意識が戻った気配は、ほんの僅かな動きだった。
担がれていた身体が、ぴくりと揺れる。
次いで、浅い呼吸が乱れ、喉が鳴った。
「……っ……」
イルルは即座に足を止めた。
「起きたぞ」
そう言って、乱暴に女――ナデンを地面に下ろす。
投げ捨てるほど雑ではないが、優しさは欠片もない。
ナデンは咳き込みながら身を起こし、次の瞬間――
こちらを見た。
正確には、僕を見て、次にイルルを見た。
その目に浮かんだのは、明確な警戒だった。
野生動物が、罠にかかった後に見せるあの視線。
「……っ……」
反射的に、後ずさる。
だが、逃げ場がないことを思い出し、動きを止める。
「……来るな……」
震える声。
さっきまで襲ってきた相手とは思えないほど、弱々しい。
その瞬間だった。
「――その目を向けるな」
イルルの声が、低く響いた。
空気が、変わる。
肌がひりつく。
はっきりとした“殺気”が、剥き出しになる。
「……もう一度、そいつに敵意を向けたら」
イルルは一歩、前に出る。
「次は気絶じゃ済まさねぇ」
赤い瞳が、獲物を射抜く色になる。
人間形態でも分かる。
これは、本気で殺す目だ。
「……っ!」
ナデンの肩が跳ねる。
一瞬で理解したのだろう。
力の差。格の違い。逆らえば終わりだという現実。
「……ごめ……」
掠れた声。
「……怖くて……」
言葉が、そこで途切れる。
イルルは鼻で笑った。
「怖い?
だったら最初から襲うな」
「……」
「人間を信用しないのは勝手だ。
でも――」
さらに一歩近づく。
「私の“群れ”に手を出すな」
その言葉に、ナデンの視線が揺れ、
ゆっくりと僕の方へ向いた。
「……群れ……?」
困惑と混乱。
理解できない、という顔。
その瞬間、僕は前に出た。
「待って、イルル」
名を呼ぶ。
それだけで、彼女の動きが止まる。
「……なんだよ」
「この人、まだ混乱してる」
僕は、ナデンの視線と同じ高さになるよう、少し腰を落とした。
「大丈夫。
もう襲われないし、襲わない」
ナデンが、信じられないという顔をする。
「……嘘……」
「嘘じゃない」
即答した。
「君が怖かったの、分かるから」
ナデンの喉が、小さく鳴る。
「……分かる……?」
「うん」
うなずく。
「人間に捕まって、
心臓の話をされて、
逃げたくて、先に手を出したんだよね」
ナデンの目が、大きく見開かれた。
「……なんで……」
「君の声、そう言ってた」
その言葉に、ナデンの呼吸が乱れる。
恐怖と、困惑と、ほんの少しの安堵が混ざった表情。
「……聞いて……くれた……?」
「うん。聞いた」
短く、はっきり言う。
沈黙。
その背後で、イルルが舌打ちした。
「……甘やかすな」
「甘やかしてない」
振り返って答える。
「判断してるだけ」
「……」
イルルは、苛立ったように腕を組む。
「……次に何かしたら、殺す」
「それは、僕も止めない」
はっきり言うと、イルルがこちらを見る。
「……ほんと、変な人間だな、お前」
「よく言われる」
小さく笑う。
ナデンは、そのやり取りを呆然と見ていた。
竜が、殺さない。
人間が、庇う。
この世界では、ありえない光景だ。
「……あんた……」
ナデンが、僕を見る。
「……名前は……?」
「まだ名乗ってなかったね」
そう言って、胸を軽く叩く。
「僕は――」
その瞬間、イルルが被せるように言った。
「私の群れの中心だ」
即答。
迷いなし。
「……え?」
ナデンと僕、同時に声が出た。
「細かい説明は後だ」
イルルは視線を逸らしながら続ける。
「とにかく――
こいつに手を出すな。
それだけ覚えとけ」
ナデンは、しばらく黙り込んだ後、
小さく、うなずいた。
「……分かった……」
怯えは、まだ消えていない。
でも――敵意は、確かに消えていた。
こうして、
群れに入る気のない龍は、
まだ群れにならないまま、
僕たちの前に立っていた。