雨は、音もなく降り始めた。最初は霧のような粒が葉を湿らせる程度だったのに、気づけば大粒となり、森全体が白く霞んでいる。
僕たちは近くの岩場に避難した。ちょうど洞窟のように入り込める空間があり、内部は乾いていて風も通さない。安心したのも束の間、イルルが腰に手を当てて言った。
「……私が外を見てくる。あの気配、ただの雨じゃない」
「え、大丈夫?」
イルルは鼻で笑った。
「舐めんな。焚き火は残してやる。お前ら、ここから出るなよ」
そう言い残すと、イルルは雨の中へと消えていった。
焚き火の炎だけが、洞窟の奥に柔らかな明かりを落とす。ぱち、ぱち、と薪が弾ける音が静寂を縁取る中、僕とナデンだけが取り残された。
ナデンは洞窟の入り口近くで、じっと外を見ていた。肩まで濡れた髪が滴を垂らし、背中を伝って服が肌に張り付いている。
「寒くない?」
「……少しだけ」
短い返事。けれど、声は少し震えていた。
僕は躊躇いながらも、近くに置いてあった荷物からマントを取り出して差し出した。
「使う?」
「……いいのか?」
「もちろん」
ナデンは黙ってそれを受け取ると、ゆっくりと身を包んだ。だが、濡れた服のままでは温まるはずもなく、彼女の肩はまだ小刻みに震えている。
「火のそばに来た方がいいよ」
「……」
無言のまま近づいてくる。僕の隣に腰を下ろすと、ナデンは自分の濡れた髪を絞った。
「……あんた、濡れてないな」
「ぎりぎり逃げ込めたからね」
「運がいい」
そう呟いてから、ナデンはふと視線を向けてきた。
「……あんたの体温、分けてくれないか」
一瞬、耳を疑った。
「え、体温?」
「そう言っただろ。寒いだけだ」
照れた様子はない。けれど、言葉の端が少しだけ硬い。彼女にとっても、そう簡単なことじゃないのだと感じた。
僕は小さく頷くと、マントの裾を広げた。
「こっち、入る?」
「……ああ」
ナデンはゆっくりと寄ってくる。マントの中に、二人の身体が収まる。距離が近い。息遣いが重なる。濡れた髪が肩に触れ、彼女の冷えた肌が服越しに伝わってきた。
「……温かいな」
かすかな声。ナデンは目を閉じ、ほんの少しだけ体重を預けてきた。
「こういうの、初めてなんだ」
「誰かとくっつくこと?」
「……ああ。嫌じゃないのが、初めて」
その言葉が、やけに胸に響いた。
「ナデン……」
「名前、呼ぶな。余計に変な気分になる」
ぷいと顔を背けた彼女の頬は、火の光に照らされて赤く染まっていた。
「……でも、嫌じゃないなら、名前で呼んでもいい?」
「……今は、いい」
それだけ言うと、ナデンは目を閉じた。肩が触れ合い、心臓の鼓動が伝わる。彼女の肌はまだ冷たかったが、その冷たささえも、次第に馴染んでいく気がした。
「……ねぇ、ナデン」
「なんだ」
「もし、こうしてるのが……もっと自然だったら、どう思う?」
「自然って、なんだよ」
「触れることとか、寄り添うことが、当たり前だったらって意味」
ナデンはしばらく黙った後、ゆっくりと答えた。
「……たぶん、私は泣いてたかもしれないな」
僕は何も言えなかった。ただ、彼女の肩をそっと抱き寄せる。
「……今は泣いてないけど、震えてる」
「寒いから?」
「それもある。でも、たぶん……」
言葉が止まる。ナデンの手が、そっと僕の胸元に触れた。
「お前の鼓動が、近すぎるせいだ」
その手は震えていた。けれど、離れる気配はない。
「……少し、甘えてもいいか」
「もちろん」
僕の答えを聞いた瞬間、ナデンの手が僕の胸に回された。抱きつくように、でもどこかぎこちなく。ぎゅっと力を込めるたび、彼女の心が少しずつこちらに傾いてくるのが分かる。
「……あんたの匂い、落ち着くな」
「それは、たぶん……僕も同じ」
ナデンの唇が、喉元に触れた。驚いて顔を覗き込むと、彼女はゆっくりと視線を上げてくる。
「……キス、していいか?」
「うん」
短く答えた瞬間、彼女の唇がそっと触れてきた。熱を帯びた、柔らかな触れ合い。お互いがまだ不器用なまま、確かめるように唇を重ねる。
火の音が、心臓の鼓動に重なった。言葉がなくても、通じ合えるものがあった。
「……次は、もっと近づいてもいいか?」
彼女の言葉に、僕は頷く。
「……じゃあ、教えてくれ。こういうのって、どう始めるんだ?」
囁きは、震えていたけれど――
その距離は、もう何も拒んでいなかった。