「おー、美味しそう」
蓋を開けた瞬間、甘い香りが鼻腔をくすぐる。食欲をそそるそれに、思わず喉が鳴った。
控えめながら洒落たデザインの施された厚紙製の箱の中には、シュークリームが入っている。コンビニで買うようなシンプルなものではない。シュー生地が横に切り分けられ、まるでマリトッツォのようにたっぷりのクリームが挟まれている。しかもそこにイチゴとラズベリーも散りばめられ、さながらケーキの断面を思わせる華やかさだ。普段あまり食べ物に頓着はしない質だけど、その視覚でも楽しませてくるデザインに思わず見惚れてしまう。
「最近ミレニアムで人気のお店なんです。本店はトリニティにあるんですよ」
「あー、通りで」
そのお菓子を持ってきたノアの言葉に納得する。キヴォトス広しと言えど、洋菓子文化はトリニティが頭一つ抜けている印象がある。その支店ともなれば、人気になるのも当然だろう。
早く食べたい衝動に駆られながら二人分のコーヒーを準備する。こんないいもののお供がインスタントコーヒーでいいだろうかとも思うが、いかんせん豆を挽くどころかドリップコーヒーすら嗜む生活をしていないので仕方あるまい。インスタントだって企業努力で十分美味しいから平気平気。
部屋に広がる甘い香りにコーヒーのそれが混ざる。紅茶や緑茶も好きだけど、飲み慣れているのはコーヒーなんだよね。大体は仕事の相棒――という名の眠気覚まし――だけど。
「それじゃあ、いただきましょうか」
「そうだね」
隣り合って座り、自分の分のシュークリームに手を伸ばす。大きく口を開けて齧り付くと、シュー生地がサクリと小気味のいい音を立てた。
口の中に広がるクリームの甘さ。そこに遅れてベリーの酸味が追いついてきて、ただ甘いだけではない爽やかな後味になっている。
それに、洋菓子店のもの特有のサクサクのシュー生地も美味しい。これにシュガーパウダーをふりかけただけのものでも十分商品として成り立つのではとすら思えるほどだ。
そしてここでコーヒー。ブラックコーヒーの苦さが甘い空間に押し寄せてくる。しかし、それは侵略ではない。中和でもない。言うなればこれは調和。口腔調理のように口の中でコーヒーとシュークリームが互いを引き立てあう。元々美味しいシュークリームが更に一段階先へ進んだような感覚。その美味しさに、飲み込むのを躊躇ってしまうくらいだ。
名残惜しさを感じながら嚥下する。思わずほう、とため息が漏れた。
「美味しい」
「喜んでもらえたみたいでよかったです」
上品に隣で粗食しながら、ノアが微笑んでくる。手にしたシュークリームの断面が私のそれよりも明らかに小さくて、こんなところにも性差って現れるんだなと感心してしまう。
週に何度か、こうしてノアがお菓子を持ってやってくる。このちょっとしたお茶会は私が思っている以上に癒しになっていた。シャーレの激務に甘味が効く……というのもあるけれど、やはりノアと同じ時間を共有できるのが一番嬉しい。
また一口シュークリームを頬張る。やっぱり美味しい。ここ最近ノアが持ってきてくれたお菓子の中でも群を抜いている。私がグルメレポーターなら、五分くらいはひたすらこの美味さを溢れ出る語彙力で表現していたことだろう。実際には語彙力が消失してしまうから、「美味しい」しか言えないんだけどね。
「そういえば先生、明後日はミレニアムに来られるみたいですが」
「ん? そうだよ。エンジニア部に呼ばれていてね」
「新しい発明ということですか……。明日安全か確認してきますね」
マグカップに口をつけながら思案する彼女に苦笑が漏れる。ミレニアムでは優秀=問題を起こさない、ではない。むしろ優秀な生徒や部活ほど、比例して問題を起こすことも多いものだ。中核を担うC&Cはよく余計な被害を出すし、ある意味ではミレニアムの顔を呼んで差し支えない功績のあるエンジニア部も発明品の失敗や暴走でトラブルに発展することも多い。
失敗は成功の元。ミレニアムでそれを理由に冷遇されることはほとんどないが、セミナーとしてはあまり寛容になりすぎるのも考えものなのだろう。実際この間も新素材開発部が爆発事故を起こして、ユウカが胃を痛めていたからね。
「私達で多少は補填できるとは言え、無暗に物損が発生しても困りますからね」
「そうだね。生徒からのユウカの印象がこれ以上悪くなるもの良くないし」
「あら、私の心配はしてくれないんですか?」
「こういう時に矢面に立つのはユウカじゃないか」
わざとらしくジト目で見つめてくるノアに苦笑で返す。
運営資金に火が点けば、各部活の活動資金やその基準も厳しいものになる。そしてそれを主導するのは会計であるユウカの仕事だ。真っ当に、というかむしろ甘いくらいの対応をしている彼女だが、この主導の影響で一部生徒からは目の上のたんこぶ扱いを受けていることは事実だ。本人が割り切っているとは言え、無暗に悪化させる必要もないだろう。
「まあ、そうですね。ユウカちゃんが学園生活を楽しんでくれないと、私も楽しくありませんから」
「本当に仲が良いよね、二人とも」
「当然じゃないですか。友達なんですから」
「そうなんだけどね」
きょとんとした顔をするノア。実際、彼女の言葉は至極当たり前で、それでいて何気ないものだ。けれど、歳を取るとそういう“当たり前”に尊さのようなものを感じてしまうんだよね。言うて私も十分若造で通じる年齢なんだけれど、それでもノスタルジーを感じずにはいられないのだ。
当然ながら私の言葉の意図がノアに伝わることはなく、ただ私の表情から重要度は高くないと判断したであろうノアははむ、と小さくシュークリームを頬張り、口元を綻ばせる。物を食べる姿すら可愛らしい。うちの恋人は完全無欠の美少女かもしれない。
「あら? あれは……」
そんな横顔に見惚れていると、もこもこと咀嚼をしながら部屋を眺めていた彼女が首を傾げた。視線の先を追ってみると、壁際に備え付けられた棚の上にある置物に向けられているようだ。
一度席を立ち、その置物を持ってくる。シャーレ居住区の内装には不釣り合いな真鍮でできたそれは手のひらサイズの蓋付きの壺のような形をしている。ミレニアムではあまり見ることのないであろうデザインにノアは興味津々なようだった。
「これは……香炉というものでしょうか」
「そうだよ。この間キサキにもらってね」
試しに見様見真似で使ってみたけど、なかなかリラックスできていいんだよね。徹夜明けに使うと一瞬で寝ちゃうレベル。
「門主からの、ということは山海経のものですか。お香は試したことがないですね」
「あとで焚いてみようか」
「ええ、ぜひ」
ふふん。ノアにもお香の良さを体感してもらおう。まあ私は雰囲気で焚いているだけなんだけどね。
この後の楽しみに思いを馳せつつ、今は甘いクリームに酔いしれるのだった。
「いやあ、美味しかった」
「そうですね。また買ってきましょう」
ぺろりと平らげ、新しく入れたコーヒーに口をつける。少し砂糖を入れたそれが今はちょうどいい。
それにしても本当に美味しかった。結構大きいサイズだったけど、正直もう一個は余裕で食べられる。むしろがっつかないようにするのにするのに苦労したくらいだ。一人だったらアカリやハスミもびっくりの勢いで貪っていたかもしれない。いやごめん嘘。流石に学生の食欲には勝てんて。
「あ、先生。クリームがついてますよ」
「え、本当?」
言われて反射的に口元に手を伸ばす……が、なにも指先につくことはない。指摘してきたノアは隣にいるのだから、右左を間違えているわけではないはずなんだけど……これ以上口から離れたところについているとすれば、結局は相当にがっついていた証左になってしまう。
「取ってあげますよ」
若干気恥ずかしさを感じていると、そっと肩に手が添えられた。振り向くと席を立ったノアが身体を近づけてくるところで、余計に恥ずかしさから顔に熱が集まる。普通、こういうのは逆じゃない?
「や、自分で取る、よ……ノア?」
流石にここで赤子のようにクリームを拭ってもらうのは情けなさが勝つ。だから断ろうとしたのだが、彼女は止まる気配がない。
そうこうしているうちにすべすべとした手が頬に触れる。ひんやりとした指先の感触に思わず肩が震えた。
「動かないでくださいね」
そう言われて、ただただ近づいてくる唇を見つめることしかできなくて――
奥底に甘さを残したコーヒーの味が、味蕾をくすぐった。
唇を触れ合わせるだけ。けれど、薄く開いた隙間から入ってくる呼気がまるでカフェモカのように甘く感じられて、頭の芯に靄がかかってくる。思わず瞼を閉じて、湧き上がる幸福感を無駄なく味わう。
「……ひょっとして、クリームがついてるって嘘だった?」
「ごめんなさい。先生がかわいかったので」
結局口づけだけして顔を離したノアに問いかけると悪びれもなくそんな答えが返ってきた。かわいいというのは褒め言葉なのだろうか。明確な悪口というわけではないが、ちょっと複雑なところだ。
まあ、それでキスをしてくれるなら十分に許容できるのだが。
それに、こうして行動に移されると、私も心の準備ができるというもの。
週に何度かのお茶会。他の生徒たちには秘密にしているノアとだけの時間。それはつまり、“あれ"を行う時間ということでもある。
その前提があると、キスの意味合いも変わってくる。
「それじゃあ、始めましょうか」
妖しく微笑むノアにこくりと首だけを動かした。