らに一匹の赤狐が丸まり、眠る子の顔をじっと見守っておりたりという。
かの狐は、かねて山の稲荷に棲むものなり。両親を失い、泣き叫ぶ子を哀れみ、亡き母の姿を借りて育てていたのである。
歳月流れ、子は立派な若者に成長せり。ある年、村を訪れたる老僧、家に立ち寄りて女を見るや、静かに告げたり。
「そなたは人にあらず、山の狐であろう。母の姿を借りてこの子を育てしこと、まことに情け深き行いなれど、いつまでも人の世に留まることはかなわぬ」
女は驚き、やがて涙を流して答えたり。
「われは狐にございます。親を失い、泣き暮らすこの子を見捨てることができませなんだ。亡き母の姿を借りたのは、この子が母を忘れず、安心して眠れるようにと思うたゆえ。育てた年月に偽りはございませぬ」
僧はしばらく目を伏せ、やがて女に山へ帰るよう告げたり。
その夜、女は若者の傍らに座し、幼き日の寝顔を思い返して、何度もその頬を撫でたり。若者は母の様子を不思議に思い、「母上、なぜ泣いておられるのです」と尋ねければ、女は微笑みて答えたり。
「お前が立派に育ったゆえ、母はもう安心なのです」
翌朝、女の姿はなく、戸口には赤き狐の毛が一筋落ちておりたり。
若者は山を探し回り、稲荷の祠の前にて泣き崩れたり。すると、木立の奥より一匹の赤狐が現れ、若者をじっと見つめたのち、静かに頭を下げ、山の彼方へと去りゆきたり。
以来、若者は毎年、母の去りし日に祠を訪れ、油揚げと花を供えたり。村人はこの狐を「母狐」と呼び、祠を「狐母稲荷」と名づけて、長くその情けを語り伝えたりという。
人と獣の境はあれど、母の愛に境なし。ただ一つ悲しきは、母と呼ばれし歳月が真実であればこそ、別れの涙もまた尽きせぬことなり。
狐塚謙也の母親
狗神丸子という先輩は、いろいろな意味で規格外の人だった。
野生の獣のような勘を持ち、興味を引くものを見つけると一直線に突っ込んでいく。大学のUMA研究会会長という肩書きは伊達ではない。少なくとも、本人はそう信じている。
そして、彼女の後輩である俺、犬飼篤志は、その行動力に何度も振り回されてきた。
今回も、始まりはいつもと変わらない昼休みだった。
「なあ、犬飼。狗神先輩」
食堂で定食をつついていた俺たちに、狐塚謙也が声をかけてきた。
狐塚謙也。俺と同じ学年で、気のいい友人である。細身で、少し癖のある髪をしていて、笑うと人懐っこい印象を与える男だ。派手なところはないが、困っている人を見過ごせない性格で、俺も何度か助けられたことがある。
その謙也が、珍しく神妙な顔をしていた。
「二人ってさ、妖怪とか幽霊とか、そういうのを調べてるんだよな?」
「おう!」
丸子先輩は、唐揚げを口いっぱいに頬張りながら元気よく答えた。
「幽霊、妖怪、UMA、宇宙人! なんでもござれ! この狗神丸子に任せなさい!」
「口の中のものを飲み込んでから話してください」
「んぐっ、ごくん。で、どうした謙也? 河童でも見たか? ツチノコか? それとも夜中にトイレに行ったら、便器の中から手が出てきたとか?」
「最後のは妖怪というよりホラーだろ……」
謙也は苦笑した。
しかし、すぐにその笑みが消えた。
「俺のお母さんのことなんだけどさ」
「お母さん?」
「うん。俺、三歳くらいのときの記憶が、ほんの少しだけ残ってるんだよ。その頃、お母さんは死んじゃったはずなんだ」
俺は箸を止めた。
そんな話は初耳だった。
「でもさ、今も元気に俺の家にいて、飯作ってくれて、洗濯してくれて、俺の面倒見てくれてんだよね」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
謙也は困ったように頭をかいた。
「いや、俺も変なこと言ってるのは分かってるんだ。小さい頃の記憶だから、夢と混ざってるのかもしれない。でも、なんとなく覚えてるんだよ。狭い部屋で、お母さんが倒れててさ。俺、ずっと泣いてたような気がする」
「それで?」
「気がついたら、今のお母さんがいた。顔も声も、昔の記憶にあるお母さんと同じなんだよ。髪は真っ白だけどね」
「白髪のお母さん?」
「うん。狐塚玲っていうんだ。玲さんって呼ぶ人もいるけど、俺はずっとお母さんって呼んでる」
謙也は、そこで少しだけ照れたように笑った。
「ちょっと物忘れが多いんだけどね。買い物に行って、何を買いに来たのか忘れちゃったり、鍋を火にかけたまま庭の花に水をやり始めたり。あと、俺の靴下を片方だけどこかにしまっちゃうんだよ。本人は一生懸命なんだけど、ちょっとポンコツなんだよな」
「ポンコツって……お前なあ」
「でも、優しいんだ」
謙也の声が、ふっと柔らかくなった。
「俺が風邪をひくと、一晩中そばにいてくれる。大学の試験で失敗したときも、何も聞かずに好きなものを作ってくれた。俺が帰ると、いつも玄関まで迎えに来てくれるんだよ。俺、もう二十歳過ぎてるのにさ」
謙也は照れくさそうに鼻をこすった。
「変だろ? でも、俺、お母さんが大好きなんだ」
その言葉には、少しも嘘がなかった。
だからこそ、俺は気になった。
幼い頃に死んだはずの母親が、今も家にいる。
白い髪をした、物忘れの多い優しい母親。
それだけなら、奇妙な記憶違いで済ませられたかもしれない。しかし、謙也は冗談を言っているようには見えなかった。
「……先輩」
「うん?」
丸子先輩は、いつの間にか食べるのをやめていた。
彼女の野性的な瞳が、じっと謙也を見つめている。
「そのお母さん、見に行こう」
「え?」
「会いたい! 謙也のお母さん!」
「いや、別にいいけど……普通のお母さんだよ?」
「普通かどうかは、会ってから決める!」
丸子先輩は、テーブルに両手をついて立ち上がった。
「さあ、行こう! 篤志、食器返して!」
「いや、まだ味噌汁が残ってますって!」
「あとで飲めばいい!」
「冷めるでしょうが!」
結局、俺たちは午後の講義が始まる前に、謙也の家へ向かうことになった。
そのときの俺は、まさかあんな話を聞かされることになるとは、夢にも思っていなかったのである。
*
狐塚家は、大学から自転車で二十分ほど離れた住宅街の外れにあった。
古びた木造二階建ての一軒家。決して大きくはないが、玄関先には季節の花が並べられ、門の脇には小さな鉢植えがいくつも置かれていた。よく手入れされている。
玄関の前で、謙也が呼び鈴を押す。
しばらくして、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「はあい、今開けますよ」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、白い髪の女性だった。
腰のあたりまで伸びた髪は、雪のように白い。年齢は四十代というが若々しく20代にも見え、目元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
淡い色のカーディガンに、長めのスカート。化粧気はほとんどない。どこか昔話に出てくる山里の女性を思わせる、穏やかな雰囲気の人だった。
「あら、謙ちゃん。お帰りなさい」
「ただいま、お母さん。今日は友達を連れてきたんだ」
「まあまあ、お友達?」
玲さんは嬉しそうに顔をほころばせた。
「いらっしゃい。ごめんなさいね、急に来てもらったのに、何も用意していなくて」
「いえ、お構いなく」
俺が頭を下げると、玲さんは慌てて両手を振った。
「そんな、せっかく来てくださったのに。あら、でも、お茶を出そうと思っていたのに、お茶の葉がどこにあったかしら……」
「お母さん、昨日、冷蔵庫に入れちゃったじゃん」
「あら、そうだったかしら?」
「うん。お母さんが『ここなら虫がつかないわ』って」
「まあ、私ったら」
玲さんは恥ずかしそうに頬に手を当てた。
その様子が、なんともいえず微笑ましい。
「ごめんなさいね。私、ちょっと忘れっぽくて」
「いいって。俺が出すよ。みんな、上がって」
謙也は慣れた様子で靴を脱ぎ、俺たちを招き入れた。
そのときだった。
隣にいた丸子先輩が、ぴたりと動きを止めた。
彼女の鼻が、ひくひくと動いた。
次の瞬間。
「――おい」
低い声だった。
先ほどまでの陽気さが、嘘のように消えていた。
丸子先輩の黒い瞳が、玲さんを射抜く。
「おい、狐」
「え……?」
玲さんが目を丸くした。
丸子先輩の頭から、黒い獣の耳がぴんと立ち上がった。
ジャージの背中からは、太い尻尾が一本、勢いよく飛び出す。
俺は思わず後ずさった。
「せ、先輩!?」
しかし、丸子先輩は俺の声など聞こえていないようだった。
彼女は歯をむき出しにし、全身の毛を逆立てるようにして唸った。
「グルルルル……!」
その声は、人間の喉から出たものとは思えなかった。
獲物を威嚇する獣の声。
いや、違う。
同じ獣でも、もっと古く、もっと恐ろしい何かの声だった。
「な、なに……?」
玲さんの顔から血の気が引いた。
彼女は震える手で謙也の服をつかみ、その背中に隠れた。
「謙ちゃん……この人、怖い……」
「ちょ、ちょっと先輩! 何してるんですか!」
「黙れ、篤志!」
丸子先輩が吠えた。
「おい狐! なんでお前がここにいる!?」
その瞳は、もはや人間のものではなかった。
「人間をたぶらかして、何か悪事でも働こうっていうのか!? こいつの母親はどうした! お前が喰らったのか!?」
「やめてください!」
謙也が声を上げた。
いつも穏やかな彼が、聞いたこともないほど強い声を出した。
「お母さんに何を言ってるんですか! お母さんは、俺のお母さんだ!」
彼は両腕を広げ、玲さんを庇うように立った。
その背中は震えていた。
それでも、一歩も退かなかった。
「俺のお母さんを、化け物みたいに言わないでください!」
丸子先輩は、わずかに目を細めた。
だが、唸り声を収めようとはしなかった。
玲さんは息子の背中に顔を押しつけ、ぎゅっと服を握りしめていた。
その姿を見て、俺は気づいた。
この人は、本当に怯えている。
恐ろしい妖怪に正体を見破られた化け狐。
そんな言葉だけでは説明できないほど、彼女は震えていた。
まるで、長年守り続けてきたものを、突然奪われそうになった子供のように。
やがて玲さんは、謙也の背中からそっと顔を出した。
「……違うんです」
消え入りそうな声だった。
「私は、この子に悪いことなど……何ひとつ……」
「なら答えろ!」
丸子先輩の声が、家の中に響いた。
「お前は何者だ。どうして人間の母親の姿をしている?」
玲さんは唇を噛んだ。
そして、謙也の背中に回していた手を、ゆっくりと離した。
「……ごめんなさい、謙ちゃん」
「お母さん?」
「ずっと、言わなければいけないと思っていました。でも……怖かったのです」
白い髪が、かすかに揺れた。
玲さんは震える息を吐いた。
「私が本当は、あなたのお母さんではないと……知られてしまうのが」
謙也は呆然と彼女を見つめていた。
玲の告白
「ずっと昔のことです」
玲さんは、居間の座布団に正座した。
俺たちも座るよう促されたが、丸子先輩だけは腕を組んだまま、警戒を解かなかった。
玲さんは、その姿に怯えながらも、ゆっくりと語り始めた。
「この子の本当のお母さんは……謙也が三歳の頃に亡くなりました」
謙也の顔がこわばった。
「お母さん……?」
「ごめんなさいね。あなたには、いつか話さなければいけなかったのに」
玲さんは目を伏せた。
「あなたのお父さんは、ずっと前に亡くなっていました。お母さんは、その悲しみからお酒に溺れ……やがて、薬にも手を出すようになったのです」
声は静かだった。
しかし、その言葉のひとつひとつが、重かった。
「お金がなくなると、家の物を売り、食べるものさえ買わなくなりました。あなたが泣いても、抱き上げてくれることはありませんでした。熱を出しても、そばにいてくれる人はいませんでした」
玲さんは、涙をこらえるように目を閉じた。
窓の外で、風が木々を揺らしていた。
「……あの日」
玲さんは、膝の上で両手を重ねた。
「私は、山の古いお社に棲んでいました。人間の暮らしを遠くから眺めて、ときおり村へ下りては、食べ物を探していたのです」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「人間というものは、不思議ですね。おいしいものを食べると笑うでしょう。大切な人が帰ってくると、玄関まで走って迎えに行くでしょう。私は、それを見ているのが好きでした」
白い髪が、頬にかかった。
「でも、あの日は……違ったのです」
冬の終わり。
古いアパートの一室から、泣き声が聞こえてきた。
三歳の子供の声だった。
何度も、何度も母親を呼んでいた。
けれど、返事はなかった。
狐は、人間の姿に化けて、そっと部屋を覗いた。
そこには、ひどく痩せた子供がいた。
頬はこけ、唇は乾き、泣く力さえ失いかけていた。
部屋の隅には、女が倒れていた。酒瓶と、散らばった違法な薬の包み。
女は、すでに息絶えていた。
「……この子は、もう長く生きられない」
狐はそう思ったという。
子供は、狐を見上げた。
そして、かすれた声で言った。
「……おかあ、さん」
その一言が、狐の胸を打った。
狐は、しばらく動けなかった。
人間の親子がどんなものであるか、彼女は知っていた。
抱きしめる腕があり、温かい食事があり、夜に怖い夢を見たときには、そばにいてくれる誰かがいる。
この子には、それがなかった。
母親は、もういない。
父親も、いない。
助けを呼ぶ力も、残っていない。
狐は、子供の傍らに膝をついた。
「……かわいそうに」
そう呟いて、そっと抱き上げた。
あまりにも軽かった。
まるで、少し力を入れれば壊れてしまう人形のようだった。
「もう大丈夫ですよ」
狐は、子供の耳元で囁いた。
「私がいますからね」
そのとき、子供が小さな手で狐の着物を握った。
離すまいとするように。
狐は、顔を伏せた。
そして、決めた。
この子を育てよう。
この子が、もう一度笑えるようになるまで。
母親の死体は、そのままにはできなかった。
狐は、誰にも見られぬよう狐火を灯し、女の亡骸を弔った。灰になったものを丁寧に集め、土に埋めた。
それから、亡き母親の顔を思い浮かべた。
子供が最後に見た母親の姿を、奪ってしまわないように。
少なくとも、この子が安心して眠れるように。
狐は、人間の女の姿に化けた。
白い髪を持つ、優しい母親の姿に。
「……そうして、私はこの子の母親になったのです」
玲さんは、そこで言葉を切った。
謙也は、うつむいたままだった。
その手は、膝の上で強く握りしめられていた。
*
最初の数か月は、苦労の連続だったという。
狐は、人間の食べ物を作ることはできても、子供が何を食べればよいのか、どれだけ食べさせればよいのか、よく分からなかった。
山で暮らしていた頃は、腹が減れば獲物を捕まえればよかった。
だが、人間の子供は違う。食べさせすぎても吐いてしまうし、少なすぎれば体力が戻らない。
「最初は、本当に何も分かりませんでした」
玲さんは、恥ずかしそうに笑った。
「お粥を作ったのですが少しでも栄養をつけてあげようと思って煮詰めたら鍋を焦がしてしまって……」
「……ああ」
謙也が、かすかに声を漏らした。
「お母さん、今でもお粥を作るとき、たまに失敗するよね」
「まあ、謙ちゃん。そんなことまで覚えているの?」
「そりゃ覚えてるよ。俺が小さい頃から、ずっとだもん」
謙也は、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見た玲さんの目に、涙が浮かんだ。
「……そうですね。ずっと、作っていましたものね」
狐は、毎日、子供のために食事を作った。
食べられた日は、嬉しかった。昨日より多く食べられた日は、もっと嬉しかった。
子供が初めて自分の足で立ち上がったときには、思わず声を上げて喜んだ。
洗濯物を裏返しに干したり、砂糖と塩を間違えたり、買い物に出て帰り道が分からなくなったり。
人間の暮らしは、狐にとって難しいことばかりだった。
それでも、子供が笑うたび、彼女は幸せだった。
「謙ちゃんが初めて、私の作った卵焼きを食べてくれた日も、よく覚えています」
「……卵焼き?」
「ええ。最初は焦がしてしまって、真っ黒になったのです。次は甘くしすぎてしまって。三度目は、塩を入れすぎました」
「俺、そんなの食べてたの?」
「はい。謙ちゃんは、どれも残さず食べてくれました」
「……そっか」
謙也は、顔を伏せた。
「俺、覚えてないな……」
「覚えていなくてもいいのですよ」
玲さんは優しく言った。
「私は、覚えていますから」
その言葉を聞いたとき、俺は胸が詰まるような気がした。
この人は、ずっとそうしてきたのだ。
謙也が覚えていないような、小さな出来事を。
初めて歩いた日。
初めて言葉を話した日。
熱を出して、一晩中うなされていた日。
初めて一人で靴を履けた日。
初めて友達を家に連れてきた日。
そのひとつひとつを、彼女は覚えていた。
血のつながりなど、なかった。
人間ですら、なかった。
それでも彼女は、誰よりも深く、この子の成長を見守ってきたのだ。
そして狐である彼女が1番苦労したのは現金収入を得ることだった。麻薬と酒で死んだ女が残した名刺、それは場末のバーの名刺であった。バーと言っても上品なものではない。ほぼ裸に近い服を着て、男に体を触らせて酒を飲ませて金を得る仕事だ。誇り高い狐の彼女はそれでも躊躇いなく夜の街に働きに出た。化けるのは、元より得意、騙すのもお家芸だ。
しかし、男たちの欲望は、果てしない、玲は男たちのいやらしい手で触られた。
「玲ちゃん、新しいボトル入れてあげる代わりにいいよね❤️」彼女の細い腰男が掴み、強引に唇を奪った。
「…やめてください」
玲の声は震えていたが、その瞳には決して揺るがない光があった。
男たちは笑った。酒と欲望で濁った目で、彼女の白い髪と細い体を品定めするように眺めた。
「なんだよ、お前みたいなのがこの店に来てんだから、覚悟はできてんだろ?マスター今日は玲ちゃんをテイクアウトするといいな。」
太い指が彼女の腕を掴み、引き寄せる。安い香水とタバコの匂いが鼻をついた。
テイクアウトされると言う事は、ホテルに連れ込まれて犯されると言うことだ。
人間の男の欲望は、山の獣よりも性質が悪い。獣は腹が満ちれば襲わない。だが、人間は違う。満ちても満ちても、どこまでも貪欲に他人を食い物にする。
玲は唇を噛み締めた。
逃げることは簡単だ。狐の姿に戻り、一瞬でこの場所から消え去ることもできる。男たちなど、赤子の手をひねるより容易く無力化できる。
だが、そうすれば。
あの部屋で待っている、小さな命のことが頭をよぎった。
明日のミルク代。来月の家賃。新しい靴下。冬を越すための暖房費。
すべては、あの子のために。
「…準備してまいります」
玲は男の手をそっと解き、作り笑いを浮かべた。
その笑顔は、どんなに汚れた場所にあっても、どこか清らかだった。
「だから、少しだけ待っていてくださいませ」
ホテルの部屋は、安っぽい芳香剤と男の脂臭い汗の匂いに満ちていた。
重い。
のしかかる男の体は、まるで腐った木の幹のように重く、熱く、湿っていた。でっぷりと膨れ上がった腹が玲の平坦な腹部を圧迫し、荒い息遣いが耳元に吹きかかる。ベッドが軋む音は、山の木々が風に揺れる音とは似ても似つかない、ぎこちなく醜いリズムを刻んでいた。
「くっ…ああ…玲ちゃん、いいよ…」
男が腰を打ち付けるたび、玲の細い体はベッドに沈み込み、悲鳴を上げるようにスプリングが鳴った。スレンダーな彼女の肢体は、男の巨体の下で今にも折れてしまいそうだった。肌と肌がぶつかる湿った音が響くたびに、狐としての誇りが細かく削ぎ落とされていくようだった。
目を閉じれば、山の冷たい風が感じられるはずだった。土の匂いと木々のざわめき。それが彼女の本来棲むべき世界。
だが、玲は目を開けていた。
天井の染みを眺めながら、考えるのだ。
あの小さな手が、自分の着物を掴んだ感触を。
『おかあさん』
そのか細い声が、鼓膜の奥で何度も繰り返される。
痛みが走る。屈辱が胸を焼く。人間の男の欲望は、獲物を捕らえる爪よりも鋭く、皮肉よりも粘着質だ。体の奥深くまで侵入してくるこの感覚に、吐き気を催す。変化の術を使えば、一瞬でこの男を灰にすることもできるだろう。爪を剥き出しにし、その太い首を食いちぎることなど造作もない。
それでも、玲は耐えた。
唇を噛み締め、白く細い指でシーツを握りしめる。
明日は、謙也に新しい靴を買ってやらねばならない。足が大きくなって、つま先が窮屈そうだった。それに冬が来る前にもっと分厚いコートも。ミルクも卵も、ただでは手に入らない。この男が今自分の体に注ぎ込んでいる欲望の対価は、あの子の明日の命になるのだ。
「…んっ…」
思わず漏れた声は、快楽などでは決してなく、痛みをこらえるための呼吸の漏れだった。それを聞いた男は満足げに喉を鳴らし、さらに激しく腰を振った。
やがて、男が獣のような唸り声を上げて体を震わせ、すべてを吐き出すように彼女の上に倒れ込んできた。
重苦しい沈黙。
汗に濡れた胸が、玲の顔の横で上下している。
玲は動かなかった。ただ天井を見つめたまま、胸の奥で小さな祈りを捧げていた。
終わったのだ。これでいい。
男が満足すれば、札束は手に入る。あの子が笑ってくれるなら。あの子が温かいご飯を食べられるなら。この体がどうなろうと構わない。この皮を被っているのは母だ。母は強い。母は耐える。
男が重たい体を起こし、満足げにタバコに火をつけた。
「いやあ、玲ちゃんは最高だねえ。また来週も頼むよ」
「…はい。お待ちしております」
枕元に置かれた現金の束を見つめながら、玲は作り笑いを浮かべた。その笑顔は、どれほど汚れた場所で浮かべようと、不思議と清らかさを失わなかった
それから数年。
玲は場末のバーから一歩ずつ階段を上っていった。
彼女には人間にはない武器があった。狐としての研ぎ澄まされた勘と人間を魅了する力。だがそれを表立って使うことはしなかった。ただ客の目を見て話を聞き少し寂しさを紛らわせてやるだけでよかったのだ。
人間は本当に寂しい生き物だ。誰かに話を聞いてほしいだけであり誰かに触れてほしいだけで金を払う。狐が見れば滑稽なことだがその愚かさが不思議と愛おしくもあった。
「玲さん、今日も美しいね」
高級クラブの個室でグラスを傾ける男たちは最初の頃の客とは違った。金はあるが心は乾いている。彼らは玲の白い髪と物憂げな瞳に幻想を抱き彼女を特別な存在として扱った。
「おかげさまで息子が無事大学に進学できそうなんです」
玲が恥ずかしそうに告げると男たちは我先に祝杯を挙げた。
彼女は一流のホステスになっていた。ドレスを身にまとい高価な酒を嗜む夜。しかし彼女の胸の奥には常に山の風が吹いていた。どんなに煌びやかなシャンデリアの下にいても彼女は自分が狐であることを忘れなかった。
そして何より忘れなかったのは家で待つ息子の顔だ。
夜が更けタクシーでアパートに戻る頃にはいつも疲れ果てていた。化粧を落とし着物を脱ぐと狐の耳がぴくりと動く。人間の姿を保ち続けること自体が狐にとっては重労働なのだ。
人間の母親として生きることは狐にとっては茨の道だった。しかしその道の先に息子の笑顔がある限り彼女は歩みを止めるつもりはなかったのだ。
どんなに泥にまみれようと母であることだけは誰にも奪えない真実なのだから。
*
「……お母さん」
謙也が、ゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ、俺が小さい頃からずっと、今まで……?」
「はい」
「俺が熱を出したときも?」
「はい」
「幼稚園に行きたくないって泣いたときも?」
「はい。あのときは、どうしたらいいのか分からなくて、私も一緒に泣いてしまいましたね」
「小学校の入学式も?」
「ええ。あなたの手を握って、校門まで一緒に歩きました」
「中学のとき、部活で失敗して落ち込んでたときも?」
「はい。あのときは、好きなハンバーグを作りました」
謙也は、唇を震わせた。
「大学に受かったときも?」
「……もちろんです」
玲さんは微笑んだ。
「嬉しくて、嬉しくて。あなたが合格したと知ったとき、私は何をしていいか分からなくなってしまって……踊り出してしまったです」
「……あったなあ、そんなこと」
謙也の目から、涙がこぼれた。
「あのとき、俺、すげえ笑ったよな」
「はい……」
「俺、あれ、嬉しかったんだ」謙也は、涙を拭おうともしなかった。
「ありがとう、お母さん」
その一言に、玲さんの顔がくしゃりと歪んだ。
彼女は、両手で顔を覆った。
「……そんなこと、言わないでください」
「どうして?」
「私は……私は、あなたを騙していたのですよ」
玲さんは、震える声で言った。
「本当のお母さんではないのに、お母さんの姿をして。あなたに、嘘をつき続けてきたのです」
「……」
「あなたが私をお母さんと呼ぶたび、嬉しかった。でも、同時に怖かったのです。いつか、本当のことを知られてしまうのではないかと。あなたが私を憎む日が来るのではないかと……」
涙が、白い頬を伝った。
「ごめんなさい、謙ちゃん。ごめんなさい……」
玲さんは、畳に手をついた。
深く、深く頭を下げた。
「私は、狐です。人間ではありません。そして正体を見破られた狐はもうそばにはいられません」
彼女は立ち上がった。
「あなたは立派に成長しました。もう、私がいなくても大丈夫です。だから……」
そこで言葉が途切れた。
玲さんは、笑おうとした。
いつものように、優しく。
玄関で息子を迎えるときのように。
けれど、うまく笑えなかった。彼女の瞳から涙が溢れた。
「……どうか、幸せになってくださいね」
彼女は、玄関へ向かった。
白い髪が、背中で揺れた。
「……待てよ」
低い声が、居間に響いた。謙也だった。
彼は立ち上がり、玄関へ向かって歩き出した。
「お母さん」
玲さんの肩が、びくりと震えた。
「……謙ちゃん?」
「どこに行くの?」
「……山へ帰ります」
「なんで?」
「私は……あなたのお母さんではないから」
「……それ、誰が決めたの?」
玲さんは、答えられなかった。
謙也は、目元を拭った。
そして、子供の頃と同じように、彼女の服の裾をつかんだ。
「俺にとっては、お母さんなんだよ! 俺が小さい頃から、ずっと、ずっと……!」
謙也は、彼女の服を握る手に力を込めた。
「俺、覚えてるんだ。小さい頃、夜中に目が覚めたら、お母さんが隣で寝ててさ。俺が泣くと、すぐ起きて抱きしめてくれた。怖い夢を見たときも、ずっとそばにいてくれた」
彼は、泣きながら笑った。
「俺、お母さんがいなくなったら、どうしたらいいんだよ……」
玲さんは、立ち尽くしていた。
「……でも、私は狐なのですよ」
「うん」
「人間ではないのです」
「うん」
「あなたを騙していたのですよ……?」
「それでも、俺のお母さんだ!俺を育ててくれて、ありがとう」
その瞬間。
玲さんは、声を上げて泣いた。
長い年月、決して見せまいとしてきた涙を、堰を切ったように流した。
「……謙ちゃん……!」
彼女は、息子を抱きしめ返した。
まるで、もう二度と離すまいとするように。
白い髪が、謙也の肩に流れ落ちた。
その背中に、ふわりと白いものが現れた。
一本の、柔らかな狐の尻尾。
それは、彼女が人間ではないことの証だった。
けれど、その尻尾は謙也を威嚇するためでも、恐怖を与えるためでもなかった。
ただ、彼を包み込むように、そっと寄り添っていた。
⭐️狗神丸子の提案
抱き合う母子の姿を見つめながら、丸子先輩はぼりぼりと頭をかいた。その顔には、呆れと、それ以上のどこか楽しげな色が浮かんでいる。
やがて彼女は、わざとらしく大きなため息をついた。
「……ちっ。甘ったるい」
その声に、謙也と玲さんは弾かれたように顔を上げた。
「せ、先輩……」
「おい狐」
丸子先輩は、腕を組んで玲さんを見下ろした。その瞳にはもう敵意はない。あるのは、ただ同じ獣の仲間に向けるような、親愛と呆れが入り混じった光だった。
「正体がバレたら去る? そんなくだらん掟、誰が決めたんだ?」
「え……でも、それは……」
「お前がそいつを大事なら、もう一回化かし直せばいいだろ」
丸子先輩は、もっともなことを言うように鼻を鳴らした。
「正体がバレて終わりなら、もう一回信じ込ませりゃいい。あるいはな、正体を知った上で、それでもだまされ続けるって選択肢だってあるんだよ」
彼女は今度は謙也に向き直った。
「おい謙也。お前はその狐と一緒にいたいか?」
「……いたいです」
謙也は迷わず答えた。
「なら、ずっと化かされてろ。それが人間と妖怪の付き合い方だ」
丸子先輩はニカッと笑った。
「相手が化かしたいなら化かさせてやれ。お前がだまされたいならだまされ続けろ。理屈じゃねえ。そういうことだ」
その言葉は、妙に説得力があった。
人間と妖怪の境界線なんて、所詮は曖昧なものだ。信じるか信じないか。一緒にいたいかいたくないか。ただそれだけのことなのかもしれない。
*
それから三日後。
大学のキャンパスは、いつも通りに賑やかだった。
講義が終わった俺と丸子先輩が芝生の上でだらだらとしていると、見慣れた姿が歩いてきた。
狐塚謙也だ。しかし、いつもと決定的に違うことがあった。
彼の隣に、女性がいる。
長い雪のような白髪。透き通るような白い肌。そしてどこか憂いを帯びた美しい顔立ち。彼女は淡い色のワンピースを着て、恥ずかしそうに少し俯きながら、謙也のすぐ後ろをついてきている。
「……マジかよ」俺は思わず呟いた。
「おーい! 謙也!」
丸子先輩が手を振ると、謙也は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「よう! 二人とも元気だった?」
「元気も何も、三日しか経ってねえよ。それより……」
丸子先輩が白髪の美少女をじろじろと見る。
「おい狐。随分といいご身分になったじゃねえか」
「……もうからかわないでください」
美少女――玲さんは、顔を真っ赤にして小さな声で抗議した。
「え? え? あの……」
俺が困惑していると、謙也は得意げに胸を張った。
「紹介するよ。彼女、玲って言います」
「……初めまして」
玲さんはぺこりとお辞儀をした。その仕草には、あのポンコツな母親の面影が確かにあったが、同時に男なら誰もが振り返るような危険な魅力が漂っていた。
「でさあ、実は俺たち……」
謙也は言葉を切り、照れくさそうに頭をかいた。そして、覚悟を決めたように玲さんの手をぎゅっと握った。
「結婚を前提に付き合うことになりました!」
「……は?」
俺は間抜けな声を出した。
「付き合うって……母親だろ?」
「今は違うよ!」
謙也は力強く言った。
「俺ね、考えたんだ。お母さんには感謝してる。本当にありがとうって伝えたい。でも……俺が求めてるのは『母親』じゃないって」
彼は玲さんの手を両手で包み込んだ。
「俺が一緒にいたいのは、母親としての玲さんじゃなくて……一人の女性としての玲さんなんだ」玲さんが目を見開く。
「謙ちゃん……」
「小さい頃は俺を守ってくれたよね。今度は俺が守りたい。親子じゃなくて、対等な関係で……俺の隣にいてほしい」
謙也の瞳は真剣そのものだった。
母親を失った子供の依存ではない。一人の男として、愛する女性に向ける真っ直ぐな眼差しだった。
「俺と……恋人になってください!」
キャンパス中の学生がざわつき出すほどの大声だった。
玲さんは驚き、羞恥で顔を赤らめ、困ったように眉を下げた。まるで煮物を焦がしてしまったときのような表情で、それでいて幸せそうに微笑んだ。
「……もう、謙ちゃんったら」
彼女は一歩踏み出し、謙也の胸にそっと額を預けた。
「私なんかでよかったら……おそばにいます」
その言葉は、かつて泣き叫ぶ幼子に囁いた誓いと同じ重さを持っていた。
ただ一つ違うのは、それが母性ではなく恋心から出たものだということ。
「わーい!」謙也は子供のように歓声を上げて玲さんを抱き上げた。
「ちょっ、謙ちゃん! 降ろして! 見られてます!」
「いいじゃん! 俺たち恋人同士なんだから!」
「もう……恥ずかしいです……」
顔を真っ赤にしながらも、玲さんは嬉しそうに謙也の首に腕を回した。
二人の間にはもう、「母と子」という古い殻はなかった。あるのは、「男と女」という新しくて甘い絆だけだ。
「……やれやれ」
丸子先輩が呆れたように呟いた。
「まあいいんじゃねえか? 幸せならOKだろ」
「先輩……あんなこと言ってましたけど、もしかして最初からこうなるつもりでした?」
「さあな? 狗神丸子は予言者じゃねえからな」
先輩はニヤリと笑った。
「ただ分かってたのは……愛ってのは理屈じゃねえってことだけだ」
芝生の上では、白髪の美少女と青年が笑い合っている。
狐と人間。偽りから始まった関係が、今ここで最も真実なものに変わった。
長い長い物語はここで終わりを告げ、新しい物語が始まる。
それはきっと今までよりもずっと甘くてずっと幸せな物語に違いない。
⭐️エピローグ
夜の静寂が、狐塚家の寝室を深く包み込んでいた。
窓の外から差し込む月明かりのみが、しとしとと畳の上に白い帯を描いている。その淡い光の中で、謙也は緊張に震える指先を、そっと玲の頬に添えた。
「玲さん……」
呼びかけると、彼女はふわりと微笑んだ。
あの母親だった頃の慈愛に満ちた笑みではなく、一人の女として男に身を委ねる、艶やかでどこかはにかんだ笑みだ。雪のような白髪がシーツの上に散らばり、夜の闇に溶け込んでいく。
「謙ちゃん。そんなに怯えないで」
玲は自分から顔を寄せ、謙也の唇にそっと自分のそれを重ねた。
柔らかく温かい感触に、謙也の心臓が跳ねた。二十数年間彼女を「母」と呼び続けてきた背徳感と、今目の前にいる愛しい女性への渇望が、体の中で激しくぶつかり合う。
「んっ……」
深くなる口付け。玲の舌が、戸惑う謙也の歯列をなぞり、遠慮がちな舌を絡め取る。彼女の細い腕が背中に回され、優しく抱き寄せられると、謙也は自分が小さな子供に還ったような心地がした。だが、背中を撫でるその手は母親のものではなく、男を煽り立てる女の愛撫だった。
「初めてなんですね」
唇を離し、潤んだ瞳で見上げる玲の顔は、あまりにも美しかった。
謙也は顔を赤らめながらも、コクンと頷いた。
「……うん。だから、どうしたらいいか分からなくて」
「大丈夫。私が教えますから」
玲は優しく囁くと、謙也のシャツのボタンに手をかけた。一つずつ外していくたびに、彼女の白く華奢な指が胸板に触れ、そのたびに謙也の体がビクリと反応する。自分を育ててくれた手が、今は自分を男として愛撫している。その事実が、謙也の理性を灼き切っていく。
シャツが脱がされ、次にズボンのベルトに手が伸びた時、謙也は思わず息を呑んだ。しかし玲は迷いなくそれを解き、下着ごと脱がせると、現れた猛り狂った欲望を愛おしそうに見つめた。
「……大きくなって」
玲は頬を染めながら、その熱源を両手で包み込んだ。
「うわっ……! れ、玲さん……!」
「静かに。気持ちいいですか?」
ゆっくりと上下に扱かれるたび、背筋に甘い痺れが走る。謙也はシーツを掴み、必死に声を押し殺した。だが玲はそれを許さない。
「声を聞かせてください。謙ちゃんが気持ちいいって言ってくれると……私も嬉しいんです」
彼女はそう言うと、顔を伏せ、その先端にちろりと舌を這わせた。
「あっ……! だめっ、そこ……!」
生暖かい口腔に包まれ、舌で転がされる感覚に、謙也は腰を浮かせてしまった。玲は逃がさないように腰を押さえつけ、深く飲み込んでいく。ジュルジュルという水音が部屋に響き渡り、羞恥心と快楽で謙也の頭が真っ白になりそうだった。
「玲さん……もう、限界……っ!」
限界を告げる謙也の声に、玲は名残惜しそうに唇を離した。銀色の糸が引くその姿は、淫靡で神聖だった。
「まだダメですよ。今日は……私の中に出してくださいね」
玲は自ら着ていたネグリジェの紐を解き、するりと肩から落とした。
露わになった白磁のような肌。ふっくらとした乳房と、その頂に立つ淡い桜色の乳首。そして細い腰の曲線。
謙也は息を呑んでその姿に見とれた。これまで母親としてしか見てこなかった体が、今はどうしようもなく愛おしい女の体として目に焼き付く。
「見つめないでください……恥ずかしい……」
玲は少し身をよじりながらも、謙也の上に跨った。
白い太腿が謙也の腰を挟み込む。彼女の秘所はすでに蜜でとろとろに濡れており、謙也の硬度に触れるとくちゅりと音を立てた。
「入りますよ……」
玲は手で屹立を導きながら、ゆっくりと腰を沈めていく。
「くっ……! きつい……!」
狭く熆い襞が押し広げられ、締め上げられていく感覚。謙也はあまりの気持ちよさに声も出なかった。
「んんっ……はあっ……謙ちゃんのが……入ってくる……」
玲も甘い吐息を漏らしながら、根元まで飲み込んでいく。やがて完全に結合されると、二人はしっかりと抱き合った。
「動きますね……」
玲は耳元で囁き、腰を揺らし始めた。
最初はゆっくりと。前後に擦り付けるように。謙也の敏感な部分を的確に刺激していく。
「あっ、あっ……玲さんっ……すごい……気持ちいいよぉ……!」
童貞の謙也には耐えきれない快感だった。母親のような包容力の中で責められ続け、彼は子供のように甘い声を漏らし続けるしかなかった。
「いいですよ……謙ちゃん。もっと感じて……私の中いっぱいにして……」
玲の動きが少しずつ激しくなる。重力を使って深く突き下ろし、角度を変えて擦り上げる。
ぱんっ、ぱんっという肉と肉がぶつかる音と、くちゅくちゅという結合部の水音が混じり合い、甘い協奏曲を奏でる。
「れいさぁんっ! ああっ! もうっ!」
限界が近いことを伝える謙也の言葉に、玲はさらに深く腰を沈め、膣内をきゅうきゅうと締め付けた。
「いいんです……出してください……私の中に……全部……!」
その許しの言葉と共に、謙也は爆発した。
「いくっ! あああっ!!」
どくっ、どくっという勢いで白濁が注ぎ込まれる。子宮の奥深くまで届くような強烈な放出に、玲も背中を反らして絶頂した。
「んっ! ああっ! 来てる……謙ちゃんのが……熱い……!」
二人は固く抱き合ったまま、長い余韻に浸った。
しかし、謙也の若さと精力は一度では収まらなかった。すぐさま再び硬度を取り戻し、まだ自身を咥え込んでいる玲の中で脈打つ。
「あら……まだ元気なんですね」
玲は驚きつつも嬉しそうに微笑みると、今度は自ら足を大きく開き、謙也を受け入れた。
「もっと……していいですよ」
その言葉に後押しされ、今度は謙也が上に乗った。
母親のように優しく導かれた初めとは違い、今度は本能のままに腰を打ち付ける。
「あっ! あっ! 謙ちゃんっ! 激しいっ! そこっ! ああんっ!」
深く突かれるたびに玲の体が跳ねる。白い乳房が波打ち、汗ばんだ肌が擦れ合う。獣のような激しさで交わる二人の間に、「母と子」という聖域はもうどこにもなかった。ただ男と女が求め合い、貪り合う本能的な快楽だけがあった。
二度目の放出を終えてもまだ足りず、謙也は三度目を求めた。
今度は背後から抱え込み、深く貫く。
「れいさん……愛してるっ! 大好きっ!」
「んんっ! 私もっ! 謙ちゃんっ! 愛してるっ! ああっ!」
三度目の中出しを受け止めながら、玲は涙を流して喘いだ。
それは悲しみの涙ではなく、長年隠してきた秘密が暴かれ、それでもなお愛されることへの喜びと安堵の涙だった。
やがて激しい情事が終わりを告げると、二人は汗と体液にまみれたままシーツに沈んだ。
荒い息遣いだけが響く部屋で、謙也は玲の手を握りしめ彼女を見つめた。
「玲さん……本当にありがとう」
「ふふ……ありがとうございますなんて。もう母親じゃないんですよ?」
玲は少し拗ねたように言ったがその目は幸せそうに細められていた。
「うん。母親じゃない。俺の大切な人だよ」
そう言って頬にキスをする謙也に、玲は満ち足りた笑顔を見せた。
狐と人間。偽りから始まった絆は今夜この濃厚な愛の交わりによって血肉を持った真実へと生まれ変わったのだ。
窓の外では月が静かに沈み行き夜が更けていく。
だが二人の新しい人生にはまだ甘く明るい朝がこれから何度も訪れることだろう。