歩きながら、ナデンの背中を何度も視界の端で追っていた。前を行くイルルとは違い、彼女は一定の距離を保って歩いている。その距離が、近づきすぎないよう計算されたものだと分かるからこそ、胸の奥が少しだけざわついた。逃げないと決めた人間が、それでも逃げ道を残している。その中途半端さが、今の彼女そのものだった。
「……なあ」
呼ばれた瞬間、胸が僅かに強く打った。問いが来る予感がしたからだ。こういう間の後に来る言葉は、たいてい軽くない。
「どうしたの?」
振り返ると、ナデンは一瞬だけ視線を伏せた。言葉を探しているというより、言っていいかどうかを測っている表情だった。その逡巡に、こちらまで緊張してしまう。
「……私は、邪魔じゃないのか」
あまりに真っ直ぐで、言い訳も飾りもなかった。その声音には、怯えも自己憐憫もない。ただ、何度も突きつけられてきた評価を、そのまま確認するための問いだった。
「同行すると言ったが……あんたたちには、元々やることがあるんだろう。私は……戦い方も、竜としては半端だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに引っかかった。半端。役に立たない。価値が足りない。その手の言葉は、この世界に来てから何度も耳にしている。だからこそ分かる。彼女は今、僕の評価を聞いているんじゃない。切り捨てられるタイミングを、自分から確認しに来ている。
「今さらだな。邪魔なら、最初から連れてきてねぇ」
イルルの言葉はぶっきらぼうだったが、それで安心できるほど、ナデンの不安は浅くない。彼女の視線は、イルルを通り越して、こちらに向いていた。
「……あんたは、どう思う」
逃げ道のない問いだった。取り繕えば分かる。濁せば、もっと深く傷つける。だから、考えるより先に、言葉が出た。
「邪魔だと思ったことはないよ」
自分でも驚くほど、自然だった。取り繕う理由が見つからなかった。
「でも、それは……役に立つとか、そういう意味じゃない」
彼女の表情が微かに強張る。期待と諦めが同時に混ざった顔だった。条件付きの肯定を、もう何度も経験してきた人の顔だ。
「ナデンがいると、話ができる。考え方が増える。それって、結構大事だと思う」
沈黙が落ちた。その沈黙の重さが、彼女がこの言葉をどう受け取るかを物語っていた。
「……それは、条件か」
低い声。疑念というより、確認だった。
「役に立つなら、いていい。考え方を出せるなら、価値がある。……それなら、私は……いつか、また失う」
その一言で、はっきりと分かった。彼女が恐れているのは否定じゃない。肯定の期限だ。価値がなくなった瞬間に切り捨てられる未来を、もう何度も見てきたのだろう。
「違うよ」
反射的に首を振っていた。
「条件じゃない」
「……なら、なんだ」
声が、ほんの少しだけ揺れた。その揺れに気づいた瞬間、ここで誤魔化したら駄目だと思った。
立ち止まり、ナデンと向き合う。視線を逸らさずに言葉を選ぶ。選んでいるようで、実はもう決まっていた。
「いていい、じゃなくてさ」
一度、息を整える。
「いてほしい」
口に出してから気づいた。これが自分の本音だったのだと。理由を並べる必要がないほど、自然に胸に落ちていた。
「ナデンがいると、安心する。分からないことを、一緒に考えられる人がいるって、心強い」
ナデンの動きが完全に止まった。理解が追いつかない、というより、理解してはいけない言葉を聞いた時の反応だった。
「……私が……?」
「うん」
迷いなく頷く。
「飛べるとか、強いとか、そういうの抜きで」
長い沈黙が落ちた。彼女の肩が小さく震えているのが分かる。泣いているわけじゃない。ただ、これまで積み上げてきた“評価の基準”が、音を立てて崩れている。
「……おかしいな」
掠れた声。
「……そんな言い方をされたのは……初めてだ」
顔を上げたナデンの目は潤んでいたが、涙はなかった。その代わりに、戸惑いと安堵が同居している。
「……私は、ずっと“足りない”と言われてきた。飛べない。群れに向かない。価値が低い」
言い慣れた言葉だ。自分に言い聞かせるための言葉。
「……でも、あんたは……足りない、と言わない」
「足りてる、って言ってるつもりもないよ」
正直に答える。
「ただ……そのままで、いいんじゃないかなって」
その瞬間、ナデンははっきりと息を呑んだ。理解してしまった、という顔だった。
「……それは……反則だ」
「え?」
「そんなふうに言われたら……」
一歩、こちらに近づく。逃げ道として保っていた距離を、自分から手放す動き。
「……離れられなくなる」
胸が、少しだけ熱くなった。好意を向けられたからじゃない。彼女が、自分の意思で誰かを選ぼうとしているのが分かったからだ。
「おい」
イルルの低い声が割り込む。
「勘違いするな。こいつは私の群れだ」
ナデンは落ち着いた顔でイルルを見る。
「……分かっている」
それから、再びこちらを見る。
「だから、奪うつもりはない。ただ……」
ほんの少し、距離を詰める。
「この人の傍にいたい。それだけだ」
宣言でも、挑発でもなかった。ただの事実だった。
イルルは舌打ちし、視線を逸らす。
「……増えるな、厄介なのが」
「ごめん?」
「謝るな」
拒絶はなかった。
「……私は、飛べない龍だ」
「知ってる」
「それでも……」
一拍置いて。
「……それでも、ここにいていいんだな」
迷わず頷いた。
「うん。一緒に行こう」
その瞬間、ナデンの表情がはっきりと変わった。怯えでも警戒でもない。決意と安堵、そして確かな好意が混ざった顔だった。
「……そうか」
小さく息を吐く。
「……なら、私はもう……あんたから離れない」
それは誓いではなく、選択だった。飛べない龍はこの日、自分の価値を証明する場所ではなく、自分で選んだ居場所を手に入れた。そして、その中心に立っていたのが、たまたま少し変わった人間だっただけの話だ。