暴力描写があります。男ふたなり×男ふたなりです。ご注意ください!
地から炎の戦車に乗って天にあげられた彼のことを、焼けこげたカラスのように醜い姿だ、とカマエルは思った。ただ黒いともいえない色、背ではなく、頭部に短い翼が与えられている。主に与えられた白い翼を持たない、もともと、人であるあかし、生前、カラスに養われていたというのだから、お似合いの姿ではないか、思っていても、言葉にはしなかった。
カマエルは、自分の地位や立場に誇りを持っていたので、その、汚い、屍肉を漁る、美しい声を出せない鳥に、少しでも視線が向くと、どうしようもないほどの苦しみを覚えていた。彼の名はサンダルフォンといって、生前、バアルの預言者を四百五十人焼き殺し、その後、さらに、五十人を殴り殺したという。主の横に置かれるには、まったく美しくなく、野蛮な性質であるところも、カマエルは気に食わなかった。
あの男の煤けた黒い髪より、自分のあざやかな赤い髪が美しいと思っていたし、男のくせに、淫らな女を彷彿とさせる、大きな乳房と、豚の腹のような太ももを持っている。同じ両性具有なら、戦いのために邪魔にならない程度の胸と、サルーキ犬と似た、細くて長く、それでいて力強い手足をしている、自分の体の方が、より、良いと信じていた。
その、愛されたいけすかない天使が、わけもなくカマエルに接触する理由はなく、すこし面倒くさそうにしていて、つまらない見張りの仕事を終えたカマエルは、姿が見えると、癪に触って、わざと少しだけ歯を剥いた。
「なあ、君、君の兄上と姉上は、もうすこし、どうにかならないのか? 同じところから生まれた君の言葉なら、聞いてくれるのではないか?」
乳房と、男性器を、恥ずかしげもなく放り出して、胸の前で腕組みしていた。
「あの悪魔たちを、俺と一緒にするな。もとより、人のように、同じ時を過ごし、育ったわけではないのだから。わかったら、俺の前から消えろ」
サンダルフォンは、おや、と、目を丸くした。天にあげられたサンダルフォンは、恵まれた容姿と人懐こい性格のおかげで、すこしなめたような態度をとっても、嫌われた経験がなかった。よく思っていなかったのは、カマエルだけであろう。まさか噛み付かれるなんて、と、くくと喉を鳴らして笑っていて、これからどのように対応しようか、考えた。カマエルには、その声は、餌を見つけて卑しく仲間に呼びかけるカラスの鳴き声にしか聞こえなかった。
カマエルの兄と姉は、似た容姿をしていたが、兄は蛇の悪魔として信仰を集めていて、姉は人間の女と番になり、邪悪な巨人をたくさん産んでいた。カマエルにとって、愛情を持てない、死の天使として力をわけたきょうだいは、邪魔な存在でしかなかった。
「なんて、おそろしい。君は確かに、あれらの弟ぎみのようだね。おれはね、忠告をしているんだ。異教の預言者のひとりやふたり、急いで焼いたところで、もう間に合わないかもな」
「何が言いたい?」
「君の兄上が勝手に人を焼いているから、止めるかそれ以上こなさないと、君の存在はいらなくなる。ここまで言わないとわからないか。自分の意思のない、ただの手足にも及ばない、小指ほどにも役に立たない、無能な天使」
カマエルはサンダルフォンの言葉にかっとなって、剣を抜いて振ると、風を切るだけで終わった。サンダルフォンは後ろに飛んで、腹を抱えて笑った。
「その様子なら、時間の問題のようだ。さあ、おれの姿を見ろよ。愛された人間の、美しい姿をよく見てみろ。お前とぜんぜん違うな。このおれが、世界の答えなんだ」
剣を鞘にしまうと、自慢のしなやかな筋肉、血管が、自分の支配から離れていくことに気付いて、吐き気を催した。以前の自分なら、この薄汚い、淫乱の、カラスを刻んでしまえたのに、どうにも、手足が鉛のようになって、うまく動けなかった。サンダルフォンは、それを知って、少しだけの親切心と、たくさんの悪意を持って、カマエルの元にやってきた。あまりに思い通りにことが進むので、おかしくてたまらなかった。サンダルフォンは、見せつけるように、羽毛で覆われた手足をひろげ、血の滴る、赤い猛禽の爪をひらいた。曲がってとがり、武器を持つこともままならない、獣の女の身体をしている。
カマエルの本分は、口喧嘩ではなく、破壊と戦争だ。剣を振るって浴びた風で冷静になって、小さく息を呑んだ。
「そうだな。忠告、感謝する。主の左腕であるところのお前が言うのなら、事実に違いないだろう。兄上を止めればいいのだな」
サンダルフォンは、明確に、答えを出していた。自分がされたように、地から、自分の弟になるような有能な預言者に付き添い、共に活動すれば、よりよい結果になるだろう、と、自らの体を示した。だが、御使いは、自らで考え、動くことをしない。それは、美しいことではないから、してはいけないと学んできた。
「できれば、全て終わったなら、首を持って、戻ってきておくれよ。君の兄上の顔を、いちど、見てみたいと思っていてね。主が望むなら、おれと兄上が向かうから。おれは、期待されていない仕事に、魂を溶かすほど、焦らなくていいからさ。まあ、もし、そうなれば、お前の身体ごと、火の柱で焼き尽くしてやろう」
「俺は焼かれない。愛された、いにしえの天使だ」
「だといいけど」
カマエルは、何よりも自慢できる、古くて白い翼を広げて、その場を去った。サンダルフォンは、カマエルがどこへ行って何をするのか、まったく興味が無く、歌を囀りながら、カマエルも行ったことのない、白い空の上に飛んでいった。
東、塩の湖のほとりに、悪魔は佇んでいた。悪魔は、伝承に語られる、強い力を持ってはいなかったが、人のような心があって、弱みにつけこみ、堕落させることに、少し喜びを感じるようにできていた。それが一番恐ろしいことに、人間が気付くのは、ずっと先の話であろう。カマエルは、まったく迷いもせずに、悪魔の後ろ姿をのぞむところまで近づいた。自分と似た、鮮血と同じ色の赤い髪を、汚らしく伸ばしていた。
別れたのは、もう、うんと昔のことだ。どのような声で話すのか、忘れてしまった。大きな肩に、黒い鱗が踊っていた。気付いて振り返った、たよりなさそうな、ぼんやりとした顔は、全く変わっていなくて、カマエルは眩暈でふらついた。
「ああ! 懐かしい、カマエルじゃないか?」
座っていた岩から飛び降り、駆け寄ってきたのは、堕ちた死の天使、カマエルの兄、サマエルだった。カマエルが剣と敵意を向けると、両手をあげて、首を傾げるだけだった。
「きみのことは、一日だって、忘れたことがなかったよ。ぼくの愛しい弟。ねえ、構えを解いて、少し、話をしようよ……」
「お前は、いったい、何をしているんだ?」
「えっ? 何も? 何もしていない……」
「そんな事、あるわけはないだろう。無差別に人を焼いて、信仰を集めて、何をたくらんでいるのか」
サマエルは、まったく、事態が掴めなかった。主の命においてのみ、力を振りかざしていた、糸人形の弟が、なぜ一人で自分を追ってきたのだろう。偵察であるのか、その上の捨て駒であるのか、と、思考を巡らせていた。だが、敵意を向けられていても、深い家族愛があったので、殺して追い払おうとは、できたとしても、この状況を打破するために、そうしようとは思わなかった。
「それは過程ではなくて、ただの結果だよ。花が咲いて……、散って、種を風に乗せて、また咲くのと、同じ事だよ。ぼくを殺したところで、同じような天使が生まれてきて、繰り返すだけだ。きみを愛した兄のぼくは、ぼくしかいないことを、よく、考えてみて……」
情け無い命乞いだ、と、カマエルは思った。一歩、二歩、と、重い足をしっかり踏み出して、剣の切先を、鼻に向けた。サマエルは引かず、顔を逸らしただけだった。
「本当に、ぼくが何かを成そうとしているのなら、主は、すぐに、ぼくのことなど消してしまうと思わないか。ぼくが、こうして、のうのうと、恥を晒し、地を這っているのにも、意味がある」
「では、悪い魂だけ燃やせばいい」
「言われなくとも、そうしている!」
兄が声を荒げるところを見たことがないカマエルは、少し狼狽えたが、汗ばむ手で剣を握り直した。いまの自分が、うまくやれるか、不安で仕方がなかった。首に刃をぴたりとつけて、狙いを定める。サマエルはそれを視線だけで追って、すぐに真正面を見た。
「主のお力をずっと示すためにはどうしたらいいか、わかる?」
「そんなことをする必要はない」
大きな身体が、倒れて、首が跳ねて、塩の池に転がっていった。ためらいの残らない、見事な傷口から血がどくどく流れていて、呆然と、それを眺めていた。血が固まる頃に、やっと足が動いて、赤くて長い髪を掴んで、持ち上げた。
兄も、堕ちたものだ。これで、あの生意気な人間は文句を言わないだろう、と、すっきりした気持ちになって、カマエルは、白い空をあおいだ。顔に跳ね返った血を、籠手でぬぐって、湖を覗くと、口に血がついていて、花びらのような美しい形の唇を目立たせていた。カマエルは、その美しさが自分が望んだものではなかったので、何かに取り憑かれたような速さで、口をゆすいだ。
大きく息を吐いて、兄が腰掛けていた岩に飛び乗った。これで、自分のもとに、死人の魂が戻ってくる、と、カマエルは、安堵した。自分が成すべきことをこなし、存在を確立させ、これからずっと、消えずにいられる。食糧が無く、親兄弟を殺し、自分だけ生き延びる、知恵のない鳥と何が違うのか、と、じわじわ葛藤する余裕も生まれてきた。
カマエルは、自らの身に罪悪感と、白い翼があることを確かめると、塩の湖を飛び立った。そこには、首のない、黒い大蛇が残されていた。
血の臭いを引き連れて、戻ってくると、太い足を組んで、花冠を編んでいるサンダルフォンの姿があった。鉤爪のせいで繊細な茎は傷つけられ、形を保っているのがやっとで、なぜ、この無能を、この男おんなを、ここに置いているのか、カマエルは疑問を持った。
「おや、戻るのが早かったね。それが、君の兄上?」
サンダルフォンは、裏のない笑顔で、無能な天使が無事に帰ってきたことに喜び、作っていた花冠を放り出して迎えた。立ち上がると、背は、カマエルよりずっと高く、人間の男よりすこし背が高かった。カマエルが持ち帰った首を突き出すと、腰をかがめて、その顔を覗き込んだ。
「なんだ、思っていたのと違うな。悪魔だというから、もっと悪人面をしていると思っていたよ。でも、赤い髪と緑の目、君と同じ色をしているね。ほんとうに兄弟らしい。良かったじゃないか、君は自分の使命を悪魔から取り返して、邪魔な身内も始末できた」
「兄上がこのままあっさり死ぬとは思えないが、少しは懲りたのではないかな」
首を奪い取って、サンダルフォンは、眉を吊り上げた。持ち上げた腕の筋肉が隆起して、もともとは男の体に、女を着せられていることを、主張してくる。
「ふうん? そうなのか。いにしえの天使ってやつは、ずいぶん、丈夫にできているもんだ。新入りが生意気に指図して悪いな」
「いや。いい。まだ、何かあるか?」
嫌な記憶としてしまったそれから離れたい、目に入れたくない。だが、サンダルフォンに対して、できるだけ余裕がある様子を見せたくて、カマエルは、ローマの王がするような堂々とした態度で、向き合っていた。
「この調子で、姉上の首もはねておいでよ。簡単だろう?」
「姉上のやっていることは、俺の存在とは、まったく、関係がない」
「醜い巨人をたくさん産んで、山も林も喰いちらかしている。そのうち、砂漠の砂も一つ残らず飲み込んでしまうぜ。君の将来を憂いているんだよ。快楽におぼれ、自己中心的に振る舞い、災いを産む女など、いないほうがいいじゃないか。それが自分の姉なら、なおさらだろ」
なあ、君も、そう思うだろう、と、サンダルフォンは、動かないサマエルの首へ話しかけた。血はすっかり抜けて、髪からは、少しはあった艶が失われていた。なぜ、この男は、挑発をするのだろう、怒りの次に、カマエルを支配した感情は、それだった。無視して、立ち去ればいいとわかってはいても、自尊心のために、そうすることはできなかった。誰かが立ち寄って、声でもかけてくれれば、勝ちも負けも認めなくて良いのに。少し諦めたくなったが、そのために足が重くなったのであろうと信じ、カマエルは、卑怯な、女々しい、汚い翼を持つ天使に背を見せないことを決めた。
サンダルフォンは、全てを見通して、それは主の代理人、その半身であるから、いじらしい、かわいいやつだ、としか思わなかった。頭の中でどれほど酷く罵られていても、サンダルフォンは、主から与えられた自分の身体、ひとつだけで産み、増える、豊かさの象徴と言えるような、豊満な姿を愛していたし、人間だったころの魂の記憶はあまりなく、自分の影になるようなことは、火と共に洗い流されていたので、ひとつも響かなかった。
カマエルは沈黙を破って、胸を張り、しっかりとサンダルフォンの姿を目に焼き付け、少し大きな声で、言った。
「人間、俺を、堕とそうとしているな」
「同じ空の下に住まう仲間として、親切にしてやってるんだけれどね。そう受け取られるなら、けっこう。おれは、べつに、特別に、君に意地悪したいわけではない。おれは、主と人間以外には、少し意地悪なだけだから」
カマエルの赤い髪が、威嚇する獣の体毛のように立ち上がった。
「今なら、まだ、お許しいただける。主の下に行って、頭を擦り付けて、涙を流すんだ。知恵のないお前が、そんなことできないか。どう、このおれが、付き添って、とりなしてやっても良いよ」
人間、と、声に出して、主の代理人、その半身のサンダルフォンを貶めるのは、主に牙を向けたのと変わりがなかった。カマエルは、長い時、いにしえの天使と呼ばれるほどに存在していたのだから、どうしたって高圧的で、傲慢な、地からあげられたばかりの人間の男よりも、自分のほうが愛されていると、いかづちを浴びるのは彼のほうである、と、考えてしまった。
「俺を堕としたいと思うほどに邪魔なら、お前が去れば良い。俺の目が届かない所はいくらでもあるだろう」
「おれの手、足、目と耳と鼻、すべてが、主のものだ。髪の一本から、爪の先まで、祝福されて、美しいだろ。お前が無意味に過ごした何年もの時より、価値ある体なんだ。おれの身体を使って、見られている」
カマエルは、は、として、目を見開いて、サンダルフォンの背後に白い光を見た。それは、自分の背後にあると信じていたものだった。重かった足が引っ張られて、強い風が下から吹いてきた。自分が、落下している、と、気付き、翼を広げたが、羽ばたかせる力が湧いてこなかった。背を下に落ちていくと、サンダルフォンが、追って飛んできているのが見えた。手のひらを開くと、サンダルフォンは加速し、カマエルの手を握った。そのまま空中で浮力を安定させられず、地にぶつかる寸前に、サンダルフォンは、カマエルの体を引き上げて、自らは太い足で着地した。腕の中に収まり、降ろされたカマエルは、何が起きたかわからず、肩で息をするのみだった。
「怪我は?」
「ない、が……」
カマエルが翼を広げると、三回瞬きする間には、どろどろと腐り落ちて、身につけていた鎧と剣が朽ち果ててしまった。崩れた籠手に触れると、灰色の粉になって消えてしまった。カマエルは、自分の体に触れ、確かに肉体がそこにあることを確かめたあと、翼の感覚が失われたことに気付き、乾いた地面に手をつけ、恐る恐る、首を上げた。
そこには、美しき黒い髪と、翼を広げ、日を背に、カマエルを見下ろす、サンダルフォンがあった。大きな乳房と、男性器を持つ、まさしく、天の使いの姿だった。カマエルは、芽生えた本能で、死を察知した。遠くでカラスの鳴き声がした。天使の成れの果てが、屍肉に変わるのを期待して、汚い声で鳴いていた。
「どうしたんだ、人間?」
「俺が、この、俺を、お前が、人間と呼ぶのか?」
右手の震えが、左手で押さえても止まらないし、そうすれば、左手が震えてきて、何も意味をなさない。あまりにも濃い神性を目の前にして、少し前まで平気な顔をしていたのに、光を浴びて、頭が焼き切れそうになっていた。カマエルは、サンダルフォンにとっては、巣から落とされた小鳥と変わらなかった。
「じゃあ、なんと呼べば良い?」
「俺は、人間なのか?」
「主は、お前を、人に見られた」
カマエルは、喉を掻きむしって、自分の身を呪った。獣の断末魔に似た叫びをあげた。
「なぜ、なぜ、俺が、俺、俺が? 俺は、主の、忠実な剣だった、ずっと」
「意地を張るからだ。傲慢なのは、どちらだったやら。こうなったら、もう、終わりだね。あとどれくらい、その姿でいられるのだろうな」
カマエルは、その言葉を聞かないようにして、粉の中にかろうじて残った剣の柄を握った。少しでも、形になるものを探していたが、それ以外に見つけることはできなかった。立ちあがろうとして、よろけてしまい、粉の上に体を打った。
「本当は、地面に叩きつけられて、潰れて死んでしまってもいいとされたところを、助けてやったんだから、少しくらいはおれに感謝しろよ?」
「あ……、なぜ? わ、わからない……」
「もう、いにしえの天使はいらないんだって。残しておく意味もないの。捨てる理由ができたから捨てただけ。おれだってお前と変わらないくらいは戦えるし、死はどうやっても消えて無くならないから、お前の兄と姉には、死に続ける役目を与えられた。何人も居ては過剰だから。お前はきっと、死んだらそこで終わり、肉体は朽ちて、愛しき兄上が屍肉を拾いにくるだろう」
これからどうすればいいのだろう。カマエルは、サンダルフォンの足の間から、遠くの景色を見た。どうやら、ここは、さっきいた塩の湖だ。周りには何もない。サンダルフォンは、カマエルに手を伸ばして、立つように促した。
「ほら、立てよ。立たないと、何も始まらない。そうだ、お前も、異教徒を殺しまわってこいよ。そうしたら、おれみたいに、天にあげられるかもしれないぜ」
カマエルがなんとか手を掴むと、サンダルフォンは、足に力を入れることもなく、軽々と片手で持ち上げた。十五、六ほどの少年と変わらない体格をしていたから、サンダルフォンのように、背が高く、力のある、新しい天使には、もしかすれば、小指だけで成し得たことかもしれない。
もう飛べない、醜い蛇と同じ、地を這いつくばって生きるしかない。自害したくても、刃は朽ちて、どうにもならない。カマエルは、自分の、柔らかい腹を押さえつけた。腹の奥の方が、疼いて、痛みを覚えていた。
「こ……、殺してくれないか、俺を」
「ええ? せっかく、このおれが、助けてやったのに。人の暮らしも悪くないさ。もし困ったら、身綺麗にしておけば、お前は幼いし、女顔だから、勘違いした誰かが囲ってくれるだろ。それか、もしくは、ローマまで行くか?」
サンダルフォンは、人に堕ちた哀れなカマエルを、どうしても、生かし、塩の湖、死の海に沈めて溺れ死ぬ寸前で引き上げてやるような目に合わせてやりたかった。それと同じような、別の方法を、思案していた。
「もう、お前は、おれのきょうだいだよ。こんな姿を見られたからには、家族にしてやらないとな。いつも見守っていてやろう。そうだ、お前が死んだときには、お前の兄上より早く飛んできて、魂を拾ってやろう」
息がうまくできなくて、足がずっとずっと重く、カマエルの耳にはサンダルフォンの言葉なんて、届いていなかった。それどころではない。悲しみ、苦しみ、妬みが、人の形を作っていた。我慢していても、胃液がせりあがってきて、唇から、酸っぱいにおいの唾液を漏らしていた。サンダルフォンが体をこづくと、決壊して、カマエルは、足元に粘液を吐き流した。
「っ……、うっ……、ぐ、……んっ、は……」
「吐くほど嫌か。それほどか。おれのことが、そんなに」
サンダルフォンは、カマエルの、翼のない背に手を回し、優しくさすった。鉤爪をひっこめ、人の手のひらで触れていた。
「かわいそう、かわいそうだ。気分が良くなるまで、休むだろ。そばにいてやる。そのあとは、街まで送ってやらないとな」
不気味だ、人間は、何を考えているのか、わからない。同じどころか、立場が逆転した以上にあわれであるのに、カマエルは、そう思った。手を引かれて、波打ち際の、塩の塊の上に腰を下ろすよう言われ、その通りにした。
「素直だな。心細いんだろ。不安を感じている。おれに体を預けてもいいからな」
時間が経つにつれて、事実が蝕んでくるのを実感して、カマエルはまた体を震わせた。サンダルフォンは、堂々とした立ち振る舞いをしていたカマエルを思い出し、それから今の彼の姿を見て、苦労して作った砂の城を崩した時の快楽と同じものを味わっていた。
カマエルは破壊と戦争の天使だ。人間の汚いところをいくつも見てきた。それが、自分の身に向けられることが、恐ろしくてたまらなかった。この世界で生きていくことなどできない。街に行ったら、とにかく刃物を手に入れ、腹を切らなければ、この不安から逃れる術はない、その考えに支配されていた。サンダルフォンに体重をかけるのは、まだ残っていた自尊心が許さなかったが、強い力で引き寄せられ、抵抗もできなかった。
「遠慮するなよ。おれって、人には優しいんだ」
サンダルフォンの肌は冷たくなめらかで、東の国の陶器と似た感触だった。カマエルは、毒蛇にあごを舐められている気がして、落ち着かず、痛いほどに鳴る胸を悟られたくなくて、左胸に爪を立てて耐えていた。
「よく日が差して、いい空だな。新しい人生をはじめるなら、おれも、こんな空の下がいい」
カマエルは、我慢できなくなって、刃物で自害するよりは苦しむだろうと躊躇していたものの、塩の湖に手をつけた。力を少し抜くだけで指が浮いてきて、唇を噛んだ。空気が乾いていて、破れた皮の間を抜けると、ひりついた。
「やめとけ。望んだ死に方はできないぜ」
「殺してくれないのなら、もう、せめて、俺にかまわないでくれ」
肩を掴んで止めたサンダルフォンの手を、カマエルが払うと、サンダルフォンは、カマエルの首元、災い避けの金の首輪を掴んだ。ぐ、と、首が閉まって、気道が狭くなり、このままでいたかったけれども、すぐに手放された。
「ああ、そう。おれの祝福はいらない?」
「俺のことが面白くて、からかいたくて仕方ないのはよくわかった」
カマエルは逃げようと思った。勝ちだとか、負けだとか、そんなことにこだわる立場では、もうない。なんとか立ち上がって、この場を去ろうと、サンダルフォンに背を向けると、背後から強い力で襲われて、目の前がぐらついたのを自覚すると、岩場に叩きつけられていた。
「じゃあ、一番情け無い殺し方をしてやろう。死ねるなら、なんだってかまわないだろ」
カマエルは背中を踏みつけられ、低く小さな悲鳴をあげた。力を入れると、小枝を折るみたいに簡単に胸の骨が折れてしまうだろうから、サンダルフォンは、バアルの預言者を殴り殺す時よりは力を込めなかった。
鎧が朽ちてしまったので、カマエルが身につけていたのは、胸と秘部を隠すだけの布切れしかなく、掴んで引っ張られると、繊維がほころびて、すぐに糸に変わってしまう。カマエルは後ろを振り返ったが、首を押さえつけられて何が起きているのか知ることはできなかった。
「っ、何を……」
「わからないのか。お前が生きるために必要なことを、このおれが、教えてやろうというんだよ。気が変わったらいつでも泣いて叫んで生きたいと言うんだ。そうしたら、殺すのはやめといてやる」
尻を掴まれて、カマエルは、背筋が凍えるような感覚に襲われた。この男は、自分を、凌辱するつもりなのだと気付いた。暴れようとすると、右腕を強く握られた。鋭い痛みが、いなづまが自分の身に落ちてきたように走った。歯を食いしばって、大きな声を出さずに、うめき声のみで耐えた。すぐに右腕に力が全く入らなくなり、青ざめた。
「あ……っ、……、が……」
サンダルフォンは、さっき、とってきた首にしたように、カマエルの髪を引っ張り上げ、顔をのぞいた。
「いい顔するじゃないか。もう剣を振らなくていいのだから、腕はいらん。なんなら、むしろ、このほうが、同情を誘えていいかもな」
痛みは消えることはなく、継続し、危険を伝え続ける。これほどの痛みを続けて感じるのは、カマエルにとって、初めての経験だった。理解するのに、少しでも時間がかかるのは、戦いの中にあったのならば、そのまま死に繋がることだ。
サンダルフォンは、大天使の自分が、助けてやろうというのに、首を縦に振らない、この生意気な人間が、少し気に食わなかった。それでも生かしてやってもいいと言うのは、あまりにも優しすぎる、と、思った。この行為は、法に逆らうことではあるが、この手足が動くぶんには、何をしてもよかった。サンダルフォンが暴力を振るうのは、天にあげられ、天使となった時から数えても、今回だけではなかった。
「何をしようとしているか、わかっているのか!」
痛みを訴えたいという衝動を飲み込んで、カマエルは叫んだ。周りに何もないが、どこからか、また、カラスの鳴き声と羽ばたく音がした。
「わかっていなければ許されるか、そうだといいな」
息をする音が大きい。呼吸が必要な、哀れな生き物を見下ろしていた。サンダルフォンは、何かを傷つけることで、性的興奮を得る性分だった。新しい記憶に、最初に流れ込んできたのは、炎の中で逃げ惑う人間の、渇いた叫び声だった。
サンダルフォンは、自分の、太く重い足で、逃げられないように、カマエルの足首を押さえつけ、尻の肉を開いた。秘部が空気に触れ、痛みは我慢できたのに、カマエルは心からの声をあげた。
「嫌だ……」
「嫌か。腕の骨をいかれることより、嫌か?」
「俺は……」
吐くものは、もうなかった。
「ヒト猿に犯される以上の屈辱を知らない……」
「おれの考えが、お前に合うようで、良かったよ。なあ……」
こんなになっても、まだ、このおれを、ヒト猿呼ばわりするのか。お前がそうであるのに。サンダルフォンは笑いを隠せなかった。愛された存在である、人を、猿と呼ぶのは、信仰が失われている証だった。そして、カマエルの、意味のない、精一杯の強がりだ。
サンダルフォンは、自分の体の中で、顔の次によくできた、男性器で、カマエルの女性器を押し開いた。カマエルは、逃げようともがき、岩塩の地に、左手の爪を立てていた。今はもう子を成せる体、小さな腹の中にそれが全て収まり、カマエルは、あさましく、それを締め付ける、鍛えた自慢の筋肉が嫌になった。その思考をのぞいたサンダルフォンは、実際に与えられている刺激と加えて、自分の加虐心を煽られ、血管が太くなるのを感じていた。
「どう、気分は? おれは、結構いいけど」
カマエルは、答えなかった。息をするたびに、ぐっぐっと力がこもっていて、それだけで、サンダルフォンにとっては、十分満足できる答えになった。遠くへ行こうとする腰を掴んで、鉤爪を食い込ませた。カマエルは力を込めた左手を握り、こぶしで、強く地面を殴った。それしか、できなかった。
女ではないのだから、女みたいに、来るわけもない助けのために、泣き叫ぶわけにはいかないと思い、奥歯を噛み砕くくらいに顎に力を入れた。腰が引いて、一瞬楽になったかと思うと、奥まで肉の槍に貫かれて、目をぎゅっと縛って耐えた。一度なら良かったが、何度も、速さも加えられ、声を聞かれないように、左腕に噛み付いた。
「っ……、ふーっ……、ふっ、う、ぐ、ふ……」
「もう、さ、死ぬんだから、楽にしてた方がいいと思うけどな」
今みたいに、そうしてたほうが、嬉しいけど、とは、サンダルフォンは、思っていても言わなかった。ぎりぎりまで抵抗の姿勢を見せて、歯向かおうとしてくるのが一番良くて、今のカマエルの姿は、これまでの女の中では、三番目か四番目くらいに良いなと、記憶を掘り返しながら、腹の奥の一番狭いところを使っていた。
腰と、尻がぶつかっている乾いた音と、粘液のぬめった音がしていた。人の体は、性器が傷つかないように、滑りが良くなるように、雄を受け入れて子を成すために、そのようになっていたが、カマエルは、そこまで人の体、自分の体を知らなかった。右腕が折られたからだろうか、カマエルは処女だったが、行為に痛みを感じなかった。気づけば、女性器の手前についた、男性器をゆるく勃起させていたが、自分がそうなる理由はよく知らなかった。
「なあ、お前、ちょっと、よくなってるだろ。今どうなってるか、わかってるか? ええ?」
サンダルフォンは、カマエルの左腕を、人の体が耐えられるくらいの優しい力で引っ張り、カマエルは腕から口を離さざるを得なかった。後ろから見える耳が、髪色に負けないほど真っ赤になっていた。腕を引くと、背中が反って、引き寄せられた腰が震えていた。
「っ……、はっ……、な、何っ……?」
自分の支配下にあるはずの体が、勝手に動いている。腹の中身が、負けて、下がってきていて、侵入する雄に抵抗する力が無くなってきていた。呆然としていると、再び強い力で押し潰されて、ついに、カマエルは、自分の意思に反する声を噛み砕く事ができなくなった。
「うぁっ!」
目を見開き、初めての快感を浴びて、カマエルは、のどをしっかりと開いた。
「う、ぁ、あ、うっ、あぐ、っ」
「大天使様はもう少し耐えられると思ってたんだけど」
無くなった翼を動かす感覚だけは残っていた。自分の手足のように使っていた器官はもうなく、手足ですら、満足に動かなくなった。自由なのは首だけだ、受け入れ難い現実に、首を横に振るしかない。
四つん這いで、舌を引き攣らせ、暴力に屈している姿は、負け犬と言って差し支えがない。カマエルは、男だ。女の部分が身体にあっても、男にあるべきものは持っていたし、言わずもがな、精神は、戦士の男だった。天使であった、つい数刻前の自分であれば、殺すことはできなくとも、隙を作って逃げ延びることはできた。力には少し自信があった。目の前には、主に力の証として授けられた、剣の柄だけがあった。
腰を引くと、中が絡みつき、肉がめくれあがる。負け犬がいつ許しを乞うのか、サンダルフォンは、これが耐えるのなら、今から出来うるだけの、痛みのない死を与えてやろうと思った。痛みに歪む顔、死にゆく人間の断末魔がこの上なく好きなサンダルフォンにとっては、裸の女が横になっているのに、手を出すなと言われているのと同じことだったので、そうしてやるのが、カマエルの魂にとって、一番良い、と、思った。
サンダルフォンは、男根を完全に引き抜くと、カマエルの体を仰向けにひっくり返した。カマエルの秘部は、大きなものに広げられ、開き切っていたものの、ゆっくりと元の形に戻った。
カマエルは、何をされるのか理解できず、サンダルフォンの、神々しい身体を見上げ、息を飲んだ。
震える膝の裏に手を入れ、開脚させられ、カマエルはあまりの恥ずかしさに目を背けた。再びサンダルフォンの性器が押し付けられ、少しの抵抗感はあったが、滑るように飲み込み、もう離したくないと言うように、意思に反して、きつく締め込んだ。
「とにかく目の前のものに噛み付くのが趣味なんだな」
「……っく……」
力の失われたカマエルが、利き手ではない、左手を振りかぶっても、何の意味もなかった。すぐに手首を捕まえられ、動けなくなった。初夜を迎える若い娘にしか許されない顔、顔に血が回って、頬が赤くなっていて、体のすべての部分を覗き込まれたのを、突きつけられる視線がわからせてくる。
「今のお前に、舌を噛み切る力はないね」
その様子、顔が見えて、サンダルフォンは、面白く感じたし、少しがっかりもした。カマエルとしては、まったく、男を捨てたつもりはなかった。尻が高く上げられ、その上で、また潰されると、もう何も生えてこない背中が疼き、カマエルの、勃起した男性器から、透明なしずくが落ち、腹と胸を流れていった。
互いに、肉のついた胸を揺らし、自らの体を見て、興奮していた。一番美しいと信じている体が、艶かしくうねり、汗の膜を乗せていた。カマエルは、理解できなくとも、ときおり腰を震わせ、肉の壺をぬめらせて、生物に与えられた喜びのひとつを、拒否できずに、享受するしかなかった。
「こっ、こんな、つもりで、ない、のにっ、この、俺がっ」
そうだ、そんなことを言い続けていれば良い、サンダルフォンは翼を広げた。
カマエルは、性をまったく知らないわけではなく、知識はあったが、身に浴びるのは初めてだった。興味も湧かなかったその行為に、意識を薄め、屈辱を味合わされているのに、ああはなりたくはない、と、人の営みを見ていたのに、これでは、悪魔、堕落した女と同じだ。
「うん、どう思っているか、おれに、たくさん聞かせてくれよ」
足をさらに折りたたむようにされ、腹の上の方を擦られると、カマエルは、目を見開いた。ふくらはぎから足の指までの筋肉ががぴんと伸び、力が入る。
「話せないな。もう少し、ゆっくりしてやろう」
「はっ、は、はぅ、はっ……」
「これでもだめか? 淫売」
サンダルフォンは、カマエルの腰を下ろして顎を掴み、鼻と鼻とが触れる寸前まで、カマエルの顔に迫った。恋人でもなんでもないから、口吸いなんてするわけがなかった。視界を全て自分で埋めて、考えから逃げられないようにするためだった。サンダルフォンはカマエルの口に親指を入れ、カマエルは咄嗟に噛みつき、言われたことを思い出し、口を離した。
「どうした。噛みたいならいくらだってやっていい。痛くも痒くもない」
「俺は、っ、淫売じゃ、ない」
へえ、と、サンダルフォンは、抜けた返事をして、カマエルの舌をつまんだ。朝の砂漠のような感触がした。思考は覗けていても、口にする言葉は、聞くまでわからないので、サンダルフォンは拷問と暴力を好んでいた。尖り、曲がった爪で舌をなぞられ、カマエルは首をそらし、サンダルフォンはそれを追わなかった。
「もういいだろうっ、もう、殺してくれっ」
「お前の生き死にを決めるのはお前じゃない。おれだ、おれが全てを決めるんだ」
サンダルフォンは、カマエルの下腹を指で押し込んだ。べたべたと濡れていて、いやらしいにおいをさせていた。
「おれの子ができたら、どのようになるだろう。天使の子だとして、見せ物にして、一生困らず暮らしていけるといいのだが」
カマエルは言葉を無くしてしまった。この俺が、母になり、しかも、子を見せ物にするようになるというのか。もし、生かされ、死ねない体になったとしても、それだけは絶対にしたくない。カマエルが睨みつけると、サンダルフォンは、気分が良くなり、腰を動かす速さを元に戻した。
「っ、ぐ、やめ、ろっ……」
「この方が、いいだろ、お前も」
「な、にゃ、だっ、てえ……」
「はあ? 何? 何だって?」
カマエルは自ら腰を浮かせ、目を潤ませていた。これが、何千年も戦いと死の天使として主の力の代わりを果たした男か、と、サンダルフォンは嘲笑した。股間を性器からにじんだ粘液でぬらぬら光らせ、男性器は強く勃ち上がり、メス猫のように甘い声で、カマエルは、何かがくるのを恐れていた。体がばらばらになって、吹き飛ばされそうで、体に力が入り、硬直し、目が閉じられなくなった。
「だめ、だめだっ、これ以上はっ……、っは……んう"っ……」
「堪え性のないやつ。ほら、無駄だから、さっさとしろ」
カマエルの鈴口に、白い泡が浮いているのが見えた。すぐに、力なく精が溢れ出した。
「う"っ、う"う"あ"っ、あ"っ」
サンダルフォンが強く腰を打つと、そのたびに、カマエルは、押し出されるように射精した。腹にいくつも白い線が伸びた。膣がぎゅうと締まり、男から精を搾り取り、子をなすことを本能が求めていた。快感が肌の上をめぐり、頭が溶けて、なくなってしまいそうだった。
「上手にできたじゃないか?」
「う"、ぐ、っ、はーっ、はっ、は、はーっ……」
サンダルフォンは腹に落ちたカマエルの精を、指で掬い、カマエルの目の前に持って行った。
「っは、っ、は、はあっ?」
「初めてだろ。これなら娼婦として生きていける」
「ふざけるなっ……」
「男だと自分に嘘つけなくて、いいねえ。お前がおれに負けた証だ、これは」
白い粘液が、カマエルの胸に落ちた。
「腰浮かせて、ひゃんひゃん喘いで、射精までさせてもらって、良かったな。こんないいこと、知らずに死ねるわけないよな」
「っ、殺してやる……」
「そうか。おれを殺してお前が生きるか。できるならそれもいい」
サンダルフォンは、カマエルの首に手をかけた。カマエルは、唾を飲んだ。まだ締められていないが、もうじきだ。人の形に戻った指が、カマエルの首の筋に触れる。
「最後だ……。ここで止めなければ、お前は死ぬ」
「……」
カマエルは、答えなかった。サンダルフォンは、カマエルが十回瞬きするのを数え、何も言わないと見ると、手に力をかけた。骨を折らないように、ていねいに、のどだけを締めた。カマエルは動く左手でサンダルフォンの手を解こうとしたが、まったくびくともしなかった。
サンダルフォンは、目を剥きいて苦しむカマエルを見ると、止められなくなって、強く腰を打った。カマエルの足が暴れたが、自分の体重で押さえつければ、ほとんど動かなくなった。生きてるうちに、はやくしないと死んでしまうぞ、と、頭の中で自分を急かした。いろんな体液が入り混じり、泥を掻き回すような音がしている。
カマエルの意識は朦朧としていた。男性器は再び勃起し、また少し射精していた。苦しかったのが嘘のように、気持ちがよかった。体が硬直し、ほとんど動けない。だが、翼が戻ってきたと錯覚するような浮遊感があった。膣がより一層締まり、サンダルフォンは大きく息を吐いた。
カマエルは、腹の中のものがびくついたのを感じ、また絶頂を迎えた。サンダルフォンは時間をかけて射精を終えると、首にかけた手に力をこめた。
一瞬、カマエルは目を見開き、それからすぐに、腕と足が力をなくし、塩の地面の上に音を立てて落ちた。
サンダルフォンは、唾液の泡が浮いている唇を、翼で払って、口と目を閉じてやった。まあ、そこそこ、綺麗な死に顔だ。首に跡が残っている。しばらく放っておけば、死斑が出て、硬直が始まるから、それを楽しんでもいいけどな、と、その死体を見下ろした。カマエルの体から自らの性器を抜き出すと、白い精が静かに流れていった。
塩の湖から、大きな水の音が聞こえてきたので、サンダルフォンは振り返った。そこには、黒と赤の鱗を持った、大きな蛇がいた。器用に泳いで、ここまで来たようだった。湖から上がってくると、蛇は大きく体を持ち上げ、人の形に変わった。赤い髪と、緑の目を持つ、カマエルの兄、サマエルだった。
「こんにちは。魚拾いですか」
まったく、予想していた声掛けと違って、サンダルフォンは驚いた。ここは塩の湖なのだから、魚なんて一匹もいるわけがないし、もし迷い込んでもすぐ死んでしまうというのに。
「そんなもんだ」
何を考えているのかわからなくて、思考を覗いたが、見えなかった。サマエルは、サンダルフォンの足元にある、遺体の前にしゃがみ込んだ。
「ひどい暴行を受けている。可哀想に、痛くて怖かっただろうな。誰がこのようなことを……」
サンダルフォンは、少し恐ろしくなった。おれがしたことだとわかっているはずなのに、おれがするわけがないだろうという態度を続けるつもりだ。
「君、真面目で、仕事熱心だと聞いていたが」
「あ、ああ……。ありがとうございます。そのように伝わっていたとは。うれしくも、恥ずかしくもありますけれど……」
サマエルは、今の気持ちをどうしたらいいのか、わからなかった。可愛い弟を凌辱し、絞め殺したのは、間違いなく、この、主の代行者、その半身であった。彼がそうするのなら、弟は、そんな運命だったのだろう、誰も恨むことはない。だが、力をわけた弟が、人に堕とされ、辱められたことは、悲しかった。様子がおかしいと、サマエルは思っていたが、一体何があったのか、予想がまったくつかなかった。
サマエルは、記憶を辿り、思い出せる限りの、簡単な祈りの言葉を囁いた。
「おや、そんなことをするんだな」
「意外かもしれませんが。ぼくは、信仰を失っていませんから」
「そうか。それもそうだ。主の飼い蛇だから」
「はい……」
サマエルは、カマエルの遺体を抱き上げ、天にあげられた偉大な天使に、作り笑顔を見せた。
「実は、彼は、ぼくの弟なのです。仲良くしていただいて、ありがとうございました。ぼくは、弟を、柔らかい地面のところまで連れて行き、埋葬します」
「ああ、待ってくれ。おれに任せてくれないか」
「そうですね。長い間疎遠だったぼくがするより、仲のいいあなたに任せた方が、喜びます」
サマエルは、遺体を受け渡し、サンダルフォンに預けた。子供を抱き上げるように軽く持ち上げ、見た目以上に力があるな、と、サマエルは大天使の力と美しい姿と、弟との仲とを見せつけられたようで、嫉妬した。
「その……、これから、どうされるのですか?」
サマエルは、迷ったが、聞いてしまった。どうせろくでもない答えが返ってくるだろうとわかっていても。そして、言葉を放って、すぐに後悔した。サンダルフォンは、待っていたとばかりに、唇を吊り上げた。
「君は、天使の武器や鎧が、どうあってできているのか、知っているかな」
「善い人間や、役割を失った天使の魂を埋め込んだものと聞いています。ぼくも、昔は、槍を持って、戦に出たものですから」
「そうだったか。おれも、とっておきの剣を頂くつもりだったんだが、おれの気にいる魂がなかなか上がってこなかったんだ。武器という形ではあるが、天に戻れたほうがいいだろうと思ってね」
自分の予想が当たっているのなら、弟は、あまりに、かわいそうだ。暴行され、殺されて、その相手の武器になるだなんて。サマエルは、愛しき弟の顔、柔らかい頬に触れた。ずっと昔、きょうだいで暮らしていたことを思い出していた。仲は、悪い方ではあったが、サマエルは、妹と、弟の無事を毎日祈っていた。
「あなたのような偉大な天使の剣に生まれ変われるのなら、彼も、誇らしい気持ちでいるはずです」
サマエルはふたりから一歩離れた。
「いいのか。もう顔を見ることはないぞ」
「はい。あなたと弟が、ずっと共にいられますように」
「……おれは、君が、少しうらやましいよ」
「なぜ、そう思うんですか」
サンダルフォンは、美しい大天使であって、醜い蛇の悪魔の自分が勝っているところなど、ないように見える。サマエルは眉をひそめ、困惑した。
「君は死であるから。君だけが。おれは光の、その一部でしかない」
どこからか、カラスが一羽飛んできて、サンダルフォンの足元に降り立った。二羽、三羽、と増えていく。
「変ですね。この辺りに生き物なんていないのに」
「おれの使いなんだ」
「賢い鳥ですからね」
カラスは、サマエルにとっても馴染み深い生き物だった。力を失って、荒野を彷徨っていたとき、カラスに屍肉を譲ってもらったことがあった。共に暮らす事もあった。遅れて飛んできたカラスが、迷いもせず、サマエルの元に来て、肩に止まった。
「もう行くよ。おれが言うのも変な話だが……、応援してるよ」
「いえ。ありがとうございます。あなたに会えてよかった」
「次に会う時は、おれは、君を焼かないといけないのかな」
「そうかもしれません。いつになるのでしょう。ぼくは、その時に向けて、自分のすべきことをするだけなのですが……」
「ある意味、君が、一番愛されているのかもしれないね」
「……自分では、そうは思いません。ぼくは、肥やされて食われるのを待つ、子羊とまったく変わりないんです」
サンダルフォンは声をあげて笑い、振り返る事もなく飛び立って、カマエルを連れて、日に向かって飛んだ。自分がいるべき場所に帰ると、火を吐いて、死体を焼き溶かした。そして、そのうちに、黒いやいばの、美しい剣を賜った。
サンダルフォンは、その剣を振るうことは一度もなかった。ただの美術品として扱うことにし、誰に見せることもなく、奪われないように、暗い場所にしまっておいた。数百年に一度、ふと思い出して、ずっと美しいままのやいばを見つめた。
サマエルは、カラスと共に飛んで行くサンダルフォンを見届けた。そして、カマエルが倒れていた場所を、手のひらで撫でた。まだここに体温があって、弟が今もここで寝ているようだった。たった一匹残されたカラスが、サマエルに向かって、低い声でひとこと鳴いた。
「なあ、きみ、彼の使いなのか、そうじゃないのか、どっちなんだい?」
返事をするように、またカラスが鳴いたが、同意にも否定にも感じられた。
「ついてくるのなら、共に食事をして、仲良くなろう。ごちそうを取られてしまったから、ぼくは、腹が減っているよ。きみはどうかな」
なぜそう語りかけたのか、理由があったはずだが、サマエルにとっては、もう昔の話で、思い出すほどの強烈な出来事でもなかったから、忘れてしまっていた。
まだ、生は、死の奴隷であった。