ユーハの地図は、焚き火の薄明かりの中で妙に生々しかった。紙に描かれた線が、血管みたいに旧工房の奥へ伸びていて、そこを辿れば辿るほど「ここは人が壊れる場所だ」と言われている気がする。ナデンは枝の先で線をなぞり、ステラは息を殺して覚え、イルルは腕を組んだまま苛立ちを隠さない。僕だけが、地図の端に書かれた“封鎖”の文字を見ていた。罠を知っているのに、罠に近づく。自分で選ぶ罠は、別の意味で怖い。
「偽の試運転は、今夜」
ユーハが言った。視線が落ち着かない。嘘をつく者の落ち着かなさではなく、何かを思い出してしまう者の落ち着かなさだ。
「合図は鐘。……それと、床の刻印が三回強く光る。三回目で外周が閉じる。閉じたら、逃げ道は削られていく」
「削られていく、ってなんだ」
イルルの声が低い。怒りよりも、嫌悪に近い。
「壁が動く。刻印で、通路が“塞がる”。完全に石が生えるんじゃない。歪んで、押しつぶすように狭くなる。逃げる者ほど焦って、詰む」
ステラが短く息を吐いた。
「罠として、合理」
「合理で人を潰すなよ」
僕が言うと、ユーハは目を伏せた。
「……俺もそう思った。遅いけど」
ナデンが地図を叩く。
「封鎖速度が問題だ。こちらが罠を知っていても、閉じる速度が想定以上なら詰む。だから主導権は“外”に置く。封鎖が始まった瞬間、外周を破る必要がある」
「外周を破る?」
イルルが笑った。乾いた笑いだ。
「燃やすって言ってるのか」
「違う」
ナデンは淡々と言う。
「“燃やせない状況”で破る。だから、役割は明確。イルルは壁。ステラは刃。主は線引き。私は封鎖の癖を読む」
僕は頷いた。罠に乗るふりをする。でも、勝つふりはしない。生き延びるために、勝利の形を小さくする。
「やることは二つ」
僕は言った。
「偽試運転に釣られた“ふり”をする。封鎖が動いたら、封鎖を破って抜ける。中枢に深入りはしない。救出も欲張らない。今日は“敵の封鎖の手札”を見て、潰せるところだけ潰す」
「欲張らない、ね」
イルルが鼻を鳴らす。
「私は欲張りたい」
「分かってる」
僕はイルルを見た。怒りが強いほど、守りたいものも強い。その矛盾が、イルルを苦しめている。
「欲張る日は作る。でも今夜は違う。今夜は“終わらせる日のために生き残る日”だ」
ステラが頷く。
「了解。主が言うなら、線は守る」
ユーハが震えながら言った。
「……刻印官は、必ず見てる。罠に乗ったと分かった瞬間、笑う。丁寧語で」
「笑わせとけ」
イルルが吐き捨てる。
「その口、後で焼く」
ナデンが即座に釘を刺す。
「焼けない可能性が高い。人質がいる」
「分かってる」
イルルの返事が、妙に素直だった。ここまで来ると不気味なくらいだ。多分、イルルの中でも“怒りの使い道”が少しずつ整理されている。
その夜、旧工房はわざとらしい光を灯していた。闇に対して自己主張が強すぎる。誘っている。罠だと分かるように誘っているのが、いっそ腹立たしい。僕らは森の陰に身を沈め、呼吸を合わせた。
「来る」
ナデンが囁く。
鐘が鳴った。遠いのに耳の奥に残る音。床の刻印が、遠くからでもぼんやり見えるほど強く光る。一次、二次、三次。三回目の瞬間、空気が一段変わった。外周が閉じる。見えない手が、地形の喉元を締め上げる。
イルルが笑った。さっきとは違う笑い方だ。獣の笑い。戦いの笑い。
「来たな」
「イルル、今」
「分かってる」
イルルは前に出た。正面。隠れる気はない。むしろ見せつける。敵は“竜”を怖がる。怖がって視線が集まれば、その分だけ他が動ける。陽動は、イルルの天職だ。
次の瞬間、地面が歪んだ。道が狭くなる。岩がせり上がるように迫る。挟み込む罠。これが封鎖。封鎖速度が速い。想像より速い。
「想定より二割速い!」
ナデンが叫ぶ。
「主、撤退線を前倒し!」
僕は歯を食いしばり、判断する。
「ステラ、戻る! 深入りしない!」
「了解!」
ステラはすでに中へ入っていたが、迷いなく引いた。彼女の動きは潔い。潔いのは、守るものの優先順位が明確だからだ。
敵の影が増える。封鎖が動くほど、敵の自信が増える。閉じた檻の中でなら勝てると思っている。そう思わせた時点で、こちらの“乗ったふり”は成功している。
「主、封鎖の節が見える」
ナデンが僕の腕を掴む。指が指す先、刻印の光が集中している箇所がある。そこが結節点。そこを壊せば、封鎖の動きが鈍る。
「イルル! あそこ!」
「おう」
イルルが踏み鳴らした。炎じゃない。衝撃。空気が潰れるような一撃が、結節点の地面を叩く。刻印の光が一瞬だけ乱れ、封鎖の動きが鈍る。だが、止まらない。敵は学習している。結節点は一つではない。
「一撃じゃ足りない!」
ナデンが叫ぶ。
「二つ目がある!」
同時に、敵の矢が飛んだ。竜狩り用。イルルではなく、僕を狙う。中心を落とせば群れが崩れるという読み。合理的で嫌になる。
ステラが体を滑り込ませ、矢を弾いた。剣で弾くのではなく、手首で軌道をずらす。殺意の方向を削る技術。ステラの型は、人を殺すためだけのものじゃない。
「主、下がれ。私が前に出る」
「無理はするな」
「無理はしない。型だ」
ステラは言い切ると、敵の間合いの“外”を走る。敵は追うが追いきれない。追い切れないまま、封鎖に足を取られる。そこへイルルが壁のように立ち、衝撃で弾く。ステラとイルルが、綺麗に噛み合っていく。力と型が、同じ目的を向いた時の音がする。
「面倒くせぇ罠だな!」
イルルが吼えた。
「罠は面倒だから罠だ」
ステラが返す。真面目な返しが、逆に笑える。
敵の術師が封鎖を加速させようとした。刻印の光が一段強くなる。通路がさらに狭くなる。子供たちがいる場所までここが閉じれば、撤退線ごと潰れる。
「リンク、使う」
僕は言った。怖い。でも、ここは使いどころだ。
「同意」
ステラが即答し、イルルが一瞬だけ目を細めてから言った。
「……好きにしろ。ただし、私が一番だ」
その言い方が子供みたいで、状況が状況なのに笑いそうになった。笑っている場合じゃないのに、イルルはいつも変なところで空気を変える。
感覚が繋がる。封鎖の流れが、線として見える。敵の術師の位置も、光の集まりとして見える。結節点が三つ。三つ同時に叩けないと、封鎖は止まらない。
「ナデン、右の結節!」
「了解!」
「ステラ、中央の術師! 止めるだけ!」
「了解!」
「イルル、左を叩け! 殺すな!」
「分かってる!」
イルルが踏み込み、左の結節点を拳で叩く。地面が悲鳴を上げ、光が乱れる。ナデンが右を刻印具で焼き切り、結節が一つ落ちる。ステラは中央の術師に入り、手首を落として詠唱を止める。殺さず、止める。止めるだけなのに、圧倒的に強い。
封鎖が、ぎくりと止まった。完全停止ではないが、動きが鈍り、道が“呼吸”を取り戻す。今だ。
「撤退!」
僕が叫ぶ。
イルルが後退しながら壁になる。敵は追うが、追えば追うほど封鎖の歪みに引っかかる。罠は、仕掛けた側にも牙を剥く。罠の中で戦えば、慣れている方が強い。だが慣れているほど、罠を信じる。信じた分だけ、裏返された時の崩れ方が大きい。
森に戻った瞬間、空気が軽くなった。息が吸える。まだ生きている。
イルルが吐き捨てる。
「チッ……逃げたみたいじゃねぇか」
「逃げたんじゃない」
ステラが言う。
「生き残った。次に繋がる」
ナデンが地図を見ながら頷く。
「封鎖の結節は三つ。場所は固定ではないが、パターンがある。次は潰せる。今日の収穫は大きい」
ユーハが小さく呟いた。
「……刻印官、怒る」
「怒らせとけ」
イルルが言った。
「怒ったら、ミスる」
僕は焚き火のない暗がりで、子供たちの寝息を思い出す。今夜は守れた。終わってはいない。でも、罠に乗って死ななかった。敵の手札も見えた。
「次は、こっちが檻を壊す番だ」
僕が言うと、ステラが短く頷き、イルルは「当然だ」と鼻を鳴らした。息が合ってきた。怖いくらいに。だからこそ、次はもっと危険になる。敵も学ぶ。こちらも学ぶ。学ぶたびに、世界は少しだけ変わる。
ただ、変わるのが遅いと、誰かが死ぬ。