フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
その瞬間は、唐突に、しかし必然として訪れた。
『これさ、ヨンリトーホールの関係者向けトイレじゃない?こいつ出演者じゃね?』
ある日、投稿した動画にこんなコメントがついた。
これを発見した「特定班」と呼ばれる暇なネットの住人たちが、わらわらと動き出したのだ。
彼らは瑠衣のこれまでのポストを漁り始めてわずか数時間後、一つの残酷な真実を導き出す。
『やっぱ
『ホクロの位置が一致。コンサートの時のドレスも同じ』
『これマジ? こんなキレイな人が、裏垢でウンチ垂れ流してた……ってコト!?』
『はい確定。比較画像貼ります』
『あーあ』
『もう終わりだよこのピアニスト』
***
深夜三時。
有村瑠衣のスマートフォンの通知音が、断末魔の悲鳴のように鳴り止まなくなった。
SNSのDM、メンション、そして所属事務所のマネージャーからの着信。
画面を埋め尽くす「有村瑠衣」の文字と、それに続く「変態」「スカトロ」「幻滅」「社会的に死んだな」という罵詈雑言。
瑠衣は、薄暗いリビングのソファで、震える手でそのタイムラインを見つめていた。
心臓が、肋骨を砕かんばかりに激しく打ち付けている。
冷や汗が背中を伝い、脇の下の剛毛をじっとりと濡らす。
バレてしまった。
築き上げてきた名声が。
清廉潔白な聖女としてのイメージが。
幼少期から積み重ねてきた血の滲むようなピアノのレッスンの日々が。
その全てが今、彼女自身が垂れ流した汚物によって、音を立てて崩れ落ちていく。
恐怖?
いいや。
彼女の喉の奥から漏れたのは、引きつったような、しかし歓喜に満ちた笑い声だった。
「……あは。バレちゃった」
これまで彼女が感じてきた「背徳感」は、あくまで「バレるかもしれない」というスリルに過ぎなかった。
それが今、「バレた」という決定的な事実となり、世界中の人々が彼女を指差し、軽蔑し、嘲笑っている。
(ああ……みんな知ってしまった。私がドレスの下は毛だらけで、ウンチやおしっこを漏らすのが大好きな雌犬だって……)
彼女の下腹部は、かつてないほどの熱量を持って疼いていた。
瑠衣は立ち上がり、姿見の前に立った。
着ていたシルクのネグリジェを脱ぎ捨てる。
鏡に映るのは、艶やかな黒髪と、美しい顔立ち、そしてそれに似つかわしくない、野獣のように毛深い肉体。
脇の下の黒い茂み。股間を覆う濃密な逆三角形。
今や、この醜悪な姿こそが「有村瑠衣」のパブリックイメージとして、ネットの海を駆け巡っているのだ。
『―――もしもし! 瑠衣さん!? ネットの画像見ましたか!? あれは合成ですよね!? そうだと言ってください!』
鳴り続けるスマホを手に取り、通話ボタンを押すと、マネージャーの錯乱した声が響いた。
瑠衣は、鏡の中の自分と目を合わせ、蕩けるような声で答えた。
「……いいえ、あれは私」
『は……? 何を言って……』
「全部、私。あの汚いお尻も、垂れ流したウンチも、ボサボサの毛も。全部、本物の有村瑠衣」
『なっ……!』
「何か問題でも?」
『そ、そんなの、問題あるに決まってるでしょう!!自分が何をしたか分かってるんですか!? コンサートも、レコーディングも、全部パーですよ! 違約金だって……あなたのピアニスト生命はもう終わりだッ!!』
怒号と共に電話が切れた。
プツン、という無機質な音が、彼女の社会的抹殺の完了を告げる合図だった。
終わりだ。もう二度と、あの輝かしいステージには立てない。
だが、その喪失感よりも遥かに巨大な「カタルシス」が、彼女を襲っていた。
瑠衣は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
もはや、隠すものは何もない。
世界中が彼女を「排泄中毒の変態剛毛女」として認識している。
その事実が、彼女の脳髄を焼き切るほどの快楽物質を分泌させていた。
「――――――あはっ、あははははッ!!」
彼女は狂ったように笑いながら、スマホを床に置き、自分のその姿をインカメラで映した。
あろうことか、瑠衣はこの大炎上の最中、既に特定された裏アカウントでライブチャットを始めたのだ!!
「見てる? みんな、見てる? 今、あなたたちが軽蔑してる『終わった女』はね、自分の人生が燃え尽きるのを見ながら、感じてるのよ……ッ!」
恥部に指を入れ、クチュクチュと淫靡な音を鳴らしながら、彼女は叫ぶのだった。
『え?大丈夫なのこいつ?クスリやってたりしない?』
『なんかオナニー始めちゃったんですけど』
『本当にピアニスト?AV女優じゃなくて?』
おちょくりにきた視聴者すら、彼女の心情が理解できず困惑している。
拡散され、炎上し続ける画面の向こうにいる何百万もの侮蔑の視線。
それら全てを、今の彼女は「観客」として受け入れていた。
コンサートホールの拍手よりも、Kのレンズよりも、もっと熱く、もっと激しい、抹殺と崩壊のコン・フォーコ。
「んくっ、ああっ! 堕ちる……! 天才若手ピアニスト様が、ウンチまみれの獣に堕ちるぅッ!!」
瑠衣は、絶頂に達しながら、床に失禁した。
もはやトイレに行く理性すら残っていない。
自分の人生を破壊したという絶望的な快感が、彼女を「淫獣」へと作り変えてしまったのだ。
満足してライブチャットを終わらせた瑠衣は、汚れた床の上で胎児のように丸まり、炎上し続けるスマホの画面を愛おしそうに見つめた。
職を失い、名声を失い、人間としての尊厳を完全に失ったその場所こそが、彼女が深層心理でずっと待ち望んでいた、本当の安住の地だったのかもしれない。
◆第1部 完◆