フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
ヨンリトーホールのステージ中央。
瑠衣は優雅に立ち上がり、純白のドレスの裾をつまんで深々と頭を下げた。
完璧な微笑み。慈愛に満ちた聖女の表情。
だが、そのドレスの下で、彼女の肉体は冷え切っていた。
脇の下の剛毛が汗で張り付き、コルセットのように下腹部を覆う陰毛が、下着のない股間で擦れ合う。
かつては、この秘密の「獣性」を抱えているだけで、背徳的な興奮に震えることができた。
しかし今は、胸にぽっかりと開いた風穴を、拍手という名の綺麗な空気だけでは埋めることができない。
(……足りない。これじゃ、何も感じない)
楽屋に戻ると、彼女はすぐにスマートフォンを手に取った。
連絡先リストの最上部にある『
指先がその上で止まる。
箱根の温泉で突きつけられた、「被写体」と「記録者」という冷徹な境界線。彼が求めているのは、聖女のような出で立ちの属性が汚物をさらけ出すという刺激的なギャップの記録だけであり、瑠衣という人間の心ではない。
撮影を依頼すれば、彼は喜んで来るだろう。だが、そのレンズの向こうにある瞳が、決して「瑠衣という女性」を愛しているのではないことを再確認させられるのが怖かった。
「……もう、いいか」
瑠衣は『K』の名前をスワイプして閉じると、裏アカウントのSNSアプリを起動した。
そこは、彼女にとっての「代用品」であり、痛み止めのアンプルだった。
【投稿:ステージ裏にて】
彼女がアップロードしたのは、出番直前に楽屋のトイレで撮影した動画だった。
豪華なオートクチュールのドレスをたくし上げ、便器に跨る姿。
顔はスタンプで隠した。映っているのは、優雅なドレスのフリルと、その隙間から露わになった黒々とした陰毛、そして排泄直後の汚れた便器の中身。
『中身はこんなに臭いの』
瑠衣はメイクも落とさず、ソファーに深く沈み込み、流れてくるコメントを貪るように読み始めた。
『グッッッロ』
『なに気持ち悪いことやってんの』
『原始人がドレス着てバカみたいだな』
『死ねよ変態。社会のゴミが』
罵倒。軽蔑。嫌悪。
画面を埋め尽くす汚い言葉の数々が、瑠衣の乾いた心に、泥水のように染み渡っていく。
「……っ、ふぅ……」
彼女は、ドレスの上から自分の股間を愛撫した。
見ず知らずの他人に、ゴミのように扱われる感覚。言葉のナイフで滅多刺しにされる痛み。
それが、Kに拒絶された心の痛みを、一時的に麻痺させてくれる。
(もっと言って。もっと私を傷つけて。私はただの汚い獣なんだって、教えて……)
通知欄に時折混じる『崇拝』のコメント――『女神だ』『嗅ぎたい』といった言葉も、今の彼女には虚しく響くだけだった。
求めているのは、Kのような「理解者」ではない。Kが与えてくれない愛の代償として、自分を徹底的に否定し、踏み躙ってくれる「加害者」なのだ。
***
瑠衣の日常は二極化していった。
昼間は、演奏会やレコーディングで涙が出るほど美しい旋律を奏で、聴衆からの惜しみない拍手や称賛を浴びる。
そして夜になると、自宅の冷たいベッドやホテルのバスルームで、自らの汚れた裸体を晒し、ネットの海から投げつけられる石礫のような罵倒を浴びて、独り震えながら果てる。
Kへの連絡を絶って数ヶ月。
瑠衣の脇の毛はさらに濃く長く伸び、下腹部の茂みは野生動物のようにボサボサに広がっていた。
誰に見せるわけでもない、手入れされない獣の肉体。
その孤独な熟成は、彼女の精神を、より深く暗い場所へと腐らせていった。
いつかこの均衡が崩れ、本当の破滅が訪れるのを、どこかで待ち望むかのように。