※この作品はR-18です。

フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き-   作:宇多川志木

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06 祝杯

箱根の山々に夜の帳が下りる頃、隠れ家的な高級旅館の個室ダイニングには、肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。

 

この日はバースデーイベントの打ち上げ。

有村(ありむら)瑠衣(るい)は、ミディアムレアに焼かれた足柄牛のステーキを、優雅な手つきで口に運んだ。

インディゴブルーのドレス。艶やかに巻かれた黒髪。

その姿は、かつてコンサートホールを満員にした聖女そのものだ。

 

だが、ここに来るまでの周囲の気配からは、明らかな「棘」があった。

 

「……ねえ、あれって有村瑠衣じゃない?」

「うわ、マジじゃん。あのウンチ女よく平気な顔で出歩けるな……」

「折角の旅行なのに勘弁してくれよ。近くにいるだけで臭ってきそう」

 

ヒソヒソと交わされる陰口が、瑠衣の耳を通り過ぎていったのだった。

 

もちろん、今の瑠衣は陰口など意にも介さない。「好きの反対は無関心」とはよく言ったもので、瑠衣にとっては嫌悪の声すらも歓迎すべき喝采なのだ。

 

(ああ、嬉しい。みんなもっと言って。私のドレスの下がどうなっているか、想像しながら……)

瑠衣は陰口を思い出しながら、注がれた赤ワインをうっとりと眺めた。

 

 

「……ニュース、見ましたか?」

 

対面に座るK(ケー)が、唐突に口を開いた。

 

「うん?何かあった?」

「ネットで有名な女性アイドルが逮捕されました。コカイン所持です。空港での手荷物検査で見つかったとか」

「コカイン……」

その単語を聞いた瞬間、瑠衣のナイフを持つ手が止まった。

脳裏に、数年前のあの日――全てが狂い始めた日の光景が、鮮烈にフラッシュバックする。

 

海外公演からの帰国時。空港の税関。

突然、別室に連行された恐怖。

 

『垂れ込みがあったんだ。体内に隠しているんだろう?』

『袋(パケ)を出すまで、帰さないぞ』

 

身に覚えのない容疑。「体内隠匿(ボディパッキング)」の疑い。

そのまま彼女は留置され、独房へと放り込まれた。

 

そこで待っていたのは、「排泄物の中から証拠が出るまで監視する」という名目での、徹底的な凌辱だった。

毎朝、看守たちの目の前で桶にまたがり、排泄することを強要される。

出したばかりの温かい汚物を、彼らは棒で突っつき、かき回し、嘲笑いながら中身を確認する。

そして行われる、ゴム手袋による執拗な肛門と膣への指入れ検査。

 

結局、薬物など出てこなかった。完全な冤罪だった。

だが釈放された頃にはもう、瑠衣の中の羞恥心は死滅し、代わりに「見られながら排泄する快感」という怪物が、産声を上げていたのだ。

 

 

「……ああ、懐かしい」

 

瑠衣は、遠い目をして呟いた。

 

「あの日、疑われなければ……私の人生は、こんな風に腐り落ちることはなかった」

 

Kが顔を上げ、グラス越しに瑠衣を見据えた。

 

「恨んでいますか?警察を」

「まさか」

瑠衣は即答し、目を細めた。

 

「もし、あの冤罪がなかったら。私は今頃、ただの清純なピアニストとして、退屈な人生を送っていたと思う。

 毎日練習して、笑顔を振りまいて、誰かの良い奥さんになって……。

 脇の毛も、下の毛も、綺麗に剃って、整えられた姿こそが正しいという認識で」

 

そして、Kの方へ身を乗り出した。

 

「そうしたら、Kさんとも出会えなかった。

 釈放されて、どうしようもない衝動でSNSに汚い写真をアップして……それを見つけてくれたあなたがいたから、私は救われた。

 私の汚い中身を、こんなにも美しく撮ってくれる人と巡り会えたことを、とても嬉しく思ってる」

 

もしも、潔白なままであったなら。

それは瑠衣にとって、もはや損失でしかなかった。

 

あの屈辱的な日々は、彼女を秩序の呪縛から解き放ち、Kという共犯者を引き寄せるための通過儀礼(イニシエーション)だったのだ。

 

「……皮肉な話です」

 

Kは口元を歪め、撮影時以外では珍しく、感情の籠もった声で言った。

 

「警察の無能さが、私の女神(ミューズ)を産み落としたということですか」

「そう。感謝しなきゃね〜。私を『ウンチ女』にしてくれた、あの日の間違いに」

 

瑠衣はグラスを掲げた。

Kもそれに倣い、グラスを合わせる。

 

「乾杯しよう、Kさん。私の破滅した人生と……私たちが愛する、この汚れた世界に」

 

チン、という硬質な音が響いた。グラスの中で揺れる液体は、まるで彼女が社会的に流した「血」のように、あるいは体内を巡る熱い衝動のように、毒々しくも美しい深紅を湛えていた。

 

悲劇の追憶は、今宵のディナーにおける最高の余興となり、二人の共犯関係(ワルツ)をより深く、より暗い場所へと、結びつけていくのだった。




◆第2部 完◆
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