ナデンの言葉が終わるのと同時に、空気が変わった。静寂が破れたわけではない。ただ、森全体が呼吸を始めたような感覚があった。視界の端で、地面の影がわずかに揺れ、魔獣たちがこちらを認識したことが分かる。数は多い。だがそれ以上に厄介なのは、動きに無駄がないことだった。一体一体が勝手に襲いかかってくるのではなく、全体として“こちらを包む”配置を取り始めている。
「……来るぞ」
ナデンの声と同時に、感覚が一気に拡張された。視界が増えた、という表現が一番近い。自分の目で見ている景色の上に、もう一枚、別の情報が重なってくる。地面の下を流れる魔力の筋。空気中に漂う微細な揺らぎ。魔獣同士を繋ぐ、目に見えない線。それらが、まるで地図のように頭の中へ流れ込んでくる。
思わず息を呑んだ。この感覚を、ナデンはずっと一人で抱えてきたのかと思うと、胸の奥が少し痛んだ。
「……見える。確かに、核がある」
自分の声が、少し掠れているのが分かった。
「だろう」
ナデンはすでに動いていた。地を蹴るでもなく、跳ぶでもなく、身体がそのまま空気の流れに溶け込むように浮かび上がる。翅がないのに、落ちる気配がない。その動きは、飛行というより“遊泳”に近かった。空を水面のように扱い、抵抗を押し分けて進んでいく。
最初の魔獣が突進してくる。獣の顎が開き、牙が光る。
「ナデン、右!」
言葉にするより早く、彼女は身を翻した。魔獣の攻撃は空を切り、その直後、ナデンの掌が淡く青白く光る。次の瞬間、乾いた音と共に放電が走り、魔獣の身体がびくりと跳ねた。致命傷ではない。ただ、完全に動きが止まる。その隙を突くように、別の魔獣が進路を乱し、群れの隊列がわずかに崩れた。
「……今の、効きすぎてない?」
「殺してない。痺れさせてるだけだ」
その言葉に、妙な安心感を覚えた。感覚共有のおかげで分かる。ナデンの電撃は、無差別ではない。魔力の流れを読んだ上で、必要な部分だけを断っている。まるで、絡まった糸を一本ずつほどいていくような戦い方だった。
背後で、イルルが舌打ちする気配が伝わってくる。彼女が前に出れば、この群れは一瞬で灰になるだろう。だが、それが最悪の手だということも、今ははっきり分かる。
「……核、動いた」
ナデンの声が低くなる。
感覚が、一点に収束する。群れの中央、少し地下に沈んだ位置で、魔力の拍動が強まっている。そこを潰せば、群れ全体が崩れる。逆に、周囲を焼けば、その拍動はさらに強くなる。
「そこだね」
「うん。……援護、お願い」
その言葉に、迷いはなかった。戦えないはずの自分が、今は戦場の中にいる。だが恐怖はなかった。ナデンの視界と、自分の判断が、一本の線で繋がっている。
ナデンが高度を下げ、地面すれすれを滑るように進む。魔獣たちが一斉に反応し、包囲を狭める。その瞬間、感覚共有が最大まで引き上げられた。魔力の流れが、まるで光の川のように見える。
「今!」
叫ぶと同時に、ナデンが両手を広げた。青白い光が弧を描き、地面へと流れ込む。直接的な破壊はない。だが次の瞬間、地中から不協和音のような震えが走り、魔獣たちの動きが一斉に鈍った。群れを繋いでいた魔力の循環が、断ち切られたのだ。
「……崩れる」
ナデンの呟き通り、魔獣たちは統制を失った。互いにぶつかり、進路を誤り、恐怖に近い鳴き声を上げ始める。もはや“群れ”ではない。
「……ふん」
背後で、イルルが一歩前に出る気配がした。
「ここからは、私の役目だな」
次の瞬間、圧倒的な熱量が走る。イルルの炎が、必要最小限の範囲だけを薙ぎ払い、混乱した魔獣たちを一掃していく。さっきまでの危うさが嘘のように、戦闘は終わりへと向かっていった。
静寂が戻った後、ナデンはゆっくりと地面に降り立った。その表情には、疲労よりも、戸惑いと高揚が混じっている。
「……すごいな」
ナデンが、ぽつりと言う。
「何が?」
「一人で見てた時より……ずっと、楽だった」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。戦えなくても、ここにいていい。その実感が、確かに残っていた。