フォルティッシモ・パラフィリア -ピアニストの狂咲き- 作:宇多川志木
箱根の山々に夜の帳が下りる頃、隠れ家的な高級旅館の個室ダイニングには、肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
この日はバースデーイベントの打ち上げ。
インディゴブルーのドレス。艶やかに巻かれた黒髪。
その姿は、かつてコンサートホールを満員にした聖女そのものだ。
だが、ここに来るまでの周囲の気配からは、明らかな「棘」があった。
「……ねえ、あれって有村瑠衣じゃない?」
「うわ、マジじゃん。あのウンチ女よく平気な顔で出歩けるな……」
「折角の旅行なのに勘弁してくれよ。近くにいるだけで臭ってきそう」
ヒソヒソと交わされる陰口が、瑠衣の耳を通り過ぎていったのだった。
もちろん、今の瑠衣は陰口など意にも介さない。「好きの反対は無関心」とはよく言ったもので、瑠衣にとっては嫌悪の声すらも歓迎すべき喝采なのだ。
(ああ、嬉しい。みんなもっと言って。私のドレスの下がどうなっているか、想像しながら……)
瑠衣は陰口を思い出しながら、注がれた赤ワインをうっとりと眺めた。
「……ニュース、見ましたか?」
対面に座る
「うん?何かあった?」
「ネットで有名な女性アイドルが逮捕されました。コカイン所持です。空港での手荷物検査で見つかったとか」
「コカイン……」
その単語を聞いた瞬間、瑠衣のナイフを持つ手が止まった。
脳裏に、数年前のあの日――全てが狂い始めた日の光景が、鮮烈にフラッシュバックする。
海外公演からの帰国時。空港の税関。
突然、別室に連行された恐怖。
『垂れ込みがあったんだ。体内に隠しているんだろう?』
『
身に覚えのない容疑。「
そのまま彼女は留置され、独房へと放り込まれた。
そこで待っていたのは、「排泄物の中から証拠が出るまで監視する」という名目での、徹底的な凌辱だった。
毎朝、看守たちの目の前で桶にまたがり、排泄することを強要される。
出したばかりの温かい汚物を、彼らは棒で突っつき、かき回し、嘲笑いながら中身を確認する。
そして行われる、ゴム手袋による執拗な肛門と膣への指入れ検査。
結局、薬物など出てこなかった。完全な冤罪だった。
だが釈放された頃にはもう、瑠衣の中の羞恥心は死滅し、代わりに「見られながら排泄する快感」という怪物が、産声を上げていたのだ。
「……ああ、懐かしい」
瑠衣は、遠い目をして呟いた。
「あの日、疑われなければ……私の人生は、こんな風に腐り落ちることはなかった」
Kが顔を上げ、グラス越しに瑠衣を見据えた。
「恨んでいますか?警察を」
「まさか」
瑠衣は即答し、目を細めた。
「もし、あの冤罪がなかったら。私は今頃、ただの清純なピアニストとして、退屈な人生を送っていたと思う。
毎日練習して、笑顔を振りまいて、誰かの良い奥さんになって……。
脇の毛も、下の毛も、綺麗に剃って、整えられた姿こそが正しいという認識で」
そして、Kの方へ身を乗り出した。
「そうしたら、Kさんとも出会えなかった。
釈放されて、どうしようもない衝動でSNSに汚い写真をアップして……それを見つけてくれたあなたがいたから、私は救われた。
私の汚い中身を、こんなにも美しく撮ってくれる人と巡り会えたことを、とても嬉しく思ってる」
もしも、潔白なままであったなら。
それは瑠衣にとって、もはや損失でしかなかった。
あの屈辱的な日々は、彼女を秩序の呪縛から解き放ち、Kという共犯者を引き寄せるための
「……皮肉な話です」
Kは口元を歪め、撮影時以外では珍しく、感情の籠もった声で言った。
「警察の無能さが、私の
「そう。感謝しなきゃね〜。私を『ウンチ女』にしてくれた、あの日の間違いに」
瑠衣はグラスを掲げた。
Kもそれに倣い、グラスを合わせる。
「乾杯しよう、Kさん。私の破滅した人生と……私たちが愛する、この汚れた世界に」
チン、という硬質な音が響いた。グラスの中で揺れる液体は、まるで彼女が社会的に流した「血」のように、あるいは体内を巡る熱い衝動のように、毒々しくも美しい深紅を湛えていた。
悲劇の追憶は、今宵のディナーにおける最高の余興となり、二人の
◆第2部 完◆