プロローグ
西日が強くなってきた廊下にカツカツと自分の革靴の底が歩を刻む音が響く。三大校の一つらしく、敷地も校舎も広いトリニティだけど、流石にこう何度も通うと迷うこともなくなる。いや本当に、自分の母校と比べると学校施設だけでも三倍は広いのだキヴォトスの大規模校。流石は学園都市と言ったところか。
物思いにふけりながら、見慣れた洋風様式の廊下を進む。トリニティの中枢であるティーパーティーが活動する建物の一つであるここは、けれどここまで一度も生徒とすれ違うことはなかった。
これはありえないことだ。ある程度の規模を持つ学園の運営組織・委員会はその性質上不夜城が当たり前で、それはトリニティも例外ではない。“いつもであれば”目的の部屋にたどり着く前にティーパーティー所属の生徒や警備の正義実現委員会の生徒と二桁単位ですれ違っていたことだろう。
それがいつ頃からか、今日と同じ目的の日だけは誰ともすれ違うことがなくなった。警備がいない入口、人の気配のしない各執務用の部屋。聞こえてくるのはどこにでもある環境音と、自分の靴底が鳴らす音だけ。
人払いをされている。そう気がついたのはいつ頃だっただろうか。それを容認するようになったのはいつ頃だっただろうか。
曖昧な自身の記憶力に小さく自嘲の声が漏れる頃、目的の扉の前に立つ。
「やあ、先生。開いているよ」
高級品に疎い私でもわかる丁寧な装飾が張り巡らされた扉をノックすると、待ち人の声が中から聞こえてくる。その声にどこかホッとする自分がいることを自覚する。
扉を開けると、貴族のもののような豪奢な部屋、その中央に鎮座した円形のティーテーブルに腰を下ろした生徒が微笑みかけてきた。
ティーパーティーの特徴である白に金の装飾が散りばめられたワンピース調の制服に狐を思わせる金色の大きな耳に地面まで垂れる長い尻尾。大切な生徒であり、ティーパーティー三大派閥の一つ、サンクトゥス分派の首長である百合園セイアだ。
促されるでもなく自然と隣の椅子に腰掛けると、可愛らしいデザインのティーポットから紅茶が注がれる。どうやらミルクティーのようで、カップの中にはゆらゆらと綺麗な素色の液体が漂っている。
「今日もお疲れだろう? 甘みもあった方が良いだろうと思ってね」
「ありがとう」
お礼もそこそこにティーカップを口に運ぶ。相変わらず紅茶の良し悪しはよくわからないけれど、ミルクの程よい甘さと紅茶の香りが疲れた身体に染み込んできて、ほう、と安堵にも似た息が漏れた。
「ふふっ、私特製のロイヤルミルクティーは気に入ってもらえたようだね」
「ロイヤル……名前はよく聞くけど、ミルクティーとは別物なのかい?」
「端的に言えば入れ方の違いだね。ミルクティーは紅茶を注いだ後にミルクを入れるのに対して、煮出しの段階でミルクを使うのがロイヤルミルクティーなのさ」
ほー、とまた一つ紅茶知識を脳に刻みながらもう一度カップを口に寄せる。
定期的に招かれているセイアのお茶会。トリニティのお茶会というと会議の隠語のように聞こえてしまうけれど、これはただただ彼女の淹れてくれた紅茶をお供に雑談に興じる時間だ。まあ、そもそも現在トリニティの運営はナギサを中心としてミネやサクラコたちがやっていて、セイアはフォロー程度に留まっているようだから、学園運営の話をしたところで雑談の域は出ないと思うけど。
「それで、今日は何をしていたんだい? ……何やらかすかに香ばしい香りがするが」
「ああ、多分パンちゃんのやつかな? ジュリの料理練習を手伝ってたんだけど、ちょっと失敗してパンちゃんになっちゃってね。風紀委員のみんなと一緒に対処したんだ」
「パンちゃん? ……いや、聞いたことがあるな。ゲヘナには食べ物を使った生物兵器があるとか。眉唾だと思っていたのだが、本当だったんだね」
「兵器じゃないんだけどね……」
本当に兵器ではないのだ。いや、確かに強いんだけどね。今日のは特に使った水が良かったのか――あるいは悪かったのか――ひときわ強くて、結局ヒナの助けを借りることになったし。
どうしてジュリの料理はパンちゃんになってしまうのか。正直キヴォトスで先生やってて、一番良くわからない問題ではある。どうすれば解決できるんだろうか。
「この香ばしさにパンちゃんという名前……トーストでも作ろうとしたのかい?」
「いや、パンちゃんはパンケーキの姿をしているんだ」
紫色で触手蠢く姿をパンケーキと称していいのかわからないけど。
「パンケーキの香ばしさではないと思うんだが……焦がしてしまった結果パンちゃんとやらになるということだろうか」
「いや、ジュリが料理をすると全部パンちゃんになるんだ。今日作ろうとしたのはビーフシチューだし」
「パンケーキと材料から被らないじゃないか!?」
そうなんだよね。パンちゃんはどうやって生まれるのか。なぜパンケーキに近い姿になるのか。その理由は未だに誰もわからないし、変化する瞬間はミレニアム製の高性能カメラでも収めることができないのだ。多分黒服の言うところの神秘とか恐怖とかが関係しているんだろうけど、黒服に聞いてもわからなかったんだよね。「え、なにそれしらんこわ……」って口調が乱れるくらいだったし。
トリニティ……というかキヴォトスでもゲヘナくらいでしか見られない出来事を聞いて、セイアは自分のカップでちびりと口元を濡らして微笑む。
「少し興味が湧いてきたよ。今度ゲヘナに同行しても構わないかい?」
「色々と問題があると思うなぁ……」
彼女の提案に思わず苦笑する。これがヒフミあたりの相談であればなんとかなったかもしれないけど、トリニティの重鎮であるセイアを、となると相当大変なことになるのは火を見るよりも明らかだ。
エデン条約は白紙に戻ったし、別世界のシロコたちが来たとき、私不在で行われた会議でもトリニティとゲヘナは衝突したと聞いている。それだけ二校の軋轢は大きいのだ。流石に見えている地雷原を生徒に歩かせるわけにはいかない。
ただ、ジュリはあまりトリニティの対して悪感情はないように見えるし、ゲヘナでさえなければなんとかなる……かも?
「シャーレの部室でなら、会うことはできるかも」
「本当かい? ふふ、楽しみにしておくよ」
空になった私のカップに追加のミルクティーが注がれる。口をつけると変わらない美味しさがそこにあって、またしてもほう、と息を漏らすことになった。
「いつも思うが、先生は随分と豪快に紅茶を飲むね」
「そう?」
「いやなに、別にそれが悪いというわけではないさ。ただ、私ではこのカップサイズを二、三口で飲み干すのは難しいから、物珍しく見えてしまうんだよ」
確かに、セイアのティーカップにはまだ半分程度紅茶が残っている。口にする回数は同じくらいだったことを考えると、単純に私と彼女では一口が倍くらい違うということになる。
まあしかし、これは当然といえば当然のことではないだろうか。
「私とセイアじゃそもそものサイズが違うしなぁ」
「……なんだい、私の身長が足りていないとでも言うのかい?」
「いや、そこではなく」
口のサイズの話をしたつもりだったのだが、別の意味で捉えられてしまい、セイアは唇を突き出して拗ねるようにそっぽを向いてしまう。そんな様子に苦笑しつつ、誤解を解くことに専念する。
何気ない時間。楽しくも忙しいキヴォトスでの生活における、ちょっとしたブレイクタイム。シャーレの活動に不満なんて欠片もないけれど、それでもこういう心休まる時間は貴重だ。先生という義務が緩むというか、一人の私……そうだ。自分自身でいられるんだ。セイアの隣なら。
……ああ、そうか。そうなんだ。
「ん? どうしたんだい?」
「いや……なんでもないよ」
降って湧いた言葉がすっと腑に落ちる。あまりにも落ちすぎて、セイアをなだめる言葉が止まってしまったほどだ。
私はセイアが好きだ。多分、いや確実に生徒として以上に。
きっと本当はもっと前から気がついていたのだ。おそらく、完全に人払いがされたここで彼女と二人きりのお茶会をすることに慣れた頃には。
それを自覚すると、途端に気恥ずかしさが溢れてきて、紅茶で一気に胃に押し戻した。
「って、どうしたの?」
何度目かの息をついて顔を上げると眼の前にセイアの顔があって、どきりと心臓が跳ねた。
「ふむ、確かにこうして見ると、先生の口は私のものより格段に大きいな。身体の違いが原因かな? いや、身長が近いカリンと比べても大きく見えるね。ということはこれは性差だろうか」
「や、ちょ……」
じっと自分の口を見つめられるという慣れない事態に押し戻したはずの羞恥心がぶり返してくる。見てもいないのに頬が上気していると確信するくらい熱い。
「少し唇がカサついているじゃないか。忙しいとはいえ、自身の手入れを疎かにするべきではないよ」
それに……文字通り目と鼻の先にあるセイアの顔から目を離せられない。綺麗に整えられた長いまつ毛。じっとこちらを観察してくる赤みを孕んだ金色の双眸。本人の言う通り、私のものより格段に小さい唇。
そして、明らかに化粧とは違う赤らみ方をした頬。
「ぁっ……」
それに気づいて思わず腰に手を伸ばすと、彼女の瞳に喜びの色が混じった。袖余りの両手がそっと肩に乗せられる。
ゆっくりと二人距離が縮まって――
「…………」
「…………」
「ふふっ、キスは甘酸っぱいものと聞いていたけれど、存外甘ったるいものだね」
「レモンティーだったら想像通りの味だったかも」
お互い口は完全にミルクティーに染まっていたからね。セイアが淹れてくれたものより甘く感じたのはプラセボ効果というやつだろうか。
「じゃあ、今からレモンティーを淹れようか?」
「えっ」
「ふふふっ、冗談だよ」
随分と間の抜けた声を出してしまった私にクスリと笑いかけると、備え付けの炊事場――と呼ぶにはこれまた洋風然としたおしゃれなデザインだが――で新しい紅茶の準備をし始める。なんとなくついていくと、どうやら今度はストレートティーを用意しようとしているようだ。レモンがないことにちょっとホッとした。
***
「さて先生、晴れて我々は恋仲になり、物語であればハッピーエンドなわけだが」
「うん。流石の私もわかるよ。セイアの立場だと、色々しがらみがあるもんね」
「…………いや、間違ってはいないんだけどね」
あれ? 何故か呆れられてしまった。大げさにため息を漏らしたセイアは一度紅茶に口をつけると、居住まいを正してこちらに顔を向ける。
「もちろん私のサンクトゥス首長という肩書もしがらみが多い。しかし、君の“シャーレの先生”という肩書はそれ以上に問題があるんだよ」
「そうなの?」
「思い出してほしい。ナギサがシャーレの、先生の権限を使ってなにをしたのか。調印式の日、シャーレの権限で何ができたか」
確かに、セイアの件で精神的に不安定になってしまったナギサはシャーレの権限を使って補習授業部を“退学できるための箱”にしてみせた。調印式のときも連邦生徒会の一部というシャーレの特性を用いることで、調印を起源としたユスティナ聖徒会に対抗することができた。
それだけじゃない。そもそも連邦生徒会長が失踪したことによる混乱を収める手段であったサンクトゥムタワーの権限取得は私しか扱うことのできないシッテムノ箱、アロナが必須であったし、セリカがカタカタヘルメット団に誘拐されたときにセントラルネットワークで情報収集できたのもシャーレの権限あってこそだ。改めて考えると、これに数多く助けられているとはいえ、シャーレの権限って大きいな。少し怖くなってきた。
「気づいたようだね。そう、君の権限は強大だ。しかも、普段いがみ合っているゲヘナ・トリニティを一時的に学園単位で共闘させることができる程の信頼も兼ね備えている。そんな君が生徒一人と恋仲……あえて意地の悪い言い方をするなら贔屓するとなれば? しかもそれがマンモス校の上層部ともなれば?」
火種になることは想像に難くない。最悪を想像して、思わず身震いしてしまう。
「まあ、なんだかんだ毎度問題を解決してしまう先生だ。実際に公表したとして、上手く収めてしまうかもしれないね」
「いやあ……流石にちょっと自信がないかな……」
「まあ、流石の先生でもそうだろうね」
共通の敵、というものが存在した虚妄のサンクトゥムの時とは話が違う。トリニティ内だけならともかく、他校の生徒たちを納得させることができるビジョンがまるで見えなかった。
頭を抱えた私に苦笑を見せたセイアは椅子をこちらに近づけ、すす、とすり寄ってくる。スーツ越しに少し低めの体温がじわりと伝わってくる。
「お互い、面倒な立場でとんでもない感情を持ってしまったものだね」
これがただキヴォトスで生活しているだけの大人とトリニティの一生徒であれば、もっと話は簡単だっただろう。特に周りを気にすることなく、恋人らしく振る舞うことも難しくなかったはずだ。
「後悔してる?」
「まさか」
とはいえ、この現状と噛み合わせの悪い肩書があるからこそ、私がセイアと出会うことができたのも紛れもない事実。
面倒な肩書も、とんでもない感情も、どちらも大事なものなのだ。
とはいえ、ではどうすればいいか。せっかく自分の感情を自覚して、せっかくそれが独りよがりなものではないと知れて、今更なかったことになど出来はしないし……。
「まあなに、どれだけ言葉を尽くしても、すべての人間を納得させることはできないだろう。クロノススクールは嬉々として虚実に憶測を混入させた報道をするだろうし、万魔殿の議長あたりはこれをネタになにかしらの要求をしてくるかもしれない。君のことを好ましく思っている生徒たちから、私は突き上げを受けるかも知れないね」
「それは……」
「いや、わかっているよ。君は大切な生徒たちがそんなことをするとは思っていない。思いたくない。あくまで可能性の話さ。それだけ君が愛されているという話さ」
先生としてキヴォトスに尽力してきた成果だね、と続けながら静かに紅茶に口をつけたセイアは、ふっとこちらに微笑む。その目には少しばかりの茶目っ気も混じっていた。
「まあだから、発想を変えよう」
「発想を変える?」
「公表すれば混乱は必至。であれば、公表せずこっそりと交際すればいい」
「なる……ほど?」
確かに、バレなければなにも問題は起きない。バレてしまったときのリスクは当然あるけれど、そもそも隠し事なしのノーガード戦術が信用できないのだ。せっかく思いが通じ合った事実をなかったことにするくらいなら、許容できないリスクではない。
それに……周囲に内緒で実は付き合っているというシチュエーション……ちょっといいかも。
「まあ、私がトリニティとしてなんの肩書もない“ただの百合園セイア”になるまで。ほんの数ヶ月の辛抱さ」
「期間限定って不思議な魅力があるよね」
「ふふ、先生のそういうノリの良さ、嫌いじゃないよ」
まあ、考えようによっては今の関係の延長戦ってところだろうか。今の居心地の良さを突然捨てなくていいと考えれば、なにも悪いことだけではないかもしれない。
カップの底に残っていた紅茶を飲み干す。熱の冷めたストレートティーは少し渋みが感じられた。
空になったカップを戻した私を見計らうように、セイアが身を乗り出してくる。
「セイ――」
なんだろう、と声をかけようとしたときにはすでに視界は彼女の顔で埋め尽くされていて。
「――んっ。愛情表現として接吻は代表的なものだが、実際に試してみると納得だね。心が満たされる気分だよ」
「……そうだね」
渋みの残滓が唇の柔らかさとミルクとは違うかすかな甘さにかき消されたのを感じながら、自分の口元をなぞる。まだそこに、自分のそれとは違う女の子らしい柔らかさが残っている気がして、心臓が変な跳ね方をした。
今すぐ。今すぐキヴォトス中に向けて私の可愛い彼女兼生徒の魅力を語り尽くしたい。いや、流石にそんな自殺行為&黒歴史製造行為をやるわけはないんだが、それくらい私の心臓は暴れ散らかしていた。
だって見なようちのセイアを。自分から仕掛けておきながら、顔は熟したリンゴもかくやといった真っ赤具合な上、それを誤魔化すために先ほどの倍のペースでカップに口をつけている。そのカップ、もう中身空だよ? 気づいてないの? 気づいててわざとやってるの? どっちにしても可愛くない?
今からこの調子では、セイアが卒業するまで周囲に自慢しないか自分が不安なんだけど……まあ、なんとかなるでしょ!
こうして、私とセイア、先生と生徒のヒミツの恋人関係は始まったのだった。