朝の森は、昨夜の冷えをまだ葉の裏に残したまま、ゆっくりと明るくなっていた。
倒木の脇で足を止めると、湿った土の匂いに混じって、焚き火の消え残りみたいな熱がかすかに鼻を掠める。
言葉を交わしたあとで空気は少し軽くなったはずなのに、誰もすぐには歩き出さず、それぞれが自分の胸の内を確かめている気配だけが静かに漂っていた。
少し先に立つイルルは、腕を組んだまま足元の小石をつま先で転がしていた。
いつもなら苛立ちを隠そうともしないのに、今の横顔にあるのは怒りより迷いで、吐き捨てるみたいな勢いもどこか鈍い。
クロはその反対側で、木陰から完全には出てこないまま、近づきすぎない距離を守っていた。
拒まれるのが怖いというより、どこまでなら踏み込んでいいのか、まだ体が覚えていないように見えた。
しばらく誰も口を開かなかったが、その沈黙を先に破ったのはイルルだった。
顔を上げるまでにわずかな間があって、その短い迷いが、かえって今の言葉が本音だと分からせる。
「……私は、正直に言うとこいつに会う前は、一人でも苦じゃなかったんだ」
ぶっきらぼうな口調は変わらないのに、声の底にある硬さが、いつもと少し違って聞こえる。
強がりで押し切る時の鋭さではなく、自分の中で変わったものを、まだうまく扱いきれていない時の不器用さだった。
「強かったし、別に一人でも生きて行けた」
そこで一度だけ視線がこっちへ寄って、すぐにまた前へ戻る。
責めているわけではないと分かるから、謝る言葉は先に喉まで上がってきた。
「けど、こいつによって強制的に群れで過ごすようになった」
「……ごめん」
返した声は小さかったが、イルルはそこで噛みつかなかった。
代わりに鼻先で息を吐いて、それから少しだけ肩の力を抜く。
「けど、今はそれが心地良い」
その言葉が落ちた瞬間、森の音が一段だけ遠のいた気がした。
ナデンは目を丸くし、ステラは何も挟まずにイルルの横顔を見ている。
あれだけ独占欲を隠さなかったイルルが、群れという言葉を、力や縄張りではなく心地良さで言い直したことの重みを、たぶん全員が同時に受け取っていた。
クロは少しだけ目を細めたが、すぐには返さない。
沈黙の長さそのものが、言葉を選ぶより前に、長く一人でいた時間の癖をにじませていた。
『……私は一人に慣れすぎたから、分からない』
その声には寂しさを強調する色も、同情を誘う揺れもなかった。
だからこそ、その平らな響きの奥に、誰にも近づけなかった時間の長さが、そのまま沈んでいるように聞こえる。
ステラが木にもたれていた背を離し、朝の光を受けたまま静かに口を開く。
軍人らしい硬さは消えていないのに、その言葉だけは思いのほか柔らかく森へ落ちた。
「私は、群れに入れて貰えなかったから、寂しさは分かる」
「人間にも龍にもなれないから、その寂しさは理解出来るわ」
言い終えたあとも視線を逸らさないのが、かえって重かった。
傷を見せて助けを乞うのではなく、それでも立っている者の声として届いたせいで、イルルの指先がわずかに動く。
自分だけが抱えていると思っていた感情が、形を変えてここにもあると知った時の、戸惑いに近い沈黙だった。
ナデンはしゃがみ込み、細い枝で地面に緩い輪を描きながら、珍しく理屈より先に気持ちの方へ触れる。
「ここにいる奴らは全員、何かしら寂しさがある。だから」
そこで一拍置いてから、描きかけの輪の中に、五つの点を順に落としていく。
誰か一人を真ん中に置かない形なのが、妙に今の俺たちらしかった。
「これからも続けたい。この五人で、他にも多くの仲間を見つけて」
理想を語るには真っ直ぐすぎる言葉なのに、変に浮いて聞こえなかったのは、誰もそれを笑わなかったからだ。
イルルは腕を組み直しかけてやめ、クロは地面の輪を見つめたまま動かない。
けれど、そこで生まれた沈黙はさっきまでのぎこちなさとは違っていて、拒絶ではなく考えるための間に変わっていた。
一人ずつ顔を見る。
イルルの熱も、ステラの硬さも、ナデンの理屈も、クロの静けさも、どれも綺麗には揃っていない。
それでも今は、ばらばらのまま同じ方向を向けるところまで来ている。
「行こう」
長い説明は要らないと思った。
ここで必要なのは、群れにするかどうかを許可する言葉じゃなく、もう一緒に進む前提で線を引くことだった。
イルルが鼻を鳴らし、照れ隠しみたいに少しだけ胸を張る。
「……仕方ねぇな。トップがいるんだから、ちゃんとついてこいよ」
さっきまでの刺々しさはもう薄れていて、言い方だけがいつものイルルに戻っている。
クロはすぐには動かなかったが、やがて木陰を離れて一歩だけ近づいた。
それだけの距離なのに、長く一人だった奴が踏み出すには、十分すぎるほど大きな一歩に見えた。
『……まだ、うまくは分からない』
『でも、前より嫌じゃない』
その返事を聞いたイルルは何も言わず、先に歩き出す。
追い払うための速さじゃなく、後ろからついてくる足音を待てる程度の歩幅だった。
ステラがその斜め後ろにつき、ナデンが軽く肩を回しながら続き、最後にクロの気配が静かに重なる。
俺もその輪の中へ足を踏み出すと、朝の光の中で五つの影が完全には重ならないまま、それでも同じ方向へ細く伸びていった。
群れの始まりは、もっと派手で分かりやすいものだと思っていた。
けれど実際には、誰も離れずに歩き出せることの方が、ずっと確かな始まりなのかもしれない。
工場の崩壊から続いてきた騒ぎは、そこでようやく静かに終わりを迎えた。
終わったのは戦いだけで、その先に続くものまで消えたわけじゃない。
熱も静寂も傷も抱えたまま、それでも並んで進んでいける形が、ようやくここで輪郭を持ち始めていた。
『むにっとねっとりドラゴン独占生活』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
ここまで見届けていただけたことが、まず何より嬉しいです。
この物語は、強さだけで生きていけるはずだった者たちが、誰かと並んで進む心地よさを少しずつ知っていく話でした。
炎のようにまっすぐな想いも、静けさの奥に沈んだ孤独も、言葉にしきれない寂しさも、それぞれ形は違うのに、気づけば同じ場所へ集まっていた気がします。
書き始めた頃は、もっと騒がしくて、もっと勢いのある物語になるかと思っていました。
けれど実際に最後まで歩いてみると、この作品に必要だったのは大きな勝利よりも、誰かの隣にいてもいいと思える瞬間でした。
無理に変わるのではなく、少しずつ噛み合っていくこと。
強いから一人で立てるのではなく、強くても誰かを求めてしまうこと。
そういう不器用な温度を、少しでも楽しんでいただけていたなら幸いです。
イルルの独占欲も、ステラの静かな忠誠も、ナデンの理知の奥にある熱も、クロの長い孤独も、最後には全部がこの物語に欠かせないものになりました。
そして、その中心にいた彼もまた、誰かを導くというより、同じ歩幅で立ち止まりながら進んでいたのだと思います。
彼らの時間はいったんここで区切りを迎えますが、この先もきっと、騒がしくて、面倒で、それでも心地よい日々を続けていくのでしょう。
ここまで応援してくださった皆さまに、改めて感謝を申し上げます。
読んでくださる方がいたからこそ、この物語は最後まで形になりました。
一つひとつの場面を受け取っていただけたことが、本当に励みでした。
そして、物語はここで終わっても、書き手としての歩みはまだ続きます。
次回作ではまた違った世界、違った関係、違った熱をお届けできるよう準備しています。
次はどんな出会いがあって、どんな執着や孤独やぬくもりが生まれるのか。
その続きを、またどこかで一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは、また次の物語でお会いしましょう。
次回作も、どうぞお楽しみに。