「エロ怖」日本の怪異を訪ねて 怖くてドエロい短篇集⭐️イラスト付き 作:みなぽん
寛永年間 仙台藩家老某覚書
一、寛永某年九月十五日、仙台城下にて起こりし不思議の事。
当夜、城下は盂蘭盆の祭りにて、町々に提灯を掲げ、笛太鼓の音賑やかなり。藩士の嫡男、新之助という二十歳ばかりの若侍、久しく人前に笑うことなく暮らしおりしが、この夜は白き朝顔の浴衣をまとい、一人祭りへ出でたり。
新之助には、お露という許嫁あり。幼き頃より心を通わせし仲なれど、前年の春、流行り病にて若くして世を去りたり。それより新之助、祭りにも出でず、ただ亡き人を思い暮らしておりしという。
二、夜半、川辺を歩きおりしところ、背後より「新之助さま」と呼ぶ声あり。振り返れば、そこに立つは亡きお露なり。白き浴衣に紅の帯、病に倒れる前と変わらぬ美しき姿にて、微笑みおりたり。
新之助、驚きて「そなたは、すでにこの世の人ではないはず」と問えば、お露、「今宵は盆にございます。私も、もう一度お逢いしとうございました」と答えたり。
二人、連れ立ちて祭りを巡り、飴細工を買い、踊りの輪に加わりたり。新之助、久方ぶりに笑い、お露もまた、少女のごとく喜びたり。されど露店の者どもには、娘の姿は見えざりしという。
三、やがて夜明け近くなり、お露は川辺にて、「もうお別れの刻にございます。どうか、これからは笑うてくださいませ。私との思い出を悲しみばかりにせず、幸せに生きてください」と語りたり。
新之助、涙ながらにその手を握りしが、朝日が川面を照らすとともに、お露の姿は朝霧のごとく消え失せたり。
四、その後、新之助は心を取り戻し、妻を迎え、子にも恵まれたり。されど毎年七月十五日の夜には、必ず広瀬川のほとりに赴き、飴細工の兎を一つ供えたりという。
晩年、家人にそのわけを問われ、新之助、微笑みて曰く。
「人は死すれば二度と逢えぬと思うておった。されど、あの夜、私は確かにお露と祭りを歩いた。夢であろうと幻であろうと、あの手の冷たさを、生涯忘れることはない」
右、城下の古老より聞き及びし話を書き留む。盆の夜、亡き人を思う心は、此岸と彼岸の境を越えることもあるものか。げに、人の情ほど不思議なるものはなし。
⭐️秋祭りの夜、君は十七歳のままで
十年ぶりに帰ってきた故郷は、驚くほど何も変わっていなかった。
駅前の小さな商店街。シャッターの下りた文房具屋。昔ながらの木造家屋が並ぶ坂道。その向こうには、夕暮れの山並みが黒々と横たわっている。
ただ、駅の待合室にあった古いベンチは新しいものに取り替えられ、駄菓子屋だった建物は更地になっていた。子供の頃、毎日のように走り回った空き地には、見慣れない住宅が建っている。
変わらないものと、変わってしまったもの。
その境目を歩きながら、俺は自分がもう二十七歳になったのだということを、あらためて思い知らされていた。
東京で働き始めて八年。仕事に追われ、満員電車に揺られ、休日には疲れ果てて眠る。いつしか故郷のことを考える時間も減っていた。
帰ろうと思えば、いつだって帰れたはずだった。
けれど、帰れなかった。
この町には、俺が置き去りにしたものがあったからだ。
そして、それはもう二度と取り戻せないものだった。
日が暮れる頃、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
ドン、ドン、ドン。
続いて、笛の甲高い音が風に乗って流れてくる。
祭囃子だった。
今日は秋祭りだ。
十年前も、同じ日だった。
里香は、秋祭りが大好きだった。
浴衣を選ぶのに何日も悩み、祭りの一週間前から天気予報を気にしていた。金魚すくいが下手なくせに必ず挑戦し、綿菓子を買えば食べきれず、最後には俺に押しつける。
それから、決まって言うのだ。
「ねえ、来年も一緒に来ようね」
来年も。
その言葉が、俺には永遠の約束のように聞こえていた。
十七歳の夏。里香が病気になった。
最初は、少し疲れやすくなっただけだった。学校を休む日が増え、顔色が悪くなり、やがて長い入院生活が始まった。
病名を告げられたとき、俺は医師の言葉を理解できなかった。
治療法が限られていること。病状が進行していること。回復の見込みが極めて厳しいこと。
そんな話を聞かされても、俺には信じられなかった。
だって、里香は笑っていたのだ。
「大丈夫だよ。来年の秋祭りには、絶対に行こうね」
病室のベッドで、里香はそう言って笑った。
俺はその手を握りしめ、何度もうなずいた。
その年の秋祭りの日、里香は病院で息を引き取った。
夕方から祭囃子が聞こえ始めた頃だった。
俺は病院の廊下に座り込んでいた。彼女の両親が泣いていた。看護師が静かに頭を下げていた。
窓の向こうには、秋の夕焼けが広がっていた。
あまりにも、いつもどおりの夕焼けだった。
それが、許せなかった。
世界は何も変わらずに動いていた。
里香がいなくなったというのに。
それから俺は、秋祭りの日が嫌いになった。
毎年、この時期になると町を離れた。祭囃子が聞こえてくる場所には近づかなかった。里香の墓参りさえ、長いことできずにいた。
そんな俺が、十年ぶりに帰ってきたのだ。
理由は、自分でもよくわからない。
ただ、今年は逃げたくなかった。
*
祭囃子に背を向け、俺は山道を登っていった。
町の中心から少し離れたところに、古い寺がある。子供の頃、里香と何度も遊びに来た場所だ。
境内の裏手には墓地があり、その一番奥に里香の墓がある。
石段を登るたび、枯れ葉が足元で音を立てた。
空は濃い藍色に変わりつつあった。
遠くから、祭りの喧騒が聞こえてくる。太鼓の音。人々の笑い声。屋台の呼び込み。
俺はそれらを背中で聞きながら、墓地の門をくぐった。
里香の墓は、昔と同じ場所にあった。
十年という歳月が過ぎても、墓石は静かにそこに立っていた。誰かが手入れをしているのだろう。周囲には雑草もなく、花立てには新しい花が供えられていた。
俺は持ってきた花をそっと置いた。
「……久しぶり」
声に出してみると、思いのほか情けない声になった。
「ごめんな。ずっと来なくて」
返事はなかった。
当たり前だ。
俺はもう二十七歳で、里香は十七歳のまま、ここで眠っている。
十年。
長い時間だった。
俺は仕事を覚え、何度か恋をしかけ、友人たちが結婚していくのを見送った。鏡を見ると、十七歳の頃にはなかった疲れが目元に刻まれている。
それなのに、里香だけがいない。
「俺さ……」
言いかけたときだった。
「遅いよ、もう」
背後から声がした。
俺は息を止めた。
聞き間違えるはずがなかった。
何度も夢に見た声だった。
ゆっくりと振り返る。
墓地の入り口に、ひとりの少女が立っていた。
淡い水色の浴衣。白い帯。長い黒髪を後ろでまとめ、耳元には小さな赤い髪飾り。
夕闇の中で、その顔だけが不思議なほど鮮明に見えた。
少しだけ困ったように眉を寄せ、それから、いたずらっぽく笑う。
「何ぼーっとしてるの?」
里香だった。
十七歳の、あの日のままの里香だった。
「……り、か?」
「なに? その顔」
彼女は小首をかしげた。
「十年ぶりに会った彼女に向かって、ずいぶんな顔するんだね」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
俺は駆け寄っていた。
彼女の肩を抱き、細い身体を力いっぱい抱きしめた。
「里香……っ!」
涙があふれた。
止めようと思っても、止められなかった。
「里香、里香……!」
「わ、わっ。ちょっと、苦しいってば」
彼女の声が胸元から聞こえる。
温かかった。
細い肩も、背中も、確かにそこにあった。
俺は何度も彼女の名前を呼んだ。十年間、一度も口に出せなかった言葉を、取り返すように呼び続けた。
里香は最初こそ驚いていたが、やがてそっと俺の背中に腕を回した。
「……もう」
呆れたような声だった。
「泣き虫なの、相変わらずだね」
俺は彼女の肩に顔を埋めた。
泣きながら笑った。
もう一度会いたかった。
それだけだった。
ずっと、ずっと、それだけだったのだ。
けれど。
やがて、俺の中に冷たい疑問が浮かび上がってきた。
俺はゆっくりと身体を離した。
里香の顔を見つめる。
丸みを残した頬。澄んだ瞳。あの日と同じ、少し生意気そうな笑顔。
何ひとつ変わっていない。
当たり前だ。
だって、彼女は十七歳のときに死んだのだから。
「……なんで」
「ん?」
「なんで、お前……」
言葉が続かなかった。
俺は二十七歳になった。
里香が死んだ日から、十年も生きてきた。
彼女のいない時間を、ひとりで積み重ねてきた。
なのに、目の前の少女は十七歳のままだった。
俺だけが歳を取った。
里香は、あの日から一歩も進んでいない。
彼女は俺の顔をじっと見つめたあと、ふっと笑った。
「そんな難しいこと、今考えるの?」
「だって……」
「ねえ」
里香は俺の手を握った。
十年前と同じ、小さな手だった。
「お祭り、行こうよ」
「……え?」
「せっかくの秋祭りだよ? もう始まってるんだから」
彼女は俺の手を引いた。
「ほら、早く。金魚すくい、まだやってるかな」
俺は呆然とした。
死者が墓地に現れた理由も、十七歳の姿をしている理由も、何もわからない。
聞きたいことは山ほどあった。
それなのに、里香はまるで十年ぶりに待ち合わせをした恋人みたいに、楽しそうに笑っている。
「……里香」
「なに?」
「お前、本当に……」
「うん?」
彼女は振り返った。
「会いたかったよ」
俺は、結局それしか言えなかった。
里香は一瞬だけ目を丸くした。
それから、頬を赤くして笑った。
「……私も」
その言葉を聞いた瞬間、俺は彼女の手を握り返していた。
*
参道へ下りていくと、町は祭りの光に包まれていた。
軒先には提灯が吊るされ、神社へ続く道の両側に屋台が並んでいる。焼きそばのソースの匂い。甘いりんご飴の香り。子供たちの歓声。浴衣姿の若者たち。
十年前と同じ景色だった。
いや、違う。
屋台の顔ぶれは少し変わっているし、昔よく見かけた店主の姿もない。それでも、祭りの夜の空気だけは、あの頃のまま残っていた。
「わあ、見て! あのたこ焼き屋さん、まだある!」
里香が俺の腕を引っ張った。
「昔、あそこのおじさんにおまけしてもらったよね」
「覚えてるのか?」
「当たり前じゃん。あのとき、あなたが三個も食べたんだよ」
「お前が食べきれないって言うからだろ」
「そうだっけ?」
里香は笑った。
俺も笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
彼女が死んでから、俺は思い出の中でしか里香に会えなかった。
夢の中の彼女は、いつも遠かった。
呼びかけても振り向いてくれなかったり、手を伸ばすと消えてしまったりした。
けれど、今夜の里香は違った。
俺の隣を歩き、屋台を覗き込み、面白いものを見つけては俺を呼ぶ。
俺の腕をつつき、笑い、時にはわざと意地悪なことを言う。
それが、たまらなく嬉しかった。
「ねえ、射的やろうよ!」
「お前、昔から射的は下手だったじゃないか」
「今日は違うもん!」
結局、里香は五発撃って、一つも景品を落とせなかった。
「おじさん、もう一回!」
「お嬢ちゃん、これで最後だよ」
「えーっ!」
俺は笑いながら財布を取り出した。
「俺がやるよ」
「え、できるの?」
「十年も経てば、少しは成長するんだよ」
俺は狙いを定めた。
景品の棚の端にあった、小さな白いウサギのぬいぐるみ。
引き金を引く。
弾は見事に外れた。
「……あれ?」
里香が吹き出した。
「あははは! 全然成長してないじゃん!」
「うるさいな!」
「もう、貸して!」
彼女は笑い続けた。
俺はその横顔を見つめた。
祭りの灯りが、彼女の頬を柔らかく照らしていた。
十年前、俺はこの笑顔を失った。
もう二度と見られないと思っていた。
それなのに、今、目の前にある。
俺はこの時間を、どう受け止めればいいのだろう。
奇跡なのか。
夢なのか。
それとも、死んだ恋人が最後にくれた、ほんのわずかな贈り物なのか。
答えはわからなかった。
ただ、今だけは考えたくなかった。
「ねえ、金魚すくい!」
里香が俺の手を引いた。
「はいはい」
俺は笑って、そのあとを追った。
*
金魚すくいでは、里香は昔と同じように失敗した。
紙の縁が水に触れた途端に破れ、彼女は心底悔しそうな顔をした。
「なんでよー!」
「力を入れすぎなんだよ」
「わかってるもん!」
「ほら、こうやって……」
俺がやってみせると、小さな赤い金魚が一匹、紙の上に乗った。
「えっ、すごい!」
里香が目を輝かせた。
「やったね!」
まるで自分のことのように喜ぶ彼女を見て、俺は笑った。
結局、金魚は持ち帰らず、店主に返した。
昔、里香がそうしたように。
それから二人で綿菓子を買った。
彼女は一口食べて、少し困ったように笑った。
「やっぱり、これ大きすぎるね」
「だから言っただろ」
「半分こしよう」
彼女は綿菓子を俺の口元に差し出した。
ふわりと甘い砂糖が舌の上で溶ける。
その何気ない仕草が、胸に刺さった。
十年前、病院のベッドで里香は何も食べられなくなっていた。
大好きだったプリンも、ケーキも、ほんの少し口にするだけで苦しそうな顔をした。
それでも彼女は、俺が見舞いに行くと笑っていた。
『元気になったら、いっぱい食べるんだ』
そう言っていた。
元気になったら。
その約束は、叶わなかった。
「……どうしたの?」
里香が俺を見上げた。
俺は首を振った。
「いや。なんでもない」
「うそ。今、泣きそうな顔してた」
「してないよ」
「してたもん」
彼女は少しだけ唇を尖らせた。
それから、俺の手をぎゅっと握った。
「大丈夫だよ」
その声は、思いがけないほど優しかった。
「今日は、ずっと一緒にいるから」
俺は返事ができなかった。
彼女の手を、ただ握り返した。
祭囃子が響いている。
提灯の明かりが揺れている。
俺たちは、十年前にできなかった約束を、ひとつずつ取り戻すように歩いた。
*
祭りの終わりが近づく頃、俺たちは町外れの小さな山道に入った。
里香が先に立ち、慣れた足取りで草むらを抜けていく。
「こっち、こっち!」
「おい、そっちは……」
「いいから!」
たどり着いたのは、古い杉の木の下だった。
枝が大きく広がり、その向こうには町の灯りが一望できる。子供の頃、俺たちが二人だけで見つけた秘密基地だった。
杉の根元には、昔、俺たちが石を並べて作った小さな囲いが残っていた。
もちろん、十年の歳月で崩れかけていた。
それでも、ここだけは、あの頃の俺たちの時間が眠っているようだった。
「懐かしいね」
里香が言った。
「ああ」
「よくここで話したよね。学校のこととか、将来のこととか」
「お前、将来は東京に住むって言ってたな」
「そうそう。おしゃれなカフェで働くの」
「自分で店を開くんじゃなかったっけ?」
「そうだったかな」
里香はくすくすと笑った。
俺たちは並んで座った。
山の向こうに、秋の夜空が広がっている。
遠くでは、祭りの最後を飾る太鼓が鳴っていた。
俺は里香の横顔を見つめた。
浴衣の襟元からのぞく白い首筋。少し乱れた髪。笑うと細くなる目。
何もかもが、懐かしかった。
そして、残酷なほどに愛おしかった。
「……里香」
「ん?」
「俺さ、ずっと後悔してたんだ」
彼女は黙って俺を見た。
「お前が入院してたとき、もっと何かできたんじゃないかって。もっと病院に行けばよかったとか、もっと話をすればよかったとか。最後の日だって……」
言葉が詰まった。
十年経っても、あの日の記憶は鮮明だった。
もっと一緒にいたかった。
もっと手を握っていたかった。
もっと、もっと。
いくら考えても、取り返しのつかないことばかりだった。
「俺、お前がいなくなってから、ずっとあの日に置いていかれたみたいだった」
里香は静かに聞いていた。
「東京に出ても、仕事をしても、何をしても、心のどこかが止まったままだった。秋祭りの音を聞くだけで、あの日のことを思い出して……」
俺はうつむいた。
「ごめんな。今さら、こんなこと言って」
沈黙が落ちた。
風が杉の葉を揺らしていた。
やがて、里香が俺の頬に触れた。
「ねえ」
顔を上げる。
彼女は、少し困ったように笑っていた。
「あなたのせいじゃないよ」
「でも……」
「私、幸せだったよ」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「あなたと出会えて、いっぱい笑って、いっぱい喧嘩して。学校帰りに寄り道して、夏休みに海へ行って、秋祭りで金魚すくいして」
里香は指先で俺の頬をなぞった。
「病気になってからも、あなたが来てくれるのが楽しみだった。学校で何があったか話してくれるのも、くだらない冗談を言ってくれるのも、全部」
彼女の瞳が、月明かりを受けて揺れていた。
「だからね。私のこと、悲しい思い出だけにしないで」
俺は何も言えなかった。
「私、あなたと一緒にいた時間が大好きだったんだよ」
里香は微笑んだ。
「それだけは、忘れないでね」
涙がこぼれた。
俺は彼女の手を取った。
その手は、確かに温かかった。
「……忘れるわけないだろ」
「うん」
「忘れられるわけ、ないじゃないか」
「うん」
里香は何度もうなずいた。
そして、少しだけ顔を近づけた。
「ねえ」
「……なに?」
「最後に、お願いしてもいい?」
俺はうなずいた。
彼女は頬を赤くして、視線をそらした。
「……キス、して」
心臓が跳ねた。
「里香…」
俺は彼女の名前を呼んだ。たったひとつの、世界で一番大切な名前を。
月明かりが杉の枝越しに漏れ、里香の浴衣に淡い影を落としていた。彼女は少し俯いて、耳まで赤く染めている。その仕草が十七歳の少女そのもので、俺は胸がつぶれそうだった。
俺はそっと、彼女の頬に手を添えた。
里香がびくりと身を震わせた。瞳が大きく見開かれ、俺の目を真っすぐに見つめている。怖いのではない。期待と、恥じらいと、そして何か深い切なさが混じった瞳だった。
「…いいの?」
俺は訊いた。
里香は何も言わず、ただゆっくりと目を閉じた。
長い睫毛が微かに震えている。
俺は唇を寄せた。
そっと、触れるだけのキス。
柔らかかった。
十年間、何度も夢の中で触れようとして決して届かなかった唇が、今ここにあった。
里香の唇は、まるで花びらのように柔らかく、ほんのりと甘かった。
ほんの数秒のことだったはずなのに、永遠のように感じられた。
唇を離すと、里香は目を開けた。瞳が潤んでいた。
「…もう一回」
その言葉に、俺の中で何かが弾けた。
もう一度キスをした。今度は深く。
彼女の肩を抱き寄せ、細い身体を腕の中に閉じ込める。里香は最初は硬くしていたが、やがて俺の胸に手を置き、しがみつくように服を掴んだ。
舌先が彼女の唇をそっと開いた。
里香が小さく息を漏らす。
初めて触れる舌の温かさに、俺は眩暢を覚えた。
彼女も戸惑いながら、おずおずと舌を差し出してくる。不器用に、そして一生懸命に。
それが愛おしくて、たまらなかった。
「ん…っ」
里香の喉から小さな声が漏れた。
息が上がっている。
俺は唇を離し、彼女の額に自分の額を押し当てた。
二人の息が混ざり合う。互いの鼓動が伝わってくる。
「里香」
「…なに」
「好きだ」
言いたかった。
十年前にも、言いたかった。
けれど、あの頃は言えなかった。「好き」の重さが、十七歳の俺には大きすぎた。怖かった。失うことが。
今なら言える。失ったあとに、もう一度与えられたこの時間の中なら。
「ずっと、好きだった。お前のことだけ、ずっと」
里香は黙って俺の胸に顔を埋めた。
肩が微かに震えている。
泣いているのかと思った。けれど、顔を上げた彼女は笑っていた。
涙の跡が頬に光っているのに、笑っていた。
「…遅いよ、もう」
あの言葉だ。
けれど、今のその声には怒りはなく、ただ甘く、切なかった。
「知ってたよ」
「…え?」
「私も、ずっと」
里香は俺の胸元で小さく言った。
「知ってた。でも、言えなかった。私が先に逝っちゃうって、わかってたから」
言葉が途切れた。
風が杉の枝を揺らした。
「だからね、今が嬉しいの」
彼女は俺の手を取り、自分の胸に当てた。
浴衣の上からでも、鼓動が伝わってくる。速く、強く。
「生きてるって、感じる」
俺はもう言葉が出なかった。
ただ、彼女を抱きしめた。
強く、強く。壊れてしまいそうなほど。
里香が俺の胸で小さく身じろぎした。
「…ねえ」
「ん」
「抱いて」
その言葉は、夜の静けさの中に落ちた。
俺は彼女を見た。
里香は真っ直ぐに俺を見つめていた。恥じらいの中に、確かな意志があった。
「私のこと、全部、忘れないでいてほしいの」
「…ああ」
「私がいたってこと。私があなたを好きだったってこと。全部、全部」
「忘れるもんか」
「だったら」
里香は俺の首に腕を回した。
唇を俺の耳元に寄せて、囁くように言った。
「私のこと、覚えてて。体ごと」
その言葉の意味を、俺は悟った。
身体ごと。
彼女がここにいることの、すべての感触を。温かさも、重さも、鼓動も。匂いも。すべてを、この身に刻みつけること。
俺は里香の帯に手をかけた。
淡い水色の浴衣の帯。結び目に指をかける。
指先が震えていた。
里香も震えていた。
「…ごめん、不器用で」
「同じだよ」
里香が小さく笑った。
帯が解け、浴衣が前ではだけた。
月明かりに、白い肌が浮かび上がる。
俺は息を飲んだ。
あまりにも、美しかった。
十七歳の少女の肌は、陶器のように滑らかで、夜の空気にほんのりと青白く光っていた。
鎖骨のライン。薄く柔らかな膨らみ。その先端の淡い色。
「…見ないで」
里香が浴衣の前をかき合わせようとした。
俺はその手をそっと止めた。
「見たいんだ」
里香は一瞬、困ったような顔をして、それからゆっくりと手を下ろした。
「…変なの」
その呟き声が、愛おしかった。
俺は彼女の肩に触れた。指先で鎖骨をなぞり、ゆっくりと下へ滑らせる。
里香が小さく息を呑んだ。
「冷たい」
「ごめん」
「ううん、気持ちいい」
俺の手が彼女の胸に触れたとき、里香の身体がびくりと跳ねた。
心臓の上に手のひらを置く。ドクン、ドクンと、早い鼓動が伝わってくる。
「里香、怖くないか」
「…怖い」
「じゃあ」
「でも、いいの」
彼女は俺の手の上に、自分の手を重ねた。
「あなたに触れてほしいの」
その言葉に、俺は彼女を優しく抱き寄せ、草の上に横たえた。
里香の髪が広がる。黒い髪が月光を吸って、絹のように光る。
上から見下ろす里香の瞳は、潤んで暗く、星のようだった。
俺はゆっくりと唇を落とした。
額に、眉に、まぶたに、頬に、鼻に。
最後に、唇に。
「ん…」
里香が目を閉じる。
俺は彼女の首筋に唇を這わせた。
耳元で、里香の息が速くなる。
「あ…っ」
胸の先端に唇を触れたとき、里香の背中が弓なりに反った。
小さな手が俺の髪に食い込む。
「やっ…」
声が震えている。
俺は舌先で、小さな蕾を優しく転がした。
里香の身体がびくびくと震え、喉から切ない声が漏れる。
「んっ、あ…」
十年前には知らなかった。十七歳の俺には、知るはずもなかった。
この温かさも、この震えも、この甘い声も。
里香が俺に教えてくれるのだ。
最後に。
俺の手が里香の腰をなぞり、滑らかな脇腹を撫で下ろした。
里香が身をよじる。
「くすぐったい…」
その声が、あんまりにも無防備で、俺は笑った。
「ごめん」
「笑わないでよ」
「だって、可愛いんだもん」
「…もう」
里香は少し頬を膨らませた。それから、ふっと真顔になった。
「ねえ」
「ん」
「優しくしてね」
「…ああ」
俺は彼女の太ももに手を添えた。細く、けれど柔らかな曲線。その内側に指を滑らせると、里香がきゅっと脚を閉じた。
「…だめ」
「ごめん」
「や、じゃないけど…恥ずかしい」
「無理しなくていい」
「無理じゃないの」
里香は俺の手を取って、ゆっくりと自分の脚を開かせた。
「私も…触れてほしいの」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
指先が彼女の奥に触れたとき、里香の全身が大きく震えた。
「あっ…」
熱い湿りを感じた。
俺はゆっくりと、優しく、指を動かした。
里香の呼吸が乱れる。胸が上下する。唇を噛みしめ、眉を寄せている。痛いのではない。初めての感覚に戸惑っているのだ。
「大丈夫?」
「…ん、大丈夫…」
「辛かったら、止める」
「止めないで」
里香は俺の腕を掴んだ。爪が食い込むほど強く。
「お願い、止めないで」
俺は指の動きを続けた。ゆっくり、ゆっくり。
里香の声が、夜の静寂に溶けていく。切なく、甘く。
「あ、あ…んっ…」
やがて、彼女の身体が大きく反り、震え、そしてふっと力が抜けた。
「はぁ…っ」
荒い息づかい。
瞳が潤んだまま、俺を見上げる。
「…変な感じ」
「変?」
「だめ、言葉にできない」
里香は俺の手を引き、自分の身体に引き寄せた。
「ねえ…来て」
俺は里香の上に身体を重ねた。
彼女の顔がすぐ近くにある。瞳の中に、月が映っている。
「好きだ」
「…うん」
「愛してる」
言ったことのない言葉だった。
二十七歳になって初めて、俺はその言葉を口にした。
里香は泣きそうな顔で笑った。
「…やっと、言ってくれた」
俺は彼女の中に、ゆっくりと入った。
里香が息を止めた。眉がきゅっと寄る。小さな手が俺の肩を掴む。痛みを堪えているのがわかった。
「大丈夫か」
「…痛い」
「抜くよ」
「いや」
里香は俺の背中に回した腕に力を込めた。
「いいの。動いて」
俺は動かなかった。ただ、彼女の痛みが引くのを待った。額を寄せ合い、互いの呼吸を感じながら。
やがて、里香の身体から力が抜けた。
「…動いて、いいよ」
俺はゆっくりと腰を動かした。
里香が小さく声を上げる。その声が、夜の木々に吸い込まれていく。
「あ…ん…っ」
俺は彼女の手を握った。指を絡める。里香が握り返す。強く、強く。
「里香…」
「ん…っ、あ…」
互いの体温が混ざり合う。
汗ばんだ肌が滑る。
里香の鼓動が、俺の胸に伝わってくる。
速い。熱い。生きている。
「好き、好き…」
俺は何度も言った。彼女の耳元で、繰り返し、繰り返し。
里香は俺の背中に爪を立て、声を殺しながら、何かを訴えるように首を振った。
「あっ、あ…んっ、もっと…」
その声が、俺の理性を溶かした。
俺は里香の腰を抱き、深く、深く。
里香の背が反る。月明かりに、汗の滲んだ肌が光る。
「んっ…! あ、ああっ…!」
里香の身体が、大きく震えた。
俺の名前を呼んでいる。声にならない声で。
俺も、もう限界だった。
里香を抱きしめ、彼女の首筋に顔を埋める。
「里香…っ」
その名前を呼びながら、俺は果てた。
夜が、深まっていた。
祭囃子はもう遠く町の灯りもいくつか消えている。
俺たちは並んで横たわっていた。
草の上。月の下。
里香は俺の胸に頬を寄せていた。
指先で俺の胸板を無意味に描いている。
「…ねえ」
「ん」
「私、ここにいるよ」
「うん」
「ちゃんと、感じてる?」
「ああ」
「…よかった」
里香は安心したように笑った。
祭りの余韻を胸に、俺たちは並んで夜道を歩いていた。
手をつないで。
十年ぶりに触れた彼女の掌は、小さくて温かかった。
心の中にはまだ涙の跡が残っていたけれど、不思議と穏やかな気持ちだった。里香に言えた。「好きだ」と。伝えたかった言葉を全部。
彼女もまた、俺の手をぎゅっと握り返してくれる。その指先から伝わる鼓動が、俺たちを繋ぎ止めている糸のように思えた。
家が近づくにつれ、遠くから話し声が聞こえてきた。
うちの家の門灯の下だ。
二人の女性が立って話している。一人は俺の母親。もう一人は――見覚えのある背格好。
里香の母親だ。
十年ぶりに見てもすぐにわかった。優しげな眉元と少し寂しげな笑い方は、あの頃のままだ。
「ただいま」
俺が声をかけると、母親たちが一斉にこちらを向いた。
「あら、健二。お帰り」
母親が安堵したように微笑む。
そして里香の母親が、俺の隣にいる少女を見て目を丸くした。
「あら……由香ったら」
その名前に、俺は足を止めた。
由香。
その言葉が耳に入った瞬間、世界の音が遠ざかったような気がした。
「いつの間に健二君と仲良くなったの?」
由香。
里香の妹の名前だ。
俺は呆然と隣の少女を見た。
月明かりの下で、彼女は少し困ったように眉を下げていた。さっきまで「里香」だと思っていた少女。
でも、言われてみれば。
あの頃の由香は、いつも姉の後ろを追いかけてくるおてん婆な女の子だった。真っ黒に日焼けしていて、膝にはいつも絆創膏を貼っていて、まるで少年のようだったから。
だから気づかなかった。
この十年で、彼女がこんなにも美しく成長するなんて。
「……由香?」
俺の声は震えていた。
彼女――由香は、繋いでいた手をそっと解こうとした。けれど俺は無意識に力を込めていた。放したくなかった。今この手を離したら、全てが幻になってしまいそうで。
「健二君……」
由香は申し訳なさそうに俺を見上げた。
その瞳の奥に揺れる光は、里香のものではなかった。もっと翳りがあって、それでいて強い光。
「ごめんなさい。言えなくて」
その声は、確かにさっきまで俺の耳元で囁いていた声と同じだった。
母親たちは気まずそうに顔を見合わせた。「じゃあ、私たちはこれで」と言って家の中へ入っていく。
路上には俺と由香だけが残された。
祭囃子はもう聞こえない。虫の音だけが響いている。
「……どうして」
俺はようやく絞り出した。
「どうして里香だって……嘘ついたのか」
由香は唇を噛みしめ、下を向いた。
長い黒髪が風に揺れる。
「……十年前の今日もね」
彼女の声は小さかった。
「お姉ちゃんが亡くなった日の夕方。私ね、健二君に言ったの。『来年も一緒にお祭り行こうね』って」
俺は息を呑んだ。
それは里香のセリフだと思っていた。病室での。
「お姉ちゃんが言えなかった分、私が代わりに言ったの。……そしたら健二君、すごく悲しそうな顔でうなずいてくれたから」
由香は顔を上げた。目には涙が光っていた。
「それからずっと待ってた。健二君がまた帰ってきてくれる日を。……お姉ちゃんの代わりじゃなくて、私を見てくれる日を」
俺の中で何かが崩れ、そして新たな形に組み上がっていく感覚があった。
さっき墓地で出会った彼女に抱きしめられた時の感覚。キスをした時の唇の感触。肌の温もり。
それは全部幻なんかじゃなかった。
亡霊に触れていたわけじゃない。
目の前にいる生きた女性。由香という一人の人間に触れていたんだ。
「……俺は」
俺は自分の手を見た。まだ彼女の温もりが残っている。
「俺はバカだ」
里香ばかり探していた。過去の中に答えを求めていた。
だから気づかなかった。十年という時間の中で静かに育まれていた想いにも。自分の中に残っていた渇望の本当の形にも。
由香が一歩近づいてきた。
あの日と同じように小首をかしげる仕草。けれどその表情はもう少女のものじゃなくて、一人の女性のものだった。
「ねえ」
彼女が俺の手にそっと自分の手を重ねた。
さっきよりも少しだけ力強く。
「私のこと、どう思う?」
その問いかけに、俺は即座に答えることはできなかった。
まだ心の中には里香がいる。十七歳のまま眠る彼女への想いは消えない。それは永遠に俺の一部だ。
でも。
手のひらから伝わる由香の体温は確かで、眩しいほどに生々しい。
「……由香」
名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと震えた。
「俺にはまだわからない。お前のことをどう思ってるのか」
正直に言った。ごまかしたくなかった。
由香は少し寂しそうに笑った。「うん」と小さく呟く。
「でも」
俺は言葉を続けた。
「お前に触れたかった。お前と笑いたかった。……それは嘘じゃない」
由香が目を見開いた。涙がこぼれ落ちる。
「……うん」
「これから」
俺は彼女の手を強く握りしめた。
「これから時間はかかるかもしれない。でも……もう逃げない」
里香には言えなかった言葉を、今度こそ言う。
「お前のこと知りたい。……由香」
由香は涙を拭おうともせずに笑った。
それは俺が今まで見たどんな笑顔よりも眩しくて、儚くて、そして温かかった。
「……遅いよもう」
またそのセリフだ。
でも今度は、「またね」って意味じゃない。
これから始まる時間への合図だ。
夜風が吹き抜けた。
秋祭りの夜は終わったけれど。
俺たちの夜はこれからなんだろう。
遠くで鳴っていた祭囃子はもう聞こえない。
聞こえるのは二つの心臓の音だけだ。